どうしたの・・・・・かあさま・・・・?」

幼な子らしいふくふくとしたちいさな手が、母の手を握った。
車椅子にかけた女の痩せた膝へ、ひとりの少年がすがっていた。
よわい十ほどだろうか、もう数年もすれば雅趣と精悍さとを備えるようになるだろうと思わせる顔立ちである。
一心に母を見上げる幼くも聡明な瞳は、年頃に似つかわしくない気遣わしげな色に染まっていた。
――この子は誰だったっけ。
なまえはぼんやりと見下ろした。

穏和な陽光に満ちた療養所の面会室は、病棟のロビーというより瀟洒なホテルのラウンジのようだ。
そこかしこに花が活けられ、時間すらゆるやかに流れているかのような錯覚を抱かせた。
しかし窓越しに見える無骨なコンクリート塀は高く、鉄格子や有刺鉄線こそないものの、ぐるりと途切れなく敷地を囲んでいる。
あの障壁が視界に入るたび、ここはブラック・サイトか檻のようなものだとなまえは思った。
宿世すくせ今世すべての罪業を煮詰めて「あの街」にそびえたる塔の天辺、輪奐りんかんの鳥籠とどう違うのかと自問すれば、その答えはひとつしかあるまい。

ひどく反応の鈍い母親を見かねたか、少年が再度「かあさま、」と呼びかけた。
冥府から恋人を呼び戻そうとする詩人もかくやとばかりのひたむきさと健気さに、なまえはかすかに嫌悪を込めて微笑んだ。
自ら腹を痛めて産んだ子だというのにと忘れるにはあらねど、くだらない芝居は未だ終わる気配を見せず、照覧あれ、いまや「母」という役柄まで与えられている始末だ。
これを笑わずしてどうする?
あの街ロアナプラを、香港を――主人のもとを離れ、一オクターブ以上の月日はとうに過ぎ去っていたはずではあるものの、喜劇これを疎んじてなんの罪があるだろう。

「――奥様、お時間です」
「あら、もうそんな時間?」

背後に控えていた女性が慇懃に口を差し挟んだ。
なまえの車椅子の手押しグリップを握っていた看護師の言葉に、少年がくしゃりと顔を歪めた。

「いやです……。ぼく、かあさまと一緒にここにいます」
「あらあら、そんなわがままを言って……どうしたの?」
「おうちに……とうさまが知らない女のひとを連れてきて、ずっといるの。食事も、一緒にしなきゃいけないんです。かあさまのお席に座らないでって言ったら、叱られました。だれですかって聞いても、とうさまもあのひとも、教えてくれない。……ぼく、あのひと、きらいです」

苦しげな表情のまま、たどたどしく訴えかける子のいじらしさ、憐れさときたら、なまえの背後に控えた看護師が、同情で思わず「坊ちゃん、」と声を詰まらせたほどだった。

我関せず焉、母は浮かべた笑みを更々損ねることなく小首を傾げた。
元来楚々とした顔貌が浮かべる少女めいた無垢な微笑は、この世のものかいぶかしく感ぜられるほどの白痴美だった。
結わず流れるままに任せた黒髪が、誘うようにさらりと垂れた。

「まあ、そんなこと言わないで……。かあさままで悲しくなってしまうわ」

しかしながら当の母親は「そのひととも仲良くしてあげてね」とやわらかく微笑んでいる。
それはまぎれもなく無関心のなせるわざであり、突き離された彼はもどかしげに、くっと唇を噛んだ。
夜に似た黒い瞳はあたかも忘我の境地を行ったり来たりしているように視点が定まっておらず、色の失せた唇、慈母めいた微笑は蝋燭の火のように頼りない。
手を離そうものならやにわに掻き消えてしまうと愚直に信じているかのように、少年は母親の手を強く握った。
幼い顔は煩悶と寂寥とに覆われ「自分が思っていることをどうやって母へ伝えれば良いのかわからない」と如実に書かれていた。

なまえは子の手をやさしく振りほどいて「さあ、」とちいさな肩を揺すった。
少年の後方には、護衛兼運転手とおぼしきスーツ姿の男が歩み寄ってくるところだった。

「お迎えがきましたよ、戻らなきゃ」
「でも……」
「――ねえ、あなた、わたしのことが好き?」
「っ、すき、すきです、ぼく、かあさまのこと、」
「じゃあ、好きなわたしのことを困らせたくはないでしょう? わたしの言っていること、わかるわよね。あなたは良い子だもの」

繰り返し聞いたセリフは、そのまま受け取るにはあまりに透き通っていた。
幼い子のように――事実、年端も行かない少年だったが――膝へすがる息子の、切り揃えられたやわらかな前髪を彼女が指先で撫でてやると、聡明な瞳が潤んだ。

「……とうさまのお許しが出たら、また来ます。お話ししたいことが、ぼく、まだたくさんあるんです」

少年は一途に母を見上げ、つたなくも懸命に言葉を連ねた。
自らのはらから出てきたというだけで一途に慕ってくる息子という生き物へ、なまえはほうけた眼差しで頷いてやった。

「ええ……また遊びにきてちょうだいね」

不承不承「はい」と頷いた少年は、母の顔を振り返り振り返りしつつ、どうにか迎えの男の元へ走って行った。

「ふふ、坊ちゃんってば。いつもながら、本当にお母様のことがお好きなんですね。お顔立ちもよく似て……目元なんか特に奥様にそっくり。利発なお子さんだし、さぞご自慢でしょう?」
「――え? ああ……そうね」

縹渺ひょうびょうとした眼差しで一人息子を見送っていたなまえへ、看護師が妙に朗らかに微笑みかけてきた。
男子をひとり産んだところでここへ厄介払いされ、以来ずっと世話されているが、そういえばこの看護師の名前すら覚えていないことにそこで初めてなまえは気が付いた。

なおざりに相槌を打ちつつ、肉の落ちた脚が醜く思われて、膝掛けを引き寄せてそっと下肢を隠した。
その行為を寒さによるものと勘違いしたのだろうか。
憐れみと独善的な思いやりとで吊り上がった口角で、看護師が「お部屋へ戻られますか」と尋ねた。

なまえは大儀そうに目を伏せた。
看護師の言うお部屋とやらもこのロビーとさして変わりはない。
白い個室は明るくて、清潔で、安らかで、うっすらと消毒液や人熱ひといきれがこもったにおいがした。
危険なんてこれっぽっちもない牧歌的な病室の、四角く区切られた窓からは、高い塀がよく見えた。
どこへ行こうと同じことだった――この囲いからはどうせ出られやしないのだから。
聞いているのか否か判別しかねる様相でなまえはゆっくりと首肯した。

「それでは動かしますね。お気を付けください、奥様」

もう誰も、彼女のことを「金糸雀カナリア」とも、「大姐」とも呼ばなかった。

「飼い主」の近況を調べようと思えば可能やもしらねども、腐臭も、血潮も、潮騒もいまや遠く、しそんなことをして今更なんになるだろう。
張の黒いコートを見て夜闇を思い浮かべるように、なまえは夜闇を見上げれば張を思い描いたものだった。
いいや、夜だけではない。
この世のすべてに彼を連想した。

夜空を見上げれば思い出してしまうから、毎晩、眠れない夜をひたすら白いシーツを眺めて過ごした。
うつくしい暁霧ぎょうむを見て、彼と迎えた朝焼けを思い出すものだから、窓辺に近寄らなくなった。
日中、うつらうつらしていると誰かの煙草の香りがして、違う銘柄にもかかわらず振り返ってしまう癖を矯正するのに難儀した。
路傍の花が目に映り、育てていた花はどうなっただろうかと、彼と共に過ごした本邸や私邸の風景が否応なしに頭をよぎった。
雨が降れば、太陽が照れば、空が青ければ、花が咲けば、枯れれば、鳥が囀れば、風が吹けば、暑ければ、肌寒ければ、喪服じみた 黒服 ダークスーツが目に入れば、黒塗りの車とすれ違えば、撃鉄を起こす音、薬莢の落ちる音が耳に届けば、着信音リングトーンが鳴れば、食事をすれば、紅茶を飲めば、本を読めば、文字を書けば、音楽を聞けば、髪をくしけずれば、笑みを形づくれば、――誰かが自分のそばにいたら、他人からふれられたら、抱かれたら。
季節は巡り、そうしているうちになまえは気付いた。
世界は地獄でできていた。
忘れられるということは、なかったことにされてしまうのと同義だ。

しかし彼に捨てられた悲しみも、彼を求める苦しみも、いまはもうすべてが通り過ぎた。
最後に与えられたものが「自由」なんぞではなかったことにも気付いたが、心は静かに凪いでいた。
思考は覚束なく、ふわふわと眠気のようなものに包まれているような心地がした。
硝煙どころか、煙草も白百合の香りもしない自分がひどく不思議で、不気味で、なまえは「この女は誰だろう」と、先程少年へ感じた疑問を、今度はおのれへ投げかけた。
白い病室に、白い患者衣、痩せた白い手足。
誰だろう、これは・・・・ ・・・

来し方行く末、すべてを捧げた男にふれられたこの身は最早見る影もなく、もあらばあれ、既往、長い夢を見ているようだった。
そうでなければ道理に合うまい。
今生すべて邯鄲かんたんの夢――ただの「なまえ」は夢見るように微笑んだ。

「ふ、うふふ……」

目を覚ましたら、隣にいらっしゃるあのひとに、おはようと手を伸ばして抱き締めていただかなくちゃ。
「悪い夢を見たの」と甘えたら、きっと「贅沢だな、俺が横にいてそんな暇があったのか」ってやさしく叱ってくださるわ。

くすくすと不祥な笑い声が細く長く響いた。
どこからか声が聞こえたような気がしたが、彼女はすぐに忘れた。

「おや、奥様、随分とご機嫌ですね」
「ええ、坊ちゃんがお見えになったのがよっぽど嬉しかったんでしょうね。意識と受け答え、今日は珍しくはっきりしてらっしゃいましたよ」






――そうですね、母親に抱く印象ではないのでしょうが、少女のようにあどけなく、清らかなひとでした。
特に亡くなる前の数年は、俗世離れとでもいうんでしょうか……しっかり手を握っていても、本当に目の前にいるのか不安になるくらいおぼろげでした。
富裕とはいえ面倒や俗用も多い家だったこともあり、ふふ、幼な心にも「僕が守ってあげなくちゃ」と思ったものです。

十年前、私は看取ることは敵いませんでしたが――いえ、彼女の最期は病室にひとりきりで、看取った者など誰ひとりいませんでした――、遺体は悲しいほど軽く、当時まだ十二だった私でも容易に抱き上げることができたほどでした。
葬儀の夜、彼女とふたりっきりで過ごした最後の夜、あのとき私は決めました。
母が私へ向けて笑いかけるとき、いつもわずかに嫌悪を含んでいることに気付いていましたから、知ろうと思ったのです。
どうして彼女は私を愛してくれないのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ああ、すみません、関係のない話を。
腕っぷしはからっきしの私を取り立てていただいたのは、台湾との折衝せっしょうに利用するためと理解しているつもりです。
新参者である私との会談に、こうして人払いまでしてお付き合いくださり感謝しています。
それだけのものをご提供できると確信します。
私の腹違いの兄たちはそれぞれ、本省経済の中心、中央の官吏や将校と、いずれも瑣末とは言いがたいポストに就いています。
必要であれば親族全員を差し出しましょう。
刑務所に放り込むなり海に沈めるなり、大陸との取引材料エサに使うなりご随意に。
そのための手段、為様しざまは諸事揃えています。
無論、ある程度の混乱は予測されますが、結果的に香港こちらは害よりも利を多く上げることができるでしょう。
まずもって「手土産」をご覧いただければ――信頼とまではいきませんが、信用はいただけるものと期待しています。

暴力ばかりでは商賈しょうこは回らず、策や銭勘定ばかりでは人は動かしがたいものと私に教えてくださったのは、兄貴分の――ええ、そうです、あなたの部下のひとりでした。
彼にあなたのことはよく聞いておりました。
直にお会いできて光栄です。
あなたなら・・・・・これが媚びへつらいや社交辞令などではないこと、理解してくださいますよね?
こうしてお会いするため、私はここまで参りました。

「私の母親は……あなたが“金糸雀カナリア”と呼んだ女です」

察していたのだろう、青年の告白に張維新チャンウァイサンは反応らしい反応を見せなかった。
青年の埒もない独白に付き合ってやっていた彼は、ゆったりと息をついた。

「懐かしいな、そのあだ名を聞くのも。放逐した小鳥が鷹を産んだか……。ふ、あのあと・・・・はそりゃあ方々からあれこれなじられてね。君にも見せてやりたかったよ、母君の担った輿望よぼうは俺の想像以上だったらしい。惜しいとは思わなかったが、なぜかね、君を見てると懐かしい心地がするよ」

夜凪の如き柔和な声音は、甘さと渋みの極上の衡平バランスを保って豊かに響いた。
往時「雅兄闊歩ウォーキン・デュード」と謳われた男は老いてなお洒脱であり、重厚なアームチェアにかけた泰然たる佇まいは、およそ非の打ちどころのないほどに紳士的だった。
サングラスをかけていないせいで、深い知性を宿した黒い双眸がどこかひょうげた光をたたえているのが見て取れた。
撫でつけられたシルバーグレイの髪が総毛立つほど似合い、青二才などでは到底足元にも及ばない、匂い立つような色香と威徳いとくとを気怠げに着為きなしていた。

青年の域を脱した否かといったところの白皙のかんばせを真正面から見つめると、張は口の端にわずかに苦い笑みを滲ませた。
部下あいつらがそろそろ控えろってうるさいんだよ」とこぼしつつ、懐から煙草を取り出すと、すっと歩み寄った青年が火を点けた。

室内の照明を抑えていたため、乱立する大廈高楼たいかこうろうは夜空から星屑すべて地へ引き摺り落としたかのような輝きを、ふたりが対峙する応接室へ奉じていた。
きらめく夜景は一幅の絵画のようだ。
本土返還以来、ここ十年二十年で更に増えた高層ビル群の偉観いかんを眺め、摩天楼を支配する梟雄きょうゆうは濃い紫煙を吐き出した。

「俺みたいな人間は随分と肩身の狭い世情になったもんさ。君くらいの頃は、爺様方の“時代は変わった”だのなんだのとぼやきがうざったくて仕方なかったが……ふふ、俺も歳食うはずだよ」

静寂しじま満ちる夜に相応のバリトンが、静かに響いた。
穏やかな眼差しこそ魔天楼へ向けられてはいたが、意識は儀礼的な距離を保って直立する青年へ注がれているようだった。
押し黙り拝聴している青年へ、三合会きっての碩学せきがくは「それで、」と紫煙を吹きかけた。

「ご用件を伺おうか。“鳧奚ふけい”の爺様とその関係者共の首を手土産・・・にウチに求職した理由は、ママのり言を聞かせるためだけじゃあなかろう? 父親殺しの汚名はどうやって隠蔽した?」
「警察に伝手つてがありまして。まあ、年齢が年齢でしたし、放っておいてもそう長くはなかったでしょうが……最後に息子の役に立ってくれて感謝しています」

丁度良い賄賂だったでしょう? と青年は同意を求めるように小首を傾げた。
刻んだような薄い微笑は更々揺るがせもしなかった。
目蓋を半眼に下ろした張は、気疎けうとげに「余程、家庭にご不満があったらしい」と嘯いた。

「なあ、君。聞いてると、母親というより、死んだ恋人の話でも披露されている気分になってくるんだが」
「そうですね。腹違いの兄弟姉妹は多く、成果を挙げねば正腹といえど爪弾きにされましたから。母が黒社会こちら出身とあって、尚更私を庇護してくれる者はおりませんでしたし。幸い、この容姿が利用できると知ってからは、ある程度生き易くはなりました。“初めて”も父の愛人のひとりに手を出されてのことでしたが、なんの感慨もありませんでした……。ただ、母のことを思い浮かべたときにようやく射精できたので、実際、母だけが私の性的対象なんでしょうね」
「……ああ、そうかい」

いみじくも台湾南部をその手中に収めた青年は、こともなげに囀った。
寧静ねいせいたる口調と声音は、聞いていると耳が腐り落ちそうなほどやわらかい。

なにをか言わんや、張は肩をすくめた。
白靄を漂わせたその顔には「聞かなきゃ良かった」と書いてある。
薄く笑む青年を前にして、俎上に載せた女のことを思い、張は「死んでからも関わってくるなんぞ、執念しゅうねい女だ」と息をついた。
一応、嫁いだ後に台湾との折衝せっしょうにおいて、それなりに役に立っただけマシだったろうか。

甘ったるい声音と香水の浅慮な女かと思えば、面白みに欠けることに隙ひとつ見せず、その上、ふとした瞬間に油断ならない印象を抱かせる、薄氷のような女だった。
記憶にある限り相対した時間はそう長くはなかったが、顔を合わせていると「そこまで趣味の悪いつもりはなかったが」とうっすら自嘲じみた苦いものを味わわせる不愉快な女でもあった。
愚かとしか評しようがあるまい?
自覚する前にこちらが求めているものを差し出してくるような他人を、それも、護衛として使えないどころか最低限の自衛すら敵わない――弾除けとしても使えるか否か危うい女を、わざわざ手近に置くなんぞ。
とまれデメリットばかり目に付くとはいえ、おとしめればそれだけ、ひるがえって過去の自分への指弾となるため、幾分耳の痛い話ではあったが。

「――やれやれ、まさか本当にママの思い出話を遥々しにきたとは。とはいえ俺にお相手が務まるかねえ。俺には大した心覚えも形見もないんだよ。なにせ顔もろくに覚えちゃあいないんだ。写真の一枚も残って――ああ、いや、あれから三、四年ほど後だったかな? 本国こっちの邸に一枚だけ、ネガと一緒に保管されていたな。俺の顔が写っていたんで燃やしちまったが……。懐古主義の傾向きらいはないと自覚していたつもりだったがね。――ふふ、これは愚痴・・だよ。母君が絡むと、君だけじゃない、こちらまで厄介な憂き目を見るらしい」

煙と共に慨嘆を吐いた。
本邸の書斎のデスクから張がそれを見付けたのは、まぎれもなく偶然だった。
急を要さない枝葉末節のため手を伸ばしていなければ、あるいはいまもそこに眠ったままだったかもしれない。
彼以外の者がおいそれと入室できる場所ではなく、てて加えてそのデスクの抽斗ひきだしの中となれば尚のことだ。
ならばこれを後生大事に仕舞い込んでいた犯人は――そこまで考えが至り、張はふと目を伏せた。
咥えたジタンを灰皿へ放った。
たった一葉の紙切れに写っていた男の面輪おもわはそら恐ろしいほど穏やかで、彼自身ぞっと肌を粟立たせざるをえない代物だった。
顔をしかめさっさと所持していたライターですべて焼却してしまったが、あの女が関わると自分の知らない自分が見える、と何度目かわからぬ苛立ちが湧き起こった。
情けないやら不愉快やらで、まったくもって死んでからも面倒なと、内心忸怩じくじたる思いに襲われるのも致し方ないことだった。

とはいえ今更死に花の女についてあれこれ文句を垂れるべくもなく、殊更凪いだ眼差しで張は青年へ一瞥をくれてやった。

「お役に立てずすまないな」
「いいえ。彼女のことを話してくれる人間は私の周囲にはいませんでした。不帰ふきの客となって以来、私も母に関することは口をつぐんで生きてきましたから、他でもないあなたから話を聞けて嬉しいです。……あなたとは写真を撮ったんですね、あのひと。私にはこの身以外、ついぞなにも残してはくれませんでした。……それも仕方ないことだったかもしれません」

口上にたがわず、死んだ女の話をしているとは思えぬほど浮き立った面持ちで、青年は微笑み――いや、それは本当に笑みだったのだろうか?
その黒い瞳が、底のない湖のような瞳が、ぎらぎらと熱狂じみた光を浮かべていることに張が気付いたときには既に、おもむろに青年の手は懐へ伸びていた。

「――……そうか。そうだったな。“どうして彼女は私を愛してくれないのか”、か」
「ええ、そうです。彼女を失ってから今日まで、私はあなたに会うために生きてきました。愚かだと笑うでしょうか。母の名残だけが、私の生きるよすがだったのです」

青年の形良い唇から、熱に浮かされたように愛に似た呪詛が滔々とうとうと流れた。
狂乱せんばかりに昂ったありさまは地獄の幽鬼もかくあらん、しかし語調ばかりはぞっとするほど淡々としていた。
瑕疵かしひとつない、穏やかさと清らかさとを声にしたなら、こういう音になるのだろうと確信せしめる声音だった。

「母が私を見てくれたことはありませんでした」

銃を握った青年はどこか泣きそうな顔で微笑んだ。

「母はずっと、あなただけを見ていたんですね」

一発で仕留めきれなかったのは、ただ単純に彼がひとを殺すのに慣れていなかったからだ。
他者を排除するときにはそうならざるをえない状況へ追い込むか、ひとつふたつめいじることによって成してきた。
暴力よりも姦計と策謀、処世術でここまで上り詰めた彼は、初めて知った銃の反動がもたらす痺れに眉をひそめた。
銃弾は男の腹をぶち抜きはしたものの、死に至らしめるにはいくらか時間を要する塩梅だった。

ゆっくりと歩み寄るさまは、さながら百合のようだった。
かつりとまだ馴染んでいない革靴が硬質な音を立てた。
青年の頬はまるで長い距離を走った直後のように火照り、内側から赤々と色付いていた。

重厚なアームチェアに崩れ落ちた男の体をしっかりと抱き留めた。
今度はあやまたず銃口を眉間へ宛てがった。
年齢を感じさせぬ厚い身を『ピエタ』じみて抱き上げていると、男の唇の隙間からきしるような息が押し出された。

そのとき、だらりと垂れた張の腕が青年の手首をつかんだ。
――この期に及んで命でも惜しくなったか。
すくなからず失望を覚えていると、やおら男の顎が上がった。

「――なまえ、」

雷に打たれたように青年の目が見開かれた。
それは久しく呼ぶ者のいない女の名だった。
もしも世俗一般でいう神などというものが存在するのならば、実以じつもって髄まで性根が腐り果てているとしか思えない。

二の句も継げずにいる青年を濁りつつある目で見上げ、張はうっすら唇をたわめた。
風穴の開いた腹、流れ出る血、かすむ視界。
既視感につと目眩を覚えた。

まことや、二十年以上前のあのとき・・・・「置いていくつもりはなかったんだがなあ」などとかこっていたことを思い出した。
ただでさえ明日をも知れぬ流氓リューミン、アウトローの身上、濁世に残す未練もあらばこそ、それでも死に瀕して思い出すのが飼い鳥のことなんぞ、と憮然としながら溜め息をついたことも――。
知っている。
覚えている。
なまえという女が絡むと、たかが飼い鳥一羽のためにはなはだ愚かな男に成り下がると、いわんやそれが不快ではないというのだからなんとも毒されていると、皮肉っぽく自嘲していたことを。
共に白々明けを迎えた朝を、共に濃い影を踏んだ昼を、共に暗がりを歩んだ夜を。
すがってくる細い指先を、華奢な肩を、指通りの良い黒髪を、容易に腕に囲えるやわらかな肢体を、淑やかな白百合の香りを、愛らしい桃色の唇を、よく通るあえかな声を、ひたむきに見上げてくる甘い瞳を。
ただひとりの飼い主を恋い慕う、なまえのその心延こころばえを。

今世すべての情動を堪えるように一度だけ、はっと大きく息を吐くと、張維新チャンウァイサンは笑った。
憂うように、慈しむように、悔いるように、いとおしむように、あるいは――。

さながら白昼夢。
青年の白皙のかんばせに見たのは、自分の手を握って幸福そうに微笑んだ女の面影だった。

「――目が、似てるな」
「……幼い頃から、よく言われました」

ふっと笑った青年はもう一度引き金を引いた。

足元へ崩れ落ちた男の死体を、広がる血溜まりを、彼はずっと眺めていた。
はらから自分を生みだした母は――唯一愛した女は、いまの自分を見てどう思うだろうか、とふとよぎった。
恨むだろうか、糾弾するだろうか、はたまたよくやったと褒めてくれるだろうか。
幼少の頃からよく自分を「良い子」だと、透けるような笑顔で言っていた。

銃声を聞いてようやく駆けつけてきた黒服たちを、彼は微笑みながら振り返った。
ふんわり広がる驕慢な裾が、夢のようにうつくしく翻る。
ただそれだけが白璧の微瑕びかであるかのように、夜を呑んだような虹彩に死人じみた色を、否、「死」そのものの眼で、男は囁いた。

「いま、引き金を引いたのは私です。しかしそうおめいじになったのはこのひとです。こんな大役を頂戴したことを誇りに思います。微力ながら私も香港こちらのため尽力いたしましょう。ですから、」

紫煙よりも軽く、人命よりも重く、理非なき濁世になによりも相応しい、夜のような囁きだった。
地獄の釜を開けるとき、その人物はきっとこんな表情をしているに違いあるまいと確信させる笑みだった。
燦然たる夜景を背景に、穏やかに微笑んだ男の、

「ねえ、このひとの跡目、私にくれませんか」


(2020.09.12)
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