(※十年後だか十五年後だか夢主入れ替わりネタ)
(※マジで深く考えてはいけない)
1
「なまえ? 珍しいな。まだ寝てるのか」
――ああ、これ、夢ね。
なまえは微睡みながらも、すぐにそう判断した。
低くかすれた男の声が、甘さを孕んで耳朶をくすぐる。
なんて幸せな夢なんだろうと、目を閉じたままなまえは微笑んだ。
あの張維新が、これほどまでに甘ったるい声音で自分を呼び、起床を促すはずがない――それこそなまえではあるまいし。
この夢は、自分の願望なのだろうか。
当人の性質や素行を無視してこちらの願望に付き合わせてしまう不実に心苦しいものを覚えはする。
しかし夢のなかくらいは許されたいと――もうすこしだけ目が覚めませんようにとなまえは願ってしまった。
それにしても声音といい、感触といい、然てもリアリスティックな夢なのだろうか。
いつもの煙草の香りすら感じられて、なまえは顔をほころばせた。
ゆるみきった頬を丁寧に撫でられ、そうして夢うつつに男の手指を甘受していたなまえは、しかし出し抜けに、びくっと肩を揺らした。
安穏と夢を楽しんでいたが、指の感触がほんのわずかに違っていた。
自分の知る、自分にふれることのできる、唯一のものとは。
「っ……!」
意識も視界もはっきりしなかったが、取るものもとりあえずほとんど反射的に後ずさった。
パニックに陥りそうになったなまえを、しかし横にいた男はやさしく抱きかかえ、あっという間にベッドの中央へ戻した。
「どうした、そんなに端に寄ってると落ちるぞ」
まだ寝ぼけてるのか? とからかいまじりに笑われる。
乾いた男のてのひらが寝乱れたなまえの髪をやさしく撫でた。
慣れた手付きで黒髪を背へ流され、その際、耳の後ろを親指の腹がするりと撫でていった。
敏感な耳元にふれられ、なまえの肩がぴくっと揺れてしまう。
一連の動作は彼女がよく知るものだった。
ようやく目を開けたなまえは、ぱちぱちとまばたきした。
「……だんなさま……?」
「おはよう、なまえ」
きょとんとまじろぐなまえの間抜け顔を揶揄するでもなく、眼前の男が穏やかに微笑んだ。
精悍さよりも柔和さの際立つ目元は、サングラスという覆いがないためだけではあるまい。
バスローブ姿の男は老年に差しかかりつつある頃か。
とはいえ衰えはまったく窺えず、むせ返るような雄の芳香は、直視していると胸奥が焦げてしまいそうだった。
太い首筋に、浮き出た鎖骨、広く厚みのある肩、わずかに覗く銃創の痕は見覚えのあるものばかり――彼女を見つめて笑んでいる目の前の男は、まぎれもなくなまえの飼い主、張維新だった。
昨夜共に床に就いたときより、十かそれ以上か――年嵩ではあったが。
彼も目が覚めたばかりらしく、整えていない前髪が秀でた額へ垂れかかり、生来の甘い顔立ちに息を呑むほどの色香を揺蕩わせていた。
「そうか、若い頃の君がこちらに来たのは今日だったか……」
愛嬌にしわを添えた目元がやわらかく細められた。
うんうんと独り言じみて彼は頷いているが、一方なまえにはなんのことやら、である。
一旦停止した意識が、現実逃避のためか、呆然と周囲を窺う。
調度品や内装の違いはいくらか見受けられるものの、そこは見慣れた本邸の寝室だった。
帳の下りた、閑雅な閨だ。
見覚えがある。
ありすぎる。
そしてこの主寝室へおいそれと立ち入れる者などそういない。
彼か、もしくは、彼女くらいしか。
なにこれどうして旦那さまがお年を召していらっしゃるの、そういえばわたし、どうして香港の主寝室にいるのかしら、それにしても、ああ、旦那さまったら本当に素敵……やっぱり夢なのでは、頬をつねっていただこうかしら、云々。
混乱しきった頭でなまえがぐるぐる考えていると、男がそれまでにも増して表情をふっと和らげた。
「そろそろ落ち着いたかな。着替えでもするか。そのままでは風邪をひく」
「え、あっ」
まったくもって落ち着いてなどいない。
わけもわからずただ口をつぐんでいるだけだったが、促されてなまえははたと自身を見下ろした。
昨夜、あるいは深更、眠りに落ちたときと変わらず、なにも身に纏っていなかった。
今更、主人に肌を見られたくらいで騒ぎ立てることもない。
とはいえ、見慣れぬ男性の前で――なにひとつ状況を理解してはいないものの、彼が張だということはそろそろ認めざるをえないが――一糸纏わぬ姿というのは、さすがに躊躇や羞恥が勝った。
とりあえずと差し出されたシャツを、慌てて羽織る。
男物のシャツはぶかぶかで、袖から爪先が覗くかどうかといったところだった。
今生、最も安心する香りと体温は、慣れ親しんだ張維新のものだ。
「すみません、お借りします……」
瓢げた語調で「どういたしまして」と返され、うっかりときめいてしまう。
意思とは関係なくじわじわと頬に熱が集まってくるのを自覚しつつ、とにもかくにもなまえは必死にシャツのボタンを留めた。
次いで、傍らに放ってあった女物の衣服を発見した。
引き寄せて広げてみれば、黒いワンピースかと思いきや――それは背中がざっくり開いた、ホルター・ネックのドレスだった。
首で留めるデザインの、飾り気のない黒い服だ。
着丈は足首までと長いが、背中や腕はあまりにも無防備だった。
しかも露出具合に比例するかのように、体のラインをはっきりと露わにする窮屈さである。
目眩がした。
誰の服なのこれ、と訝しむものの、サイズは恐ろしいほどなまえにぴったりだった――まるで彼女のために誂えたかのように。
ヘッドボードに背を預け、しどけないバスローブ姿で煙草を吸っている男を恐る恐る見上げた。
「……あ、あの、だんなさま?」
「ん? どうした、なまえ」
柔和な目で見つめられ、なまえは我知らず息を詰めた。
ただ呼びかけただけだというのに、そんないとしげな眼差しで応えないでほしい。
心臓に悪い。
いまも一瞬、なんのために声をかけたのか思考が飛びかけた。
ここでまごついている場合ではないと懸命に己を叱咤して、なまえは黒いドレスを握ったまま、居心地悪げに視線をさまよわせた。
「ええと、あの……他になにか、着るものはありませんか……?」
「ああ、君はまだ白いワンピースを着てた頃だな。懐かしいから俺も着てみせてほしいんだが……。ただなあ、あいつ、最近はそれがすっきりお気に入りらしくてな、そのデザインばっかり着てるから俺もよくわからないんだよ。探しゃなんかしらあるだろうが。まあ、君がベッドから出ないって言うならそのままの格好でも構わんよ」
俺のシャツを着てる君を見るのは楽しい、とやわらかい口調で告げられる。
紫煙の混じった、低い声だった。
見つめていると屈服してしまいたくなる偉容はいささかも損なわれず、しかしこれほど張維新にどろどろに甘やかされてしまえば――最早、まともに呼吸ができているかどうかすら自信がない。
「あいつ」って誰なの、まさかわたしじゃないでしょうね、あなたがそのご年齢のときもわたしはおそばにおりますか、などと尋ねたいことはたくさんあるはずだったが、実際には、ただ真っ赤な顔で「ひえ……」とこぼすことしかできなかったなまえを、一体誰が責められよう?
2
飼い主、張維新の腕のなかにいて、これほど強く「逃げたい」と思ったのはなまえにとって初めてのことだった。
大きなソファに共に腰掛けているのは構わない。
張の膝上へ乗せられ、後ろから抱きすくめられているのも――なんとかギリギリ許容範囲といえた。
が、露出した背へ時折、ちゅ、ちゅっと口付けられているとなると、もうだめだった。
この体勢だけでもどきどきと胸が高鳴ってしまうのに、主の唇がずっと素肌にふれているものだから、なまえが借りてきた猫のように大人しくなってしまうのも無理からぬことだった。
くすぐったくて仕方がない。
なにより気恥ずかしさのあまり、顔から火が出そうだった。
こんな服を着ているから! と未来の自分のファッションセンスにすら文句を言いたくなってくる。
結局、他に着るものもなく、仕方なくなまえは黒いホルター・ネックのドレスを着用していた。
普段は慎み深く隠されている背や肩、腕が露わになっていて落ち着かない。
上着を脱ぎ、ネクタイもゆるめられているとはいえ、張の方は見慣れたスーツ姿なものだから、余計に自分のありさまにそわそわしてしまう。
「……あ、あのっ、どうしてそんなに、背中に……キスなさいますの……?」
必死に上体をねじって振り向けば、緊張と羞恥でいっぱいいっぱいになっている小鳥が余程お気に召したらしい、張は上機嫌に「君はかわいいな」と頬をゆるめた。
心底逃げ出してしまいたいが、幸か不幸か――なまえにとって幸であることに間違いはないものの――やさしく抱き込まれ、年齢を感じさせない逞しい男の腕が彼女の腹へ回っている。
拘束はあくまでゆるやかだったが、しかし逃げられないと教え込むかのように重かった。
「嫌だったか? すまない、白い背が懐かしくてね」
つっと指先で肩甲骨の辺りの素肌を撫でられ、思わずぴくっと肩が揺れてしまう。
こぼれた息がみっともなくふるえていることを自覚しながらも、なまえは懸命に飼い主を見上げた。
「っ、懐かしいって……わたし、怪我でも負ってしまいましたか?」
「ああ、いや、そうじゃない。気にしないでくれ、俺が感慨深いだけだよ」
「感慨深い? どういう……っ、」
慈しむようにまた背へ口付けられ、肌が粟立った。
夜凪のように穏やかな笑い声と、厚い唇が肌をくすぐる。
どれだけ時間が経過したかなまえには判然としなかったが、すくなくともかれこれ数時間はこうして張から離してもらえずにいた。
仕事はどうしたと尋ねると、「いまの君をひとりで放って仕事してろなんて、冷たいこと言わんでくれよ。悲しくなってしまうな――それとも年食った俺には構ってくれないのか?」と平然と返され、またしてもなまえが崩れ落ちそうになったのは余談である。
高鳴る心臓の裏辺りへ、飽きもせず口付けられ、ひくっと手指が痙攣してしまう。
素肌に唇をくっつけたまま、吐息まじりに「きれいな肌だな」と囁かれ、なまえはとうとう「ストップ!」と声高に叫んだ。
顔がみっともないほど真っ赤な気がする。
絶対に気のせいではない。
しかしいまは自分の顔色なんぞに係っている場合ではなかった。
「〜〜っ、もう、あまり甘やかさないでください!」
「甘やかす? なんのことだ?」
「ご、ご自覚がない……!」
腹に回された張の腕を叩く。
息も絶え絶えに「すみません、ちょっと離してください……」と呻いた。
なまえとて、恋い慕う男にやさしく見つめられ、ふれられ、いとしげに名前を呼ばれて、これ以上嬉しいことはありはしない。
――しかし、しかしだ。
ひとには許容量というものがある。
これくらいなら大丈夫、これ以上はもう耐えられないと、各々個人によって、相手によって許容範囲は異なるものだ。
そして張の過剰なスキンシップは、とうになまえの許容量を大幅に超えていた。
それでなくとも他ならぬ主、張維新――それも歳月を重ね、飄逸と洒脱に、匂い立つような色香と貫禄とを漂わせた偉丈夫に、息苦しいほど甘やかされていると――もう。
このままだと溶けてしまいそうだった。
全身が。
「そう暴れんでくれ、ほら、怪我でもしたら大変だろう。俺にさわられるのがそんなに嫌か?」
「まさか」
「即答か」
距離を取りたがる小鳥に別段機嫌を損ねた様子もなく、むしろ愉快げに張は笑った。
穏便に解放されたため、すくなくともいまのなまえにとってはいつも通りに飼い主の隣へ腰掛けた。
裾の長いドレスに気取られていると、すぐさま手を握られ、許しを乞うように爪先へ唇を落とされた。
「じゃあどうしてそんなに俺から逃げたがるのか教えてくれ、なまえ」
恐ろしく甘ったるい主の所作と声音に、なまえは「だから!」と叫んでしまいそうになった。
なにが「だから」なのか、彼女自身もよくわからない。
あたふたと視線をさまよわせていると、そのさますら愛らしくて仕方がないと言わんばかりに低く笑われる。
なまえの心臓が脈打つ――痛いくらいに。
もう吐息が肌に当たるだけで、頭がどうにかなってしまいそうだった。
茹だりそうな意識で、なまえは「このままではときめきで息の根を止められてしまう」と真面目に怯えはじめた。
とはいえ生娘でもあるまいし、恥ずかしくて耐えられないなんて口が裂けても言えない。
金糸雀が馬鹿正直に「恥ずかしいからわたしを見ないで」などと白状できるはずもなかった。
「……あなたの“わたし”は、なにも申しませんか……? もちろん、旦那さまにふれていただくのは嬉しいですが……ただ、あの、こんなに構っていただけると、わたし、緊張してしまって……」
むしろ、この時代の自分は既に死んでいるのではないか。
そのため主人は特別やさしく扱ってくれるのか――などととち狂った想像をしてしまう程度には、なまえは追い詰められていた。
考えてみれば、そちらの方がまだ納得できるような気がする。
しどろもどろに説くと、なまえの言わんとするところが理解できたらしい。
首を傾げていた張は「ああ、なるほど」とのんびり頷いた。
「そういやあいつ、なんにも言わずにいっつも我が物顔で乗っかってくるなあ。いくら“待て”しようが聞きゃあしねえし、隙あらば押し倒してくるしで大変だよ。色香は要らんくらい具えたが、いろんなところで老若男女引っかけてきて手駒に仕立てあげるわ、俺のいないところで勝手に年下男に手を出すわで……あれには本当に困ったもんさ。はは、“待て”ができる君は偉いなあ」
「それほんとにわたしですか?」
思わず真顔で尋ねた。
彼を疑うつもりは毛頭ないが、致し方ないだろう。
「いやそんなことある?」と思ってしまうのも。
どんな躾けられ方をすれば、彼の言うような女になってしまうのか。
ただでさえ直視するのが容易ならぬほど艶めいた偉丈夫に「要らんくらい色香を具えた」と言わしめる「あれ」――自分は、どういうさまになり果てているのだろう?
恐ろしくて正直知りたくない。
やっぱりこの時代のわたしはとっくに死んでいるんじゃ……と詮方ないことばかり考えているのが筒抜けだったのだろうか。
思案に暮れるなまえを楽しげに眺めていた張が、ふっと笑みをこぼした。
目元に刻まれたしわが深くなり、厚い唇が弦月に割れた。
大きなてのひらが伸びてきたかと思えば、そっと顎を掬われ、視線を絡ませられた。
なまえの手指が無意識に痙攣した。
ふれられているのは輪郭だというのに、心臓を鷲づかみにされた気がした。
金糸雀の直感が、総毛立つような情火を嗅ぎ取っていた。
「君だよ、間違いなく。俺のなまえ、俺の小鳥――比翼の鳥。君がどう思おうが、なにを企てようが……俺から逃げ出そうと謀ろうが、――観念してくれ、今更手離す気はないぞ」
言葉も口ぶりも柔和だったが、あるいはそれは「執着」と呼ばれるものだったのだろうか?
綾取る声音は、髪の一本、血の一滴、骨の一片たりとも掌中から取りこぼすことは決してないと銜めるかのようだった。
春宵の泥濘にも似た双眸から、背筋がうっすら寒くなるような底知れぬ情が垣間見えた気がして、なまえの肌がわなないた。
無意識に喉が鳴った。
支配者の声だった――深更の閨で向けられる折節、此岸彼岸すら曖昧にし、一切衆生、雁字搦めにしてしまう悪辣な、雄の。
そのときなまえは気付いた。
歳を重ねた張維新は、纏う雰囲気や答酬はかくも穏和ではあるものの、その実、奥底に潜む稟質や気質は、ちっとも丸くなどなっていやしないと。
「……もうだめしんじゃう……」
ばったりとソファの座面へ倒れ込んだ。
頬だけではない、耳元も首も、それどころか身動きひとつすらつらいほど全身が熱い。
なまえは両のてのひらで顔を覆って、ぐすぐすと鼻を鳴らした。
とっくにキャパシティオーバーだったらしい。
視界が危うい。
涙が出てきた。
なまえが行儀悪く転がったまま「もうむり……」と身悶えていると、ふと影が差した。
思わずびくっとふるえて見上げれば、一見人の好さそうな柔和な笑みで、張が見下ろしていた。
覆いかぶさってくる彼の身を、慌てて腕を突っぱねて距離を取った。
「だ、だめです……はなして、」
「駄目? どうして意地の悪いことを、なまえ」
「だって、あなたはっ」
「今頃、君の“旦那さま”もあれと楽しんでるだろう、そう操を立てる必要もあるまい?」
「っ……」
「ああ、すまない。君にそんな顔をさせたいわけじゃないんだよ」
顔を陰らせていると、宥めるように頬を撫でられる。
自分にふれるにはあまりにやさしすぎるてのひらになまえが気取られていると、唇が降ってきた。
「ぁ、んん……」
「ほら、口を開けてくれ、なまえ」
ほぼ吐息のような囁きだった。
目睫の間で飼い主に懇願され、なまえは身をふるわせることしかできなかった。
ちいさな口腔を這う男の熱い舌は、意思を、自我を、じんわりととろかしてしまうようだった。
抵抗のため伸ばしていたはずの手は、いつの間にか、張のシャツを握り締めていた。
「ん、ぁう……」
「はは、本当に君はかわいいな。君を拾ったときの俺を褒めてやりたいくらいだ」
「もう、あの、ほんと、ゆるしてください……」
ほとんど泣き出してしまいそうになりながら、再び重なった唇の隙間から、なまえは降伏の溜め息を漏らした。
3
女の左手の薬指には、シンプルな指輪が鎮座していた。
細指に映える白金が眩しい。
「ふふ、お目覚めになりました? おはようございます、あなた」
張は寝起きのぼんやりとした意識で「誰だこれ」と内心呟いた。
彼の胸懐を知ってか知らでか、女がくすくす笑っていた。
耳をくすぐる甘い声は、どうやら幻聴ではないらしい。
気怠げに腕で顔を覆ったまま、張維新は怏々とした眼差しでそれを見上げた。
「もしかして夢だと思っていらっしゃいます? 頬っぺたをつねってあげましょうか」
久しく夢などというものは見てはいなかったが、やはり夢ではなく現実だということを認めざるをえないらしい――目の前で微笑んでいる女を。
張は浅い嘆息まじりに問うた。
「……なまえか」
「ええ、そうです。うふふ、一目で気付いてくださるなんて嬉しい……。ああ、あなたの“小鳥”は、わたしと入れ替わりに未来のあなたのところにおりますので、ご安心ください」
不思議なこともあるものですね、と状況を簡明に説いた女は、にっこりと唇を吊り上げた。
張が目を覚ますと、隣で眠っていたはずのなまえはおらず、代わりにひとりの女が上へ乗っかっていた。
なまえの面影を多分に残す彼女は、自身の言う通りなまえ本人なのだろう。
そうでなければ、夢寐といえど張がここまで他人の接近、接触を許すはずもない。
女は、一言で表すなら毒々しい。
大輪の牡丹が如き笑みは妙な倦怠感を帯び、雄に「欲しい」と本能的に訴えかける魔力のようなものを持っていた。
とろけるようなと一言で表すには到底足りない。
浮かべる微笑は蠱惑的だが、見つめていると息苦しさすら覚える。
いくらか年齢を重ねてはいたが、臈たけた笑みにぼかされて正確なところは見当が付かない。
纏うのは黒いホルター・ネックのドレスで、ぴったりと沿って体のラインを露わにした服は、肩や腕、背までをもさらしていた。
顔立ちそのものはさして変わってはいないものの、纏う衣服も空気も、浮かべる表情すらも彼の知るなまえのものより、ずっと――。
「……妙な成長しやがったな」
「まあ、ご自分を卑下するなんて珍しい」
あなたの飼育の成果ですよ、と紅色の唇がにんまり弧を描いた。
微笑む顔は、愛らしさよりやはりなまめかしさの方が際立った。
匂い立つという言葉をそのものを体言したのような凄艶な笑みはうつくしくはあれど、朝っぱらから浴びるには少々重苦しい。
張は起き抜けの目を胡乱げに細めた。
「……なあ。ひとつ質問なんだが、いつもそんな感じか?」
「“そんな感じ”ってどういうことかしら……と言いたいところですが、ふふ、あなたの考えていらっしゃること、わかりますよ。わたしもあのときはびっくりして大変だったもの。――答えは是です、旦那さま。調教の結果がお気に召しませんか? でも、いつだったか申しましたでしょう。“すべてあなたのせいです”って」
ふふ、と彼女はなにやら思い出し笑いをしている。
万人が己の前へ跪くと確信しているような声だった。
口をつぐんでいる主人の体から降り、気もそぞろになまえは窓辺へ寄っていった。
「ふふ……この景色も懐かしい」
カーテンを開ける。
広がる魔都の眺望を見下ろし、なまえが独り言めいて呟いた。
上体を起こして寝台からそのさまを眺めていた飼い主は、わずかに瞠目した。
見慣れた女の背に、見慣れぬモノが刻まれていた。
白磁の素肌を這うのは――仰々しい昇龍だった。
「……あー……とうとう入れちまったか、刺青」
「ああ、これですか? 施術師には、この柄は女には向かないと散々苦言を呈されましたけれど。とってもきれいな仕上がりでしょう?」
振り向きざま、女が自らの肩へ手を添えてみせた。
見晴かす展望と朝日を背景に、中途半端に振り向いた目もあやな艶姿は、まるで一幅の絵のようだった。
背をすべて露わにする黒いドレスは、愛銃と揃いの驕奢な刺青のためのものだということを、張は遅れて理解した。
「――ふふ、わたしが年上の男性と浮気をしたら、罰に入れられてしまいましたの」
「ちょっと待て」
さながら今日の天気の話でもするようにさらりと投げつけられた爆弾に、張は口元を引き攣らせた。
危うく咳き込むところだった。
目を眇めたのは、鮮烈な朝日ばかりが理由ではないだろう。
「はい?」と小首を傾げている女を、張は睥睨した。
「はい、じゃねえだろ。どういうことだ」
「どういうこと、とおっしゃいましても……。あなたより年上の男性に抱かれて、惹かれてしまったものですから、罰を受けたんです。でも、ね、仕方のないことだとお思いになりません? 素敵なお方だったんだもの。――それにしても、施術は本当に痛かった……刺青なんて入れるものではありませんね。術後も、苦しんでいるわたしをご覧になって、あなたは終始ご機嫌だったし。嗜虐趣味が過ぎるのではなくて? ――それより、ねえ……いまここにいないひとのおはなしはやめましょう」
悪戯っぽく笑いながら紡がれる言葉は、破滅を誘う歌のようだ。
甘ったれたように毒蛇の細腕が伸ばされる。
目挑心招とはこのことか、女はぺろりと舌なめずりした。
「ああ、もう、本当にかわいい……」
ベッドに戻ってきたかと思えば、流れるように再び上へ乗っかってきた女が恍惚と呟いた。
なまめかしい紅唇が三日月を描く。
深更にしか許されぬ婀娜めいた微笑に、我知らず男の喉が鳴った。
囁きは、爛熟しきった果実から蜜が溢れるようだ。
不覚にも彼ですら、ほんの一瞬、動きが遅れた。
その一瞬の隙すら逃さず、首筋に顔をうずめられる。
ぢゅっと耳元を吸われ、張は息を詰めた。
「っ、待て待て待て」
「どうして? なにかご不満ですか?」
「ご不満どころじゃねえよ、押し倒すな脱がすな――ッ、可愛げどこにやってきたんだお前は」
「まあ、ひどい。いまのなまえは可愛げがないと?」
不満げに唇をとがらせる仕草は張もよく知るなまえのものだ。
しかし夜を連想させる黒い瞳は蜜めいて潤んでいる。
女にペースを乱されることなど滅多にないことではあったが、然らぬだに相手はなまえ、それも十年二十年という年月を張維新の隣で過ごしてきた女である。
虚を衝かれた彼は体を起こそうとしたが、つっと指輪の光る繊手がやおら首を撫でた。
力加減は押さえるというほどではない。
しかしながら寸分違わず動脈一点を抑えられ、即座に身を起こすのは容易ならぬありさまだった。
「なまえ、」
「だって、いまのあなた、本当にお可愛らしいんだもの。ね? おねがい、いままでの人生で一番、気持ち良くしてさしあげますから……白いワンピースを着ていた小鳥よりもずっと。ん、……っ、うふふ……」
重なった唇は火傷しそうなほど熱い。
張の腿上へ乗り上げた女は、密着したままゆるゆると身をくねらせた。
溺れてしまいそうななめらかな肌が、主人の体躯を確かめるようになぞっていく。
淫蕩な挙措は、さながら閨の支配者。
もしもそのとき彼らを見る者がいたならば、男の身をなまめかしい昇龍が這い蠢く淫靡なさまを、目の当たりにしただろう。
(※おまけ。元に戻った)
「……だ、だんなさま? っ、わたしの旦那さまですか? いえ、わたしのっていうのは、わたしが知っているという意味で、別に深い意味はなくて、ええと、あの、」
「あーわかったわかった、なにが言いたいか理解してるから落ち着け」
恐る恐る近寄ってきたなまえは、目の前の「飼い主」が自分のよく知る張であることを認識した途端、崩れるように抱き着いた。
「っ、うう……だんなさまぁ……」
彼の胸元へ顔をうずめ、ぐすぐすと涙まじりにすがりついてくるなまえは、いつになく怯えた様子だった。
控えめにシャツを握るちいさな手や、心細げに重なる肢体に、うっかり「落ち着く」と思ってしまった張は、嘆息しながらなまえの背を撫でてやった。
彼女はなぜかぶかぶかの白いシャツを羽織っていた。
シャツの下がどうなっているかは不明ではあるものの、様相から、まあそれ一枚しか纏ってはいないだろう。
サイズや残り香から、己のものだろうと判断した張は、着せた覚えのない自分の服に、微妙に顔を歪めて溜め息を漏らした。
「……お前がそこまで震え上がるたあ、よっぽど先の俺は、おっそろしいさまになってやがるらしいな」
「いえ、逆です……」
「逆?」
「対応が甘ったるすぎて殺されるかと思いました。あなたにやさしくされて逃げたくなるなんて、初めての体験でした……。あと、あの旦那さまに慣れてしまったら、いまのあなたが冷たく感じられてしまいそうで、それも怖くて」
「……」
「高鳴りすぎて心臓が痛かったです……って、あら? 旦那さま、ここ、赤くなって――、……誰の痕ですか」
すがりついたまま、滔々と訴えかけていたなまえは、飼い主の耳のすぐ下、シャツでは隠し切れない首元へ残されたキスマークを発見して、眉をひそめた。
「……言っとくけどな、お前だぞ、犯人」
「わたし? ……ああ、あちらの“わたし”が、入れ替わりにここにいたんですか? まあ、これほどはっきり、それもこんな、見えてしまうところに……はしたないこと。あちらの旦那さまもおっしゃっていました。未来の“わたし”は、色事の手練手管に秀でているそうですね」
お楽しみになっていたようでなによりです、となまえが頬を膨らませた。
わかりやすく拗ねている小鳥を見下ろし、張は情けなく眉をハの字に下げた。
「誰に妬いてんだ。……それより、お前も随分と向こうで満喫してきたみたいだな」
「え?」
抱き着いていた身をつと離され、なまえは目をしばたいた。
ぐっとシャツの襟元を引き下げられる。
乱雑に背を露わにされ、喉が詰まった。
なまえ自身は視認できなかったが、雪を欺く白背には、赤い痕が散っていた。
たっぷりと刻まれた所有の痣を、彼女の「本来の飼い主」はねじくれた面持ちで見下ろした。
張の怒気を感じたか、なまえは繰り言も忘れて身をすくませた。
背中を、つっと爪先でなぞられ、びくっと肩を揺らした。
既視感に彼女は目を見開いた。
「あ、あのときのっ……!」
歳を重ねた張にやさしく抱きすくめられ、幾度も背へ口付けられていた際――あのとき、キスマークも残されていたのだ。
老獪な手練手管もあるだろうが、それにしても緊張と羞恥でいっぱいいっぱいで、なまえは気付いていなかった。
甘ったるい所業やセリフの数々を思い出して、思わず頬が火照ってしまう。
真っ赤な顔であわあわと視線をさまよわせている小鳥を見下ろし、張は本日一番の不快げな表情で目を眇めた。
自分で聞いたことではあれど、まるい頬を紅潮させ、恥ずかしそうに涙すら浮かべているなまえを前にしていると、肺腑を焼かれるような苛立たしさが湧き上がった。
赤い鬱血痕の数々は、丁度あの女の昇龍が彫られていたところと重なる。
張の目蓋に、嫌でもあの刺青がちらついた。
「ほおー……“あのとき”、ねえ?」
「っ……あちらの旦那さまは、とってもおやさしかったのに……」
「あ? 他の男に痕つけられた挙げ句に、ンなご大層な口きけるとはなあ。驚いたぜ」
「他の男って……あちらも旦那さまでしょう」
「そのセリフ、そっくりそのまま返してやるよ」
(※更におまけ。あちらのご様子)
「ああん、惜しい。もうちょっと時間が欲しかった」
「あんまり憐れな年下男をいじめないでやってくれ、“俺”は怯えてなかったか?」
「あら、あのとき怯えていましたの? あなただって若い頃の“わたし”にやにさがっていらっしゃったくせに。そんなに若い女がお好きだなんて、なまえ、知らなかったわ」
「そう拗ねないでくれ。可愛くて敵わん」
「昔のあなたはわたしに“可愛げがない”なんておっしゃっていましたけれど」
「見る目がなかったのさ。大体、可愛がってた小鳥がこんなおっかない女になっちまったんだ、身構えるのも道理だろうよ」
「まあ、随分な言い様ですこと……“おっかない女”だなんて。誰のせいかしら」
「俺のせいだよ。許してくれるか、なまえ?」
「ふふ、仕方ありませんね。許してさしあげます。キスしてくださるなら」
「奇遇だな、俺も丁度そう言おうと思ってたところでね」
(2020.11.25)
(2023.09.09 改題)