紅茶を一口含み、ほう、と息を吐いた。
優しい味。
胸がふわふわとしたやわらかい幸せに覆われる。
いつも自分でつくる、マグカップにティーバッグとお湯を突っ込んだだけの乱暴なものとは比べちゃいけないレベルで美味しい……。

至福のひと時に、よっぽどゆるんだ顔を晒してしまっていたんだろう、真正面に座って同じようにお茶を飲んでいたジョナサンにくすくすと笑われてしまった。
……はっ、恥ずかしい!
うっかり全力の間抜け顔を晒していた……!
カップを置いてわたわたと顔を隠そうとしたところ、ジョナサンに慌てて謝られた。

「ごめんね、なまえ。気を悪くしないでくれないかい、そうやって美味しそうにしてくれていると、淹れた僕も嬉しいんだ」
「ほっ、本当に美味しいです! 幸せすぎて顔がにやけちゃって……恥ずかしい……」
「そうかな? にこにこして可愛いなって僕は思ったよ」

うっ、うわあああ! う、美しすぎます……!
邪気なんて全くない素敵な笑顔に、感動で泣き崩れそうになった。
まじジョナサン私の天使。
この世界に来る前、原作を読んでいた頃から憧れていたひととこうして向かい合ってティータイムが出来るなんて、少し前のわたしならきっと信じないだろうな、神さまありがとう、ジョナサンさまありがとう。

興奮のあまり変なことを口走ってしまわないように、もごもごと感謝の言葉を返して動揺を悟られないようまた一口お茶を飲んだ。
さすが本場イギリス人の淹れた紅茶……。
料理の腕は絶望的らしいけど、本当に紅茶は美味しい。
……ちょっとだけ、料理をしてどんな惨事を引き起こしたのか興味はある。
何気なく以前ジョセフに尋ねてみたところ、真っ青な顔をしていたからそれ以上は聞けなかったけれども。

同じようにお上品にお茶を口にしたジョナサンは、ちらりと時計に目をやった。
途端に、凛々しい眉が申し訳なげに下がる。

「ごめんね、徐倫ももうすぐ帰ってくると思うんだけど……どうも徐倫やジョセフは時間にルーズで、」
「い、いえ! おかげでこうしてジョナサンの淹れてくれたお茶も飲めましたし、嬉しいです!」

満面の笑みで元気良く答えれば、ぱちくりと目をしばたたかせて、やわらかなエメラルドの瞳を細めて微笑んでくれた。
徐倫と約束があってお宅にお邪魔したけれど、大好きな彼女だけではなく、こうしてジョースター家の長男ジョナサンと二人でお茶が出来るなんて本当にラッキーだ!
にこにこしてそのきらめくエメラルドの瞳を見ていると、初めて出会った日のことを思い出した。

・・・


「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃいなまえさん、おひとりで大丈夫ですか? やっぱりボクも一緒に、」
「ドッピオくんったら心配性だなあ、大丈夫だよ、すぐに帰ってくるから!」
「……それじゃあお願いします。はやく帰ってきてくださいね」

その日のことを彼女はよく覚えている。
暑い夏の始まりの頃。
長く続いたようやく雨が上がり、気温が高くなるだろうなと予感させるはっきりとした青空の下。
夕食のための買い物を終え帰宅したところで買い忘れに気付き、なまえ一人でスーパーへと走り出た日のことだった。

買い忘れを無事に購入し、帰路を急いでいたところで、後ろから重低音を響かせて大型のバイクが隣を通り過ぎた。
不運だったのは、ほんの少し前まで雨が降っていたせいで水溜りがあちこちにできており、故意ではなかったとはいえ、その一つをバイクが走り抜けたため水しぶきが上がったこと。
次に、その泥水が跳ねてしまい、彼女の膝下まであった生成りの淡い色のスカートが汚れてしまったこと。

しかしなまえにとって幸運だったのは、

「わ、悪い! 気を付けてはいたんだけどよォ、」
「っ、えっ、(ジョ、ジョセフ・ジョースター……!)」

それが彼女が愛してやまない「ジョジョ」の一人だったことだ。
荒木荘で各部のラスボスたちと生活しているため、主人公たちジョジョも存在しているんだろうなとはうっすら考えていたなまえだったが、まさかこんな所で出会えるとは、と目をしばたかせる。
そしてその幸運に気持ちが昂揚し、衝撃と興奮で押し黙っているなまえを怒っていると勘違いしたのか、ジョセフは慌てて謝罪を繰り返した。

「ホントに悪ィって! あっ、オレの家この近くなんだけど寄ってくれねぇ? クリーニング代、出してェんだけど」
「えっ、お、おうち……?」

もしかして他のジョジョたちもいるのかな!? と内心沸き立つなまえだったが、その言葉にジョセフは更に慌てた。
「べべべ別に他意はねェんだよ! オレはただ申し訳ないと思って!」と、大げさに腕を振って主張する彼に思わず笑みがこぼれる。

「ふふっ、汚れも少しだけだし、大丈夫ですよ。うちも結構近くだし」

そんなに気にしないでくださいと微笑むと、ジョセフは驚いたように目を見開いた後、安心したと言わんばかりに肩の力を抜いた。
先程までの申し訳なさそうな殊勝な態度はどこへやら、ニッと人懐っこい笑顔を浮かべて、このまま君を帰しちゃったら兄貴に叱られるし、今は手持ちがないからと家に誘われる。
ジョセフにおうちに誘われてしまった……! と感動に震えるなまえは、なんとか落ち着こうとゆるむ頬を押さえつつ、そこまで言うならと着いて行った。
ジョセフのお宅、しかももしかしたら他のジョジョたちもいるかもしれないこんなチャンスを逃してはいけない! という下心を抱いていたことは彼女だけの秘密である。

「ははははじめまして……!」
「どっ、どうしたのなまえちゃん!」

そして期待通り、自宅に居たジョナサンに会えた興奮でひれ伏さんばかりに挨拶したなまえに、二人とも驚いてしまった。
ちなみに、帰宅し冷静になったなまえは余りにも挙動不審だったと、自分の行動を思い出して後悔し身悶えることになるのは余談である。

「あ、あのっ、本当にそこまでしていただかなくても大丈夫ですから……!」

ソファに腰掛けた自分の前に跪くジョナサンに、なまえは申し訳ないやら嬉しいやらで、思考が停止寸前に陥っていた。
一通り次男を叱ったジョナサンは、「このくらいだったら落とせると思うよ」とほっとしたように微笑んだ。
スカートを脱ぐわけにもいかず、丁寧に汚れを拭ってくれる憧れの人に、なまえは頭が沸騰しそうだった。
手をぎゅっと握り締め、押し黙ったなまえにジョセフが不思議そうに首を捻る。

「どーしたの、なまえちゃん。でかい図体してるけど、オレも兄貴も怖い人じゃないのよン?」

ふざけたような軽口を投げ、ソファに座ったなまえの肩にぽんと手を置く。
その優しい声色と暖かな手に思わず脱力し、自然に笑みがこぼれた。

「良かったあ、やっと笑ってくれたね」
「え?」
「うちに来てから、……まあジョセフが無理を言って連れてきてしまったんだろうけど、すごく緊張してるのか全然笑ってくれなかったから。笑っている方が可愛いよ」
「……なっ、……えっ、はっ、」

ぼっと顔に血が集まるのが分かる。
真っ赤な顔でぱくぱくと口を開閉するものの何も言えずにいるなまえを見て、ジョセフはこっそりヤレヤレと溜め息をついた。
この兄は誰にでも発揮されるわけではないとはいえ、無意識にタラシの気があるのではないかと思うことが稀にある。
言い放った本人はけろりとした様子で、無邪気ににこにこと笑っているが。

それにしても、顔を真っ赤にして俯き、またも無言になってしまったなまえという少女に対して、本当に愛らしいなと強く庇護欲を覚えた。
迷惑をかけてしまい申し訳ないという気持ちは勿論あるが、良い子に出会えたなあとにやけてしまうのが止められない。
やわらかそうな頬を可憐に赤く染めて小さくふるえるその態度に、男慣れしていないのだろうか、付き合っている人はいないのだろうかと気になったところで、あることに気がついた。
彼が口を開きかけたところで、リビングの扉がガチャと開いた。

「あ、承太郎、おっかえりィー」
「お帰り、承太郎」
「ああ」

現れたのは、彼女を囲む彼らと同じように、屈強な体格に恵まれた青年。
一部二部の主人公たちに続いて三部まで! と、余りの僥倖に、なまえが一生分の幸運を使い果たしてしまったのではないかとひっそり危惧していると、ぱちりと濃い青磁色とかち合った。
その意志の強そうな美しい瞳が、驚いたように僅かに見開かれる。

「テメェは……」
「あっ、お邪魔しています。あの、ええと、」
「この子はなまえちゃん! ちょいとオレが迷惑かけちゃってなァ、お持ち帰りしちゃったの」

親しげに肩を組み、ねーっと笑うジョセフに、目を白黒させるなまえ。
その表情は、どうしたら良いのだろうと情けないものになっている。

「えっ、お、お持ち帰りって、えっと、」
「こらジョセフ。なまえちゃんが困ってる。ごめんね、汚れは落ちたけど、一応クリーニング代も出させてくれないかな」

無遠慮に彼女に触れるジョセフをたしなめ、申し訳なさそうに眉を下げて笑うジョナサンに、なまえはぶんぶんと頭を振る。
これだけの幸運に巡り合えたのだ、むしろこちらがお礼を言いたいくらいである。

「ジョナサンさんのおかげできれいになりましたし、お気持ちだけ大切にいただきますね。本当にありがとうございます! わたし、そろそろお暇させていただかなくちゃ」

時計を見れば、家を出ていつの間にか随分と時間が経っていた。
確か家を出てくるときにはディアボロとドッピオ、プッチがいたはずだ。
比較的常識を持ち合わせているメンバーだが、なまえになにかあった場合、何をするか分からない過保護な面々でもある。
とても名残惜しいが、すぐに帰ってくるからと言って出てきてしまった手前、心配をかけているかもしれないと立ち上がった。

挨拶を終え、原作を読んでいた頃からファンだった人たちに出会えた喜びに浮かれ、だらしなく顔がゆるんだまま扉に手をかける。
欲を言えば、もっと承太郎ともお話をしてみたかったし、他の部の主人公たちにも会いたかったな、と、少しだけ残念に思いつつ、お邪魔しましたとジョースター家を後にした。




「……良い子だったね」
「やっぱり兄貴もそう思った? カワイイ子だったなー、また会いてぇな」
「……そうだな」

承太郎のその言葉に、ジョセフは目を丸くすると、次の瞬間にはニヤニヤと破顔して肩を組んできた。
モテるくせに浮いた話の聞こえてこない硬派な男だと思っていたが、あの数分ほどのやりとりで彼女を気に入るなにかがあったらしい。

「なになに承太郎、春が来たってのー? 珍しいこともあるもんだなあ」
「違ェよ、やめろ」
「でも残念、承太郎クンに悲しいお知らせだけど、あの子、彼氏いるかもしんねぇよ」
「あ?」

おお怖い、と、大げさに肩をすくめ、ジョセフは自らの首をトントンと指差した。

「首にな、チラッと見えたのよ、キスマーク。まあ虫刺されってベタなオチもありうるけどなー」

頭の後ろで腕を組み、あっけらかんと言い放つ。
いつの間にチェックしたのやら、涼しい顔をして隙なく目敏い彼に呆れ、ジョナサンは溜め息をつく。
承太郎もトレードマークの帽子をぐいと下げて、「ヤレヤレだぜ」といつもの口癖を呟いた。

彼らの瞼裏には、照れて愛らしい頬を林檎のように赤く染めた彼女の表情や、裏表なく向けられた純真そのもののやわらかな笑みが残っている。
もう会えないのだろうかとほんの少しの寂寥を覚えたところで、ジョナサンの「……あ」という間抜けな呟きがこぼれ落ちた。

「どしたの?」
「ふふ、あの子、忘れていってしまったみたいだ」
「ん?」

彼が指差したそれは、彼女が持っていた真っ白な日傘。
外を見れば、あれほどさんさんと照りつけていた太陽の勢いも既に弱まり、確かにもうこれでは日傘は不要で、思い起こしそびれることもあるだろう。
彼女の嬉しそうな笑顔を思い出す。
なぜだか分からないが、ここに来てからそわそわと落ち着きなく妙に浮かれた様子だと思っていたが、まさか忘れものをしてしまうとは。

「……取りにくると思うか」
「さあねェ。でもオレはまた来てくれるような気がするぜ?」
「だと良いねえ」

なまえの残したそれをそっと手にとって、ジョナサンはやわらかく笑う。
なぜだか、また会えるだろうなという強い確信があった。
そしてその予感通り、数日後申し訳なさそうに訪れたなまえは、残りの「ジョジョたち」に出会うことになる。


・・・



「なまえ、なまえ、どうしたんだい?」
「あっ、ごめんなさい、ジョナサン。あの、ふいに、初めて会ったときのことを思い出してしまって」

名前を呼ばれ、顔を上げれば、不思議そうな表情のジョナサン。
いけないいけない、ぼんやり思い出に浸ってしまっていたみたいだ。
それにしてもあの時は本当にお恥ずかしいところばっかり見せてしまったなあ……浮かれすぎて自分でも挙動不審だったと思う……。
いま思い返しても羞恥で頭を抱えたくなってくる。

そういえばあの日、帰宅してから「ジョースターのにおいがする」と言って鼻のきく同居人たちが荒れてしまって、宥めるのが大変だったなあ……。
ぶっちゃけ食べられました。ええ、性的な意味で。
うっ、思い出しただけで悪寒が……!
そのあとぐったりして身動きも取れずにいたわたしにさすがにやりすぎたと反省してくれたのか、強く頼むとなんとか交流は許してもらえたけれど。

「初めて会ったときかあ、懐かしいね。あっ、知ってる? 承太郎ってばその時から、」
「っ、おいジョナサン!」
「あ、承太郎お帰り」
「承太郎、お帰りなさい。またお邪魔しています!」
「……ああ」

帰宅した承太郎に満面の笑みで声をかけると、すぐにそっぽを向かれた。
うう、わたし余り良く思われていないのかな……わたしは仲良くしたいんだけど。
目の前のジョナサンといえば、黙ってにこにこするばかりだし。
しょぼりと力なく俯いたところで、バツの悪そうな舌打ちがひとつ響いた。
顔を上げると、帽子を目深にかぶった承太郎は無言でぐしゃりとわたしの髪を乱すと、ふいっと踵を返して部屋から出ていってしまった。
あまりのことに目を見開いて、ぽかんと間抜け面を晒す。

あの、見間違いでなければ、承太郎さんのお耳が、うっすら赤くなっていたような……?
ぼんやりと乱された髪に手をやると、まだなんとなく承太郎の大きな手の感触が残っている気がした。
あ…ありのまま今起こったこ事を(以下略)。

何拍か遅れて、じわじわと顔に熱が集まる。
す、少なくとも、嫌われてはいない、のかな……?
ばくばくとうるさい心臓をなんとか落ち着かせようと奮闘していると、玄関の方から「ただいまー」と待ち焦がれた徐倫の明るい声がした。
彼女が部屋に入ってくる前に、この赤い顔をどうにかしなくちゃと思うけれど、無慈悲にもリビングの扉はさっさと開かれた。

「遅くなってごめんね、なまえ! ってどうしたの、顔真っ赤だけど」
「ああああの、ううん、なにもないの! ちょっと暑くて! ね、ジョナサン!」
「そうだねえ」

くすくすと相変わらず楽しそうに笑ったままのジョナサンを少しうらめしく思いつつ(あれは絶対面白がっている顔だ!)、わたしは徐倫の背を押して彼女の部屋へと急いだ。

Ah! vous dirai-je, maman
(2014.08.23)
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