(※頂戴したネタです。掲載許可はいただいております。ありがとうございます!)
純情可憐
勿体ないけれど、となまえはひとり溜め息をついた。
繊手に握られていたのは、張維新の黒いコートだった――ただし所々穴が開き、裾が焦げてしまっていたが。
処分せざるをえないそれを手に、なまえはもうと唇をとがらせた。
先日、銃弾の飛び交う物騒な舞台にて主人がこしらえたものである。
言うまでもなく、彼自身には損傷はなにひとつなかった。
確かに無謬なる「金義潘の白紙扇」、張が表に出ようものなら速やかかつ合理的にすべて果が行くに相違ない。
とまれ組織の重鎮という身代をそろそろ弁えてほしいと毒づきたくなるのもまた致し方ないだろう。
本人には向けるべくもない繰り言を、なまえは胸中呟いた。
――相も変わらず鉄火場に立つのがお好きなんだから、と。
ふむとひとり顎を引く。
ひとしきり矯めつ眇めつし、なまえはそれまでの不満そうな表情を一変、頬をゆるめると、外套を抱えたままいそいそと立ち上がった。
清純そうな顔を上気させ、黒い袖へ腕を通した。
惚れ惚れするほどの威容を誇る主のロングコートは、小鳥が羽織ると当然ぶかぶかだった。
腕を真っ直ぐ伸ばしても、指先がほんのすこし覗くかどうかといった塩梅だった。
張のコートを羽織ったなまえは、少女のように無垢な笑みで「ほんとに大きい」と呟いた。
踊るようにその場で一回転すれば、黒い裾がうつくしく翻る。
にこにこしながらくるくる回っている彼女はまったく気付いていなかった。
「ふふっ、裾が床に着いちゃ、――ッ、ぁああだんなさま!?」
塔の天辺に、悲鳴が響き渡った――金糸雀らしからぬ叫喚が。
平素の淑やかさをかなぐり捨てたなまえが、べしゃっと床に崩れ落ちた。
なんぞ図らん、彼女が気付いたときにはなにもかもが遅かった。
中途半端に扉を開けて一部始終を御覧じていたのは、コートの本来の持ち主、張維新だった。
糅てて加えて彼ひとりではなく、背後にはひとり部下も伴っていた。
にんまりと弧を描いた唇で、張は背後を顧みた。
「――彪、」
「ハイハイわかってますよ大哥。俺ァ退散しますが、そう長くは時間は取れねぇことだけ頭の隅に置いといてもらえると助かります」
「気が利く部下で助かるよ。時節外れだが獎金でも支給してやりたいくらいだ」
「俺なんぞおだててる暇があるんなら、あそこでうずくまってる大姐をどうにかしてやってくださいよ。ドア開ける前に気付いてただろ、あんた。趣味が悪いにも程があんでしょうよ」
「そうは言ってもなあ。かわいいだろあれ」
「二度も繰り返させんでくれって言ったはずですが、大哥」
張たちがなにやら会話していたが、耳目を属する余裕などなまえにあるはずがなかった。
両手で顔を覆い隠してはいるものの、火でも出んばかりに耳元や首筋が真っ赤に色付いてしまっているのは当の彼女も自覚していた。
涙まで浮かんできたのは、度を越えた羞恥のせいだ。
「うう……いっそころして……」
ふたりっきりになった部屋で、ぐすぐすと鼻をすすりながら呻いた。
目の前にしゃがみ込んだ飼い主は、恐ろしく上機嫌に「そのうちな」と笑っている。
心底憎たらしい。
なまえはぶかぶかのコートを羽織って床に座り込んだまま、なじるように張を見上げた。
「もうやだだんなさまきらいです」
「やれやれ、手を貸してやろうかと思ったんだが。要らねえならそう言ってくれよ、なまえ」
潤んだ目で睨めつてくる飼い鳥を見下ろし、張は厚い唇を吊り上げた。
睨みあうこと、二秒か、三秒。
恨めしげな眼差しはそのままに、しかし「立たせろ」と言わんばかりに素直に両手を伸ばしたのはなまえの方だった。
張は屈託ない笑い声を高くあげると、それはそれは愛らしく顔をしかめている女を抱き上げてやった。
うらやましい
「うー……美味しそう」
唐突になまえが不満そうな声をあげた。
共に昼食をとっていた張は「あ?」と片眉をひそめた。
目線を投げかけてやれば、白い指先が、それと飼い主の手元を指さしていた。
「なまえだって一度くらい、お行儀悪くずるずるーって食べてみたいです」
「残念だったなあ」
飼い鳥の不満をあっさり一蹴した張は、また手元の麺をずるるとまた一口啜った。
品の良い所作で箸を操っていたなまえは、むっと唇をとがらせた。
主人や部下たちの喪服じみた黒服と同様に、この街で「白いワンピース姿の女」といえば自身を指すほどトレードマークと化している純白のワンピースを、なまえは未練たっぷりに見下ろした。
残念ながら、口にする際に跳ねやすいものや散りやすいもの、とりわけ水分多めの麺類全般は諦めなければ、どれだけ気を付けて食べたとしても、汚れを防ぎきるのは至難の業だろう。
露出のすくない真っ白な装いが、こんなときばかりは恨めしかった。
「んー……脱ぐわけにもいかないし……」
「おいおい、人のメシ中にストリップショーでもおっ始める気か、お前は」
「ご安心なさって。始めません。……下がってお着替えしてきてはだめですか?」
「別に止めねえが冷めても知らんぞ」
「……ね、旦那さま。あーんってしてくださいます?」
「しない。そもそも、なあなまえ、一口やるなんぞ俺は一言も言っちゃいねえんだが」
「まあ、そんな狭量なことをおっしゃるなんて」
なまえが小面憎いと頬を膨らました。
のんびりと頬杖を着いた張は、彼女のまるい頬を眺めながら独り言じみた呟きを漏らした。
「たまーにお前、食い意地が張ってるよな」
呆れたような飼い主の言を受けて、なまえは心外だとでも言いたげに大仰にまばたきした。
そのさまは幼い子が拗ねてみせるのに似て、ひどくあどけない。
小鳥はつんと顎を上げて「旦那さまと同じものが頂きたかっただけです」とのたまってみせた。
所有
「お邪魔して申し訳ございません、旦那さま。こちらもよろしいですか?」
振り向きもせず「ん、」と伸ばされたご主人さまの手に書類を差し出した。
その大きな手へ、書類の代わりにわたしの手を乗せてみたら怒られちゃうかしら――なんて考えているのは内緒だ。
お相手どころか、ちっともわたしをご覧くださらない旦那さまは、本国絡みの案件で朝からご多忙だった。
お邪魔しないよう席を外しておこうっと、と苦笑した。
ソファに坐す旦那さまのために腰を折っていたわたしは、大人しく私室に下がろうと「それでは失礼いたします」と背を伸ばした。
うつむいていたせいで頬へ髪が垂れかかっていた。
今日は結い上げていようかしら、なんて取り留めもなく考えながら耳へ髪をかけた。
「――なまえ、それ、」
「え?」
「そんなの寄越してやったか?」
なんのことかと首を傾げた。
ソファにゆったりと腰掛けた旦那さまが、サングラス越しにどこか胡乱な眼差しをわたしへ向けていらっしゃった。
お顔を拝することができて嬉しいけれど、旦那さまがなにを指しているのか見当が付かなくて戸惑ってしまった。
物わかりの悪いわたしがきょとんとしていると、御手が伸びてくる。
なあに、と屈んで旦那さまのお膝へ両手を添えた。
露わになった耳を、皮膚の厚い指にするりと撫でられて、思わず肩が揺れてしまった。
ぱちぱちまばたきをして、もしかして、とやっと思い至った。
今日わたしが耳に着けていたのは、小ぶりな意匠のイヤリングだった。
この身が纏うものは、一から十まで飼い主さまから買い与えていただいたものだけれど、このイヤリングはシンプルだったし、いつも着ているワンピースにも他の服にも合わせやすいだろうと、以前、珍しくわたしが選んだものだった。
「……ふふ。旦那さまったら」
今日これを選んだことに大した理由なんてなかった。
朝、身支度しているときに目に付いたから――その程度のことだ。
面映ゆい心地がして、つい口角がゆるんでしまった。
ご自分のお贈りになったものには無頓着でいらっしゃるくせに。
そうかと思えば、見覚えのないものをわたしが身に着けていると、目敏く気付いてしまわれるんだから、溜め息のひとつやふたつ、つきたくなるのも道理というものだ。
「ほんとうに、ずるいひと」
不実
床に跪いた飼い主を見下ろし、小鳥は怯えたようにてのひらを握り締めた。
ソファに腰掛けたなまえの眼前に張が膝を着いていた。
喪服じみた黒服を纏った影は、夜が蟠り造形したかのように不祥だった。
仄暗い部屋で、瀟洒なアームチェアに座する女と、その膝元へ跪拝している男――力関係は一見すると簡明ではあったが、まぎれもなく「支配者」は膝を着いた張維新の方だった。
ジタンを咥えた厚い唇が禍々しい弦月に割れた。
張は、ガラス細工と戯れるようになまえの左足を手に取った。
「馬鹿共の処分は済んだ、治療も受けた、報告も聞いた。だが――まあ、お前がこんなもん勝手にこさえたのは……話がまた別、だろ?」
「――ッ!」
ぐっと細脚を握られる。
悲鳴こそなんとか堪えたものの、鋭い痛みになまえは息を詰めた。
張の掌中にある左脚、なまえの膝から下には白い包帯がきつく巻かれていた。
銃声と叫喚なんぞ、この現代のソドムとゴモラの街においてさして珍しくもない。
しかし災禍極まれり、飼い主不在の折、ゆくりなく厄介事に巻き込まれた金糸雀が側杖を食ってしまった。
被害は左脚だけだ。
銃撃戦の最中、被弾して飛び散ったコンクリート片が左のふくらはぎをかすめ、肉を裂いてしまったという。
既に手当てを終えており、幸い神経に影響もない。
数か月で完治予定ではあったが、しかしうっすらとはいえ肌に引き攣れ痕が残ってしまうかもしれないとのことだった。
手術中に投与された麻酔はとうに切れている。
ぎりっと音が聞こえてきそうなほど強く握られ、いまにも失神してしまいそうな激痛に、なまえは強く奥歯を噛み締めた。
まるでそこに心臓があるかのように、えぐれた肉の裂け目がどくどくと疼き喚いている。
折角血が止まっていた傷口がまたも開いたらしい。
張の手の下で、じわじわ包帯が赤く染まり始めていた。
また手当てしなおさなければならないが、諫言を差し出す者などこの場にはいない。
「なあ、なまえ?」
殊更にゆっくりと名前を舌に乗せれば、彼女はびくりと肩を揺らした。
細脚を握ったまま、張はなまえを見上げた。
揺れる肢体や、浮かぶ冷や汗に気付かないわけではあるまい――否、真正面からなまえの苦悶の表情を丁寧に鑑賞しながら、張は鷹揚に煙草を燻らした。
ちいさな歯を噛み締め、健気に嗚咽も呻き声も耐えているなまえを見ていると、なんとしてもその矜持ごと完膚なきまでに屈服させしめ、滂沱の涙と共に謝罪させねばという、飢えや渇きにも似た欲求が鎌首をもたげる。
事程左様に、張がねじくれた面持ちで彼女の脚を握緊めていると、頭上から「ふふふ」とあえかな嬌声が降ってきた。
見上げると、血の気の引いた白い顔でなまえが笑っていた。
「――……あなたが残してくださらないから。ここ、先に痕を付けられちゃったじゃあありませんか」
主の怠慢を責めるかの口ぶりだった。
白磁の肌を刻むのはこの世にただひとりのはず――、ふるえる唇が吐く驕傲さに、蓋し目眩のひとつも覚えよう。
青白い顔で微笑むなまえを仰いで、張は、はっと吐息をひとつこぼした。
燻らすジタンに幽鬼じみた笑みを添え、嘉するように、いっそ恭しいまでの仕草で血の滲む脚へ唇を落とした。
「これでも大事にしてやってるつもりなんだがなあ」
可塑性
主人の眼前でなまえはにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます、旦那さま。お役に立てて嬉しいです」
浮かんでいるのは抑制された典雅な笑みだ。
完璧な微笑はうつくしくはあれど、どこか血の通わぬ精巧な造花めいた印象を与えた。
暗々裏、金糸雀が与した結果、街における紛擾のひとつが首尾よく運んだ。
無論、小鳥が表立って舞台に上がることはなかったが、関与せしめたのは飼い主だった。
つまるところ嘉されることはあれど咎められる謂われはない。
「……お前、可愛げなくなったなー……」
にもかかわらず、張から返ってきたのはこのセリフである。
いつものように恬然とソファに座して脚を組んでいる偉丈夫の様相は、思わずすがりたくなってしまうほど、堪らなく絵になった――いっそ憎らしいほどに。
思わずなまえは、むっと唇をへの字に曲げた。
「……いまのなまえにご不満があるなら、はっきりおっしゃって」
他ならぬ主、張維新に「可愛げがない」と言われ、大人しくはいそうですかと宜うことなどできまい?
微力とはいえ主君の役に立った成果に、よもや褒美ではなく暴言を投げつけられるとは。
何事かと眉をひそめている飼い鳥を余所に、翻って張は濃い煙まじりに嘆息した。
気のない表情で肩をすくめた。
弁えすぎた金糸雀の微笑が気に食わないのだから致し方ない。
余所に振りまくには申し分ないが、しかしその作り物めいた笑みはいただけない。
平生から彼が絡まなければ感情の振れ幅の狭い女ではあったが、元来の気質のせいもあってか、輓近その傾向が一層増しているように思われてならなかった。
素直に不服っぷりを露わにするなまえを見下ろし、張は白靄を気怠く吐き出した。
ジタンを挟んだ指で眉の上辺りを掻いた。
「そういう顔してると、昔のお前を思い出すな」
「……あなたと出会った頃みたいな?」
小首を傾げるなまえの仕草はいとけない。
その顔貌に十年以上前の面影は多分に残ってはいる――表情には天と地ほどの差異はあったが。
いまの金糸雀の様相から、張維新と出会ったばかり頃のなまえの面差しを見出すのは、確かに容易ならぬことではあった。
最早知る者もそういまい。
少女の域を脱し切れていない生娘の、怯えと恐怖とが入り混じりつつも、懸命に睨みつけてくる強い眼光はうつくしくはあったが――。
「あれはあれで面倒だな。また一から躾け直すにゃ骨が折れそうだ」
独り言ちた張に、なまえは「わがままなひと」と肩をすくめた。
「素気なくされるのがお好みでした? ご要望であれば尽力いたしますが……女に冷たくされて喜ぶような被虐趣味が、あなたにあったなんて」
「んなこたあ誰も言ってねえだろうよ、なまえ」
「――……あなただって、お変わりになりましたよ。旦那さま」
唇の端で気疎げにジタンを揺らしている男を見上げ、恭謙とあどけなさが絶妙に入り混じった微笑をなまえは奉じてみせた。
「“あのときのわたし”をお望みなら、“あのときのあなた”ではないとね」と。
閲する
他者から向けられる意識や視線、存在や気配に、張維新という男は並々ならぬ鋭敏さを持ち合わせていたが、自覚における実否は別として、さしもの彼も、長年傍らに置いている飼い鳥相手ではいささか鈍るものと認めるのにやぶさかではなかった。
とはいえ、これだけ無遠慮に凝視されていれば話は別である。
隣に侍るなまえが、じーっと彼を見つめていた。
物言いたげな彼女を見下ろし、張はわずかに首をひねった。
「なまえ?」
「んー……すみません、旦那さま。ちょっと気になることが」
色を正して「失礼いたします」と前置いたかと思えば、なまえは主人の黒いスーツの下へ腕を差し入れ、ぎゅうっと抱き着いた。
しかつめらしい顔で突然なにを始めたのやら。
彼女のうつくしい黒髪に灰が落ちぬよう、張は口元から煙草を離した。
甘えているのかと思いきや、なまえの表情は至って真剣である。
小難しい顔をしたまま胴へ腕を回し、さわさわぺたぺたと彼の体をさわっている。
小鳥の嘴めいた爪先が、シャツ越しの男の肌をなぞる。
こそばゆいやら、いつまで続くのやら。
そもそもなにがしたいんだこいつは、と張はサングラスの下の目をしばたいた。
「……なまえ、なにしてんのかそろそろ尋ねても?」
なまえの挙措は、大抵、張にとって予測も理解も容易いものだった。
とはいえさすがにこの行動には疑問を呈さざるをえまい。
再度名を呼び促すと、なまえは抱き着いたまま神妙な顔で主人を見上げた。
「旦那さま。すこし運動を増やしましょう」
「……なあ、たまにお前が怖くなるよ、なまえ」
「なんのことです?」
「……ちなみにどの程度かねえ、増えたの」
「きちんと計っていないんです、そんなに細かくわかるはずもないでしょう? なんとなくですが……二キロ弱くらいかもしれません」
「いや怖いだろ」
「なにが?」
きょとんと見上げてくるなまえの顔へ、張は紫煙まじりの溜め息を吹きかけてやった。
けほけほちいさく咳をすると、なまえが不満そうに唇をとがらせた。
秘密
こんな夢を見た。
腕のなかでは女がぐんにゃり頽れていた。
見下ろすと両手は血塗れだった。
雪を欺く顔、濡れて房をつくる濃墨の髪、溢れ出る血潮――不可逆的に赤く汚れる服と靴、刻一刻と広がっていく血溜まりが目を刺す。
自ら手を下した女を見下ろして「ああ、やってしまった」と惜しむ心緒があったのは嘘ではない。
嘘ではなかったが、しかしそれを遥かに凌駕していたのは、まぎれもない歓喜だった。
男は筆舌に尽くしがたい充足感に襲われていた。
脳髄がぐずぐずに爛れこぼれんばかりに昂揚していた。
己が唇が笑みを形づくっていることに気付いたときには、既に、腕のなかの女は死んでいた。
――夢などというものはかれこれ数年来見ていない。
そのためだろうか、目が覚めたとき、張維新はあれがただの夢だったのだと理解するのに数秒ばかり時間を要した。
夢、別して悪夢と呼ばれるものなのかも曖昧だった。
なにしろ夢のなかで自分は、ひとひとりが一生に覚えられるだろうすべてを上回るほどの歓喜と昂揚を覚えていたのだ。
それを悪夢と断ずるのはいささか間尺に合わないような気がした。
腕のなかの女の体温が徐々に下がっていく感触まで、生々しく覚えている。
微熱を帯びた目蓋の下で眼球をスライドさせると、殺したはずの女が横ですやすやと眠っていた。
夢を現実にすることはまばたきよりも容易かったが、いまそうしてやる必要はないだろう。
寝起きの茫洋とした意識のまま、張はなまえの健やかな寝顔を眺めていた。
いつまでそうしていただろうか。
ようよう煙草へ手を伸ばそうとしたところで、隣から「んん、」とあえかな声がこぼれた。
「……ん、ぅ……だんなさま?」
唇がやわらかくたわみ、ゆるゆると黒い目がまたたいた。
隣に横たわる主人を認め、なまえは「おはようございます」と顔をほころばせた。
眼差し、表情、声音、持ちうるすべての情動でもって、真っ直ぐにいとおしいと伝えてくる女を見下ろし、張は頬へ乱れかかった黒髪をすいてやった。
なまえは主の大きな手を甘受しながら、依然ふわふわと微笑んでいた。
「ふふ、だんなさまの夢を、みました……。夢か、どうか、すこし、わからなかったけれど。目がさめても、あなたがお隣にいてくださったものだから……」
「そうかい。頬は?」
「つねらなくて結構です」
「そりゃ残念。出演料を要求するつもりはねえが、内容によるかね」
「んー……ひみつです」
ふふ、となまえは甘やかに微笑んでみせた。
白状せずとも、世界中の幸福をその身ひとつに集めてしまった自覚を噛み締めるような笑みから、その夢が妙々たるものだったらしいことは明らかだ。
張は傍らのナイトテーブルから、ようやく青い箱を手に取った。
居丈高に「秘密、ねえ」と反復してみせた。
なまえが手を伸ばしてきたが、それを制し、咥えたジタンへ自ら火を点けた。
一服つけ、寝起きの体と脳にニコチンが沁みる感覚に目を細めた。
そのさまを隣で幸せそうに見上げているなまえの「秘密」とやらを、無理に暴いてやる野暮はしなかった。
なにせこちらまで蒙昧に「お前を殺す夢を見た」なんぞ吐こうものなら――、性根のねじ曲がった彼女を喜ばせてしまいかねなかったから。
冀
白い病室で、夜を連想させる黒い瞳が凝然と男を見下ろしていた。
更々揺らがぬ女の視線に急かされたか、ちいさな掌のなか、握られた男の指が、ひくと痙攣した。
「――……穴が、開く」
数日ぶりに発された声音は弱く、ひどくざらついてはいたものの、なまえが彼の――今生ただひとりの主、張維新の声を違えるべくもない。
引き攣れるように眉根が寄り、おもむろに張の目蓋が開いた。
甘さを残す面輪は憔悴の色を隠せずにいたが、しかし彼の目ははっきりと焦点を結んだ。
永劫にも思われた沈黙、膿むような静寂を破った男に、なまえは途方もない安堵に襲われた。
無様に泣き崩れてしまいそうになるのを堪えるのに必死で、すぐには繰り言のひとつも吐けなかったほどだった。
ふるえる唇へなまえは無理やり弧を刷いた。
重傷を負って昏睡状態だった張維新のそばを、一時たりとも離れようとしなかったなまえは、如才なく微笑んだ。
「……開けられるものなら、開けてさしあげたいです。他のひとばっかりずるいとお思いになりません、旦那さま?」
目覚めの囀りというには居丈高に過ぎる高言に、思わず男の口から苦笑がこぼれたのも致し方なかった。
喉の違和感を拭うように、張は咳払いした――が、腹の傷に障ったらしい。
厚い唇からくぐもった呻きが漏れた。
「――ッ、はー……手厳しいな。加減しろよ、寝起きの上に怪我人だぜ、こっちは」
「教えてくださってありがとうございます、わたしも存じています。言わせたのは誰ですか」
「……おいおい、泣くなよ」
「泣いてないです」
「なあ、お前そんなに下手だったか? 嘘つくの」
「っ、泣かせたのは、だれですか……」
「どっちも俺だな。……ほら、そのツラ見せろ」
「……いま、泣いているから、っ、やです」
「知ってるだろ? お前の泣き顔、気に入ってるんだよ、なまえ」
応酬の果てに、主の言葉に逆らうことなどできようか、ややあってなまえは観念したらしい。
うつむいていた彼女は顔を覆ったてのひらをゆっくりと下ろした。
いつの間にか、懸命に堪えていたはずの涙が後から後から溢れていた。
双眸が溶けてしまいそうなほど真っ赤に腫れた目元が痛々しく哀れである。
とうとう幼な子のようにしゃくりあげて泣き始めてしまったなまえを見上げ、張はやれやれと相好を崩した。
愚にも付かぬ騒乱の落とし前はどうなったのか、自分がどれだけ臥せて――どれだけなまえを待たせていたのか判然とはしなかったが、いまこの瞬間にすべきことが何なのかくらいは間然するところなく解していた。
やわらかな頬をはらはら伝い落ちる、今世一等うつくしいしずく。
点滴の留置針が刺さった腕もものかは、張はやさしくなまえの頬を指先で拭ってやった。
初恋
驚いた。
傍らに佇立する彪如苑は、サングラスに隠された目を瞠った。
玉座めいたソファに坐すボスをちらりと見下ろした。
鷹揚に足を組んだ張維新は、平生と変わらずのんびりと紫煙を燻らしている。
が、纏う空気がなんとなくひりついているのは、ただの気のせい、思い過ごしだと断ずるにはあまりにも――。
「“初恋”って良い響きですね。すこし気恥ずかしいけれど……。ふふ、どうかご容赦ください。“彼”と出会ったのは、旦那さまにお会いする前のことだもの」
口にせずとも張や彪たちの胸中を察したのだろう。
いつもように主の隣へ侍ったなまえは、花開くように微笑んだ。
恋を知ったばかりの処女もかくやあらん、いつもの従順、貞淑な笑みともまた違う、面映ゆそうなくすぐったそうな笑みだった。
女の過去のひとつやふたつ、暴くなど野暮極まりない。
然なきだに明日なき生を生きる亡者、後ろ暗い泥濘を生業としている者共である。
そもそも気になどすまい。
が、何にまれ例外というものはあるらしい。
なにせ女は女でも、あの「金糸雀」である。
既往といえど他に男の陰があったなど、意外と思ってなにが悪かろう。
なまえという女をすこしでも知り及んでいる者ならば、十人が十人、そのときの彪の胸裏に同意したに違いない。
「金糸雀」は張維新の「所有物」だ。
にもかかわらず、愚にも付かぬ贅言の結果、他愛ない、しかし看過するにはいささか微妙な過去が顔を見せたとあっては、嘱目するなという方が無理ではないか。
気温が下がったように感じられる周囲の状況が見えないのか、我関せず焉、なまえは嬉しそうに囀った。
「そういえば、“彼”のおはなしをするのは初めてでした? とっても大切な思い出ですから……あまり口外はしたくなくて。彼と過ごしたのはたった半日だけでしたが……あんなに楽しかったのは、生まれて初めてのことでした。手を引かれてああして一緒に街中を歩いたのは、両親との記憶にもありません。どうか今日という日が終わりませんようにって、ふふ、幼心にもこっそり懸命に祈ったくらいでした」
夢に夢見るように頬を染めたなまえの姿は、いくら性根の悪い「金糸雀」の顔を知悉する彼らといえど、思わず目を引かれてしまうほどに愛らしかった。
確かに愛らしい――が、比例するように急降下していくのは、ボスのご機嫌だった。
悠揚として迫らざる様相はやはり小揺るぎもしなかったが、如何せん纏う空気が剣呑に過ぎた。
堂に入った所作でジタンを灰皿へ放ると、張は大儀そうに首を傾げた。
「……いまのお前なら、探しゃ見付けられるんじゃないか?」
「あなたのおそばにいるのに? 探す必要はありません。もしも見付けることができたとして……旦那さま、害をなさないとお約束してくださいます?」
「無理言うなよ」
「ふふ、嬉しい……。でもだめです。あのひとのこと、わたし、未だに忘れられないんだもの」
毎度ながら折悪しくその場に居合わせてしまった己の不運を呪いつつ、彪は盛大に顔をしかめた。
指一本ふれられぬ悪名高き「三合会の金糸雀」、飼い主の機微に比類なく聡いはずの彼女にあるまじき舌端は、何をか言わんや――心密かに「なぜわざわざこんなことを」と訝しんでいると、彼の脳裏をある推測がかすめた。
――いやいやそんなまさか。
浮かんだ推測を内心笑い飛ばしつつも、彪が頬を引き攣らせていると、周りに花でも飛ばしそうなほど浮かれているなまえがおっとりと言葉を継いだ。
「こっそりと生家から出かけたのは良いものの……わたし、ひとりで外出するのは、初めてで。道端で途方に暮れていたら、彼が助けてくれたんです。若いというよりまだ幼い頃だったものですから、身長差も歩幅の違いも大きくって……見上げるのが大変でした。ふふ、そうしたら、彼、笑いながら屈んで、“抱き上げていこうか、お嬢さん”って」
幸せそうに思い出し笑いをしているなまえ。
その隣で驕傲に残った薄靄を漂わせていた張は、突如、頭痛にでも襲われたかのように顔をしかめた。
わざとらしく頭を抱えこそしなかったものの、形良い太眉は億劫そうに微妙なラインを描いてたわんでいた。
「……なあ、なまえ。ひとつ聞くが――そいつ、帽子に港のバッジ着けてたか? 天辺に王冠つきの」
「まあ、さすが旦那さま! よくおわかりになりましたね?」
なまえはまるい頬を紅潮させ、目もあやな笑みで「だから申しましたでしょう、“探す必要はありません”って」と嘯いた。
翻って、張維新はだらりとソファへかけた総身を更に脱力させた。
深々と溜め息を吐いた。
大仰な嘆息は重く、――しかしながらそれまで纏わせていた薄氷の如き空気はどこへやら。
先程までより間違いなく、すこぶるご機嫌が良い。
はじめっから蚊帳の外、そもそもこの場に居合わせる気など微塵もなかった彪如苑は、そのとき心の底から確信した。
「やってらんねー!」と叫びそうになったのを寸でのところで呑み込んだ俺を、誰か称賛してしかるべきだ、と。
口実
「あらあら、あなたたち、どうしたの? そんなお顔をして」
「……あー、大姐……」
ゆくりなく通りがかった女主人を認め、部下たちはおおよそこれが幸か不幸かで断ずるなら、まぎれもなく「不幸」に属する事態であることに気が付いた。
それも極めて「凶」よりのだ。
厄介なことになるのは必定であり、どう答えたものか顔を引き攣らせていた彼らだったが、つい手を差し伸べてしまいたくなるような可憐な表情で「隠しごとしちゃ嫌よ」と、閉月の「穢れなき処女」に見上げられてしまえば、それ以上否やを唱えられようか。
健気に背伸びしてふれ合わんばかりになまえに上体を寄せられ、後退りながら黒服のひとりが口火を切った。
盛大に躊躇いながら吐露した部下曰く、なんてことはない、彼らのボスが電話に出てくれないのだという。
とりあえず目星は当たってみたが、残る星が鬼門――女のところかもしれないとあっては、彼らもおいそれと手を出すのを逡巡せざるをえなかった。
おっとりと頬に手を当ててあらましを聞いていたなまえの唇が、おもむろに弧を描いた。
乱暴に握ろうものならば砕けるやもと危ぶむ白い手が添えられた、華奢な女の浮かべる臈たけた微笑に、一般人のみならず街の有象無象すら忌避する黒服の強面が「ヒッ」と息を呑んだとか呑んでいないとか――。
ともあれ世にもうつくしく笑んだ白妙の鳴鳥は、頬に沿わせていたてのひらをひらりと優雅にはためかせた。
どこから取り出したのやら、魔法のように手中に現れたのは黒い携帯電話だった。
「……大姐、なにする腹積もりですか」
「まあ、“腹積もり”だなんて。そんなものなくってよ、あなたたちのお役に立ちたいだけだもの。旦那さまのお邪魔をするわけにはいかないけれど……ふふふ、仕方ないわよね?」
だってあなたたちが困っているんだもの、と因果を含めるようになまえは小首を傾げた。
「仕方ない」と吐く割りには満面の笑みで、どこかへ電話をかけ始めた。
やはり彼女に伝えたのは浅慮だったかと黒服共が頭を抱えたくなっているのを横に、恐ろしくやわらかい声音で金糸雀が囀った――「もしもし? こんにちは。ええ、わたしよ。ねえ、ひとつ聞きたいことがあるの。イエスかノーで答えて頂戴ね。あなた、今日、あのひとのお車を任されていて? ……ああ、やっぱり。――ふふ、焦らないで。どこにいるかなんて、わたしは尋ねていないでしょう? 気が咎めるのは理解していてよ、でも、ねえ――あのひとをこの電話口にお呼びしてくれる? ああ、気にしないで、わたしはいくらでも待ってあげるから」。
死に花
(※IF死ネタ)
その「音」に気が付いたとき、女の痩せた頬があえかに色付いた。
弱った喉からは笑い声こそ出なかったものの、色の失せた唇が悪戯っぽい弧を描いた。
――ああ、あのひとの靴の音だ。
なまえはうっとりと瞳を潤ませた。
飼い主の足音のひとつやふたつ、聞き分けられない金糸雀ではない。
主、張維新の所有物であるにもかかわらず、彼ではなく病魔の爪牙にかかった為体を一度くらい謝罪したいところではあったが、あかぬ別れといえど、唇に笑みが浮かぶのを堪え切れなかった。
なぜなら、戛然と迫る靴音は、知っているものよりずっと荒れていた。
男物の硬い革靴がこれほどまでに鷹揚と洒脱とを欠いて響くのも滅多にないことだった。
部下たちに示しが付かないじゃあありませんか、ともっともらしく窘めてやりたいところではあったものの、残念ながらそれは叶うまい。
とうに視界は暗闇に没していたが、やわらかく頬をゆるめたなまえは、朦朧とした頭の隅で彼の靴音を聞いていた。
遅きに失した男を迎えたのは、ひとりで死んだ女の遺体だった。
病床、否、いまや死の床となった褥に就くなまえ。
静かに下りた目蓋は透けるようにうつくしく、病から解放された面差しは、やつれてはいるものの露いささかも苦患の気配はない。
日々乱発する事件や、予期しない騒擾に巻き込まれたわけではなかった。
式微は日に月に花がしおれるように、命旦夕に迫っていた。
死に目にすら会えなかった主は薄く息を吐いた。
聴覚が膿むような静寂が支配する死の淵において、吐息は立ち上ることなく落下し、彼らの周囲へ重苦しく沈澱していくかのようだった。
死体を見下ろす偉丈夫の様相は、夜より生まれ出でた幽鬼すら怖気を震わんばかりであり、纏う喪服じみたダークスーツは病室という場には縁起も悪かろう、しかしながら死体ひとつ横たわるいまこの期には、これほど相応しいものも他になかった。
以て瞑すべしと、女の顔がそれはそれは幸福そうにほころんでいた理由を、今生、誰ひとりとして知り得ないのは不幸なことだっただろうか。
撞着
鋭い痛みを覚えてなまえは喉を押さえた。
外からいくら撫でようとも癒えるわけがないと頭では理解していても、咄嗟に手を当ててしまう。
不快感は、刺々したものが喉奥に引っかかっているようだった。
息をするだけでじくじく熱を持って痛む喉に、なまえは「はやく治らないかな」と胸中だけで嘆息した。
柳眉をひそめるなまえの隣で、我関せず焉、煙草を燻らしていたのは彼女の飼い主だった。
気障ったらしい仕草で張は片頬を歪めると、いけしゃあしゃあ「大変そうだなあ」と吐いた。
口をつぐんだまま、なまえは張を睨めつけた。
そもそも不調の原因は彼である。
昨夜、常になく無体を強いられたせいで、ひっきりなしに声をあげさせられた喉が嗄れてしまったのだ。
なまえは空咳をひとつふたつこぼすと「Bless you.」と紫煙を吹きかけられ、ただでさえ痛む喉に刺激がはしった。
なまえは恨めしそうに主人を仰ぎながら、そっけなく「Appreciate.」と嘯いた。
なんとか絞り出したかすれ声は、とても鈴のようにとは言いがたい。
顔には「誰のせいだと」と、仮令全き主でなくともそれと汲み取れるほど非難がいっぱいに含まれていた。
彼女の視線に、張維新は「熱烈だな」と肩をすくめた。
「火傷しちまいそうだ、そう見つめてくれるなよ。それより――なあ、職務怠慢か? “鉱山の金糸雀”は囀ってこそじゃあなかったかね」
「っ……、」
多分に揶揄を含んだ軽口に、なまえは不意を突かれたように瞳を揺らした。
動揺を覚られたくなかったか、花瞼はすぐさま伏せられた。
濃い睫毛が頬に影を落とすさまは、どこか不安げですらあった。
おや、と張はわずかに目を眇めた。
ふつふつと湧いてくるような愉悦を覚え、口の端のジタンにあざけるというには穏やかさの勝る笑みを添えた。
「……なあ、なまえ。まさか本当に警報代わりに、お前を傍に置いてるとでも思ってたか?」
返答はなかった。
低く笑いながら、張は煙草を灰皿へ放った。
細く紫煙が立ち上る。
あくまで「なまえ」は張維新のもの。
煙草の一本、酒の一杯と同じ「嗜好品」である。
彼は嗜好品に、有益であること、役立つことなど端から求めていない。
そもそも「金義潘の白紙扇」が、愛玩物の判断や采配如きに重きを置くものか。
「やれやれ、今更、ンなこと懇切丁寧に説いてやる手間が必要たあな、驚いたぜ。小鳥風情が、身の程も忘れて思い上がってたらしい。この街に長く置きすぎたか、下らん彼此におだてられたせいかな、なまえ? なら――待遇を考え直さなきゃならんが」
並ぶ語のひとつひとつこそ冷淡ではあったが、口調も、眼差しも、穏やかだった。
サングラスのせいで判然とはしないものの、奥の黒眼には幼な子に言い聞かせるのに似た、ぬるい情のようなものすら窺えた。
なまえはかすかにうつむいた。
恋い慕うひとにとって有益でありたい、役に立つ存在でありたいと欲するのを僻心と笑われるのは心憂く胸が痛むものだった。
しかしながらなんの利も価値もない、脆弱な立場の女は、だからこそ自らのこの要路をいとおしんでいた。
ただ彼が望むから、なまえはいまここに在るのだから。
なまえはかすれた声で「……知って、います」と囁いた。
片や、飼い主は「小鳥も可愛いとこあんじゃねえか」と依然笑っている。
痛む喉をもてあましながら、なまえは拗ねたように顔をしかめた。
可能なら繰り言のひとつでもぶつけてみたいが、この喉ではそれも敵わない。
ゆるやかに腰を抱かれて、ずるずる引き寄せられた。
抱きすくめられ、自分よりずっと大きな主の腕のなかにすっぽりと収まってしまったなまえは、逞しい腕に抗うことなく、しかしふてくされるようにそっぽを向いた。
こうして抱き締めるだけで容易く機嫌が治ると知っている主人のことも、そしてそれが事実である自分も、どちらに腹を立てているのか、既にうやむやにほどけてわからなくなりつつある自らの性根ばかりが恨めしかった。
あやなす
花がしおれるように肩を落として、なまえがぽつりと呟いた。
「もったいない……」
名残惜しげな視線の先は、掲げた自らの手、正しくは爪先のマニキュアだった。
肌馴染みの良い淡い蜂蜜色は、さして目立つほど剥げたり欠けたりしているわけではないが、そろそろネイルオフして塗り直しても良い具合だった。
特別この色を気に入っているというわけではない。
ただ、可惜この爪化粧は――
「この間、俺が塗ってやったやつか」
「ええ。折角あなたに施していただいたんです。落としたくなくって……」
「そりゃまたぞろ俺にやらせようって腹か?」
「えっ、いえ、そんなつもりでは……。すみません、旦那さまにそんなことまでしていただくつもりはありません」
苦笑し、なまえは祈るように両の手を組んで指先を隠した。
ソファにかけた張の隣で、いつものように侍る彼女は本心からそう思っているらしい。
殊勝げななまえの顔を眺め、張は鷹揚に口の端のジタンを揺らした。
器用に片眉を上げながら「塗るのも消すのもそう変わりゃしねえだろ」と首をひねった。
「変なとこ遠慮するなあ、お前」
「遠慮、というか……」
なまえが言葉を探しあぐねている間にも、張はさっさと繊手を攫っていく。
ただでさえ厚く大きな男の手と、ちいさな女の手とが重なっているさまは、誂えたような対照で、我が物顔で手を取った張に、なまえは気恥ずかしそうに目を伏せた。
「それでは、あの、ご迷惑でなければ……お願いしたいです」
「は、隠し切れてねえぞ、にやけ顔」
「……だって、その間……旦那さまがなまえにふれてくださるんだもの」
無垢に火照った頬のやわらかさは、たといそのふれ心地を知らぬ局外者といえど、つい手を伸ばしてしまいたくなるほどだった。
知る者など今生ただひとりしか存在しえないのは言うに及ばず。
いわんや飼い主が撫でてやりたくなったのも道理――とはいえまずは、その頬のような薄紅色の小瓶を探すところから始めなければと、のんびり紫煙を燻らしながら張はサングラスを外した。
嬌態
層楼の天辺へ戻ってきた張維新を呼び止めたのは、大人しく鳥籠で彼を待っていたなまえだった。
「ん?」と首を傾げた主人の眼前へ弾むような足取りで駆け寄ってきて、一旦停止。
なまえはおもねるように飼い主を見上げた。
張が用件を問うより先んじて、やにわになまえがよろけた。
「きゃっ」と愛らしい悲鳴付きで、「思いがけず」と言わんばかりに張の身へ倒れ込んだのだ。
「ああ、お許しください、だんなさま……。足を痛めてしまったかもしれません。すこしだけこのままで」
謝罪の言葉とは裏腹に、鶯舌は蜜が滴るように甘やかだった。
なまえは男の厚い胸元へ顔をうずめて、しわが寄らないギリギリの力加減で張のシャツを握り締めていた。
あまりにもわざとらしい媚態に、張は「そういやこのところ構ってやってなかったな」と嘆息した。
ここ一週間ばかり多忙だったため、ふれられるのもふれてやるのも、実際、久方ぶりの心地がする。
そろそろ小鳥は限界だったらしい。
すがってくる細い肩を張は見下ろした。
もっと上手くやれだの、煙草を吸っていたならどうするつもりだっただの、苦言を呈したいところは多々あれど、溜めに溜め込んで暴発するより余程マシとすべきだろうか。
立場や環境、生来の気質もあるだろう、閑日月、どうにもひとりで感情も思考も処理しがちな小鳥が、こうして他愛ない口実を設けてでも直截に甘えてくるようになったのは、ある種の成長に違いない。
過去の悶着が脳裏を過り、いっそ感慨深くすら感じられた。
抱えた案件たちも目途が立っていたため、飼い鳥の相手をしてやる暇くらいあった。
あるいはなまえの行動はそれも織り込み済みでのものだったかもしれない。
「構わんが……なあなまえ、その間、俺はどうやって潰しゃいいんだ、暇」
「んぅ……ご、ごめんなさい、だんなさま、もうちょっとだけ……」
逞しい主人の身にすがりつき、なまえは恍惚の溜め息をついている。
首元へかかる熱っぽい吐息に、張はネクタイを引き抜きたい衝動に駆られた。
今朝方、彼女が締めた黒いネクタイは、しかしいまこの体勢ではゆるめるのも難しい。
離せと命じて、果たしていまのなまえが素直に言うことを聞くかどうか。
手持ち無沙汰に、張はなまえのつややかな黒髪へ指を通した。
すこしでも身じろぎしようものなら、白百合の香りと共に、蠱惑的な肢体のやわらかさが伝わってくる。
戯れに彼が半歩身を引けば、咎めるように、拗ねるように、一歩詰められる。
さっさと服越しではなくその極上の肌を直接堪能したいところではあったが、いささか放置していた自覚があった飼い主は、なまえの児戯めいたふれ合いに付き合ってやっていた。
とはいえそろそろ、ワンピースのボタンを外し、暴き、完璧に施された口紅を崩してやってしかるべきではないか。
張がのんびり逡巡していると、ややあって女の手がゆるんだ。
「ふう……。だんなさま、なまえのわがままに付きあってくださって、ありがとうございました……」
黒い瞳が最中かの如くとろりと潤んで自分を見上げるのを認め、張は満足げに唇を歪ませた。
中途半端に開いた女の口唇からは、ふれずとも熱すら感じられるような赤い舌が、音を発するたびちらちら覗いた。
元来楚々とした顔貌がそうやって陶然ととろけているさまは、雄という雄を陥落、あるいは昂揚せしめるのに絶大な威力を有していた。
男の喉が無意識に鳴った。
細顎を掬い上げ、張が「なまえ、」と口付けを落とそうとしたところで、しかしあっさりと彼女は身を離した。
満足そうにふわふわと微笑みながら「お忙しいところ呼びとめてしまい、申し訳ございませんでした……失礼いたします」と踵を返そうとしていた。
時間にして、ほんの二、三分のことだ。
もう充分、とそのまま立ち去っていきそうななまえに、男の口から危うく「あ?」とこぼれかけたのも致し方ないことだった。
これからだろうが、と張は内心呻いた。
離れていく白腕をつかんで無理やり引き寄せると、なまえは今度こそ本当によろけたらしい。
尼僧服めいた純白のワンピースの裾がさらりと揺れた。
不興を買ってしまったのかと、咄嗟に身を強張らせたなまえは「ご、ごめんなさい、旦那さま、あの、お仕事のお邪魔をして……」と項垂れた。
悲しげにうつむいた顔は親に叱責された幼な子のようだ。
数瞬前の幸福そうにとろけた顔と、いまの落涙せんばかりの憂い顔、素直にくるくる変わる表情を揶揄してやる余裕は、もしかしたら彼の方にこそなかったのかもしれない。
そこまで思い至った張は苦く自嘲すると、勘違いしている女を傍らのソファへ押し倒し、ようやくネクタイをゆるめた。
(2020.10.25)