射抜くように強い視線に気付き、なまえは溜め息をついた。
一旦気付いてしまえば、なかったことにして意識せずにいるという芸当は彼女にとって容易ではなかった。
そもそもなかったことにしようと思っている行為自体、そのことを考えている訳だから土台手におえない。

彼女がそんなことを考えている間も、視線は熱を持って一心に向けられている。
授業中だけではなくこうして休み時間にもまとわりつくそれに耐えられず、振り切るようになまえは自分の席から立ち上がった。
その瞬間、2つ後ろ、左斜めの席から送られていた視線がぱっと解かれる。
俯くフリをしながら彼女が秘かにそちらを盗み見ると、なんでもないとでも言いたげに、視線の元凶、もといクラスメイトの花京院典明が窓から外を眺めていた。
その表情は明るい紅赤色の特徴的な前髪に遮られてしまい窺い知ることは出来ない。

なまえはまた溜め息をつきたくなる気持ちをぐっと堪え、席を離れて足早に教室の扉へ向かった。
途端に慌てて追いかけてくる足音が背後から聞こえ廊下へと出る脚を止めぬまま、彼女は今度は我慢せず溜め息を吐いた。
それはもう、深々と。

競歩のようなスピードで彼が追いかけてこられない場所、つまり女子トイレへといつものように逃げ込んだ。
なまえは並んだ鏡に映る自分を見てまた薄く息を吐いた。
それはもう不機嫌ですと言わんばかりの表情がそこに映っていた。

すりガラスがはめ込まれているとはいえ、晴れ晴れと澄み渡った晴天のおかげで窓からはたっぷりと陽光が入り込んできており、彼女のそんな表情をありありと浮かび上がらせていた。
そういえば教室から真っ直ぐここへ脇目もふらずに突き進んでいた間、道中誰からも声をかけられなかった。
こんな顔をしてずんずんと歩いていれば、誰だって道を開けるだろうなと苦笑する。
幸運なことにこの女子トイレには誰もいなかったため、疲れたように一人笑うという不審な行動を取る彼女を気にする生徒などいなかった。

そのまま鏡を見つめながら、いや、正確には何かを見ようとしてではなく、うろんに焦点だけをそこに留め置いたままなまえは首を小さく傾げた。
左斜め後ろから、このところ熱烈に向けてくる視線の主――花京院典明とかいうクラスメイトは何を考えて何がしたいのだろう、と。

発端は何だったか知らないが、彼がちらりちらりと視線を送ってくるようになって久しい。
飽きもせずじっと向けられる視線にあるときなまえが耐えきれなくなり、一体なんの用なのかと面と向かって直接問うたこともあった。
その時の彼ときたら!
今思い返してもなまえは薄く苦笑してしまう。
彼はアメジスト色に光る瞳を大きく見開き何か口に詰め込まれているかのようにもごもごと押し黙ったと思ったら、なんとその場から逃走してしまったのだ。
文字通り、逃げ走っていった。
その場にぽかんと小さく口を開けたなまえを残して。
ちなみにその後、優等生の彼(というのが周囲の全般的な評価だった)らしくもなく、次の授業には姿を見せなかった。
どうやらサボったらしい。

もしかして自分は恐れられているのだろうかとも一時なまえは考えたが、いかんせん原因に心当たりはない。
そもそも彼はただの一女生徒に物怖じするような性格ではないと、花京院典明という男をよく知りもしない彼女にも明らかなことだった。

いったい何なんだと、なまえが本日何度目か分からない溜め息を小さくついていると、遠くで授業の始まりを告げる聞き慣れたチャイムの音がした。
まずい、授業に遅れてしまう、と彼女がその避難場所からようやく退出する。
諦めてくれたのだろう、廊下には彼の姿はなかった。
なまえはほっと胸を撫で下ろし、さて急いで教室に戻らねばと脚を踏み出したところで前方から見慣れた知人の姿を発見した。

「……くーじょー先輩、これからサボりですか」
「まあな、お前も来るか」
「不良の承太郎と違ってわたしは真面目な生徒だから遠慮します。出席日数は大丈夫なの? あ、来年度、わたしと同級生する?」
「うるせぇ」

なまえがくすくすと軽やかに笑い声をこぼすと、承太郎はトレードマークの学帽をぐいと引き下げ、逃げるように目線を外した。
拗ねたようなその仕草に彼女はまた小さく笑った。
幼少の頃から家が近所ということもあり、まるで兄妹のように育った彼のその仕草、どれだけ図体が大きくなってもバツの悪そうに口の端を下げる表情はちっとも変わらない。

「……お前はなんでこんな所にいるんだよ」

承太郎が憮然とした表情のまま話題を逸らすようにそう尋ねれば、なまえはそれまでの楽しそうな笑みから一転、ぐ、と詰まった。

「……花京院か」
「……分かってるなら承太郎からも言ってやってよ」

げっそりとした表情の彼女を見て、承太郎はすぐに得心が行ったらしい。
彼はやれやれだぜ、といつもの口癖を呟くと、窓の外に広がる気持ちの良いほどの青空を見上げた。
空は高く、疲れたように肩を落とす目の前の少女とは正反対に一点の雲も留めない好天。

「ねえ、花京院くんと仲良いんでしょ? わたしのことが気に食わないならそれで良いから、あんまり睨まないでって言っておいて」
「……あいつは女を睨むようなやつじゃあねぇよ」
「睨むじゃなきゃ、見つめるでも視界に入れるでもなんでも良いの、とにかく伝えといてね」
「……それは約束できねーな」
「はあ?」

ずっと見られて授業にも集中できないんだから、と口を尖らせるなまえはその理由を全く理解していないようだった。
二人をよく知る承太郎から見ていれば、「それ」はあからさまなくらいだというのに。
色恋沙汰に関して、なまえは特段にぶいという訳ではなかったはずだが相手が花京院だというだけでその可能性を端から放棄しているらしい。
まあ、あの花京院の態度を見ていれば、察しろと彼女に言うのは幾分か厳しいものかもしれないとはいえ。
承太郎は小さく歎息した。
花京院、随分と道のりは険しいみたいだな、と、口の端だけで微かに苦笑して。

「あっ、承太郎のせいで授業、出損ねた」
「……おれのせいか。今から行けば良いだろ」
「静かに授業やってるとこに遅れましたーって入っていける度胸、わたしないもん」

仕方ないからサボるの付き合ってあげると、廊下を歩くなまえはなんだかんだと文句を言いつつも楽しんでいるようにしか見えない。
承太郎は大人しく彼女の背を追いつつ、気付かれぬよう秘かに溜め息を吐いた。
この分だと今日の放課後にでも彼女と二人で一体何があったんだと花京院に泣き付かれるかもしれないな、と。
良くも悪くも非常に目立つ承太郎と一緒にいるところを目撃されれば、口さがない生徒たちの話題に上がることなど火を見るより明らかだ。
それがなまえと同じクラスの花京院の耳にも届くことは想像に難くない。

「……いい加減、お前も気付いてやれよ」

  Let me tell you a secret.
(2015.05.23)
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