(※「ホロフェルネスの遺体」の続きです。先にそちらをご覧になってからお読みください)




ばたんと音を立てて図書室の扉を閉じると、分厚く重たそうな本を読んでいたDIOがきれいな顔を愉快そうに歪めてわたしを見た。

「拗ねた子供のようなわずらわしい顔をしてどうした、なまえ」
「……よく一瞬でそんな悪口が思い浮かぶね」
「事実を述べて何が悪い。大方、おれを殺す算段がふいになったのだろう?」

ン? と首を傾げられ、わたしはその忌々しい表情を浮かべた美しい顔を睨みつけた。
眠っているときは目を奪われるという形容が似合いの美貌も、起きてしまえば憎たらしい言葉をよく吐く吸血鬼のものへと変貌してしまう。
それでもその美しさが損なわれることは決してないけれど。

豪奢なソファに腰掛けたDIOの隣に座り、もたれかかって太く逞しい腕へ頭を預ける。
どうせ見ても読めやしない、そもそもどこの国の言葉なのかすらも分からない外国語の本をいつものようにぼんやり眺める。
それは哲学や思想に関するものだったり、経済や統計学にまつわるものだったり、はたまた美術や芸術についての本だったりと千差万別で、その日のDIOの気分によって様々だった。
今日はなんの本なのだろうか、少なくとも絵画についての本ではないことだけははっきりとわたしにも理解できる。
美術が特別好きという訳ではないけれど、何はともあれ読めもしない文字の羅列ばかりを眺めるよりは、きれいな絵画を見て彼の解説や絵にまつわるエピソードを聞いていた方がずっと楽しいのは事実だ。

「ホル・ホースが来ていたから、銃を貸してくれないかって頼んでみたの」

銀のナイフでは死なないというのならば銃はどうだろうかと思い、大した期待もせずに偶然館で見かけたホル・ホースへ銃の貸し出しを申し入れた。
しかしながらそう上手く物事は運ばないらしい。
常日頃からDIOを殺そうと試行錯誤しているわたしを知っていた彼は、すぐにわたしがなんのために銃を借りようとしているか察したらしく、ヤレヤレと口をへの字に曲げた。
お嬢ちゃんだから特別に教えてやるけどな、と肩をすくめ、弾丸だけではなく銃そのものがスタンドなのだと彼は教えてくれた。
ホル・ホースが銃使いだということは知っていたけれど、そもそもわたしにはスタンドとやらが見えも触れも出来ないのだから、銃ごとスタンドというのなら扱えるはずもない。
肩を落としていると、それにお嬢ちゃんが殺せるんだったらとっくにオレが殺ってるぜ、と悪戯っぽくウインクされた。
それもそうだと納得し、さてどうやってDIOを殺そうかと頭を悩ませながら、この図書室へ辿り着いたという訳だった。

ことの顛末を話すと、DIOは飽きもせずにご苦労なことだなと嘲笑う。
彼が笑うとそれに合わせて頭を預けている腕が僅かに揺れ、居心地が悪い。
反発するようにぐりぐりと頭を擦りつければ、DIOはまた低く笑ってわたしを抱き上げた。
手にしていた本は閉じた状態でサイドテーブルに置かれ、読むことを放棄したのは明白だった。
興味のそそられない本だったのか、あるいはわたしの行動が鬱陶しかったのか、どうやら構ってくれる気紛れが生じたらしい。

抱きすくめられ、冷たく厚い胸板へ体を預けつつ、いつものようになんとなく思い浮かんだことを口に出してぽつりぽつりと会話する。
それは本当に取り留めがなく、彼の人間だった頃の過去だったり、彼の信じる天国へ至るための方法だったり、はたまたわたしの人間に対する恐怖だったり、集団において殺される危険性と確率だったり、かと思えば今日の夜ご飯はなんだろうかだとかそういえば和食が久しぶりに食べたいだとかと話題は散らかっていて、かつ途切れ途切れなものだから、いつの間にか次第にわたしはうつらうつらしてきていた。
DIOの低く落ち着いた声が眠気に一層拍車をかける。
わたしは身じろいで、まるで太陽に愛されているかのように眩く輝く彼の金色の髪を引っ張った。

「DIO、ねむい」
「まだ眠るにははやい時刻だろう、もう暫くはおれに付き合え」
「んん……じゃあ、目が覚めるようなはなしをして」

あくび混じりにそう言えば、彼は得意げに天国とやらの思想を語り出した。
DIOの目が覚めるはなしではなくわたしの眠気が飛ぶようなはなしをしてほしいという意味だったのだけれど、彼にはそんなことは関係ないらしい。
よどみなく流れるDIOの言葉を子守唄がわりにしながら、うとうとと微睡む。

そういえばいつだったか、射抜いた者にスタンド能力を発現させることの出来る「弓と矢」という便利アイテムのことをDIOに聞いたことがあった。
「矢」のこと知ったわたしはエンヤ婆へそれを使っては駄目かと問うたものの、しかし残念ながら彼女に止められてしまった。
なんでもスタンドとやらは「闘争心」や「自分の身を守る」という意志に反応して現れるらしく、そういった強い精神を持たない者には害にしかならないらしい。
最悪の場合死に至ると告げられ、それではわたしには無理だろうなとあっさり諦めた。
そういうところが駄目なのだろうとは理解してはいるものの、性根というものは自分でもどうすることも出来ない。

「教えてくれてありがとう、エンヤ婆」
「なんの、試してみたくなったらいつでも言うが良いさね。おまえさんの死に目をDIOさまが見そびれることになれば、わしがDIOさまに叱られるじゃろうて」

死なないという点においてわたしはDIOをいとおしんでいたし、同時に、エンヤ婆をはじめ、簡単に殺されることなどなく、寧ろ自分に不利な人間は容赦なく排除していく精神や能力を持っている彼のたくさん部下たちのことも大切に思っていた。
思っていることを適宜場に応じて偽り、媚びへつらってなんとか保持できる、虚無のような人間関係や損得勘定といった、社会を生きていくために必要なみにくい虚栄というものをはなから捨て、良くも悪くも自分の欲望に正直で偽ることをしない彼らは、それが出来ず必死に他者へとしがみ付いていた滑稽なわたしにとって憧れに近い感情を抱く存在になったとしてもなんら不思議なことではなかった。

そんなことをぼんやりと考えながら、DIOの流れるように続く独白を聞く。
もはや到底理解できないところにまで彼の理論は及んでいて、わたしは微睡みながらてきとうに合槌を打つことしか出来ない。
彼にはそれで充分らしく、そもそもわたしに理解なんて求めていないのだろう、時折考えをまとめるように手持ち無沙汰にわたしの髪を梳いたり、頬をなぞったりしていた。

DIOだけではなく、エンヤ婆やテレンスたちのスタンドがどういったものなのかわたしは知らなかったし、きっと尋ねても教えてくれはしなかっただろう。
しかしとても強いということは知っていたし、スタンドの見えないわたしにはそれで充分だった。

だから彼女や彼らが亡くなったと聞いたときは驚いたし、もう会うことも出来ず、話すことも出来ないのだと思うと、悲しく胸の塞がる思いでいっぱいだった。

そうしてひとり、ふたり、さんにんと、彼の部下たちが次々に敗れ、そして最後にDIO自身が死んだということを知ったとき、わたしは薄れ忘れかけていた世界に対する恐怖を思い出した。


・・・



ただの人間だったこと、存在は知っていてもスタンドを見えも使えもしないこと、生き残った彼の部下たちがわたしを仲間だとは言わなかったこと、それらの理由からわたしは餌のために備蓄されていた女性たちと同じ「被害者」として扱われ、スピードワゴン財団という組織に保護された。
そこでわたしはもう自由であること、家族のいる故郷日本へ帰ることが出来ると伝えられ、健康状態に問題がなければ明日にでも日本への帰途に就くことになった。

財団から宛がわれた、明るく清潔な部屋をひとりぼんやりと眺める。
部屋には太陽の光が射し込む大きめの窓があり、部屋を眩く明々と照らしている。
彼の金の髪へ触れるたび抱き締めるたび、眩く輝く太陽のことを思い出していたというのに、久しぶりに見た太陽はなぜか妙に余所余所しく、こんなものだっただろうかと漠然とした違和感を抱いた。
この違和感も慣れればいつか覚えたことすらも忘れてしまうのだろうか。

日々を彼のため消費するようにただ「在る」ことだけを求められていたあの穏やかな生活へ問題なく適応できたように、いつしか彼のいない日常にも慣れてしまうかもしれないと思うと、いつか彼を殺そうとしたあの手の感触も薄れ忘れるのだと思うと、彼と出会う前に感じていた人間に対する恐怖よりも更に強い、わたし自身に対する絶望のような感情に襲われ、目の前が暗くなるような心地がした。

そしてなにより、「助け出してくれた」ジョースター家やその仲間の面々を見て、このひとたちはわたしが感じている人間への恐怖というものをきっと理解も把握も受容もしてくれないだろうとすぐに気付いたことがわたしの絶望に拍車をかけていた。
彼らはわたしが恐れていた「澄ました顔をして普通に雑踏のなかを歩くことが出来るひとたち」という人種そのものだった。

死なないという点において、わたしはDIOを心の底からいとおしんでいた。
彼ならわたしの感じていた耐えがたい恐怖にすら容易に打ち勝つだろうことが明白だったからだ。
しかしながら彼がいなくなったこの世界でわたしがいま感じているのは、生まれてきてしまったこの社会や環境といったものに対する理解できないおぞましい恐怖ではなく、――もうあの冷たい肌の感触に触れることが出来ないのだという、喪失感、寂しさ、心細さ、そういったたぐいのものだった。

財団から用意された部屋には簡単な食事がとれるよう一揃いの食器があり、そのなかにはナイフもあった。
残念ながらそれは銀ではないようだったけれど、それで首を、あるいは腹でも裂けば、時間はかかるだろうが死ぬのは可能だということがせめてもの救いだった。

「DIO、」

まばたきをすれば雫が落ちる。
久方ぶりの涙はひどく熱く、彼の冷たい体温が無性に恋しく手がふるえた。
まるで、恋を恋と自覚する前に散った花みたいだと、彼に告げれば詩人にでもなるつもりかなんて笑われるだろうことを考えた。

ふと、もしかしたら彼を何度も殺していたのは、わたしを殺すこのときのための練習だったんじゃないかという馬鹿な思い付きがよぎった。
ひとり笑い、彼の肌のように温度のないナイフを握った。

冷たいDIOの腕を思い、明日はどうやってわたしを殺そうかと胸を沈ませながら、わたしは静かに目蓋を下ろす。

ユーディトの遺灰
ボッティチェリ「ユーディトの帰還」(1472)より。
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