幼い頃から、彼の世界は醜悪と欺瞞に満ち溢れていた。
抗うすべを持たなかった過去において、吐き気のするような人間と理不尽とが充満しているこの世界は彼にとって呪わしい限りで、分かりやすく全てが敵だった。
その汚泥のなかにおいて、ディエゴはひとつだけ、世界でたったひとつだけ、美しいものの存在を知っていた。
無垢で純真な、彼の妹。
彼のなかでこの実の妹こそが美しく、正しく、清らかで、救いだった。

決して妹を、なまえを、穢してはならない。
母が死んで、唾棄すべきこの世界にたった二人で取り残された時、その考えはますます強固にディエゴの奥深くに浸透した。
年を経るごとにそれは薄れるどころか、泥濘に澱が堆積していくように嵩を増していった。
いっそ狂信的なまでに妹を愛し、敬い、大切にして、手を取り合い生きてきた。
そして妹も「兄」を愛し、従順に、清らかに育った。

――そうして月日が流れ、少女が女へと花開く時がやってきた。
妹はいつしかやわらかく綻び、今にも花開きそうな蕾の美しさと愛らしさを含み芽吹こうとしていた。
何も知らずに無垢に育てられた「妹」は愛くるしい微笑を浮かべて、一心に「兄」を慕う。
そこには縋りつきたくなるような母性と、大切に庇護してやりたくなるあどけなさ、そして、雄を煽る「女」が混じりつつあった。
美しくなだらかな曲線を描く華奢な肢体、絹のように艶やかに流れる髪、近付けばふわりとかすかに感じられる、健康的で爽やかな、それでいてやわらかく甘い香り。
そのどれもが、清純さを完璧に損なわないまま、それでいてどこまでも「女」を強く連想させた。
そうしていつしか彼の精神は、少しずつ少しずつ、砂時計の底に砂が堆積していくように秘めやかに、ひどく恐ろしい矛盾を孕むようになっていった。


・・・



「――それでね、この前も女の子たちがわたしに近付いてきたと思ったら、兄さんを紹介してってうるさかったの」
「は、自慢の兄を持って困ったもんだな」
「もう、全くだわ。もう少し欠点があったら良かったんだけど……ねえ、兄さん?」

飲み終えたコーヒーのカップを手に、笑いながらなまえが立ち上がる。
洗うために小さなキッチンへと立った小さな背中を見つめながら、合槌を打つ。
カップを洗いながら、最近あったことを楽しそうに話す妹の背を見つめる。
いつもの光景、いつもの妹。
ささやかだが、ディエゴにとって幸せという曖昧で不確かなものを大切に集めて愛おしむ、唯一の空間。
――いつからか変わってしまったのは、自分だけなのだろうか。

「……もう、兄さん、聞いてる?」

いつの間にか食器を洗い終えたなまえが、ぼんやりとしていたディエゴを責めるように、腰に手を当て、彼の顔を覗き込んだ。
きらきらと無垢に澄んだ瞳が兄だけを映す。
不満げに頬を膨らませるその様子は、抱きすくめてしまいたくなるほどに愛らしい。

――ある時からその愛らしさと美しさはディエゴを苛むようになった。
軋むような違和感。
矛盾。
大切に、醜いもの全てから遠ざけて清らかである「べきだ」という強迫じみた観念、それと同時に抱き始めた、他のモノになど明け渡してたまるか、という所有、支配欲。
いつからか彼のなかに芽生えていたそれらの欲求は、妹を穢してはならないという彼自信の信念を、根底から覆すような矛盾だった。
ひどく混乱した。
そして。
ここ最近、その混乱のなか覚えた、更に新たな欲求。

がたりと音を立て、立ち上がる。
何も言わず責めるように立ちふさがった兄に、なまえは訝しげに首を傾げた。
どうしたのだろう、何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。
彼女の不安げな表情など意に介さず、ディエゴは一歩、彼女に歩み寄った。

「にい、さん……?」

見開かれた瞳は、強く血の繋がりを感じさせる彼と全く同じ色。
それが困惑と戸惑いにゆらゆらと揺れている。
兄妹揃って母から譲り受けた、澄み切った美しい瞳いっぱいに自分だけが映る――ただそれだけのことに、途方もない歓喜が体内を渦巻いた。

「なまえ、」
「に、兄さん、どうしたの?」

淡いローズピンク色の蕾のような唇が、怪訝そうにわななきながら自分を呼ぶ。
一歩、また一歩と少しずつ足を運ぶたび、焼け付くような乾き、喉を掻きむしりたくなるほどの飢餓感が増していった。
ディエゴが足を歩を進めるたびに、ただならぬ兄の不穏な雰囲気に少女はじりじりと後ずさった。

とうとう背を壁にぶつけ、そのままずるずると座り込んでしまった彼女に合わせ、腰を折る。
膝を着いてなまえの顔の横、壁に手を付き、先程よりも更に近くでその顔を覗き込む。
ほんの少し前まで困惑に塗れつつも一心に、真っ直ぐ彼を見つめていた目が、今はせわしなく視線をあちらこちらにさまよわせていた。
落ち着きなく動く目線は、混乱しているということを何よりも雄弁に物語る。

「に、にいさん、おかしいよ、突然どうしたの? ね、ほら、床に座ってたら汚れちゃう……わたし、なにか悪いこと言っちゃった? それなら謝るから、ね、ねえ、」

何かがおかしい、いつもの兄ではない、何があったのか。
なまえは常にない様子の兄に、軽くパニックに陥りそうになっていた。
あちらこちらに散らばっていた視線がようやくゆるゆると定まる。
唯一の逃走経路であるディエゴの背後にあるドアを見て、どう逃げるか必死に算段を付けているのだろう。

――先程まで、自分を見つめていたのに。
その目には自分しか映っていなかったというのに。
焦った様子のなまえを冷静に見つめながらディエゴはそう考えると、じくじくと臓腑を焼かれるような嫌悪、不快感、怒りが込み上げてくるのを感じた。

波のように頼りなく揺れるこの美しい瞳が、自分以外のものを映すのか。
その指で他のものに触れるのか。
この肌を、熱を、香りを、他の人間が知るというのか。

「ね、起きてちゃんと話そう? にいさん、」

その唇が、自分以外のモノを呼ぶというのか。

耐え難いほどの憎悪が込み上げ、壁へ押し付けた拳をギリッと強く握れば、至近距離で覗き込んでいた瞳が、困惑や戸惑いから怯えと恐怖にじわじわと浸食されていくのが手に取るように分かった。
妹のことならなんでも知っていると思っていた、兄の知らない彼女の瞳。

「……は、なまえ、オレはその目を向けられるのは初めてだ」
「な、なにを言ってるの、兄さん、」

そっと白い頬へ手をすべらせる。
耳横から顎までするりと撫でれば、ぴくりと薄い肩が揺れた。
幼い頃から最も近くに存在した自分でも、恐怖にふるえる瞳を向けられるのはそれが初めてだった。
自分の知らない妹の表情がまだあったということに、ディエゴはひどい不快感を覚えた。
しかしそれすら霞むほどに感じる、圧倒的に上回る、陶酔。
愉快げに口角が上がるのが分かった。

全て知っていると思っていた妹の、「自分の知らない妹がこの世に存在する」という事実に、彼は耐え難い酩酊感のようなものを覚えた。
――そう、健やかに育ちゆく妹を最も近くで見守り続けていた兄が、新たに覚えた欲求、それは、――この世で唯一の大切な妹の、なまえの、全てを知りたい、全てを手に入れたいという、

「愛してる、なまえ」
「わ、わたしもよ、兄さん、でも、」

呼吸すら交わるような近い距離に恐怖が増し、なまえは突っぱねるように白い腕を伸ばした。
ディエゴはそれを難なくいなし、細い腰を抱き寄せる。
やわらかな髪に指を通し、後頭部をしっかりと支える。
それまでも幼少の頃からの習慣で、額や頬に挨拶や親愛のキスを交わすことは幾度もあった。
しかし、そのとき触れたのは、甘く潤み、ローズピンクに綻んだ、秘めやかな、

「やっ、にいさん、――ひっ、んんっ……!」
「ん、っ、は、なまえ、なまえ、なまえなまえなまえ愛してる、誰よりも何よりも、」
「ひっ、や、やめて、こんな……っ、にいさんっ……!」

しっかりと抱き締められた華奢な肢体が、あまりの恐怖とおぞましさで大きく跳ねた。
初めて触れた唇の味は、眩暈のするほど甘やかな蜜のようで。
夢中で何度も重ね、吸い、絡め、そして血潮の熱く脈打つ首筋へと噛み付くように口付けていった。

――そうしてやがて、兄は、妹の、誰にも暴かれたことのない奥深くを知るだろう。

薔薇の下に眠れ

(2015.02.15)
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