(※IF花吐き病パロ。原作の設定に基本的に準じますが、独自の特殊設定もあります)
(※ゆえちゃんの個人企画に参加しました。ありがとう、ゆえちゃんへ捧げます)




わたしたちは、日々、消費して生きている。

「ふ……っ、う、」

爛れんばかりの熱が喉を駆け上がってきて、なまえは膝を着いた。
慌てて取り出したハンカチで口元を覆うも無駄だった。
込み上がってくる胃液が食道の粘膜を焼き、体をくの字に折った。
嘔吐する際の不快な感覚はそのままに、しかし口腔に満ちたのはすえたような酸っぱい味ではなく爽やかな花の芳香だった。

「花吐き病」はその名の通り、花を吐く病である。
感染経路はひとの吐いた花にふれてしまうことだが、なまえには心当たりはなかった。
発症するまでの潜伏期間は個人差があり、もしかしたら記憶に残っていないほど昔、それこそ幼少期にでも誤ってふれていたのかもしれない。
とりわけ花が好きというより、正しくは醜いものよりうつくしいものを目にした方が心地良いという情動は、なにも彼女に限ったの感覚ではないだろう。
とはいえいくら好んでいたとしても、体内から出てきたものとなると話は別だった。
いかにうつくしかろうと、切り落とした髪や爪のように、唾液に濡れた花々はなんとなく気味悪く感じられた。

わたしたちは、日々、消費して生きている。
衣も、食も、住も、形而の上下、時間も、情報も、思想も、感情も、そして他人をも。
この世に真実まったくおのれのみによって生み出されるものがあるだろうか。

さかしらぶって 約因 コンシダレーションだのイデオロギーだのを引き合いに出すまでもない。
俗っぽい例を挙げてみよう。
部屋が煌々と明るくなったのは電灯のスイッチを操作したからでなく、照明を設置され、電気料金を支払い、その対価として電気を供給されているからだ。
生活基盤や社会資本といったインフラストラクチャー、情報、日々の糧をはじめとする卑近な例は言うに及ばず、形而上のインタラクションや作用機序、たとえば絵画や書物、映画や音楽といった芸術テクネー活動もまた、その範疇から逃れられない。

ニヒリズムに耽溺するのもよろしい。
しかしながら感応する精神、心というものを大なり小なりそなえている以上、人間は有形無形にかかわらず対価を支払って、他者がおのが身を削ってつくり出したものを消費して、楽しみ、悲しみ、笑い、憤り、驚き、恐怖するものだ。
人間の営みは、感ずる心を動かす行為を切っても切り離せない。

他者を消費し、自らを切り売りして消費させ、そうして皆ひとは生きて死ぬ。
それが他者と関わらずには生きられない人間が持つ習性だ。
感情すら、他者の消費を免れない。

そして時間もまたその範囲を超えない。
恋い慕う男の隣にいる間、自分だけではなく、過ごす相手の時間すら共有――互いに消費している自覚を、小鳥はいつも幸福と共に噛み締めていた。
なまえは「わたしを最も消費するのが、旦那さまでありますように」と心の底から願っている。

「っ……きょうはまた、色とりどりね」

なまえはひざまずいたまま、今し方自分が吐き出したばかりの花を見下ろした。
床に散ったそれらはとりとめがなかった。
すっかり見慣れた花弁たちは、しかし都度、白やら黄色やら薄紫色やら、種類も色味もばらばらだった。
柱頭やがくまでしっかり構造を保った一輪もあれば、一枚だけの花びらもある。
多少なりとも花には詳しいはずの彼女ですら見覚えのない、不可思議なものもあった。
罹患者のなかにはごく稀に、自然界に存在しない種類の植物を吐く者もいると伝え聞いたことがあったが、彼女はそれに該当したようだった。

黒社会において、珍しい花のみならず、それを吐く人間もまた高値で売買される。
なにしろ希少であるということはただそれだけで価値を持つ。
稀覯の花、あるいはこの世にふたつとない植物――それらを専門にコレクションする好事家たちは、なにも黒社会という小天地だけに限ったことではなかった。
罹患者の吐いた花をまた別の人間にふれさせさえすれば伝染するのだから、なんとも利の良い商売・・・・・・である。
吐く花に当人の美醜は関係なく、二束三文で買い上げたそこらの俗輩に発症するよう仕向けるのはさながら交配・・だ。
「商品」を生かさず殺さず、ただ「希少な花を生み出す養分」として飼う――消費する・・・・のは、世のためし、事の理である。
その屍たちの上でステップを踏む彼此ひしは、もあらばあれ、望楼の金糸雀カナリアが煩悶することではなかった。

なにしろ未知の花だ、なまえのものも希少価値はあるだろう。
しかしなまえが主人へ進言したことはなかった。
それどころか彼女はおのれが罹患者であることをひた隠しにしていた。
花を吐く以外の症状は特になく、また歴史の古い奇病にもかかわらず、病因、治療法や特効薬は現代に至るまで発見されていないのだから、医者にかかるだけ手間だろう。
なんとなれば、花吐き病の完治は容易である。
周知の事実だった。
いわく罹患したとしても発症するのは、報われぬ恋・・・・・に苦しむ者だけだという。
取りも直さず、恋が成就する――相思相愛になれば完治する病なのだ。

おかしな話だった。
なまえが身を焦がすのは、恋心を捧げるのは、今生、張維新チャンウァイサンただひとりだ。
そしてなまえは張のもので、彼と共に生きていてこの上なく幸福なのだから、たとい花に接触し罹患していたとしてもそもそも発症するはずがない・・・・・・・・・のだ。

あまりの滑稽さに、腹を抱えて笑わずにはいられなかった。
夢見がちな処女でもあるまいし、なにが「報われぬ恋」「相思相愛」だ。
チープな単語の羅列がむず痒いにも程がある。
こんな済度しがたい芥場あくたばにおいて、ある種の蔑みすら含まれる「穢れなき処女」という戯称すらあてつけのように感じられた。
花を嘔吐するなど、あまりの滑稽さ、おのれの愚かさに目眩がする。
吐瀉物が胃の内容物ではなく、花の花弁であること。
漂うのがすえた汚臭ではなく、花の芳香であること。
それらがいくらかマシだとどこか安堵しているなんぞ、浮巣鳥うきすどりには口が裂けても言えない。
実を結ばないうつくしい徒花あだばなたちがいっそ露悪趣味にすら感じられ、なにもかもが滑稽で、なまえはひりひりと痛む喉を押さえつけた。

――それとも、もしかしたら。
いいや、そんなことは決してないはずだ。
なまえはうずくまったままぎゅっとこぶしを握り締めた。
嘔吐感がぶり返し、醜い呻き声と共にまた花が溢れた。

「ぐ、ぅえ……っ」

病を打ち明けられない最たる理由から必死に目を逸らした。
――もし、もしかしたら。
報われていると思っているのは自分だけで、本当は、飼い主はなまえのことを疎ましく思っているのだとしたら?

いいや、違う。
悪心を堪えるように胸元を押さえたまま、なまえは遮二無二しゃにむに首を振った。
垂れた唾液のせいで髪が頬や顎に貼りついたが、頓着する余裕はなかった。
なまえは知っていた。
彼女の飼い主は、張維新チャンウァイサンは、不要な凡俗をわざわざ手元に置くような性質たちの悪さをそなえない。
余所へ放逐するも、その手にかけるも彼の気に召すまま、胸三寸でいかようにもできる身である。
なまえが恋い焦がれる男のそばにいられる現状は、実以じつもって張自身の意思がなければ成り立たないものだった。
逆ならばともかく、自分がいまここにいるのが張維新チャンウァイサンとなまえ、互いに浅からぬ情を持ち併せているというなによりの証左だった。

発症してからずっと、数え切れないほど言い聞かせてきた「大丈夫」という言葉をなまえは呪文のように繰り返した。
大丈夫、わたしはあのひとのもの。
大丈夫、わたしは旦那さまの御手のなかで一等誇り高い小鳥。
大丈夫、この花はわたしの思いが一方的だと――片恋だという証明にはならない。
叶わぬ恋心が花となって吐き出されるのが落花の理由と知っていようと、彼女は復唱した。

慕うひとの喜ぶ理由が自分であれば、どれだけ嬉しいだろう。
慕うひとの悲しむ理由が自分であれば、どれだけ胸を痛め、そして――悲しむ理由たりえるおのれに、愚かにも幸福を覚えてしまうだろう。
恋するひとの表情をすべて見せてほしいと、情動をすべて向けてほしいと、欲してなにが悪いというのか。
相手の感情を消費して、おのれの感情とする。
愛でられるだけの仮象かしょうの花のようにうつくしいものでいられるなら、貪婪どんらんな女はなにを引き換えにしてもかくあれかしと求めたかもしれない。
しかしながら尋常一様、枯れぬ花はなく、ひとの心は移ろうものだ。

口元を汚す体液が不快でハンカチでぬぐった。
嘔吐に伴い生理的に溢れた涙のせいで、アイメイクも崩れてしまっているに違いなく、なまえは呻いた。

「は、……醜い」

ただし声は抑制が利きすぎており、まるで人形が喋っているようだったかもしれない。
おもむろに散る花弁を掻き集めた。
適切な処置を怠れば誰かがふれてしまうリスクがあるため、廃棄にも気を配らねばならない。

肉の身である人間と違い、火を点けるのが最も確実な処分方法だった。
とはいえなにしろ今日は量が多かった。
少量ならライターですぐさま焼却できるものの、これだけの量となると時間がかかろう。
暖炉でもあれば処分が安易であるうえ、さぞ稀有な薫香だろうに――熱帯の半島に望むべくもなかったが。

ひもすがら張のそばにはべるなまえが、未だ病を隠し続けられているのは奇跡といえた。
予期しないタイミングで嘔吐するたび、「これが旦那さまの前じゃなくて良かった」とほっとするようになっている自分に気付き、なまえは唾液で汚れた唇を苦々しく歪めた。
そもそも嘔吐そのものをいとうべきだというのに、飼い主の眼前で醜態をさらさずに済んだ幸運を喜ぶなんぞ愚かにも程がある。
今日は無事だった、しかし次はいつ吐き気をもよおすだろう?
いつまた発作が起こるやもという不安は、一歩たりとも動けず薄氷の上で立ちすくむような心地にさせられた。
極彩色の徒花あだばなが滲む涙によって輪郭を曖昧にした。

花弁を拾うためうずくまっていたが、体勢のせいか、またぞろ嘔吐感が込み上がってきた。
パルファムの異香いきょうを塗り潰す花の香りは、煙草を吸わない聡い嗅覚を麻痺せしめんばかりだった。
こうなったら吐き切ってしまえとなまえはどこか投げやりな気持ちで床に座り込んだ。
――いっそのことビルの最上階から投げ捨ててしてしまおうか。
処理が億劫で不埒な案が脳裏をよぎった。
目もくらきざはしの上から振り撒かれた花たちは、きっと南国の雪とはこういうものなのだと得心するほど絢爛だろう。
蠢々しゅんしゅんたる陋巷ろうこうへ降る色とりどりの「恋心」は、さぞ見物みものに違いない。
無論、しんば誰かがふれようものなら罹患させてしまうとあっては詮無い妄想だったが。

なまえはうすらと自嘲した。
病の伝染をはばかるのは嘘ではない。
決して嘘ではない、が、なにより、燃やして捨てる無駄花といえど、これらはすべて張維新チャンウァイサンを思ってなまえの身の内から溢れたものだった。
花弁のひとひらたりとも他の誰かにくれてやりたくなかった。

そうやってどれくらいの間、座り込んでいただろうか。
控えめにノックの音が響いたとき、なまえはにわかに目が覚めたようにぱちぱちとまばたきした。

「――大姐、いま良いですか。そろそろ大哥がお戻りになるとのことで。迎えに出ますか」
「ありがとう。はやいお帰りね、ふふ、嬉しい」

塔の天辺、金糸雀カナリアの居室を無遠慮に開扉するような、躾のなっていない部下ではない。
なまえは扉越しに「お化粧を直してから行くわ」と声をかけ、手ばやく吐瀉物をゴミ袋にまとめた。
後で部下に焼却処分を依頼することに決め、床に転がっていた靴を履き直した。
纏足じみた白いスティレットヒールは、歩くためのものというより芸術品と称した方が相応だった。

化粧を完璧に整え、能事足れりと、最後に姿見で全身をチェックした。
鏡のなかで女が折り目正しく背筋を伸ばして立っていた。
張維新チャンウァイサンの所有物、「三合会の金糸雀カナリア」、清楚なワンピースを纏う白い手の女――鏡に映る小鳥は黒髪の一房、白磁の肌、あえかな爪先に至るまで、今日も完璧だった。

なまえは驕慢きょうまんなほどうつくしい笑みをこしらえ、ペントハウスの階段を下りた。
消費してほしい。
わたしを。



(※おまけ。蛇足のハッピーエンド)


「――で、一応、言い分は聞いてやるつもりではいるぜ」

コートのポケットに手を突っ込んだまま、張維新チャンウァイサンは気怠げに「まあ、返答次第だな」と言葉を続けた。
照明を要さない干天かんてん下午かご、しかしまるでその一部分だけめしいになってしまったかの如き黒々としたありさまは、さながら光すら逃れられぬうろだった。
窓の外の、魔都を照らす陽光はさんたる輝きだったが、忌まわしい黒を掻き消すには至らず、むしろコントラストを強くしてますます禍々しい影を描き出していた。
あまりに不祥、あまりに峻烈しゅんれつに、この世で唯一なまえが心から慕い、そして唯一なまえを恐慌へ叩き落とすことのできる男が悠然と立っていた。

「なにもお聞きにならず、打ち捨ててくださる余地は……だんなさま、のこされていらっしゃいますか」

ひるがえって、床に座り込み、ぼんやりと主人を見上げるなまえは『黄英』の精めいて頼りなかった。
嘔吐したばかりの落花を手に、喪心したようにぐらぐらとよろめいていた。
散り積もる花弁の中心でうずくまる女は、なくした顔色と相まって容易にしおれた花を連想させた。

「この期に及んでよくまあ、そんな蒙昧なお伺いを立てられたな。お前もわかってるだろ、なまえ? いままでの累積分でとっくに超過してるなんざ」

黒衣の偉丈夫は苛辣からつな笑みを弦月に割れた唇へ宿した。
サングラスの奥の、すがめられた双眸はさやかには窺えなかったが、逃げも瞞着も許さない強い光をたたえていることだけは瞭然としていた。
疎ましげな表情は、あるいは飼い鳥の生命のみならず身性みじょうあまねく手中にするにもかかわらず、取りこぼしていた不平によるものだったかもしれない。

望楼の私室でいつものように発作に襲われひとり嘔吐していたなまえを、折しもあれ、その主人が訪れた。
誰何すいかもノックもなしに開かれた扉――それが可能であるただひとりの男が、花々によって彩られた純白のワンピースを無感動な眼差しで見下ろしていた。
おのが身だというのに、タイミングも理由もなまえ自身の思う通りになったためしのない嘔吐は、依然として唇から極彩色の恋心を吐露していた。

「……この病気、発症する理由を……あなたはご存知ですか……?」

観念したのか、項垂れたなまえは屠所としょの羊よりものろのろと口を開いた。
周知の事実であり、加えて扱う商売道具たる「花」について、殊更に尋ねることがあるかといぶかしむ主に対し、彼女はためらうようには二度三度と口を開閉した。
いまにも落涙しそうな瞳をゆらゆら揺らしながらなまえは「あなたは、」と絞り出した。

「……あ、あなたは、わたしをっ……す、すき、ですか……?」

問いかけは、文藻ぶんそうもなにも施さない、ひたすらつたないものだった。
かすれ、引き攣れ、ふるえる声は、鳴禽めいきんの妙音というにはあまりにも惨めったらしい。
血を吐くような質問は、さながら万事を打ち捨てて男の前に魂を投げ出すようだった。
誇り高い金糸雀カナリアがいますぐ死んでしまいたいとばかりにうつむき、両手で顔を覆った。
葉末に結ぶ白露は手の隙間からぼろぼろと落ち、掬わずともその熱さを思い知った。
殺しきれなかった嗚咽が、ひっ、ひっと漏れた。
徒花あだばなへ注ぐしずくが弾けるさまは、えも言われぬ後生一生のうつくしさだった。

この段になって、くちばしをつぐんでいた理由が病そのものではなく、発症の禍因――傍惚おかぼれなのかと思い悩んでいたことによるのだとようやく至り、張維新チャンウァイサンはそれはそれは不興げに顔をしかめた。
あるいは、どこの馬の骨とも知れない者の花にふれたのか、また飼い主にって生きているのに、その情を真実まったく信頼していないのか――と、こう問われるのを恐れたのかもしれない。

身を屈めて手を伸ばせば、ふれる寸前、細肩が大仰なほどびくっと痙攣した。
身も世もなく泣き崩れる女も、飼い主に怯える小鳥も、見ていて気持ちの良いものではなく、しかめた面輪おもわはそのままに、張は中途半端に伸ばした手を握り締めた。

病気それを隠してた時点で救いようのねえ馬鹿だとは思ってたが、まさかここまで頭が足りないとは想定してなかったよ」

あたかもこぼれた溜め息に打たれたように、奇病の罹患者はますます身をすくめた。
治まらない嗚咽のせいで呼吸も危ういらしく、耳に障る奇妙な息遣いまで漏らし始めた。
そのまま放置していると過換気の症状を呈するに違いなく、形良い太眉をひそめた男はなにをか言わんやと独り言じみて慨嘆した。

「それで、のうのうと看過していた飼い主の鈍さを省みるか、それともお前の騙くらかす手腕の上達を褒めてやるべきなのか――悩むところだな」

革靴が傷むのも構わず張がなまえの前へ膝を着くのと、彼女の腿上に舞う落花を無造作に拾い上げたのは、ほぼ同時だった。

「なっ……!」

穢れなき処女、白い手の女――数々の悪名で知られる女の顔が、瞬間、凍った。
制止する間もあらばこそ、時が止まったように呆然と目をみはるなまえの目の前で、摘み上げた花弁を口に含むや否や――ぽかんと開いた朱唇へ張はおのれのものを重ねた。

嗚咽を堪えている間に切ってしまったらしく、口唇は血の味がした。
血も花も気に留めず、逃げようとする女の舌を絡め、吸う。
ただでさえしゃくりあげて泣いていたなまえは、懸命に呼吸をしようと胸を喘がせた。
煙草の苦い味と、花の香りがぶわりと口腔に広がった。
互いの舌にもてあそばれていた花弁は、さてどこへ。

なまえは言葉を失ったまま、苦しいほど恋い慕う男を見上げた。
こくっと唾液を飲み下した彼女の喉を通らなかった。
ならば悠揚迫らざる様相で笑っている男以外、嚥下した犯人はいまい――サングラスを外しながら、いけしゃあしゃあ「血の味はともかく、さすがに花を食ってのキスは経験がないな」とのたまった張維新チャンウァイサン以外には。

「――で、俺も罹患しちまったってわけだ。まあなにも変わりゃしねえさ。なんせ発症なんざするはずもないんだからな」

度を過ごす喫驚きっきょうにより止まっていた涙が、その途端にまた溢れ出して丸い頬をすべり落ちはじめたのを誰が責められるだろうか。
歔欷きょきの止まぬ女を張は抱き上げた。
この期に及んで主人の黒服が汚れるのを躊躇したか、身を強張らせているなまえをぎゅっと強く抱きすくめた。
白裾から流れた花弁がふたりして座り込んだ床へはらはらこぼれた。
厚い胸元へ顔をうずめた彼女は、くぐもった不明瞭な声で呻いた。

「だんなさまが……っ、こんなに、愚かだと――ばか・・だとは、おもいもしませんでした……」

拗ねた幼な子じみた物言いは金糸雀カナリアにあるまじき言だったが、檻のように逞しい腕に囲われて飽きもせず泣いている女をなだめる以上に重要なことのない男は、あっけらかんと「は、なにを今更」と笑った。

「馬鹿なのはお互いさまだろ。なにしろなんの役にも立ちゃしねえ小鳥一羽、後生大事に仕舞い込んでる男だぜ。それ以外の何者に見えるんだ」
「知って、います……」
「じゃあそういつまでも泣いてくれるなよ、なまえ。これでもまだ腹を立てているんだ。まったく、心外だぜ。俺の掌中にいて、まさか明暮あけくれンなことで顔を曇らせてやがったのかと思うと、は、心外どころの話じゃねえ」

偉丈夫の瞳には、これが先程まで飼い鳥を糾弾しようとしていた主人かと見まがうほど、深い情と欲とが満ちていた。
言にたがわず不本意そうに、それでいて飄々と嘯く男の言笑自若げんしょうじじゃくな様子ときたら、果たして恋慕せずにいられようか。
徒心あだごころをなじるようなセリフとは裏腹に、しかし抱きすくめられたままやさしく背を撫でられ、なまえはとうとう嗚咽を堪えられなくなった。
懸命に耐えようとする彼女の努力をめちゃくちゃにしてしまうのに、昔から飼い主はあまりに長けていた。
もしも真っ向から不実を非難されたなら、頑強に耐え忍ぶこともできようものを、反対に、やさしくされると、抱き締められると、どうしてだろうか、意に反して次から次へと涙が溢れてしまうものだった。

――それからいくらも経ぬうちのことだった。
ようやく診察を受けたなまえが、通常完治しているはずの容態にもかかわらず花を吐くという、極めて稀有な症例であると知らされたのは、それはそれはうつくしい恋心を吐瀉した夜のことだった。


(2022.02.27)
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