(※IF死ネタ)
(※頂戴したネタです。ありがとうございます)
浅い眠りが途切れたとき、男は唇にぬるい笑みが滲むのを禁じえなかった。
月のない夜は暗かった。
暗晦満ちる主寝室、倦怠とも虚脱感ともつかぬ不快さに、張は髪をくしゃりと掻き乱した。
光も凍る未明、夜明けまであとわずかという時分だった。
靄がかった意識に相応の、最も深度を濃くする夜空では、いまもなお燦然と星屑がきらめいているはずだったが、目も眩む大廈高楼の乱立する地上においてはそのようなもの、憂い見上げる行為そのものが「感傷」と言わざるをえないだろう。
おもむろに上体を起こし、張はベッド脇のナイトテーブルへ腕を伸ばした。
片手で箱から煙草を取り出すのも、火を点けるのも、とうに慣れたものだった。
途端に紫煙と薫香が立ち上った。
枕元にはベレッタが一挺、独座していた。
彼の片腕は数年前の紛擾で損傷し、使い物にならなくなっていた。
日常生活ではさして不都合はないが、ご自慢の「天帝双龍」も片割れのみとなって久しい――そもそも現下の世情、組織の重鎮である身代、三合会きっての碩学に、往時の爛熟した銃の腕は不要ではあった。
武勲と英邁、数々の異名をもって知られる、既往「金義潘の白紙扇」の名をほしいままにした偉丈夫は、老いたいまも組織において極めて緊要、こと戦略、合理的裁断、考課分野での造詣は他の追随を許さない。
ひとりで寝るには広すぎるベッドを無駄にしながら、張は、ふっと紫煙を吐き出した。
希死念慮もあらばこそ、かといって元より生き延びることに執着など――いわんやこの期に及んで。
――死に損なったから、生きている。
心ならずも馬齢を重ね、気付けば彼は飼い鳥が死んだときの年齢の、倍も生きてしまっていた。
なまえの訃報を受けたとき、茫洋と「望んだことはなにひとつしてやれなかったな」と考えたのを覚えている。
あの女は言外に、己の幕引きを飼い主の手へ委ね、望み、はばからなかったが、彼自身もそう了得していた――それが道理、至極当然であると。
なにしろ「金糸雀」は張維新の所有物、「なまえ」は彼のために生きていた女だったから。
確たるものなどこの浮世になにひとつたりとて存在しないと通暁していたにもかかわらずだ。
ひとりさっさと死んだ女のために厭世家気取りに憂えてみせることなんぞ、それこそいい面の皮だったが、あまりに冷淡に過ぎると呆れられたものだった。
飼い鳥が死んだ後も介意した様子もなく通常業務に勤しむ張に、部下――なかんずく彼女と多少なりとも懇意にしていた部下は、非を打たんばかりのありさまだった。
眉をひそめた彪如苑は、慎重にお伺いを立てたものだった――「大哥、……大姐の葬儀の件ですが。どうするおつもりで」。
こともなげに「ん? ああ、任せる。あれは親族ももう人っ子ひとり残っていやしねえからな。そもそも必要ねえだろ」と吐いた張を、彼は物言いたげに睥睨していた。
あれでなかなか情の厚い男だったらしい。
思い出すだけで苦笑が浮かんだ。
焦燥に近いものまで感じられる部下の顔は、見物ですらあった。
どんな隷下、下っ端の人間ですら、黄泉路を渡るとなれば手厚く送るものだ。
にもかかわらず、まともな葬儀すら行われなかった彼女をさすがに憐れんだか、腑に落ちないと言わんばかりの様相だった。
無論、死んだ女の扱いについてボスに諫言すべくもなく、身の程を弁えて口をつぐんでいるだけの分別は彼も持ち合わせていたのは幸いだった。
結局すべて部下に丸投げしたため、なまえの遺体がどうなったのか、墓がどこにあるのか、そもそも建てられたのか否かさえも、張は知らなかった。
唇の端のジタンに鬱屈した笑みを添えた。
寧日のない日々に差向きどこか膿んでいく心地がしていたが、もしもいまこの場にあの女がいたなら、目敏く勘付いて甘やかそうとしたに違いない。
甘えるように「なまえを抱きしめてくださいませんか、旦那さま」と微笑みながら、細腕を伸ばしてきただろう。
愈もって歳を取ったなと自嘲した。
失ったものをあれこれ懐古するなんぞ、以前の自分ならばあまりの愚かさに頭痛のひとつでも覚えただろう。
ふとかすかに白百合の香りが鼻腔をくすぐり、とうとう張維新は、はっと声に出して笑った。
これを笑わずにいられるものか。
あの女の身には自分の紫煙の香りが深く染みついていたが、己が身にもなまえの香りがわずかに馴染んでいたのだ。
自覚はしていなかったが。
あれから何年経つと思ってる――恨み言じみた悪態を思わず心中で吐いた。
――そうだ、あの女は死んだのだった。
ゆくりなくもそのとき、あるいは、彼は初めてそう理解したのかもしれなかった。
気付けば咥えた煙草の灰が長くなっており、片手で灰皿を引き寄せてまだ長いそれを放った。
片腕をなくすまでもない、あのときから既に半身失せていたようなもんだ、と張は目を眇めた。
一場の春夢、瀟洒な寝室は墓廟じみて静かだった。
遣る方ない低い笑い声は夜凪のように穏やかで、そして死人のように冷たい。
透明な水へ一滴二滴とインクを垂らし、ゆらゆらと溶けていくかのように薄桃と白藍色が混じっていき、やがて夜が破れた。
ベールのように薄く垂れ込めた白靄越しに鮮烈な朝日が目を焼いた。
唐突に初めてあの女にふれた日のことを思い出した。
明け方、ベッドにひとり残され泥のように深く眠る女の目元が憐れなほど赤く腫れていたことを。
「……あのときの仕返しってえわけじゃねえよなあ」
ひとり呟いた声は静まり返った寝室に渺渺浮かび、霧散した。
澄ました顔で「まあ、仕返しだなんて、人聞きの悪い。なまえがそんなことするはずないでしょう、旦那さま?」と囀ってみせる女はもういない。
然もあらばあれ、冷たいシーツのどこかを探すように死んだ腕が痙攣した。
うつくしい朝焼けは、空における金烏玉兎のような女の鈴を転がすような笑い声を生み出しはしない。
(2020.10.25)