そうだね、死は美しいと思うよ。
これを真としよう、けれど、逆、つまり美しさは死であると言えるかい?

ある詩人は「ものの美醜ということほど、考えてみればわけのわからないものもない。あるものを美しい、あるものを醜いと判断することは、日常だれでもやっていることだが、ではなぜ、たとえばバラの花は美しくて、腐った藁は醜いか、その理由をいってみろ、といわれたら、だれしも考えこまざるを得ないだろう。また、バラの花を美しいと思う人でも、それがたとえばメタン・ガスのぶつぶつ発生している濁りきった川に投げ捨てられているのを見た場合、なお美しいと思うかどうか、疑わしいし、一方、畳の上に腐った藁がなげすてられているのを見て眉をしかめる人も、掘り起こされた柔らかい黒土の上に堆肥として置かれたそれを見て、なお醜いと思うかどうか、これも疑問である。」と述べていたよ。
まあとにかくわたしは、美というものは時代や個々の価値観、その状況によって流動的に変化していくひどく曖昧なものだと言いたいんだ。
ここまでは美しい君も同意してくれるだろう?

さてそれに対して死とは全ての終わりであり、不変的なものだ。誰もそれから逃げることは出来ない。
美しさと対比して絶対的なものだと言っても良いだろう。
しかし昔から人間は、その運命から逃げるために、古今東西多大な努力をしてきた。
最も古いとされる説話は紀元前二千年頃までには成立していたとされるメソポタミア神話の『ギルガメシュ叙事詩』かな。
主人公であるギルガメシュは、親友の死をきっかけに自らの死を恐れ、不死の方法を探す冒険に出る。
わたしの故郷の日本では『古事記』において、イクメイリビコという天皇が不死になれるという木の実を求めるが、遣わした者が帰ってくる前に彼は亡くなってしまうという話がある。
多くの伝承や神話が残されているが、多くの場合、その死から逃避しえたという人物は殆どいないといっても良いだろう……うん? いや、ふふ、皮肉などではないよ。
退屈な問わず語りだけれど、暇潰しだと思って最後まで聞いてくれないかい。

話を戻そうか、ええと、そうだ。
このように誰もが忌避する死に近付く者に対して、なぜ人は憧れという感情を抱くのだろう?
古来、死んだ娘を美しいだとか、死にそうな者に対して哀惜を覚えて愛しいだとか文学においてもよく目にするだろう?
この「死を忌避しない、むしろ死に憧れる」というフロイトの「死の衝動」説的感覚、感性について君はどう思うか是非とも聞いてみたいね。
死を賛美するという風潮は、日本においてより西洋で発達してきたように思われるから。

フロイトの「死の衝動」説だが、現在はあまり承認されていないみたいだよ。
フロイトは二つのものを対立させる二元論を使用したが、本能論において、「生の本能」と対立させて、この「死の衝動」を提唱した。
「死の衝動」の理論的根拠は、生物の持つ全ての本能の目指すところは、緊張を解消し、過去の安定状態を再現することであり、生物は無生物から生じ、かつては無生物であったのだから、全ての生物には、かつての無生物の状態、すなわち死へと向かう基本的傾向があるというものだ。
だから人は死に憧れるのだろうか……。

ああ、それとこれは余談なのだけれど、わたしはね、DIO、「死と美しさ」というものについて考えるとき、二つの絵画を思い浮かべるんだ。
ハンス・バルドゥングの『死と乙女』とアントワーヌ・ヴィールツの『麗しのロジーヌ』を知っているかい?
ふふ、さすが。
今度、君の蔵書から美術関連の本もお借りして読んでみたいな。

ご存知のように十五世紀末から十六世紀初めはルネサンス後期にあたり、死というもの対して、新しい試みが加えられるようになっていく時代だよ。
一見、死と性愛とは矛盾するものだろうけれど、女性の若々しく瑞々しい肉体が、性愛、肉の愛を象徴するようになると、そのはっきりとした対比として、死――死神や、枯れた植物、老い先短い醜い老婆など多岐に渡るが、まあ要は死を連想させるモチーフたちだね、それらを敢えて並べられるようになった。
うら若い乙女と死が同時に存在することにより、日本の思想にも共通して現れる「現世の快楽の虚しさ」、「栄えるものもいずれ衰えいく」というイメージを与える効果を生んだ。
このモチーフが好まれるようになると、美術史の流れは、更にそこに処女性というものを付加していく。
処女は広い文化圏で、他の人間とは異なる存在として扱われてきた。
巫女――ああ、日本において斎宮と呼ばれるんだが、彼女らは神に奉仕する神性に位置するものであり、不可侵の存在だ。
その乙女を脅かすものとして、死がその役割を果たした。

先に述べた『死と乙女』は、豊満な肉体を持つ乙女が後ろから骸骨、死神に抱えられ、一筋の涙を流すという構図だ。
そこには死に蹂躙され、乙女がそれに抗えず朽ち果てるのだという「メメント・モリ」思想が色濃く表されている。

「メメント・モリ」の系譜は、古代ローマの凱旋パレードに始まるとされているね。
パレードの主役である将軍の後ろに使用人が立ち、将軍は今絶頂にあるが、明日はどうなっているのか分からないと、「メメント・モリ」と言うことによって思い起こさせる役目を負っていたんだ。
まあなんというか、わたしなんかはどうも後ろ暗い風習だと思っているけれど。
しかし古代においては死を思って今を戒めるという意味合いではなく、「carpe diem」、つまり、「今を楽しめ」という、快楽主義に近いものとして捕えられていたのを君は知っているかい?

旧約聖書や新約聖書にもこれと類似した文章が存在する。
「飲みかつ食べよう、明日には死ぬのだから」、ええと、確か旧約聖書「イザヤ書」二二章一三節、新約聖書「コリント人への第一の手紙」一五章三二節だったかな、違っていたらすまない。
ああ、ただしこの文章は道徳的警句の意味合いが強いことは注意しておいてくれたまえよ。
元来の意味が大きく変化したのは、君たちが信奉するキリスト教が生活や規律の基準となり、西洋社会を大きく支配するようになってからだ。
天国や地獄、救済といったことが重要視されるようになると、「メメント・モリ」はそれまでの「carpe diem」、今を楽しめ、詩人ホラティウスの「Carpe diem quam minimum credula postero」、「明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め」、つまり「いつか死ぬ、だからこそ今を謳歌しよう」という意味合いから、「いかにして死ぬか、どうすれば天国に至ることが出来るか」という思想へと変化する。

ふふ、なぜわたしがこの話を始めたか分かったみたいだね。
そう殺気を向けないでくれたまえ、わたしはただのおしゃべり好きなか弱い少女だよ、スタンドを収めて、もう少しだけ付き合ってくれないか。

天国と地獄の観念からそれ以降、「メメント・モリ」は道徳的な意味合いを含むようになる。
それに対して、『麗しのロジーヌ』は、『死と乙女』とは全く対岸に位置する作品だろう。
死や骸骨を前にしてゆったりと余裕すら感じさせる乙女が、画面の三分の二を占める、なんとも淫猥で、それでいて青々とした清廉さをも感じさせるエロティックな絵画。
勿論、この若々しく溌剌としたこの乙女も、いずれは左のような骨だけの物体になり果てるのだという「メメント・モリ」の思想、モチーフは踏襲しているけれど、それでもなお、死になど屈しない、わたしは今若く美しいのだというある種挑戦のようなものも感じられるものだと考えられないかい?

この絵画において、処女、つまり力を持つ美しさは、死をも超越する存在であるという、一種の美の極致を描いているのだとわたしは思っている。
それは処女に限らない。

美しさは死をも超越する。

唯美主義のような思想の求める「絶対美」というものは存在しない、否、少なくとも手にすることは難しい。
しかし、「美」というはっきりと掴むことの出来ぬあやふやな概念は、「死」という人間の持つ根元的な恐怖、忌避しながらも不可避の定め、全ての終わりであるそれすらをも超越するのだという人間の願望、希望をも、共に内包しうるのではないかとわたしは考える。

……そう、君のことだよ。
君は美しい。
つまり君は死ぬことが出来ない――いや、死ぬ、というか消滅することは出来るけれど、人間をやめた君にとって死ぬという行為は非常に遠いものだろう?
わたしはそんな君の「死」が見てみたい。




「望みとはそれだけか?」
「そうだよ」
「お前のその望みとやらのために、私は冗長でつまらぬ与太話に付き合わされたということか」
「ふふ、DIO、そう言わないでくれないかい、悠久を生きる君にとってのただの些細な暇潰しだと思っていただきたいな。少しは退屈しのぎにはなっただろう?」
「ふむ、しかしなまえよ、問題が一つある。私は死なん」

日本人特有の艶やかな黒髪を指でもてあそびながら、なまえは深々と溜め息をついた。
あの目は物憂げに沈むが、愛らしい口元は己を卑下するかのように嘲笑する形に歪んでいる。

「そう、そうなんだよ! どれほど求めても美しさは死を内包することは出来ても天国というユートピア、至ることの出来ない場所には到達しえない、ああDIO、君はどうして、どうして!」

子供が駄々をこねるように不快気にとん、とん、と足を踏み鳴らす。
今まで饒舌に動き続けた唇が、そこでぴたりと言葉を発することをやめた。
ぐったりとソファに身を預け、諦観したように絶望の色を顔に滲ませながら、なまえはまた「どうして」と呟く。

「どうして君は死んでくれないんだい」
「なまえは私を殺したいのか?」
「ふざけたことをぬかさないでくれ、君らしくない。殺すだとか死ぬだとか生きるだとか、そういった動物としての”行為”に興味はないなんて、分かりきっているだろう? わたしはただ美しい君の美しい死を見たいだけだ」
「ふむ。ここ数年で最も難しい問題だな」
「わたしも生まれて初めてこれほど悩んだし、たった数十年の命だけれどね、この世に生まれてからこれまでの欲求が、本当に存在していたのか疑問に思うほどに死というものを心底欲しているよ」

ふうと、愛らしい顔を痛ましげに歪めて悲しげに溜め息を吐き、なまえは体に見合わぬ大きなソファから降りた。
闇のように深い黒髪から僅かに覗くその表情はぞっとするほど凄艶なもので、人間をやめた彼にも死を連想させるほどに余りあるほど美しい。
細い手が暗闇に浮かび上がるように伸ばされる。
その手を取って、歌うように囀る唇を自分のそれで塞ぎ、呪いのように囁いた。

「このDIOはそんなくだらぬ問いなどに興味はない。強いて言うならばお前の死は見てみたいがな」
「わたしが君の死を見ることが出来たあとなら、何も要らないさ、喜んで君の望む通りに死を捧げるよ」
「楽しみだな」
「そうだね」

memento mori,
carpe diem


(2014.09.16)
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