「かわいそうなひと」

うっすら微笑した女は、雨が上がり数刻経ったあと日陰に残っていた汚い水溜りと泥のような、不愉快な表情を浮かべていた。
まるでおれがただの人間だったときのように熱い血潮が毛細血管の隅々にまで流れ暴れているかのような高揚を覚え、いつの間にか自分の瞳孔が興奮で開いていることに気付く。
言い知れぬ不快感に包まれ、イライラして苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
女は薄い笑みをその茫洋とした顔面に貼り付けたまま、穏やかに一字一句間違えないよう丁寧に発音した。

「かわいそうな、ひと」

まだ正確な発音が出来ない幼な子へ言い聞かせるように、馬鹿に丁寧に発声するたび覗く舌が、いやに赤い。
血の色。
瞬間、ひっそりと見え隠れするその舌を、ずたずたに噛み裂いて熱い血を飲み干す妄想に取り憑かれる。
どんな味をしているのだろうか。
香りは、温度は、どんな口触りをしているのだろうか。
まるで長い間なにも口にしていなかったかのような、耐え難い渇きと飢えを感じた。
それは頭を掻き毟りたいほどの強迫的な衝動で、一秒ごとに、まばたきをするごとに、呼吸するごとに、増していく。
恐怖に近い衝動、別段こんな女など捨て置けば良いと頭では理解している、分かっている、だというのに、どうして。
やめろ、やめてくれ、そんな目でおれを見るんじゃあない、

「――DIO、ディオ、わたしがあなたのラプラスの悪魔になってあげる。そのための能力も知性もあなたのために手に入れたの、わたしね、あなたの未来が全て分かるの、素敵でしょう? わたしを使って、あなたはこれからの未来は過去のことのように簡単に把握できるわ、きっとあなたを死なさずに――ふ、ふ、ふふふ、もう人間としてのあなたは死んでいるんだったわね、吸血鬼としてのディオ、おめでとう、――ああ、あああ、かわいそうな、ひと! あなたは、あなたは、きっと、死んでしまうわ! 百年後、海の底の眠りから目覚めたあのひとに会うためには、やっぱりあなたはこうするしかないのよね?」

頭蓋骨の下の脳髄へ指を突っ込んでぐちゃぐちゃと掻き回すような声で女が笑う。
その場で爪先立ちをして二回三回くるくると回った女は、膝を剥き出しにしたはしたなく丈の短いスカートを翻し、再度声高に「かわいそうなひと!」と叫んだ。
ああ、うるさい、うるさい。
その女の血液を口にしたい、味わいたい、触れたい、セックスしたい、殺したいという欲求は、もはや呪詛のようにおれの脳内でぐるぐると暴れまわっていた。
それらは言わずもがな嗜虐的な行為への欲求に違いなかったが、しかし、懸命に堪え、女の吐く言葉を従順に拝している現状は、自己を必死に抑制している点においてどう考えても被虐的な喜びを覚えていることに他ならなかった。
ああ、と絶望的な溜め息が口から漏れた。
夢を見ているような瞳を感激と興奮で潤ませながら、女がやわらかそうな胸を大きく上下させて声を上げる。

「さあ、ディオ! キスをしてちょうだい! 誓いのキスを! あなたのためにわたしは生きているの!」

喜劇の終わり、ハッピーエンド、カーテンコールでスポットライトを一身に浴びる主演女優のように感極まった顔。
なぜ、頭のおかしいとしか思えないこの女をおれは殺さずにいるのか。
なぜ、驕慢に差し出された白い手を取り、跪いてうやうやしく手の甲へ唇を寄せているのか。
なぜ、これだけ至近距離であれば容易に殺し、瑞々しい肉体が醜くぼろぼろに干乾びるまで血液を飲み下すことが出来るというのに、それをしないのか。
なぜ、おれは。

「ふふ、DIO、あなたのためならなんだって出来るわ、何度だって繰り返してみせる。あのときあなたが承太郎たちに殺されて、わたし独りになってようやくスタンドが発現して……まさかその能力が過去に飛べるだなんて、ねえ? ファンタジーやメルヘンじゃあるまいし、どう考えてもあなたのための力だって考えるのも道理だと、ね、あなたも信じてくれるでしょう? 大丈夫、あなたとの未来を手にするまでわたしは絶対に諦めないわ……。愛しいDIO、いまのあなたは随分と可愛らしいのね、どうする? ここがウインドナイツ・ロットってことは、ジョースター卿はもう亡くなっているのよね? そのうちジョナサンがやってくるってことね、愚かな仲間たちを連れて!」

頭の緩い馬鹿女のように必要以上に情報をべらべらと並べ立てながら、ぬめる血のように笑ってそいつはおれの前に跪く。
手と手を取り合い、女はうっとりとおれを見つめた。
女の黒い目のなかに、自分が映る。
おれは伝染したかのように同じ笑みを浮かべていた。
暗く熱に浮かされたような。

「ディオ、ディオ、ああ、愛しいDIO、大丈夫、わたしがきっとあなたをあなたに"してみせる"わ」

――気持ちが悪い。
唐突に気付く。
こいつはおれを見ていない。
おれを通して誰かを見ている。
あまりの惨めさでとっさに細い首を握り潰してやろうと手が痙攣した。
そんな屈辱的な扱いに甘んじるおれじゃあなかったが、しかしそれでも、この女がおれの眼前でこうして微笑んでいることそのものが何よりも優先されるべき事柄に思われた。
そのためなら空で鬱陶しいほどに輝く太陽をこの身で浴びることすら厭わないほどに熱狂的な。
この女だけ、この女だけにしかこんな欲求や衝動を抱くことはない、そうだ、この女が悪いんだ、そう思うと自尊心や虚栄心といったおれを構成している様々な感情や自我をなんとか保つことが出来たおれは次の瞬間、女の目がそんなおれの一心不乱ともいえる抵抗を全て理解していると言わんばかりの母親のような唾棄すべき優しく慈しむような愛情とやらに底深く染まっていることに気が付いた。

ちくしょう、悪魔め。
憎悪と恐怖とで叫び出したくなるのを必死に堪えながら、不条理な裁判によって処刑されることを義務付けられた殉教者のように、おれは静かに女の唇にキスをした。


(2015.08.12)
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