主寝室の古めかしいドアを両手で押せば、まるでホラーハウスと聞いてすぐに思い浮かぶような雰囲気たっぷりの重たい扉がぎぎーっと音を立てて開いた。
入り口の扉からベッドまでは少し距離があるけれど、素足は床石の冷たさに身がすくむような心地がするだけで、狙い通り殆ど完璧なくらいに足音を消してくれていた。
ひた、ひた、とゆっくり歩を進める。
手にした銀のナイフが部屋に灯されていた蝋燭の光を反射して、濡れ流れるようにぬらぬらと光った。
キッチンから勝手に拝借したものだから、もしかしたら後でテレンスに叱られるかもしれない。
別にここの主に殺されるのは構わないとはいえ、優秀な執事に怒られるのは嫌だった。
だってお説教は長いし、自分の嫌なところを的確に突いた責め方をするから。
――わたしがそれまで生きていればのはなしだけれど。
こく、と唾液を飲み下せば、思ったよりも嚥下する喉の音が大きく響いた。
ようやく大きなベッドへと到達すれば、いつものようにDIOは広いそこで悠々と横たわり眠っていた。

太陽を嫌う白い肌はまるで白磁のように美しく、そのくせまるで太陽に愛されているかのように眩い金色の髪はゆるやかにシーツに散らばっている。
しなやかな筋肉、均整のとれた四肢、眉は太く濃く、鼻梁は品良く高く通り、一度目にしたら忘れることなんて出来ないほどに美しい。
オスの孔雀の羽が大きく華美に進化したのは、自分の遺伝子を残すため異性へアピールする目的があるとダーウィンの性淘汰で論じられたけれど、ではなぜ美しいものが遺伝子を残すのに有用なのだろうかと以前は理解できなかった。
しかしながら彼を見ていると、なんとなくそれが分かるような気がした。

何度見ても慣れない美貌に一瞬だけまた気圧されて、ナイフを握った手が微かにふるえた。
眠った彼の腹の上に跨り、ナイフをその胸へ突き立てる。
ぷつ、と張った皮膚を切り裂いて、覆いかぶさるようにして上体の体重ごとぐっと力を籠めれば、肉を裂く得も言われぬ感触がダイレクトに手を襲った。

白くなめらかな肌の下のことを考える。
ほんの数十センチ先では、いま同時に肉や内臓がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられているのだと思うと、ひどく不思議な感じがした。
その様子が気になり見てみたくなり、鳩尾辺りから臍まで縦に裂くように手を動かそうとしたところで、冷たいてのひらに手首を握られる。

「目覚めのキスにしてはいささか熱烈すぎるな」
「……あなたはお姫さまっていうより、魔女とか悪役のポジションでしょ」

白い目蓋の下から現れた金の瞳は、わたしの黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。
DIOは胸に突き刺さったままのナイフをあっけなく抜き取り、ぽいっとベッドの下へ投げ落とした。
魔女に呪われた眠り姫は王子さまのキスで目を覚ますらしいけれど、銀のナイフで死なない吸血鬼をそう形容するには若干難があるように思われる。
無造作にナイフを放り投げたその手で容易にわたしを捕まえると、DIOはまた広いベッドに身を預けた。

「DIO、あなたはどうやったら死ぬの」
「またその話か。よくも飽きないものだな」

それよりもおれはまだ眠る、とDIOは抱きすくめたわたしの黒い髪に顔をうずめた。
百年近く海の底に沈んでいたと聞いたけれど、ならばもう眠るという行為に飽きても良い頃じゃないだろうか。
そう思うものの太く逞しい腕から逃れるすべはなく、わたしはどうやらこのまま抱き枕になる他ないらしい。
触れた皮膚は冷たく、胸の傷はもはやどこへナイフを突き立てたのか、刺した本人であるわたしですら分からなくなるほどきれいに元に戻っていた。

DIOの厚い胸に頬を寄せたまま、考える。
――例えば、目の前にひとつの熟れた林檎があるとする。
それを見て真っ赤だなと思うひともいるだろうし、甘くて美味しそうだと思うひともいるだろうし、帯びた丸みが美しいと思うひともいるだろう。
なにをどう思うかは各々のそれまで生きてきた人生や価値観、周囲の環境や関わった他人によって小さく細かく、しかし非常に大きく変化していくもので、この世に決してふたつと完璧に同じものなどない稀有さを備えていると思う。
世界にたったひとつしかないそれを、自分のものを含めて、わたしはそういった差異をいとおしんでいた。

しかしながら悲しいことに、そういった些細な違い、細かな機微なんてものはいま社会を生きていくのに限りなく不必要なもので、そんなことよりも、思っていることや大切にしているものを偽り、媚びへつらってなんとかようやく保持できる、虚無のようなみにくい人間関係や損得勘定の方が、実際に生きていくためにはよっぽど必要なことだった。
他人を伺って、したくもないことをして、言いたくもないことを言い、笑ってみせて、泣いてみせて、そしてそれは自分はおろか相手のためにもならず、ただ人間関係を円滑にこなすための儀式のようなものであることに吐き気がした。
そう思うとわたしを取り巻く周囲はなんておぞましいもの、虚無に満ちているんだろうかと、生きることに恐怖すら覚えた。
どうしてみんな平気な顔をして歩いているのか理解できなかった。
そうしていままでいとおしんできた各個人の差異というものが、わたしにとってはひどく恐ろしく感じられるようになった。

わたしにとって、例えば、澄ました顔をして普通に雑踏のなかを歩くことが出来るひとたちほど恐ろしいものはなかった。
見ず知らずの他人に、突如刺されるかもしれない、殴られるかもしれない、あるいはもしかしたら平静を装って誰かが擦れ違いざまに銃を撃ってきたとしたら?
回避なんて出来るはずもない。
たくさんの人間がいる場所、それは大きな交差点だったり休日のショッピングモールだったり、そんな場所で唐突に危害を加えられるかもしれない可能性を考えると、人間の群衆はわたしにとって自殺願望者の集まりのように感じられた。
誰が好き好んで自殺願望者の集団のなかに身を置きたいと思うだろうか。
人間のいる場所、それは紛れもなく恐怖だった。

――彼に出会うまでは。
DIOはそんなわたしを矮小な人間らしいと嘲笑って、悪趣味にも殺さずに傍に置いた。
はじめ性的な魅力もなければ彼らのように特別なにか能力がある訳でもないわたしを置いてなんの利益があるのだろうかと不可解さにぼんやりと首を傾げてばかりいたものだけれど、置かれた状況への適応能力だけはわたしにもきちんと備わっていたらしく、日々を彼のため消費するようにただ「在る」ことだけを求められるこの生活にもいつしか慣れるようになっていた。
それは変化や向上を求めるタイプのひとによっては地獄のような苦しみだったかもしれないけれど、彼と初めて出会うまでも似たような気持ちで生きていたわたしにとってはあくまでも日常の延長線上、強いていうなら場所や環境が変わった程度としか受け留めなかったせいだろうか、それまでと同じように、あるいは数段上等な生活を送っていた。
DIOがなにを考えているのかわたしには到底理解できないけれど、彼がわたしを不要と判断して殺すまでは、故郷日本から遠く離れたこのエジプトの地でこんな日常を続けていようと思うくらいには。

「……DIO、寝た?」

窮屈な腕のなかでもぞもぞと身動きして首を伸ばす。
DIOのぞっとするほどきれいな顔はわたしがナイフを突き刺す前までと変わらず、いっそ穏やかと形容するのが相応しいほどの眠りの気配に満ちていた。
彼に比べてずっと短いわたしの人生において出会ったなかで至上と言っても過言ではない美貌を前にして、いつになったら慣れることが出来るだろうかとぼんやり考える。
突如変化した自分を取り巻く環境より、自分を拉致監禁している男の美しさに慣れる方が時間がかかるなんて、我ながらおかしな状況だと笑う。

手持ち無沙汰になんとなく形良い唇を指先でそっとなぞれば、DIOは目を閉じたままわたしの指へがぶりと噛み付いた。
先程無為に肉体を傷付け修復するのに力を使わせてしまったのだから、甘んじて血を吸われるのを許容する。

彼に合わせた生活リズムになっていたものだから、わたしもまだ眠たい。
分厚いカーテンの向こうでは、まだ太陽がぎらぎらと照り輝いているのだろう。

「おやすみ、DIO」
「おやすみ、なまえ」

彼が言葉を発音するたび、鋭い牙が指をかすめてくすぐったかった。

彼が死なないという点において、わたしはDIOを心の底からいとおしんでいた。
彼ならわたしの感じていた耐えがたい恐怖にすら容易に打ち勝つだろうことが明白だったからだ。
少なくともDIOは銀のナイフを刺した程度では死なないことが今日はっきり分かった。
確か吸血鬼は銀に弱いという記述を本で読んだことがあったような気がするけれど、それはDIOには当てはまらないらしい。
折角テレンスに叱られるかもしれないリスクを負ってまで上等なシルバーの食器を選んだというのに。

人間じゃないDIOと接して自分がいかに人間らしいかを再確認するなんて不思議な体験だと思うけれど、自分の恐怖心を宥めてくれる存在をいとおしむことは非常に人間らしい傾向だと自分でも思った。
彼へ指摘したことはないけれど、時間を共にしていると実はDIOにも人間らしいところを毎日ひとつふたつ見付けることが出来て、それはわたしの密やかな楽しみになっていた。

冷たいDIOの腕のなか、明日はどうやって彼を殺そうかと胸を高鳴らせながら、わたしは静かに目蓋を下ろす。

ホロフェルネスの遺体発見
ボッティチェリ「ホロフェルネスの遺体発見」(1470)より。
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