(※四部の少し前くらいのイメージ)




ひとつだけ確かだったのは、それは愛の言葉であって拒絶の言葉ではなかったということ。
わたしの気持ちはその事実のみでなんとか構成されていたといっても過言ではなかった。
彼とわたしの全ての愚行なんて、ただの愛の歌、ああ、それだけのことだった。
なんて幸福。

・・・


「じゃあな、なまえ」

なぜ、なぜ、どうして、目の前の彼は、いつものように、わたしだけに向ける優しくやわらかな表情で目をほそめているのに、

「やれやれ、聞こえなかったのか? おれはもうなまえなんざ要らねぇから、さっさと消えろって言ってんだよ」

共に歩んだあの約五十日の旅の間、わたしたちをその光で導いてくれた、まっすぐな意志の瞳、
やさしく囁く わたしを あいしてると、祝福された、その、教会のステンドグラスにかこまれたマリアさまみたいに、澄んだきれいな瞳が、

「っ、じょうたろう……? ちょっと待って、なにを、」

きっと わたしはきれいなかれに相反している、とおもった。
あの旅でも感じていた劣等感がまたもぶり返してきていた。
傷を癒すことしかできない足手まといのわたしと、ひたすら強く正しい彼。
かれは、うつくしすぎたのだ!
どうしてかみさまはわたしと彼をこんなに違うものに作ってしまったの?

どうして、どうして、と考えるけれど、あの旅のおわり、DIOを倒してから、少しずつ かれは偏執に傾くようになっていったのは覚えている。
アヴドゥルさん、イギー、花京院くんをなんとかわたしのスタンドで助けて、その代わり死にかけた、血だらけのわたしを目にしてから、彼は、わたしが少しでも視界から消えると、ひどく取り乱した。
それはすこしずつ、すこしずつ、砂時計の砂が落ちて溜まるように、時を経るごとに増していって。

「ま、待って、要らないって、どういう、」
「言葉の通りだ。目障りだ、このまま殺されてぇのか?」

そのことばを肯定するように彼の背後に現れたスタープラチナは、涙がこぼれるほどきれいだ。
ああ、彼は美しすぎた! 恐ろしいことに、かれは わたしを あいしていると囁いてしまったのだ!

こわい、とおもった。
べつに、承太郎が こわいんじゃない。
そんなことをおもうはずもない。
ただ、彼がささやいた言葉がわたしを、切り裂いた。
目の前がくらく、くらく、 まっくろに なって、なにもかもが きこえなく なって、なにもかもが みえなく なって、
承太郎のやさしい声がきこえなくなって、承太郎のきれいな顔がみえなくなって、なにもかもが ああ、
(最後に見えたのは、わたしの髪を優しく梳いた、見慣れた彼の整った指だった。)
(それが幻だったなんて、誰が言い切れる?)


・・・


「なまえさん、ほら、綺麗な花を頂きましたよ。ここに飾っておきますね」

私はなまえさんの専任の看護師だ。
容体のチェックや見守りは勿論のこと、彼女の身の回りの世話全般を任されている。

今日の天気や頂いた花のことを一方的に話しながら、茎切りを施して花瓶に活けていく。
ぱちん、と小気味いいハサミの音が病室に響いた。

――あれは今から、だいたい一年ほど前のことだったか。
見知らぬ男性がこの病院に彼女を預けたのは。
彼はとてもきれいな顔、日の光すら交わらせない黒糸の髪をしていて、名残惜しいという叫びが聞こえてきそうなほど優しげに大切そうになまえさんを見ていた。
すぐに立ち去ってしまったけれど、自身の名前も名乗らなかったあの男性はなまえさんを心の底から愛しているのだろうなと直感した。

はじめは素性も知れない女性を、とも思ったが、それがこのSPW財団に深く関わりのあるジョースター家の縁者と分かったときにはとても驚いた。
全てを投げ打って駆けつけたのだろう、なまえさんの養父に当たるジョセフ・ジョースターはひどく慌てていた。
わたしは一介のただの看護師だから、ジョースター家の方々の顔も知らなかったけれど、彼女と仲の良いらしい友人たちやジョースター家ゆかりの方々も心配してお見舞いに来てくださった。

……でも。
なまえさんは、目覚めなかった。
皆とても心配していた。
彼女は特別美人というわけではなかったけれど、なぜか彼女はひとを惹き付けてやまない魅力を持っていて、愛くるしい顔立ちをしているから。
そして濡烏の髪の男の人がなまえさんをこの病院に預け、数週間ほど経過したあの日。
ようやく彼女は目覚めた。
きれいなガラス玉のような、その可愛らしい瞳をぼんやりと私に向けて。

「……っ、」

なにか言おうとしたけれど彼女のその小さな唇から漏れたのは、意味を持たない吐息だけで。
本来は真っ直ぐに光っていただろう瞳も、濁ってどんよりと生気がなかった。
表情は、ただ、無。
悲しくなるくらい、ただ、なにも無かった。

それでも私たちは彼女が目を覚ましたことを喜び、甲斐々々しく世話をした。
それによって得られるものなんてないと分かっていたけれど、彼女がただ、愛しくて。

「なまえさん、ほら、こんなに真っ赤なガーベラ。きれいですね、なまえさんにって、花京院さんが持って来てくださったんですよ」

ガーベラを活けた花瓶を、なまえさんの眼前に寄せる。
虚空を見やり、ただそこに「あった」だけの彼女がぼんやりとこちらを見た。
こうやって僅かだけれど反応を返してくれるようになって随分と経つ。
はじめの頃は何も見ず、何も聞かず、そして、何にも反応しなかった。

それはまるで良くできた等身大の人形のようで、彼女が生きているのか死んでいるのか、医療に携わる自分でも分からなくなる時がしばしばあった。
なまえさんは死者のような瞳でそのガーベラに一瞥をくれると、また視線をどこかにやった。
それはなにかを探しているといったたぐいのものではない。
はじめはあの男性を探しているのかな、と思ったものだが、それは違うのだと理解させられた。

……彼女は、心を頑なに、閉ざしている。
その可愛らしい瞳は何も映したくないようだし、その小さな唇は何も語りたくはないようだし、その頬が嬉しさや悲しみといった感情に緩んだり歪んだりすることもない。
まるで放置された人形のようで。
反応やその風貌からいってあながち、人形、というのも間違っていないかもしれない。
それほどまでに、彼女は生きていて、死んでいた。
まるで生きるという行為を忘れた、ただの抜け殻みたい。
彼女は一日のほぼ全てを、虚無に捧げているようなものだと思う。

私は花瓶を枕元のサイドテーブルに置くと、静かに部屋を出た。

・・・


ぐるぐる、ぐるぐる、まわる、まわる、きもちわるく、
彼のなめらかな白い肌、りりしい眉、秀でた額、ほうせきのように輝く翡翠のひとみ、はだに影をおとす長い睫毛、通った鼻筋、わたしに愛をささやくくちびるはどこ?
わたしを簡単に抱き寄せる逞しい腕、体温、におい、ああ、たすけて、あなたはどこ?
なにかが頭のなかで、ああ、いたい、きもちわるい、
こわい、こわい、なにか、
誰かたすけて、じょうたろう、承太郎、じょうたろう、じょうたろう。

・・・


「――久しぶりだな、なまえ」

窓からなかへ入ると、久しぶりに見た愛しい彼女がベッドに居た。
元から白かった体はますます白くなっていて、今にも崩れ落ちそうなほどに細い。

「ああ、困ったな……おれの声が聞こえないのか?」

笑いながら、彼女に近付く。
コツコツと音を立てておれの靴が楽しそうに笑っている。
ああ、この日まで待っていたんだ、愛しいなまえが、目の前に!

なまえ、なまえ、なまえ、なまえ、なまえ、ああ、会いたかった、どれほど焦がれたことか。
お前のことが愛しくて仕方がないんだ、どうすれば良いんだろうか。

その真っ白なシーツを簡単に床に投げ捨てる。
ふと、視界に入った真っ赤なガーベラが目に痛く血のように見え、不快になった。
顔を歪めているとやっと気付いたのか、なまえはぼんやりとおれを見た。

「――っ……!」

ああ、声が出ないのか?
それはそれは良かった。
なんて素晴らしいことだろうか、なまえ。
これでもか、と目を見開いておれを見つめる美しいなまえ。
ああ、なんていとおしいんだろうか。

「なまえ、迎えに来た。一緒に来い」

がたがた、がたがた、と。
そんなに震えてどうした?
おれは優しく彼女のベッドに座り、以前のように髪を梳いてやることにした。
なんて愛らしい存在なんだろうか。
おれを見ただけで死にそうなほどに顔を歪めて。
ああ、お前が愛しい!

「……少し、昔話をしてやろうか」

彼女がおれの言葉を一言一句聞き逃すことのないように、以前のように抱きしめてその耳に囁く。
なまえがこうしておれの話を聞くことが好きだったように、おれもまたこうして彼女をこの腕のなかに閉じ込めて会話することが好きだった。

はじめはいつだったか、母を救うためエジプトへの旅路を行くとき、砂漠の夜を越える火の番だっただろうか。
彼女の柔らかな体、赤く色付いた耳、ゆるやかに小さく笑う声、重ねた細い指、共に見上げた星々。
あれからなにも変わってやしない。
旅を終え、身寄りのなかったなまえをジジイが養子にしたおかげで、彼女は常におれの傍にあった。

「おれはこの日を待っていたんだ、なまえ。お前が、その心を壊して、何にも反応しなくなって、何にもその可愛らしい声を聞かせなくなる日を。実際、なまえは口を利けないみたいだしな。おれとしてはそれは幸せなことなんだ、分かるか? 愛しいなまえの可愛らしいその声をさいごに聞いたのは、他ならぬおれだろう。愛しいお前を独占してしまいたくて、こんなことをした」

そう言って彼女の記憶のなかの通りに微笑むと、なまえは花がほころぶようににっこりと微笑んだ。

ああ、ああ、ああ、愛しいなまえがおれに向かって微笑んでいる!

長い間、笑うという事をしていなかったんだろう、それはとてもぎこちないものだったが、それさえをも彼女を美しく魅せた。
なぜなら、そうやって壊れていた原因は、おれなのだから。
おれを愛していたからこそ、ここまでぐちゃぐちゃになった、そう思うと腹奥から突き上げるような形容しがたい昂揚と吐き気を覚え、焼け爛れそうなほど熱い息を漏らした。

なんてお前は愛らしいんだろう。
おれをこれ以上ないってほど惚れさせているのに、まだおれを捉え足りないのか?

「行くぞ、スタープラチナもお前を恋しがっていた。お前のスタンドはもう使えないんだってな、精神力がどうのこうのってのはジジイから聞いた。大丈夫だ、その代わり、もう傷付かずに済むようおれが必ず守る」

細過ぎて使い物にならなくなった彼女の脚を考慮して、優しく抱き上げた。
……ああ、本当に軽過ぎる。

乱れたベッドを一瞥し、明日の朝この部屋を訪れた看護士たちの狼狽ぶりを想像すると、ひとりでに笑いがこぼれた。
それを不思議そうに首を傾げた愛しいなまえに「何でもねえ」と微笑んで。

さあ、行くか。

・・・


ああ、じょうたろうが、承太郎がわたしをだきあげて前みたいにほほえんで、やさしくて、ああ、ああ、わたし、しんでしまい、そう、しあわせ、すぎて、ああ、ああ、叫びだしたいくらいに!
わたしはいま、やさしい承太郎と暗い部屋ですごしている。
承太郎はとてもやさしくて、いつもわたしを、だきしめる。
わたしはどこへもいかないよ、っていうと泣きそうにわらって、きれいなみどりいろの目を細めてあたまをなでてくれるのが、好き。
こんなにしあわせでいいのかなあ、って、おもうんだ。

わたしの喉はやっぱりうまく働かなくて、声はでてこないけど、じょうたろうはわかってくれるから、ぜんぜんかまわない。
脚も長くつかっていなかったせいか、歩けないままだけれど、やっぱり承太郎がどこに行くにもつれていってくれるから、こまらない。
むしろ、わたしだけのためにこんなにわたしに会うのをがまんしてくれていたなんて、わたしはなんてしあわせなんだろうって思うの。

わたしも、承太郎が、だいすきです。

に溺れた
それは、やさしくて純粋すぎる、すてきな恋のおはなしでした。
お姫さまはとてもとても幸せそうにわらい、王子さまはとてもとても愛しそうにお姫さまを、見ていました。
そして、お姫さまと王子さまは、いつまでも、いつまでも、幸せにくらしたそうです。
めでたし、めでたし。


(2014.07.22)
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