降りみ降らずみの空模様、じめじめとした空気が肌と衣類の隙間に滲んでいるような、不快な湿り気を帯びた夜だった。
更に深まり気温の下がる頃合い、――そのうち霧も漂いはじめるに違いない。

愛を語らうには少々情緒に欠ける、生ぬるい風が吹き抜ける路地裏。
敷かれた古めかしい石畳は美しいとは言いがたい。
観光客の多い表に面した通りと打って変わって、傷んだあちらこちらから下面の砂地や泥を覗かせていた。
――彼らが相対するには似合いの舞台だったかもしれない。
泥やゴミの詰まったドブ川の隅、溝渠で生まれた恋は、こういう場所で終わるのが相応しい。

「――なまえ」
「ねえ、あなたとふたり、ヴェローナに旅行したのを覚えてる? わたし、悲劇は嫌いだったけど、ロメオとジュリエットは好きになれそうだったの……あの街並みを見ていたら。アレーナ・ディ・ヴェローナの音楽祭なんて、尚更。わたし、円形闘技場なんて興味がなかったのに……」

毒にも薬にもならない独り言をいつまで続けるつもりなのか、愚かな女は夢見るように微笑んだ。
夜に似た黒い瞳は忘我の境地を行ったり来たりしているかのように甘く潤み、彼が幾度となく触れた頬はまるく赤く色付いていた。

かの著名な悲劇の舞台である本土北東部へ赴いたとき、「悪魔」を冠する男の名は、この地を恐怖で覆うにまだ数年の余地があった。
しかしそれももう終幕。
「パッショーネ」はいまや一介のチンケな犯罪グループなどではない。
ホテルやレストラン、賭博場等の観光資源をはじめ、港の貿易、運送、建築、警察までをも配下に収め、明確に己れのチームと役割の定められた、確固たるジェラルキーア(階層組織)と成っていた。

「ねえ、ディアボロ」

ブーゲンビリアを連想する派手なまだらの髪が、夜風に撫でられざわりと踊る。
そのさまに目を奪われたように、なまえが双眸を細めた。
表の世界から打ち捨てられたかのような、うら寂れた路地裏に相応しい黒い目が、ゆっくりとまたたいた。

暗がりに眩しいほどの白い腕が、細身の銃を持ち挙げた。
女でも持ちやすい、男自身が数年前に贈ったそれは、彼女のスタンド能力のおかげで利用の機会はついぞなかった。
――いまこのときまでは。
この舞台において、この銃より相応しいものはないと思われた。

なまえは自分のスタンドを出さなかった。
一時はその能力ゆえにこの組織を拡大させるのに無窮の貢献をしてみせた、優秀なそれを。
理由は分からない。
そしてそれに倣って――彼自身は否定するだろうが――ディアボロも、己れの分身を顕現させることはなかった。
重ねてこれも否定するだろう、しかしそのとき彼が感じていたのは、もしかしたら感傷に似た気持ちだったのかもしれない。

能力を得てからこのかた、スタンドを見ることの出来ない人間に対する脅迫や拷問に明確なアピール程度としか用途のなかったリボルバーを女へ向ける。
年代物のそれは古き良き時代の遺産だ。
銃口はブレることなく、ぴたりと白い額へ向けられる。
いくら年月を経たものといえど美しい金属の塊は正(まさ)しく人を殺すための道具で、そしていくらブランクがあれども彼の腕が鈍ることなどありえない。
わずかな月明かりを反射して、互いのシルバーの銃身が鈍く光った。

「――ディアボロ、お願い」
「命乞いか?」
「いいえ、違う。教えてほしいの。わたしが、"最後"なの? この世であなたを知る人間は? わたしを殺したら、あなたの望みは完成する? あなたを知る最後の人間は、わたしなの?」
「ああ。最後だ。"私"を知る人間は、お前で」
「……ドッピオを除いて?」
「そう言うな。お前は目の敵にしすぎだ。あれはオレの一部だと言っただろう」
「だってズルいじゃない。あの子はずっと、あなたと一緒にいられるんだもの」
「嫉妬か」
「そう」

si, と言葉少なに肯定してみせた女は、愛らしく眉をひそめてみせた。
正確には、遠い過去に捨てた遠いカラブリアの地で、娘がひとり生きていたが――、このときの彼らがそれを知る由もなく。
「運命」は過(あやま)たず等しくその手を伸ばす。

「……どうしたらあの子みたいに、あなたの傍にずっといられるかって考えてみたこともあったけど……無理よね。わたしがわたしである限り」
「そうだ。お前がお前である限り、オレはお前を消さなければならない。"過去"は完璧に消し飛ばさなければならない」
「もし、わたしがわたしじゃなかったら?」
「――オレはお前を愛さなかった」
「ふふ、知ってる」

細い肩をかすかに揺らして、女が笑う。
夜に似た黒い瞳と、光の乱反射したような暗い瞳とが交わる。

「月明かりのなか、裏路地の石畳、男と女、銃がふたつ、……いまどき映画でも見られないくらいベタなシーンね。ディアボロ、ねえ、ディアボロ。――どうしてあなたはあなたなの」

以って瞑すべし、なまえの細い指が引き金にかかる。
そして響く、一発の乾いた銃声。


(2018.10.14)
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