(山岸由花子の友情)
長かった梅雨も明け、うるさいほどの蝉の声に耳鳴りすら起こしそうだった。
さすがに鬱陶しく感じる長い髪を結んでくれた友人は、歩きなれた通学路を楽しそうに話しながら歩く。
合槌を繰り返しながら、友人の贔屓目を差し引いても、彼女は愛らしいと思った。
特別可愛いというわけでも、目を引く美人というわけでもなかったが、彼女はこの夏の穏やかな涼しい木陰のような、傍に居て不思議と世界はそう悪いものでも悲観することもないと思わせてくれるような少女だった。

「ちょっと、もう、由花子ったらちゃんと聞いてる?」

怒った顔も可愛いよ、なんて、頭の弱い三文小説のようなセリフがふと頭をよぎって苦笑が浮かぶ。
ごめんなさい、暑すぎるからやっぱり髪を切っちゃおうかしらと思って、と、あながち嘘でもない言い訳をすれば、ころっと表情を変えた。
眉を下げて情けない顔で、太陽と色の濃い空を見上げ、本当に暑いねえと呟く。

「でも、髪は切らないでほしいなあ、せっかくこんなにきれいなんだもん、うらやましいなあ」

髪はわたしで良いならいつでも結んであげるからと笑うなまえに、こちらも自然と笑顔になる。
それなら切るのは先延ばしにしても良いかしら、なまえだけじゃない、康一くんだって褒めてくれるんですもの。

「今日はどうするの?」
「うーん、図書館に寄ってから帰ろうかな」
「それじゃあここでお別れね。気を付けて帰るのよ、なまえ。また明日」
「バイバイ、また明日! 由花子も気を付けてね」

手を大きく振って、帰路の途中にある町の図書館へと向かう彼女を見送る。
厳しい日光すら跳ね返す、健康的なセーラー服の背中に溜め息をひとつ。

彼女に思いを寄せる二人の男のことを思い出してしまったからだ。
変な髪形のいけ好かない同級生も、変人極まりない漫画家も、異性を見る目だけは悔しいことに確からしい。
あの子がどちらか、はたまた全く別の誰かを選ぶかは彼女自身が決めることだが、それがどんな選択であれ、由花子は数少ない大切な友人を心から祝福するつもりでいた。
誰を選ぼうと、彼女が幸せであればいい。
そう思っているのに、あの三人を見ていると、まどろっこしさに呆れたくもなるのだ。

ああ、他人の恋路について悩むなんて不毛だ。
愛する自分の恋人に会いたくなってしまった。
また一つ溜め息を吐いて、なまえに結んでもらった髪を揺らして由花子も帰路に就いた。




(岸辺露伴の純情)
全国チェーン展開をしている町一番の大きな書店に目当ての本がなかったため、彼はイラついて舌打ちをした。
しかし仕方なく訪れた図書館で、数秒前までこの暑い中ムダに動き回ってしまったことに腹を立てていたというのに、彼女の姿を発見した途端、先程までのイライラは嘘のように鳴りを潜めた。
むしろここに来たことをラッキーだと思ってしまったなんとも都合の良い自分に、失笑してしまいそうなほど。

彼女は独り、窓際の席で大人しく本を読んでいた。
遠慮なく真正面の席に座ると、すぐに気付いて顔を上げ、ぱちくりとまばたきをした。
そんななんてことない仕草にも、眼前に晒された間抜け面にも、いちいち高鳴る心臓が忌々しい。

そんなことこれっぽっちも知らないんだろう、なまえは無防備な笑顔で「露伴せんせ、お仕事ですか」と囁いた。
この距離にいる自分にしか聞こえないほど小さく落とした声、そのいたずらっぽい表情に、簡単に浮き立つ心。
ああ、本当に忌々しい。

「資料を探しにね。君は?」
「見ての通りですよ。宿題も終っちゃったので読書中です」

胸の高さまで持ち上げて、ひらひらと本を見せる。
『はつ恋』。ツルゲーネフ。
なんてことだ、嫌がらせでこの本を選んだのかと罵ってやりたくなったが、「由花子が読んでみなさいって薦めてくれたんです。まだ読みはじめたばっかりですけど……」と言う彼女の言葉に、なんとかそれを飲み込んだ。
プッツン由花子か、あの女、間違いなく当て付けだろう。
読んだことありますか、と言うなまえに、一般教養として昔にねとそっけなく返す。

「ネタバレしちゃ駄目ですよ。それにしても先生にも、一般教養なんて概念があったんですね」
「うるさい。黙って読め」

読書をする彼女を眺めていたかったが、そうも言っていられない。
必要な本のリストを手に席を外そうとすると、なまえも「手伝いますよ」と腰を上げた。

「要らん。それ、読んでたらいいだろ」
「そう怒らないでくださいよ。純粋にお手伝いです。あと、岸辺露伴先生がどんな本を借りるのか興味があるだけで、次回のお話の展開を予測したいとかそういうのじゃないです」

楽しそうにそんな軽口をたたきながら、本棚の列を縫って少し前を歩くなまえを見る。
背の高い重厚な本棚の列は、さながら本の森に迷い込んだようだ。
古い本特有のにおいがする。
窓から差し込んだ夕日が、部屋全体を赤っぽく染め上げていた。

「それで、どの本ですか?」

くるりと振り返ったあどけない少女のさらりと揺れる髪。
ふわりと広がるプリーツスカート。
未発達のすらっと伸びた脚、頼りない薄い肩に、めまいのようなぐらぐらと浮かされた熱を覚えた。
突然、うるさいほど鳴いていた蝉の声がぴたりと止んだ。
セピア色の写真を手にするようなノスタルジックな感情に襲われ、気付けば本棚に彼女を追い詰めていた。
ああ、本当に勘弁してくれ。

「ろはん、せん、せ……?」

戸惑い見上げた少女の瞳のなかに、情けない顔をした自分が映る。
出来ることなら、ヘブンズ・ドアーの能力で僕に好意を抱くよう書き換えてやりたいくらいだというのに。
いっそ力強く抱きしめてしまえば良いものを、彼女の細い体を本棚に押し付けて、その手に触れることすら出来ない。
棚の壁に押し付けた拳をギリッと握りしめた。
知らないんだろ、この期に及んでこの僕が、お前に嫌われるのが怖いんだ。

嘘のように、しんと音の止んだなか、手垢塗れのひどく陳腐な表現だが、まるでこの世界に二人きり、二人だけ世界から切り離されたようだった。

「なまえ、僕の気持ちは伝えただろ。そんな無防備な姿、見せるんじゃあない」

勇気を出して少しだけ屈みさえすれば、その戸惑い震える唇を味わえるというのに、僕は自分が思っているよりも臆病だ。
余裕ぶって良い大人を演じて、唇をなんとか歪めて笑う。
ああ、バカだ。僕も、君も。アイツも。

別に急ぎじゃあないから、本は編集者に取り寄せさせようと心の中で言い訳して、茜色に染めた顔を俯かせたなまえを残してその場から足早に立ち去った。
去り際、先程まで彼女が座っていた席に、ぽつんと残された本が冷笑している。
『はつ恋』、ああ、そうだ、君もこんな気持ちを抱けばいい、苦しめばいいんだ。
僕のように。

外に出た瞬間、耳鳴りのような蝉の大合唱に意識が白んだ。




(東方仗助の恋情)
空の隅に夜がやってきていて、紺色と茜色が視界の端で交じってグラデーションを作り上げた。
すぐさっきまで胸を締め付けられるような橙色が、生まれ育った町並みを眩しいほどに染め抜いていたというのに、今は少しだけ緩んで、夜の気配が探さなくてもいたるところに散見できる。

思ったより遅くなってしまった、母親の説教する顔が浮かんで憂鬱な気分になる。
生意気だと他校生に呼び出され、初めは穏便に収めようと思っていたというのに、自分はどうも髪型のことになると頭に血が上ってしまう。
結局は年上と思われる他校生たちを伸してしまった。
ヤレヤレと溜め息を吐きかけたところで、前方に見慣れた同級生の後姿を見付けた。
後ろからでもすぐ彼女と分かってしまうのは惚れた弱みか。
先程までの苦々しい気分はさっさとどこかへ飛んで行ってしまって、足早に駆け寄る。

「なまえ、奇遇だなあ! いま帰りか?」

驚かすように後ろから覗き込めば、弾かれたように顔を上げた。
物憂げに沈んでいた顔は、ぱっと花が咲いたような笑顔に変わる。
彼女らしくない沈んでいた表情にどうしたのだろうかと心配し、声をかけようとしたそれよりも早く、なまえは笑顔のまま言葉を返した。

「図書館に寄っていたら、遅くなっちゃった。仗助くんもいま帰り?」
「あ、ああ、えっと、まあ……ちょっと用事があってよォ……」
「ふふ、またケンカしてきたの? あんまり朋子さんに心配かけたら駄目だよ」

何事もなかったようにいたずらっぽく笑うなまえに先程までの憂いた顔は見間違いかと安心し、「だってよォー」と子供のように小言に口をとがらせる。
それを見て屈託なくくすくすと笑うなまえになんとなく照れくさくなって、頭の後ろで腕を組んだ。
そのまま上体を反らし、見上げれば空には一番星。

「……あ、ケンカといえば、露伴のヤツがこの前、」
「っ、ろ、露伴先生……?」

ぴくりと肩が跳ね、はっと口を覆い、慌てて俯いた彼女の耳は、先程までの夕日のように赤かった。
それを見て、なまえと二人で肩を並べて歩くことに浮ついていた心が、反射のように素早くどろりと濁るのが分かった。
じっとその顔を見るものの、俯いてさらりと流れた髪が、その表情を窺わせることを許さない。

黙って注視していたその白く細い首を、つ、と、汗が一筋流れる。
その水滴の軌跡に、心音が痛いほど跳ね上るのを感じた。
ああ、乱暴に薄い肩を引き寄せ、首筋のそれを舐めたら、自分のことを良い人だと思っている彼女はどんな反応をするのだろうか。
思い描いて一瞬で自分が高ぶったことに気付き、思春期の男のサガにいけないいけないと頭を振った。
これ以上は精神衛生上良くないと判断し、自分でも認識しているいつもの人懐っこい笑顔を浮かべる。

「俺、早く帰って来いって言われてたんだった! わりィ、送っていけそうにねぇけど、なまえ、気を付けて帰れよ?」

う、うん、と、返すなまえの顔はまだ少しだけ赤い。
見ていられなくなって、焦ってくるりと背を向けた。
絶対に不自然だったよなァ、ああ、クソ、明日どんな顔をしてまた顔を合わせたらいいんだ。

見上げた空には嫌味ったらしいほどたくさんの星々が輝き、先程彼女の隣で見付けたはずの一番星がどれか分からなくなっていた。




(彼女の憂情)
窓から空を眺める。
余りの暑さに我慢できずクーラーをきかせた部屋が、風呂上がりの体に気持ち良い。
髪をタオルで拭いながら、ぼんやりとわたしはどうしたら良いのだろうと思った。
第三者から見れば、自分はとても贅沢者なんだろう。
学校でその名を知らない生徒なんていないほど人気の素敵な同級生と、しっかりと自分というものを確立して、なんだかんだ文句は言いつつ面倒だと分かっていても何かあれば手を差し伸べてくれる大人が、自分を思ってくれている。
まるで少女マンガのヒロインじゃないか。

どうして可愛くも美人でもない、なにか役に立つような特別な能力があるわけでもない、普通だったら物語の脇役にすらならないようなつまらないわたしに対して、引く手数多だろう二人が好意を向けてくれるのか分からなかった。
それが理解できていたら、あの二人を振り回すような真似をして迷惑をかけることも、こうして自分が悩むこともなかったのだろうか。

蝉は依然、鳴き続けている。
ふと時計を見て、ついこの間まではこの時間はほんの僅かに明るさが残っていたことを唐突に思い出した。
空気は疎ましいほど熱を孕んで、外では鬱陶しいほど蝉がその存在を主張しているというのに、わずらわしいだけだったはずの夏は、少しずつ手の届かないところへと過ぎ去ろうとしているのだ。

ぽたりと、髪から一雫、水滴が落ちる。
部屋の電気が反射して、無機質なガラス越しの夜空は、星もよく見えやしなかった。

拝啓、よ、彼女へと

(※タイトルはナブナ/初音ミク「背景、夏に溺れる」(2013)より)
(2014.07.26)
- ナノ -