泥のように深く眠っていた淵から、無理に地上へと引き上げられたように目覚めた。
酸素が身体中を巡る感覚に、ああ、まだ生きているのだと、まだ死んでいないのだと、まざまざと実感する。

いまは何時なのだろう。
この部屋に窓はあるものの、分厚いカーテンがそれを覆い隠し、たっぷりとしたドレープは完璧に外の光を奪ってしまっている。
そのせいで朝なのか夜なのかすらも分からない。
暗闇のなか光源といえば蝋燭のみで、それは頼りなげに揺れるばかりで時間を教えるなんてことはしてくれない。
ぼんやりと、いま太陽を見たら、目が潰れてしまうかもしれないなあと他人事のように考えた。
太陽を恐れるなんて、ああ、まるで吸血鬼みたいじゃあないか。

広いベッドはどこまでも冷たくて、手触りの良いシーツはわたしが眠っている間に新しく清潔なものに変わっていた。
――ああ、ねえ、ねえ、信じてもいない神様、あなたは本当に冷酷だ。わたしはあなたを心から呪う。

なまえが虚ろに堂々巡りの思考を弄びながらぐったりと横たわっていると、その部屋唯一の扉が重たげな音を立てて開いた。
彼女はそれにびくりと体を震わせ、息を止める。
それを知ってか知らでか、現れたこの館の主はその唇を蠱惑的に笑みの形に歪めた。
その笑みは、彼を崇拝する信者たちならばその幸運に涙に咽んだかもしれぬほど美しいものだったが、囚われたなまえにとってはただただ胸にせり上がってくる嫌悪感に顔をしかめる要素にしかならなかった。

きし、と微かに音を立てて、広いベッドは腰を下ろしたDIOの体を受け止める。
手を伸ばして、さらりと彼女の深い夜色の髪を梳く。
まるで闇が彼女を抱き込むように、その髪は彼女の肌に添う。
蝋燭のぼんやりとした灯りに包まれた、闇色と彼女の白い肌の作り出す色香に、DIOはまた上機嫌に笑みをこぼす。

「なまえ、」

男は甘やかに囁く。
まるで恋人たちが熱い夜を過ごした翌朝、互いの幸福のなかで睦み合うかのようにやわらかに、愛しげに。
世界中の誰よりも最も幸せだと妄信した若い恋人たちのように。
髪を撫で、そのままするりとか細い喉へと手をすべらせる。
それを死んだように受け入れるなまえは、同じく死んだように目を閉じた。
固く、きつく、もう一度眠りへと逃避するのを祈りながら。

しかし男はそれを許さず、細い顎を掴む。
視界を遮断したなまえは、少しだけ目の前の吸血鬼が苛立ったのを肌で感じた。
命を奪われるかもしれない戦いに日々身を投じていたのだ。
元々ただの高校生だったとはいえ、そのくらいの空気の孕んだ怒気を読み取るくらいのことは彼女にとって容易いことだった。

ああ、彼らは今どこを歩んでいるのだろう?
怪我はしていないだろうか?
旅の仲間たちの顔が浮かぶ。
彼らとの数十日、夜通し話したとりとめのない言葉たち、そして頼りになる背中、それらを考えると、たったそれだけで胸が温かくなる。
共に歩んだ旅は、なまえにとって彼女の人生の誇りであり宝だ。
どれだけこの男に浸食されようとも、その気持ちは変わらず輝き続けている。

「なまえ」

男の声は空気を震わせ、彼女の体内へと流れ込んでいく。
咎めるように名を呼ばれるも、彼女は頑なに目を開けようとしなかった。
目で見て認識しなければ、それは無いものと同じだと意固地に信じているかのようだ。

次いで空気が揺れたかと思えば――唇に、がりっと鋭い痛みがはしった。
奥歯をギリと噛み締めなまえは無様な悲鳴は堪えたものの、男は鮮血まじりの深い深い口付けを与える。
唇と唇とをゆっくりといたずらに擦り合わせ、なまえの唇からあふれた血を、互いに口紅のように引き伸ばし、舐めとり、食するように口内の奥深くまで、息までも食らうようにキスをする。
それはキスというより、捕食そのもの。

馴染み慣れてしまった彼女の唇は、無意識だろうか、従順に彼を受け入れた。
それでも目を開けないなまえに、夜の王は金の髪を揺らして低く笑う。

「目までも奪わなかったのは正解だったな、なまえ。そう思わないか? このように私と目を合わせられぬなど、不幸なことじゃあないか。ーーこの、脚のように」

左手で固く閉ざされた瞼を、右手で白い脚を、ゆっくりと優しく撫ぜる。
それはまるで慈しむ愛撫のようだったが、途端になまえは大袈裟にびくりと震え、過呼吸に陥ったかのように荒く浅く息を吐き出しはじめた。
痛みなどないはずの足ががくがくと戦慄く。
気持ちの悪い汗がどっと噴き出た。

彼女の脚のくるぶしの上、歩くという行為に必要な腱は、目の前のこの男によって切られ、外傷だけ癒されていた。
逃げようと画策していたなまえを、ある日この男はいつものように愛撫すると、その一環の流れのように自然に、なんの躊躇もなく愛しげに、その牙で脚の腱を喰い千切った。
どくどくと血の流れる音が、耳の後ろで大袈裟なまでに響く。
耳をつんざくような絶叫を上げ、ガクガクと痙攣するなまえを慈しむように目を細めて眺めると、彼はその血を啜り、肉までもそれが当然であるかのように食らった。

傷痕すら残らず見た目には何も変わっていないというのに、彼女は永久に歩みを奪われてしまった。
その時の壮絶な痛み、そしてなにより己の肉片を咀嚼する目の前の異形があまりにも恐ろしく、彼女は嘔吐した。
胸にどす黒く渦巻く絶望、いっそ殺してくれと情けないことに心から願った。
深く植え付けられた恐怖は、なまえを歩けぬ脚よりももっと強固に動けぬよう縛り付けた。

瞼に添えられた手に怯え震えるなまえに笑みを深くすると、人の輪を外れた吸血鬼は愛しげに壊れ物を扱うように優しく彼女を抱き締める。
檻も鎖も不要、ただこの腕こそが、なまえを閉じ込める。
未だ血の止まらぬ唇に、溶け切った蜂蜜のように甘い口付けを執拗に繰り返しながら、ひとりの少女に魅入られた吸血鬼は愛を囁く。

「なまえ、なまえ、このDIOの腕の中こそ天国だ」

天国のペルセポネーは地獄の夢を見るか


(レンブラント「ペルセポネーの略奪」(1631)より)

(2014.07.14)
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