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かわいいあなた、あなたはきっと知らない、知らなくていい。
沼底に堆積した泥のように、重く、鈍く、醜い、しかし手にすればぼたぼたと流れ落ちて、決して手には残らないような虚無や欲ばかり残す思いなんて。

かわいいあなた、あなたはきっと知らない、知らなくていい。
これから先も、ずっと、ずっと。


・・・



「お久しぶりです、義姉さん」
「久しぶり、ディオ。お元気でした? 学校では成績優秀で、スポーツにもとても秀でていると聞いています、お義父さまも誇らしいとおっしゃっていたわ」

眩く光る金髪を揺らしてディオが微笑む。
長期の休みのために学校から帰省してきた義弟たちは、また一段と逞しく成長していた。

穏やかに晴れたある昼下がり、大きな屋敷の図書室で静かに本を読んでいた義弟のひとりを見かけ、声をかけた。
健やかな発育に恵まれ、その大きな体を鍛えても、やはり読書好きは変わらないらしい。

最近なにを読んだだとか、彼が読んでいていた作品から戯曲がつくられたため観劇に行かないかだとか、わたしの好きな作家が痴情のもつれで殺されただとか。
毒にも薬にもならないお喋りに興じる。
女がソネットだとかセスティーナだとかの詩、恋愛に関する本以外ばかりに耽溺していると眉を顰められるとはいえ、幼い頃から隠れて膨大な蔵書に手を付けていたわたしにとって、聡明な彼と話すのは昔からとても楽しかった。

彼とふたり、あらかた話したいことや近況を吐き出し尽くしたところで、そういえば喉が渇いていることに気が付く。
次にお話するときは、ちゃんとお茶も用意してもらっておかなければ。
そんなことを考えながら、静けさが満ちはじめていた室内で、ああ、と首を傾げた。

「ねえ、そういえば、ディオ。あなたの悪い企みは順調かしら?」
「……さあ、なんのことですか」

言っていることが分からないと、困ったように苦笑する白皙の美貌は相変わらずよく出来た人形のようで、世の乙女たちがうっとり見惚れるのも道理だろうと思う。
その奥に隠された黒い性根や謀計を知らなければ、いや、もし仮に知ったとしても、もしかしたら更に魅力的だと惹かれる気持ちは増すのかもしれない。

そんなことを考えていると、ディオの手のなかに収まっていた本が、ぱたんと音を立てて閉じられた。
どうやらわたしの問いに、ご機嫌を損ねてしまったらしい。
少々堪え性がないという点が、非の打ち所のないこの子のいまひとつ足りないところだろうか。

そのまま立ち上がり部屋を出て行ってしまいそうなディオを引き留め、逞しい体へ抱き着くようにして耳元に唇を寄せる。
彼の腕ならわたしを振りほどくことなんて服に付着したほこりを払うようなものだろうに、終ぞ彼はそうしなかった。

「……ねえ、ディオ」

引き寄せた首へ腕を回す。
形良い耳たぶには、みっつ並んだほくろ。
それへ噛み付いてやりたい衝動を抑えながら、笑い声混じりにそっと囁いた。
婚前の男女に許される距離ではない、きっと傍から見れば、まるで恋人同士が他愛もないくだらない内緒話をしているかのように映るだろう。

「ひとつ、いいことを教えてあげます」

――扉の外に誰かが立ちすくんでいたかなんて、わたしもディオも、知らないはずのこと。


・・・



両親が亡くなった後、長年懇意にしていたジョースター卿がもしわたしを引き取ってくださらなかったら、大方親戚から代々先祖から続く屋敷を奪われ、わたしは寄宿舎代わりの女子修道院にぶち込まれていただろうことは想像に難くない。
出入りすら厳格に管理される冷たく重苦しい修道院で、外界と隔絶され数年を過ごすなんて、考えただけでぞっとする。
そうしてその後は、由緒ある家柄と若い体目当ての、会ったこともない成金相手に高値で売り付けられていただろう。
親を亡くした子女の末路なんて大抵そんなものだ。
しかしながら義父のおかげで、さすがに使用人にはいとまを出してしまったとはいえ、生まれ育った屋敷はわたしの名で保持され、しかるべき時が来ればわたしが相続することになっていた。
紋章が彫刻されている代々家に伝わってきた指輪、正式な書簡を送る際に封蝋として使うシグネットリングも未だわたしの手元にある。

それもこれも、わたしがいまここにいることが出来るのも全て、敬愛するわたしたちの父のおかげだというのに。

「義姉さん、」
「ジョナサン、なにを……」

こんなこと、誰のためにもならない、義父は勿論、ジョナサンにとっても。
決して許されない。

夜も更けて、就寝しようとしていたわたしの自室を訪れたのは、もうひとりの義弟、ジョナサンだった。
こんな時間に彼が誰かの、それも異性の部屋を訪れるなんて珍しい、というよりわたしの知る限り初めてではないだろうか。
よっぽどのことがあったのかと不安に思い、部屋に招き入れたのが間違いだったのか。

ソファでふたり腰掛け、なにがあったか尋ねるべきか、それともこのまま黙して彼が口火を切るのを待つべきか逡巡したのも束の間、悲しげに伏せた長い睫毛がとにかく心配で、なめらかな頬へそっと手をすべらせた。
小さなこどもにするように、どうしたの、と出来うる限り優しい声で語りかけたところで、わたしの視界はぐるりとおかしな挙動を見せた。
予想していなかった突然の浮遊感に、一瞬呼吸が止まる。

――ベッドに引き倒されたのだと判断するのに数秒かかった。
彼がわたしの上に乗っかっている現状を理解するのには、それから更に何拍か要した。

「……え、あ、ジョナサン……? どうしたの、どうしてこんなこと、」
「義姉さん、」

髪より少し濃い色の長い睫毛がゆっくりと震える。
それに縁取られた美しいエメラルドの瞳が、暗く暗く光っている。
両親を亡くして失意に沈むわたしをあたたかく迎えてくれた、わたしのよく知る優しいジョナサンの瞳。
小さな頃からずっと一緒だった、わたしを「ねえさん」とやわらかい声で呼んでくれた、わたしの大切なおとうと。

「義姉さん、」

――違う、これは、誰。
わたしの知っているあの子じゃない。
見たことのない瞳に、声に、表情に、雰囲気に、目を見開いた。
殆ど無意識に肘を立ててベッド上で後ずさるものの、すぐに大きな手に腕をつかまれ、あっけなく逃げることが出来なくなる。

腕をつかむ手は、はじめは恐る恐るという形容が相応しいほどに弱い力だった。
しかしわたしの上へ馬乗りになり、薄い夜着の上からわたしの肌をなぞりはじめた手付きには、もう躊躇いなどなかった。

背筋をぞわぞわっと何かがかけぬける。
額に汗が浮かぶ。

「……っ、やめなさい!」

制止するため上げた鋭い声に動きが止まったのは一瞬で、すぐに大きな手はわたしの身体を這いずる作業に没頭し直した。
夜着はあっけなく引き裂かれ、簡単に肌が露わになる。
肌を撫でるひやりとした空気に、眠りに就こうとしていた頭がはっきりと冴え、寧ろ膿むような熱を発し始めていた。

「や、やめて、」

声が震えていることに、発してから気付く。
必死に腕を伸ばして寄せられる体を突っぱねるものの、会うたびに大きく逞しくなっていく男に、どう抗うことが出来るだろうか。
歴然としている圧倒的な力の差に、押しやる手が微かにふるえる。
その差は、本能的な恐怖を植え付けた。

わたしを見つめる、暗く燃えるようなエメラルドの瞳がぐらぐらと揺らめく。
まるで知らない男のひとのよう。

「どうして逃げるんですか。ディオには義姉さんから触れていたのに、ぼくはだめなの、どうして、ねえさん、」
「ひっ、だめ、やめて、ジョナサンっ……!」
「は、あっ、ねえさん、ねえさん、……なまえ、」

口付けの合間合間に、必死に、舌足らずに、それでいて焦がれるほどに甘ったるい声で、ジョナサンがわたしの名前を呼ぶ。
甘く、切実に、いっそ真摯なまでに名前を呼ばれるたび、どんどん力が抜けていく。

ごめんなさいと譫言のように繰り返す唇はひどく熱く、それがわたしの首筋を撫ぜた瞬間、ぞわりと肌が粟立った。




――どれだけ時間が経過しただろうか。
白んだ視界では、時計を確認することも出来ない。

「は、はあっ、っ、ぁー……! っ、もう、むりぃ……」
「っ、あ、は、どうして? こんなに、悦んでいるの、に、っ」

焼き切れた理性はとうにその姿を消している。
まるではじめから存在していなかったかのように働かない。
ただただ頭を、身体を全て満たし埋め尽くす喜悦。
わたしはされるがまま、流されるまま、もうほんの些細な身じろぎすら億劫なほど疲れ切っている。

「ちが、……あっああぁっ、や、あっ! も、だめぇっ……」

抑え込むことを許されず浅ましく上げ続けた嬌声のせいで、歯の根も合わない。
呼吸するだけで喉もじくじくと痛む。
最も痛みを覚えているのは下肢、というより腰と脚の付け根だ。
これは明日まともに歩くことが出来るかどうかも危ういのではないだろうか。

身体中に何度もぶちまけられた白濁は、一部既に乾きはじめていた。
身じろぎすればぱりぱりと剥がれ落ちて肌に不快な感触を残す。
嗅覚を塗り潰すかのような濃い香りに、脳髄がぐらぐらと煮え立つ錯覚に襲われた。

「ひ、ぅ……ジョナサンっ、あ、」
「なまえ、もっとぼくを見て」

興奮で上擦った彼の声が、ひどくいやらしい。
ゆるゆると律動を続けながら、熱い手で首をつかまれる。
息が詰まる。
力なくぐったりと伏せていた顔を上げ、ジョナサンを見上げた。
星々の輝く夜空のような濃藍色の髪が、汗でこめかみに張り付いていて、どろどろにとろけた思考のなか、ただきれいだとうろんに見惚れる。

燃えるようなエメラルドの瞳がその熱を鎮める気配は未だなく、ぎらぎらと輝いてわたしを見下ろしている。
彼の大きな片手で容易に収まる首では、もしかしたら彼の手の痕が刻まれている最中なのかもしれない。
ただでさえまともな呼吸が出来ていないなかの絞首のせいで、ちかちかと鼻先で火花が散る。

ああ、いっそ、そのまま握り、絞めてはくれないだろうか。

見上げた美しいエメラルドの瞳には、恐ろしく淫らな顔をした女が心底幸せそうに微笑んでいるのが映っていた。


・・・



「……感謝してほしいくらいですよ」

傍目から見れば唐突な行為、しかしながら文字の羅列を追う当人にとっては読み終えたページを順当にめくる指のように、ふいに落ちてきた呟きはわたしを戸惑わせるには充分だった。
小首を傾げてぱちくりとまばたきすると、金色の髪を揺らしてヤレヤレとディオが頭を振る。

洗練された所作で紅茶をひとくち啜った彼は、優雅に長い脚を組み替えた。

「あんなにあられもない声をあげては、驚いて誰か飛び込んできても不思議じゃあなかったでしょうね。あらかじめ人払いしておく配慮くらい持ち合わせては」
「あら、それはそれは。お手間をかけさせてしまいましたね」

なんて淑女然として申し訳なさそうに小首を傾げれば、ディオが肩を揺らして笑う。
まるっきり見当外れな謝罪は彼のお気に召したらしい。

膨大な蔵書を誇る図書室に、今日もディオとふたり向かい合って静かにページをめくる。
彼が今日読んでいるのは比較宗教学に関する本らしい。

大きな窓からは心地良い陽光がやわらかく降り注いでいる。
背焼けなど書籍を傷めないよう光の入ってくる量を計算された窓の配置は完璧で、灯りを点けずとも読書するに適した照度を保ちつつ、重厚な書棚には直接日光が射し込まないようになっていた。

「義姉さんも人が悪い。アレを煽るのは勝手だが、ぼくを使わないでいただきたい」
「まあ、使うだなんて。そんな人聞きの悪いことを言わないで。わたしはただ、愛しい義弟のあなたとお話をしていただけですよ。それになにより、あの子がああして堕落するのは、ディオにとっても利があるのではなくて?」
「さあ? なんのことだか」

昨日交わしたものと同一の言葉を吐いて、またディオが微笑する。
やわらかな日差しに照らされたその微笑みは、とても美しい。

そうは思うけれど、それでもやっぱりこの世界で比類なく美しいのは。
思い出すだけで腹奥でざわりと脈打つ喜悦を覚える。

「嫉妬して、あのエメラルドの瞳がどろどろ燃えるの。見せてあげたいくらいにきれいなのよ」

軽やかに笑いながら呟けば、にやりと口の端を歪めてディオがその顔に嘲笑を形づくった。
髪と揃いの金の瞳は陰惨に影を帯び、馬鹿にした色を隠そうともしない。
そういう表情の方が、澄ました品行方正な優等生顔よりもよっぽど似合うのではないかと思う。

「やっぱり義姉さんは人が悪い」

心底面白いと言わんばかりに吐き捨てたディオの言葉に、わたしはまた笑ってなにも知らないフリをして、紅茶をひとくち口に含んだ。

「わたしがあの子に溺れているくらい、あの子もわたしに溺れれば良いんだわ」

恋も地獄も
 落ちるもの

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