大仰な重々しい音を立て、扉が閉まる。
報告に訪れていた部下たちが退出し、ジョルノは薄く息を吐いて椅子へと体を沈み込ませた。

「疲れた?」
「いえ、この後は特に来客もなかったですよね」
「うん、この報告書で終わり」

彼の傍らでなまえはほんの数枚の書類をひらりとかざし、お疲れさま、と笑った。
先程まで部下たちの手前、形式ばった敬語と一定の距離を保っていたが、いまはリラックスした笑みを浮かべている。
堅苦しい態度してて疲れちゃったと苦笑しながら、ぐ、と伸びをした。

「部下や他所の組織の前で、ボスに馴れ馴れしい口調で話すわけにもいかないしね」
「僕は好きですよ、秘書らしくて」

深く椅子に腰掛け、背もたれに上体を預けて、穏やかにジョルノは笑った。
彼女よりも幾分か年若いくせに、その尊大な態度と笑みが随分とサマになるのは、やはり彼の背負った重責や過去から生じ漂う空気のせいだろうか。
なまえは眩しげに目を細めると、ゆるく口の端を持ち上げた。

「……こちらの方がお好みでしたら、ボスのお望みの通りにいたしますが?」

わざとらしく片手を頬に沿え、困ったような微笑を浮かべたなまえは、その仕草とは裏腹に、いたずらっぽく瞳をまたたかせた。
かっちりとしたスーツを着こなした、いかにも仕事を中心に生きていますと言わんばかりの姿をした彼女がそんな表情をするのは、煽情的ですらあった。
誘われるまま、体のラインがはっきりと分かるスーツの腰をジョルノが引き寄せようとしたところで、なまえはさっとその手から逃れる。

「お仕事はまだ終わっていませんよ、ボス」

彼の手をひらりとかわし、ごく自然な動作で持っていた書類をデスクに置く。
彼女の役割は、無駄を嫌う上司のため、部下たちから上がってくる報告を逐一精査して、彼の目に触れるのに最適な状態に取り纏めることだった。
その後不要となったそれら報告の削除までをも請け負うなまえは、恐ろしく内部の機密情報に精通している。
これで終わりだから、と、肩をすくめて微笑むなまえは置いた書類を指し示す。
すげなく逃げられたジョルノは、伸ばした手を仕方なく味気ない白い紙へと落とした。

「……恋人を秘書にするのは良くありませんね」
「あら、秘書を恋人にするのが良くないの誤りでは?」

うっすら微笑したまま、彼女は事務的な声音で続けた。

「先日お伝えした例の組織との会合ですが、当初の予定通り来週末の夜に行うことになりました。このことは極秘のため、文字に残さぬよう関係書類は全て破棄します。確認のため、会合の三日前、前日、当日にわたしの口頭にてお伝えいたします。よろしいですか?」

すらすらと澱みなく述べたなまえは、理知的な瞳で判断を仰いだ。
それと同時に、彼女の背後に淡水魚のピラニアに似た、魚のようなものが浮かぶ。
まるで透明骨格標本のように骨々が透けて見え、空中でゆらりと泳ぐさまは美しい。
小さな目は退化しているようだった。
なまえが「シルバーフィッシュ」と呼んでいるそのスタンドは、不要となった情報を食い尽くして削除する能力を持っていた。

ジョルノは、ゆらゆらと尾ひれを揺らすその軌跡を目でなぞった。
彼女のスタンドが食す対象は、書類や記録媒体といったただの物質的なものではなく、ある事柄に関しての記述、記されていた文字などである。
その力が及ぶ範囲は、書類に記載された文字に留まらず、電子媒体に書き込まれた数列、文字列にまで及ぶ。
ゆえに、情報管理において比類ない強みを持っていた。
加えて、食された文字たちは二度と元に戻すことは出来ない。
つまり、もし仮に書類を盗み出されてしまうことがあったとしても、なまえがその中身を把握していれば、記載されている情報を「シルバーフィッシュ」が食うことが出来た。
射程距離が広大すぎるがゆえに制限は殆どなく、賊が苦心して盗み出した書類は、逃走中にただの白紙の紙切れとなる訳だ。

透明骨格標本の魚が、ゆるりと空気を滑る。
しかし彼女が組織にとって脅威となる最たる理由は、そのスタンドの能力に因るものではなかった。
透明の魚から目を離し、なまえが置いた書類をジョルノは手に取った。
過不足なく、彼の読みやすいように、それでいて主観を完璧に排除し、正確な事実のみを纏められた報告書は、いつも通りとても把握しやすい。

「――ええ、それで結構です。先週お願いした、前組織の残党の処理はどうなりました」
「全て滞りなく。関係情報は削除済みです。報告書をお聞きになりますか?」
「いえ、不要です」

彼女がすらすらと諳んじるのを、報告書を読み終えたジョルノは満足そうに笑んでねぎらった。
なまえが、彼にとって、組織にとって、恐ろしい存在となりえる理由。
それは把握した情報を一言一句完全に記憶して保持できるためだった。
スタンド能力とは関係なく、ただなまえ自身が持つ性質。
その完璧な記憶力のため、シルバーフィッシュに食い尽くされた情報は二度と復元できなくなってしまうのか、それとも、二度と復元できなくなるがゆえに完璧な記憶力を身に着けるに至ったのか。
ジョルノはその経緯をたずねたことはなかったが、数多いる構成員全ての能力や過去、金の流れや他組織との繋がりまでをも熟知したなまえが、もし万が一彼を裏切ることになれば、甚大な実害をこうむることになるだろうことは言うまでもなかった。

「いま受けたこの報告書ももう不要です。重要度もそこそこ高いですし、一応削除しておいてください」
「かしこまりました」

ぺらりと手から落とされた書類上の文字たちは、次の瞬間、透明骨格標本の魚の口のなかへと消える。
ただの白紙となった紙切れが、デスクに散逸した。
透明の魚は食べ残しを探すように、まっさらな紙の上を泳いでいる。

伝えるべきことは伝えた、渡すべき書類は渡され、役目を終えて既に消去された。
現時点ですべき職務から解放されたなまえは、それまでのある種冷たさすら感じられる理性的な瞳を捨て、柔らかく微笑んだ。

「ふう……ジョルノはやっぱり秘書っぽい方が好き? あんまり続けると、わたしはなんだか肩がこって疲れちゃう気がする」

苦笑しながら小首を傾げたそのさまは、表情や口調の柔らかさと相まって一気に親しみやすさが増した。
その変わりよう、切り替えはさすがとしか言いようがなく、ジョルノは笑みを浮かべながら、今度こそなまえを抱き寄せた。

「――つまらない月並みな言葉ですが」
「っあ、」

品良く淑やかに太腿を隠したスカートの裾から、男性にしては繊細な指先が忍び込む。
薄いストッキング越しに内腿を弱くなぞられ、なまえは思わず小さく声をこぼした。

「どちらも、あなたなら……それだけで愛おしいですよ」
「ジョルノ、」

椅子に腰掛けているせいで、いつもよりずっと下にある彼の美しい顔を見下ろす。
彼の指に強引さは欠片もなく、ただ脚のラインをなぞるだけのその触れ方は、緩やかに追い詰められていくかのような気分だった。
なまえは艶やかに光る唇を噛み締め、その手を払い落とそうとした。
しかしまるで彼はその行動を知っていたかのように、その手を掬い取る。
指と指とを交互に絡め、次いでなまえはぐっと引き寄せられた。
必然的に椅子に座った彼の上へ、覆いかぶさるような体勢になってしまう。
なまえは慌てて上体を起こそうとしたものの、背や腰を捕まれてしまってはどうしようもない。

「……離して」
「やれやれ、可愛い恋人のお願いは聞いてあげたいところですが、そればかりは難しいですね」

腰と後頭部にまわした腕をただ引き寄せるだけで、彼女の顔はぐっと近付けられる。
ジョルノは口の端に浮かべた笑みを嬉しそうに深めると、腰を支えていた手をゆっくりと脚へとすべらせた。
先程よりもはっきりと明確に意思を持って、しかしやはり強引さは全くなく。

「んっ、ジョルノ、だめ、」
「仕事は終わりました」
「でも、」

なまえは乱れつつある鼓動と呼吸を叱咤する。
ここは執務室で、誰が入ってくるから分からない。
組織の者といえどここへ軽々しく入室することは出来ないが、それでも緊急の用事だったり、簡単に入ってくることが出来る者――例えばミスタだったりフーゴだったりが、やってこないとも限らない。
お構いなしで首筋に顔をうずめてきた彼の胸を、手を伸ばして押し遠ざける。

「ちょっと、だめだよ、こんなところで、」
「ああそういえば、ストッキング破っても良いですか? 背徳的で良いですよね。一度やってみたくて」
「ねえ人の話聞いてる?」

聞いてますから大人しくしてくださいと、スカートのなかへ忍び込んだジョルノの手が、彼女の着用する薄手のそれに穴を開けようと爪を立てた。
そうはさせるかとなまえが更に強く腕を突っぱねようとしたところ、デスク上に散らばったままだった紙に体が触れた。
ほんの数分前まで報告書だった白い紙束は、ぺらりぺらりと床へ落ちた。
なまえがそれに気取られていると、否応がなしに抱き寄せられる。
重ねられた彼の唇は、燃えるような熱を孕んでいた。

縺れ合う彼らの足元。
床に散ったそれらを追いかけるように、透明の魚が白紙の波と戯れるように泳いでいた。

アルシアンブルーの夢

(2015.06.06)
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