(※現パロ)




足の裏にごわごわと毛羽立った不快な感触を覚えて、ふと目線を下に落とした。
違和感の正体は、手当り次第に投げ付けたうちのひとつ、花瓶から転がり出たひまわりだった。

昨日通りがかった小さな花屋でとてもきれいに咲き誇っていた黄色に目を奪われ、上機嫌で購入した。
ぱっと目を引く強い存在感、見る者接する者を笑顔にしてしまう素敵な力を持った花。
まるで恋人である彼のようで、喜び勇んで私室で最も目に付くテーブルの上に飾っていた。
花そのものもとても愛らしくて明るい気持ちにしてくれて、加えて彼のことも思い起こさせてくれるなんて幸せなことこの上ない。
視界に入るたびに人知れず穏やかな笑みを浮かべて、ハリのある瑞々しい花弁を時折そっと優しく撫でることもあった。

そのひまわりがわたしの足の下でいま静かに造形を歪めている。
ぐ、と、更に力を込めて床へ引き延ばすように踏みにじれば、繊維質な硬い茎がぶよぶよと伸びて水分が滲み出てくる。
中心を通る白い髄が覗いていた。
まるで人間の骨のようだった。
テーブルの上には夏らしく透き通ってこの花に似合うだろうと選んだ花瓶がからっぽになって横たわる。

周囲に散乱した本や雑誌、引き倒された椅子、中身が引きずり出されてぽっかりと腹を見せている棚、どこかでぶつけたのか熱を持ってずきずきと痛み疼く手の甲や腕、脚。
あーあ、これを片付けなくちゃいけないのかァ。
あんまりにも面倒くさすぎて、荒れた部屋を見渡してもう一度、今度は声に出して、あーあ、と呟く。

数秒ぼんやりと眺めて、ごろんと床に転がる。
ちゃんと確認せずそのまま仰向けに転がったせいで、倒れた花瓶から流れ出てできていた水溜まりに髪や頭が濡れていっていることに少ししてから気付いた。
あーあ、髪も拭かなくちゃ。
背もたれを床に対して直角にして転がった椅子を座れるようにちゃんと立てて……本を拾い集めて本棚に収めて……表紙が歪んだりページが破れたりした雑誌や新聞は捨てるために集めて紐で結んで……投げ捨てたリングホルダーやルームフレグランスを元のようにきちんとディスプレイして……飾れなくなった大きな花を生ゴミの袋に収まるよう何分割かに裁断して……、……。

やめた。
今日はこのまま寝てしまおう。
幸いなぜかわたしは床に寝転がっている訳だし、人間が睡眠をとるためには最適な体勢を取っていることに違いはない。
明日は仕事がない、休みだ、じゃあ目覚ましをかける必要もない、いいや、その前に化粧を落とさなきゃいけない?
あーあ、いやだいやだ。
フローリングの床が硬い。
毛足の長いラグでも買おうか。
どんなのがいいかカタログで探して……値段と手持ちの金とを突き合わせて……どうせ一等気に入ったものは手の届かないような金額なんだ、それなら最初から気に食わないいっそ趣味の悪いものでも選んで……ああ。

こんなにわたしの部屋には物が溢れているんだ、いっそ全部捨ててみたらどうだろうか。
この部屋にあるものは全てわたしのために存在しているんだと思うと、その押しつけがましい好意に襲われて圧迫されてなりふり構わず絶叫したくなった。

カーテンも、テーブルも、椅子も、ベッドも、ソファも、洗濯機も、食器類や調理器具も食材も、服も化粧品も、本や雑誌も、――全部全部、わたしのためにわたしに使われるためにここに集められてじっとわたしのためにわたしを待っている。
骨のような白い髄を剥き出しにしたひまわりがわたしを見ている。
いやだ、やめて、要らない、要らない、

ぴりりり、と、耳をつんざくような電話の着信音が、静かな部屋に突如鳴り響いた。
それまでテーブルの花瓶から落ちる雫のぽたぽたという水音とわたしの呼吸音以外なにも聞こえなかった部屋に、その機械音はいつもより非常に大きく聞こえた。
あまりの唐突さとうるささに床に寝転がっていたわたしはびくっと震え、その拍子に中身が引きずり出されて引っ繰り返った衣装ケースに脚をぶつけた。
990円。
ベッド下に収納できるように高さがあまりなくて、半透明で中に何が入っているか分かる、取り出しやすいように裏にキャスターが付いているタイプ。
容量は35リットルもあるらしい、へえ。
横になって体育座りの体勢を取ればなんとかわたしでも収まりそうで、そうして死ねば床が汚れず便利だなと思った。

「……もしもし」
「ああ、なまえ、突然すまない」
「ううん、シーザー、どうしたの?」
「時間ができたから、なまえさえ良かったら君のところへ行こうかと思って。このところ会えなくてオレが寂しかったからね」
「ふふ、ほんと? 嬉しい、待ってるね」

あーあ。
切れた電話を耳に当てた姿勢のまま、また口に出して呟く。
ここ数日、忙しいとかでシーザーと顔を合わせることがなかった。
それでもマメな彼は毎日寝る前に連絡をくれてはいたけれど。

ぼんやりと寝転がったまま、今からしなければいけないことを頭の中で組み立てる。
この部屋を片付けて……いや、その前にわたしのこのどうしようもない気分を上向きにさせなければならない。
折角シーザーがわたしのところまで来てくれるというのだから、少しでも愛想よく迎えたい。
少なくともこんな状態のわたしに会うだなんて、慈善活動でもなんでもないんだから彼に対してなんて酷い嫌がらせだろうかと自分でも思う。
誰が愛おしい恋人に不快な思いをさせたいと望むだろうか?
どうにもならないこんな状態のわたしに彼を付き合わせる訳にはいかない、彼のためにも自分が出来ることをして少しでも改善しなければ、そう、彼のため、この行為は彼のためだ。

わたしと同じように転がっていたバッグを引き寄せ、錠剤のシートを1枚取り出す。
銀色の柔軟なプラスチックフィルムにヒートシールされた小さな粒を、指で押してぷちぷちと出していく。
個別包装なんてせず、ビタミン剤のようにそのまま錠剤を瓶に突っ込んでくれていたらいいのに。
取り出す手間をかけさせて、いっぺんに過剰に摂取しないようになんていう的外れな配慮なんてくそくらえだ。
こうして1粒ずつ錠剤を出して並べていけば同じことだというのに。

プラスチックフィルムを触る感触にも飽きてきて小さな山が出来たところで、ざらざらと口へ放り込む。
水を用意するのが面倒だったので花瓶から流れ出て床にできていた水溜まりに腹這いになって口をつけた。
じゅるじゅると下品な音なんて立てたくなかったが仕方ない。
口の中の水分量と錠剤の数とは圧倒的に後者が勝っていて、上手く飲み込むことが出来なかった。
舌を上手く使わないと腹這いの状態では多数の錠剤が口からこぼれ落ちてしまいそうになる。

時間をかけてゆっくりと飲み下していると、水溜まりはやがてなくなり、這いつくばってべろべろと床を舐め続けている自分がおかしくってなんだか笑えてきた。
死にたい。




どれだけ時間が経ったか覚えていない。
薬を飲むとよくあることで、気が狂いそうなほど長く時間が経過したように感じたのに時計を見るとまだたった10°程度しか分針は傾きを増していなかったり、ほんの数十秒ぼんやり壁を眺めただけだったはずなのにいつの間にか夕方が深夜になっていたり。

いまわたしが覚えていたのは喉の渇きと、とてつもない万能感。
いまのわたしなら空だって飛べるんじゃないかと大真面目に考えた。
そうだ、そうしよう。
あんまりにも愉快なものだから笑い声を抑えることが出来ず、ゆらゆらと立ち上がり、笑いながらその場でジャンプする。
でもすぐに地面へ足は着いてしまって、それがまたおかしくって、くすくすと笑った。

……爪先立ちをしてくるくる回って、またジャンプしてみて。
頭が妙に重くてふらついて着地に失敗して、床に転ぶ。
膝や肩を強くぶつけてしまったけれどそんなことよりもあんまりにも滑稽で、どうしようもなく笑いが止まらなかった。

楽しい!
こんなに楽しくてゆらゆらと微睡むような優しいやわらかさに世界は満ちているのに、目に映って周囲に感じるもの全ての輪郭がぼんやりとしていて、苦しいほどにとにかく優しいなにかに覆われているのに、どうしてさっきのわたしは死にたいだなんて考えていたんだろう?
さっきまでのわたしといまのわたしは同一線上にいるはずなのに、不思議なくらいにさっきまでのわたしが理解できなかった。
それとももしかしてさっきまでのわたしはわたしではなかったの?
だからさっきまでのわたしが理解できないの?
ああ、なるほど、それならとってもよく分かる。
そりゃあそうだ、だってわたし、自分のことだってよく分からないのに、わたしじゃないものの思考まで理解することなんて出来るわけがないもの。

満足のいく答えを見付けることができて納得して、また楽しくて飛び跳ねる。
あ、そうだ!
このことを彼にも教えてあげなくちゃ。
彼はわたしが楽しそうだととても嬉しそうに微笑んでくれる。
きっと彼も喜んでくれるだろう。
たくさん話したいことがある、いまからここへ来ると言っていたけど、ちょっとだけ電話しちゃだめかな?
もしいつものバイク、あるいは車を使っていたら、電話は取れないだろうけど、でも、ああもう、はやく、はやく来てくれないかな!

「……なまえ……?」

なんだかそわそわして落ち着かなくて、鼻歌というには少し大きな声で歌いながら散乱した本を広い集めて片付けていると、部屋の入口にやっと待ち望んだシーザーが立ち竦んでいた。
強盗に荒らされでもしたかのような部屋で、混乱の極みみたいな顔をして茫然と立っている彼はそれでもとっても男前で、格好良いひとはそんな表情をしたってさまになるんだもの本当にずるいんだから、と、ぐらぐらする頭で考えた。
きらきら淡く輝く金の髪はやっぱりひまわりのように明るくとてもきれいだ。

「いらっしゃいシーザー、待ってたの! 散かっててごめんなさい、いま片付けていたんだけど……」

自分でもうすら寒いものを感じるほどに今日一番の笑顔を浮かべながら彼を見上げる。
こんなに散かったところを見せてしまって恥ずかしく、かっかと顔が熱くなるような心持ちがした。
もう、どうしてこんなに散らかってしまったの?

「……なまえ……その怪我は……」
「けが?」

部屋の荒れようよりも真っ先にわたしのことを心配してくれる彼に、さっきとは違う顔の火照りを覚える。
本当に優しいんだからとゆるんだ顔で自分の体を見下ろすと、そういえば腕や手に痣や切り傷ができていた。
よく見れば、脚にもいくつか色の変わる途中の内出血もあった。
やだ、いつの間に。

「あれ? どうしたんだろう」

ひどく小さな文字の注意書きや製品ラベルが細々と表示されたティッシュ箱を引き寄せる。
ティッシュの箱の裏なんてめったに見やしないのに、こんなにたくさん文字を書いてどうするんだろうか。
裏返ったそれを本来の用途のために引っ繰り返し、数枚取って未だ血を流し続けている腕や手に当てる。
不思議と痛みはなかったので、別に大した傷じゃないんだろう。

「どうしたんだろうじゃあなくて、なまえ……どうして、」
「もう、シーザー。そんなにこわい顔をしてどうしたの?」

苦笑して床に座り込んだまま彼を見上げれば、痛々しそうに顔を歪めたシーザーが言葉を探すように一度二度口を開閉して、諦めたように縋るようにわたしを抱き締めた。
本当にどうしたんだろう。

「なまえ、なまえっ……!」

シーザーが苦しそうにわたしの名前を呼びながら膝を着く。
強く抱きすくめられているせいで彼の表情は伺えない。
わたしは彼の体温や香りがこんなに近くにある幸福でまたひとりでに笑みがこぼれるのを堪えきれなかった。

あはは、と小さく笑う。
シーザーの言いたいことは分かる、彼の思うわたしにしてほしいことも、してほしくないことも。
だけどそれがなんになるというのだろうか?
あなたがいなくて寂しかったの、あなたが他の女の方がいいって思っているんじゃないかって不安だったの、わたしが重荷なんじゃないかって怖かったの、泣いて、縋って、なんて、そんな、……そんなおんな阿呆じゃあないのか。

いいこ、いいこ、と、シーザーの頭をやさしく撫でる。
彼の髪は明るい金色で太陽の光も跳ね返すようなはっきりとした色合いをしているけど、実は手触りは存外やわらかいということをわたしはお付き合いをするようになって初めて知った。

ああ、シーザー、太陽のよく似合う大輪の花のようなあなた。
こんなに魅力的な彼だもの、わたしなんて切り捨てたら必ずすぐに素敵な女性と一緒になれるだろうに。
わたしはなんておぞましいのだろう、誇り高く責任感も強い彼はきっとこんなわたしを捨てることが出来ない。
それを分かっていてわたしは健気な彼女ヅラを厚かましくも続けるのだ。
あーあほんとに馬鹿らしい、わたしみたいな無価値なクズ、はやく死ねばいいのに。
彼はわたしを抱き締めたまま、小さく震えていた。
微かに嗚咽も聞こえるから、もしかしたら泣いているのかもしれなかった。
金色の髪がやわらかく頬に触れてくすぐったかった。

ぼんやりと周囲を見渡す。
ひまわりは暑さで既に色艶を失って萎びはじめる。
ぴんと張っていたはずの花弁はくたりと力なく床に形を沿わせていた。
あーあ、ひまわりもまた新しいのを買いに行かなくっちゃなァ。

向日葵と無価値
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