雑然とした、少しばかり埃っぽい社会科準備室。
あまり使用頻度の高くない教室ばかりが集められた棟の三階、端のほう。
ちょっとだけ埃っぽいとはいえ、窓を開けたその下では気持ちの良い風が吹き込んできて、実はなかなかに快適だった。
なにより静か。
教室からそこそこ離れたこの教室に、昼休み、わざわざ来るのはよっぽどの物好きくらいのものだろう。
例えばひとりで昼食をとりたくて逃げ込んできたわたしみたいな生徒だとか、

「ねえ、なまえさん、今日は何を読んでいるんですか?」
「か、花京院くん……今日も早かったね……」

そのわたしを追いかけてきた、彼のような生徒だとか。

ひとりで静かにお昼ご飯を食べたかったというのに、今日もあっけなく見付かってしまった。
失礼、と一声かけて紳士的にわたしの隣へ腰掛けた花京院くんは、次いでがらりと開いたドアを見てまた笑う。

「チッ、先を越されたか」
「遅かったじゃあないか、承太郎」
「……いえ、充分、空条先輩も早いですよね……」

壁にかかった時計を見上げれば、昼休みがはじまってまだ5分弱しか経っていない。
午前の授業が終わったことを告げるチャイムが鳴った途端、お弁当箱を持ってそれはもう我ながら惚れ惚れするようなスタートダッシュを切って教室から逃げ出したというのに簡単に見付かってしまった。
昨日は屋上の給水塔の裏、一昨日はここと同じ人通りの少ない資料室。
二人ともわたしとはクラスが違う(空条先輩に至っては学年や、教室のある階すら違うというのに)、どうして毎日毎日こうも簡単に居場所がバレてしまうんだろうか。
彼らにはなにか特別な力があるんじゃないかと荒唐無稽な空想が浮かんでしまうくらいに、二人とのかくれんぼはいまのところわたしの全敗中である。

小さく溜め息をついて、手にしていた文庫本を閉じて脇に置く。
いつものようにわたしの両隣に座る彼らを代わる代わるおずおずと見上げた。
二人はもうちゃっかりお弁当を広げて、どうしたと言わんばかりの表情でわたしを見下ろしている。
うっ、いつもながら整いすぎなくらいにきれいな顔。
心臓の鼓動が変に跳ねた。
ここ最近はなんとか少しは慣れてきたつもりだけど、彼らが横にいるだけで折角お母さんがつくってくれたお弁当の味も分からなくなってしまう。

遅ればせながらわたしものろのろとお弁当を広げ、手汗で滑るお箸をなんとか握る。
品のない食べ方してないかな大丈夫かなとか、口に含んだり飲み込んだりするタイミングだとか、そんなどうでも良いちっぽけなことが気になってしまって、変な汗が止まらないのである。
どうして折角の「休み時間」なのに休むことが出来ないのか。

「……あ、あの、お願いだから、わたしのこと……放っておいてくれませんか……」

もう何度目になるか分からない懇願を今日も繰り返した。
わたしがのろのろとしゃべる間にも二人はとても美味しそうなお弁当をあっという間に消費していく。
体も大きいしやっぱりたくさん食べるんだなあ、なんて。
全く関係ないことをぼんやり考えていた。
……現実逃避という自覚は残念ながらしっかりと、ある。

「なんのことかな」

じっとりと汗ばむ肌をなでるように吹き抜ける気持ちの良い風のように爽やかに笑いながら、花京院くんが首を傾げる。
間違っても男子高校生を形容する言葉じゃないだろうけれど、上品さすら感じられる笑み。
その格好良い笑顔を直視できず、俯いてぼそぼそと言葉をこぼす。

「……とっくにご存知でしょうけど……その、お二人のせいで他の女生徒に、目をつけられていてですね、」

最後の方なんかは口の中でもごもごと不明瞭な呟きになっていた。
わたしなんかが独り占めして良い存在じゃないなんてこと、わたしが一番分かりきっているというのに。
なんてったって相手は「あの」空条承太郎と花京院典明だ。
まさか面と向かって迷惑ですだなんて言える訳がない。
言葉の端々や態度でおもいっきり露にはしているけれども。

わたしだって出来ることならひとりでご飯を食べて、残りの休み時間は静かに本を読んでいたい。
二人に目を付けられるまではずっとそうしてきた。
そう思うけれどただ真っ直ぐ目を見て自分の意見をはっきり言う、そんなことすら出来ないわたしは口をつぐむしかない。
なんでこんなわたしにこの学校どころか他校にまでその名を轟かしている二人がちょっかいを出すのか、本当に理解できない。
このところいつも考えていることにまたもぶち当たり、知らず知らずいつの間にか下を向いていた。
堂々巡りだ。
右の上履きの内側に小さな汚れを見付けて、自分の手をきゅっと握り締めた。

「ね、なまえさん」
「……なんですか」
「なまえさんは本当に、僕たちのことが迷惑で、本心から逃げたいと思っていたんですか?」
「……は?」

どういうことだろう。
まるでわたしが二人のことを憎からず思っているかのようなニュアンスの言い草に、なにを言ってるんだと顔上げて目を見開いた。
花京院くんはおかしくて堪らないと言わんばかりに、その特徴的な前髪を揺らしてわたしの顔を覗き込んできた。
さくらんぼのようなピアスが太陽の光を反射して、きらりと光った。
とっさに身を引く。
とん、と、反対側、つまり空条先輩に背中がぶつかってしまった。

「だって、」

花京院くんの大きな口が弧を描く。
背後で、先輩がその美声で低く笑ったのが聞こえた。

「僕たちが来るまで弁当に手も着けずに本を読んでいたでしょう、待っていてくれていたのかと期待してしまうのも、無理はないんじゃあないかな」
「……な、っ……はっ!?」

くっくっ、と耳をくすぐるように、後ろの方で空条先輩の低く抑えた笑い声が降ってくる。
花京院くんはわたしの反応を楽しむように近付けた顔の距離を取ろうとしてくれなかった。

顔が熱くて仕方がなかった。
顔だけじゃない、耳や首にまでじわりじわりと爛れるような熱が広がっていく感覚。

違う、そんなんじゃない、二人を待っていたなんて、そんな訳がない。
わたしは昨夜から読みかけていたこの本の続きが気になっていただけで、

「……ふっ、ふたりとも、自意識過剰なんじゃ、ないです、か……」

情けなく声がひっくり返る。
上手く喉に力が入らなくて、語尾が弱々しくふるえた。
ああ、もう、なんなの。
なんだこれ。
わたしはひとりでゆっくりと本を読む、そんな穏やかな時間を心から愛していたというのに。
こんなに胸の奥がぐらぐらと煮え立つようにどうしようもなく昂ぶって、思考がぐちゃぐちゃになって、――こんな、わたしがわたしじゃないような気持ち、わたしは知らない、知りたくなかったというのに。
自分で自分の感情が上手く扱えず、ただひたすら今すぐこの場から逃げ出したくて堪らない。
なのに二人はそんなわたしを見て、こんな時なのに見惚れてしまうほど格好良くまた笑う。

恥ずかしさや困惑のあまり、いっぱいいっぱいになってしまって、ちょっとだけ涙すら浮かんできた。

「ああほら、泣かないでください、なまえさん」
「な、ないてない、です……」

目の奥が熱くて仕方がなくて、浮かんだ涙を引っ込めようと小さくぐすと鼻を鳴らせば、花京院くんがとっても爽やかにまた笑う。
こっちはそれどころじゃないのに。
彼は少しいじめっ子気質でもあるんじゃないだろうか。
逃げるように顔を背ければ、反対側では空条先輩も楽しそうに口の端を上げ、こちらを見ていた。

つい、と、先輩が手を伸ばしたのを視界の端でとらえる。
身じろぎもせずに目を奪われていると、男らしくがっしりとした、それでいて繊細な指先を持ったそれがわたしの頬に伸ばされた。
喉の奥で、ひく、と情けない音がしたような気がした。

わたしの顎に指を沿わせて、上を向くように持ち上げられる。
世界一きれいな緑色の瞳に真っ直ぐに射抜かれる。
抵抗する気も起こらないほど、思い浮かびすらもしないほどの衝撃で、まるで時間が止まってしまったかのように目を見開いた。

「く、くうじょう、せんぱい、」
「……なまえ、はやく認めて、落ちてきな」
「え、ぁ、……っ、し、知りません、」

また声がひっくり返った。
背後で強情だなあと楽しそうに笑う花京院くんの声がして、ますます体が熱を持つ。

――ああ、どうしたら。
逃げるように視線をさまよわせれば、窓の外では嫌味ったらしいくらいの抜けるような真っ青な空が広がっていて、途方にくれてしまった。
時計の針はまだまだお昼休みがはじまったばかりだということを示している。

空はますます青く色付く
(2015.05.07)
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