夜明く

熱を帯びた目蓋が重い。
纏わりつく不快な倦怠を追いやるように、チャンは片腕を額へ乗っけた。
ぐしゃりと髪を掻き乱すと違和感を覚え、眉根を寄せた。
反対の、伸ばしたままの腕が軽かった。
秒針の音も響かぬ閑雅なねやで、ほぼ無意識に指がシーツを這う。
暗晦あんかい満ちる夢寐むびが破れると、腕のなかにあるはずの女の姿がなかった。

のろのろと目を開き、寝ぼけまなこで隣を見やるも、やはり共にとこに就いたはずのなまえはおらず、淑やかな白百合の残り香がうっすら感ぜられるのみだった。
寝起きの喉がいがらっぽく、張が横になったまま咳払いをしていると、音もなく寝室のドアが開いた。
端無く誰何すいかもノックもなしにこの扉を開ける者など他にいまい。
静かに顔を覗かせたのは、果たしてなまえだった。
張が目を覚ましていることに気付くと、彼女はやわらかく頬をゆるめた。
どこへ行っていたのか問う前に、オーバルトレイに水差しとグラスを乗せたなまえは「喉が渇いてしまって」と囁いた。

「おはようございます……と言いたいところですが、旦那さま、お目覚めになるにはまだすこしはやい時間ですよ」

夜に相応しいゆるやかな物言いで、ベッド脇のナイトテーブルへトレイを置きながらなまえが苦笑した。
暗い部屋に女の肌が月の光のように白く浮く。
寝台へ腰かけて穏やかに「あなたもお飲みになりますか」と尋ねる彼女へ、返答の代わりにやおら後ろから腕を回した。
片腕でぐいと引き寄せると、女はちいさな悲鳴をあげて、あっけなく腕のなかに収まった。

「もう、びっくりしました」と口をとがらせているらしいなまえを、後ろから囲い込んだ。
寝起きで力加減が上手くいかなかったかもしれない。
が、頓着することなく強く抱きすくめていると、なまえが息を詰める気配がした。

「っ……だんなさま、なまえが潰れてしまいます」

言葉こそたしなめるようだったが、声音はどこまでもやわらかく、面映ゆそうだった。
いまのいままで眠りの淵に沈んでいた張に比べ、空調の利いた室内からベッドへ戻ってきたばかりのなまえの肌の方がずっと冷えていた。
ちいさな爪先が彼の脛とたわむれる。
不随意な寝覚めで覚醒しきっていない意識には、その冷たさが心地良かった。

脚と脚とを絡ませていると、なまえの肌もようようぬるくなった。
たゆたう黒髪を鼻先でゆるやかに掻き分け、露わになった首筋へ口付ければ、くすぐったそうになまえが笑った。
あえかな笑い声は「怖い夢でも見たの」と幼な子をあやす母親のようだった。

「ちょっとだけ離して、だんなさま、ね、」

二回目の呼び声は、とんとんと腕をやさしく叩かれる動作と共に向けられた。
なまえは駄々をこねるようにゆらゆらと体を揺らしている。
腕の中で泳ぐ肢体は、その白さに冷たさを連想させるものの、いつの間にか脈打ちあたたかくなっていた。
こうして抱きすくめたまま眠ってしまおうと思っていたが、無視して寝るにはいささか鬱陶しい挙動である。

再度「だんなさまぁ」と間延びした声で促され、張は仕方なく溜め息をついた。
とうとう腕をゆるめて解放してやると、なまえはすぐさま寝返りを打った。
至近距離で張維新チャンウァイサンを見つめるなまえの、ゆるんだかんばせはどこまでも幸福そうだった。
眼差しも声も表情も、彼女の持ちうる身体と心延こころばえのすべてでもって、真摯な情愛を伝えんとほころんでいた。

「なまえ、」
「ふふ……だんなさまばっかり、ずるいです」

細腕がぎゅうっと張の体を抱き締めた。
体格の大きく違う男の体躯すべてを抱き留めようとするかのように、白い腕がいっぱいに伸ばされた。
濃く染みついた煙草と香水の隙間から、なまえ自身の肌の香りが、そして心臓の音がやさしく届く。

「だんなさま、なまえはここにおりますよ」

喋々喃々、吐息のような囁きだった。
なにも知らないくせにわかったようなことを吐く女が憎らしく、いじらしく、もう一度だけ嘆息すると、彼は「なにを今更」と嘯いた。


随にU

「あら、久しぶりに顔を見せたと思ったら、早速お勉強? 篤学なのは結構だけどね、なまえ。ここは貿易会社の看板を掲げてはいるけど、すくなくとも語学スクールだったことはないはずよ」
「もう、意地悪をおっしゃらないでください、ミス・バラライカ。やっぱりネイティブの方とお話していないと、なんだか妙な癖やアクセントが付いてしまう気がして……」
「でも大した上達っぷりじゃない? よっぽど籠の中で暇だったのね」
「そうですね。ご多忙な方にこんなことを言うのは気が引けますが……他にやることがなくて」

申し訳なさそうになまえが「ここ最近、お外に出られなくて」と苦笑した。
ティーカップを傾けていたバラライカは、やれやれと言わんばかりに「いつもながらご苦労さま」と肩をすくめた。
安閑たる昼下がり、ホテル・モスクワ頭目ヴォールと三合会の金糸雀カナリアは、ブーゲンビリア貿易の社長執務室にて久方ぶりの茶会に興じていた。

語学テキストを手にしたまま、なまえが「ああ、そういえば、」と小首を傾げた。

「この間、すこしだけロシア語を話す機会に恵まれましたが、随分と言葉や語調が硬いって言われてしまいました。バラライカさんのところでご指導いただいているとそうなるんでしょうか?」
「そればっかりは仕方ないんじゃない? 金糸雀カナリアの講師役を任せられるような人間となると、私の部下・・・・に限らざるをえないもの。なあに、まさか今日は師事先を変える相談でもしに来たの?」
「とんでもない。お忘れですか、ミス・バラライカ? あなたとこうしてお茶をご一緒させていただいているときに、こちらから教えを乞うたんですよ」
「じゃあ、そろそろ本を閉じて頂戴。ホストを放って教科書と睨み合いしてる小鳥をありがたがって眺めるシュミはないわよ。あなたのところの飼い主がどうかは知らないけど」
「ふふ、これは失礼を。……ちなみにあのひとはご不満だと、本を奪って放り投げてしまいますね」
「……ねえ、なまえ、あなた、逃げたくなることってない? もしくは銃の一発でも撃ってみたくなることとか。ロシア語より銃の撃ち方の方がよっぽど上手く教えてあげられると思うんだけど、どう?」
「まさか“大尉殿”ご本人にそうおっしゃっていただけるなんて、魅力的なお誘いですが……。あれ、この会話、以前にもいたしましたね?」
「そうね、言ってて自分でもそう思ったわ。飼い主に似たか、金糸雀カナリアもシュミが悪い」
「うふふ、光栄です、ミス・バラライカ」
「はッ、褒めちゃいないわよ、ちっとも」


気散じ

大廈の廊下の一角で部下とふたり、仕事の書類を手に話し込んでいたなまえは、近付いてくる主の靴音を聞きつけてつと顔を上げた。
なかんずく特徴的というわけではないが、飼い主の靴音のひとつやふたつ、聞き分けられぬ金糸雀カナリアではない。
ぱっと振り向いて「旦那さま!」と嬉しげに微笑んだ。
折も折、果たして張が廊下の角を曲がってくるところだった。

が、すぐになまえの笑顔は凍りついてしまった。
一目見て、飼い主が少々ご機嫌斜めである気配を察知してしまったためだ。
どこがどうと具体的に挙げられるわけではないものの、纏う空気というか、足取りというか、口を開く為様しざまというか、つまるところ全体的にイライラしていらっしゃるのを、小鳥は敏感に感じ取ったのだった。
それでなくとも一見して威圧感はなはだしい風体の主人を、なまえが恐る恐る「ど、どうかなさいましたか……?」と見上げれば、サングラス越しの男の目が不穏にまたたいた。

「……煙草は?」
「あ、ああ、お煙草……。お手持ちの、切らしてしまいましたの? お許しください、わたしもいまは持っておりません。ストックがわたしのお部屋にありますから、すぐにお持ちいたしま――っ、きゃっ」

饒舌な主人らしからぬことすくななさまになまえが苦笑していると、発言の途中で、やにわにくっと後頭部を引き寄せられた。
まったく予期していなかった張の行動に、なまえの華奢なヒールがぐらっと揺れた。

「――ッ、あっ、んぅ……!」

悲鳴のこぼれた唇が塞がれ、思わずなまえは目を見開いた。
粗雑な挙措きょそで抱き寄せられたかと思えば、無理やり口付けをぶちかまされては当然だろう――それも部下の眼前でだ。
平生、言葉を交わす以上の接触を他人にさらすような真似をしない主だからこそ尚更、突然の乱行らんぎょうになまえが慌ててしまうのも無理からぬことだった。

しかし彼女より一回りも二回りも大きな張の両手でがっちりと両頬を包まれてしまえば、逃げるどころか些細な抵抗すら叶わない。
手にしていた書類が、ばさばさっと落下した。
そんな些事に頓着する余裕のあるものなど、この場にひとりとしていなかった。

「だ、だんな、さま、やめっ……! く……ぁふ、ん、ぁんっ」

味わうように、苦い舌がなまえのちいさな口腔を這う。
ぐちゅ、ぢゅるっとあられもない水音が鳴り、なまえはぎゅっと強く目を閉じた。
頬に彼のサングラスが当たり、その感触にすらぞわぞわと肌が粟立った。
身長差のせいでなまえは上を向かざるをえず、姿勢のせいで溢れる唾液を飲み下すことすら難しい。
むせてしまいそうになりつつも、遠慮も容赦もない長い口付けの間、強制的に付き合わされる女は、時折びくっびくっと不規則に痙攣していた。

「ぁう、っ、くっ……! 〜〜ッ、は、はあっ……!」
「……ん、構わねえよ。自分で取りに行ってくる」

ぱっと張が手を離すと、ようやく解放されたなまえは荒い息のままぐしゃりと床に崩れ落ちた。
項垂れて両のてのひらで顔を覆ってはいるものの、黒髪の隙間から覗く耳や首が火が出んばかりに紅潮しているのは見間違いではないだろう。
ひるがえっていくらかご機嫌が直ったらしいボスは「あー……ストックあるの忘れてたな」云々のたまいながら、ひとりでさっさとなまえの部屋の方へ去っていった。

さて廊下に残されたのは、顔を隠して未だ深くうつむいているなまえ、そして先程から可能な限り全力で気配を殺していた憐れな部下である。
床に散らばった書類と、そこへ崩れ落ちてしまった金糸雀カナリアという惨状を前に、彼は傍らで微動だにしないまま、内心「どうすりゃいいんだこれ」と天を仰いだ。


(2020.09.15)
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