(※IF記憶喪失、死ネタ)
1
忘れられるということは、なかったことにされてしまうのと同義だ。
血の気の引いた指を固く握り締めた。
瓢げた口調とは裏腹に、毒を含んだ剃刀のような眼光にさらされ、生き物として単純な怯えを覚えたなまえの身がすくんだ。
耳を疑うには彼女は聡明すぎたし、それ以上に彼の言葉は至りて明瞭だった。
「……それは、ご命令ですか」
「いや? ご不満なら断ってくれて構わんよ。なんせ身請けだ、あんたの人生がかかってんだからな。蹴っ飛ばすんなら、上は俺から執り成しておこう――まあ、お嬢さんを余所へ嫁がせようって進言したのは、他でもない俺だが」
幼い子のように、わっとしゃがみ込んで身も世もなく泣き喚いてみたら、この胸の塞がる心地もすこしは晴れるだろうか?
切り傷をこしらえた唇が無様に揺れそうになったが、なまえは尋常ならざる自制心でもってそれを抑え込んだ。
見開いた目をすぐに伏せた。
ローテーブルを挟んで向かい側のソファに座する主、張維新に、動揺を覚られやしなかっただろうか――そんな場違いなことを考えていた。
2
忘れられるということは、なかったことにされてしまうのと同義だ。
白々明けを迎えた朝も、濃い影を踏んだ昼も、暗がりを歩んだ夜も、ふたり共に過ごした時間は、決して嘘ではないのに。
それらすべてがなかったことになるなど、もしも世俗一般でいう神などというものが存在するのならば、実以て髄まで性根が腐り果てているとしか思えない。
あのとき「わたしを引き換えにしても良いから」とは願ったけれど、まさかわたしのすべてを失わせるなんて。
なまえは唇をきつく噛み締めた――いつの間にか、口内に血の味が広がっていたことに気付くまで。
「――大哥のお戻りですが……大姐、迎えに出られないので?」
「いやだ、それ、いまのわたしにはとっても意地悪よ。あなたのこと嫌いになっちゃいそう」
「……失礼しました」
ぬるい微笑まじりになまえが見上げれば、黒服はしかつめらしく口を結んで引き下がった。
大人しく彼が自室から退出したのを認め、なまえはハンカチを唇へ当てた。
くっと柳眉をひそめた。
鼻腔に満ちる血臭が不快だった。
繊細なレースに縁取られた白い布切れが赤く汚れる。
ああ、この身を傷付けてしまったと憂えど、彼女を咎める者はいなかった。
この場には、あるいはこの世には。
張維新が重傷を負ったとの報をなまえが受けたのは、正業のお遣いでひとり出張所まで出向いているときのことだった。
命じられた用向きを慌ただしく済ませ、即刻舞い戻ったなまえを迎えたのは、白い病室で眠る主人だった。
手術は成功したものの、いつ昏睡状態を脱するかは不明瞭であり、容態は予断を許さないという医師の説明に違わず、青褪めた顔に生気はなく、酸素吸入器をあてられた口からは細い息が漏れ聞こえてくるのみだった。
前後のことをなまえはあまり覚えていない。
その場で崩れ落ちそうになったのをなんとか堪えられたのは、ふれると伝わってくる彼の体温が、平生と変わらず自分よりもわずかに高かったからに他ならない。
以降、なまえは昼夜を舎かず張の病室へ侍っていた。
つまらぬ与太者の凶弾に主人が倒れるなどとな到底思えなかったものの、然もあらばあれ、主へ銃を向けたことを、この濁世に生まれ落ちたことをすべからく後悔させねばなるまい?
代理もしくは後任を手配しようと通牒を寄越してきた本国との折衝や、決定の引き延ばし工作の合間、「首でも並べて褒めていただきたいけれど、お目覚めになったときに他の人間が邪魔しているような無粋は嫌だものね」と残念そうに眉を下げた金糸雀の指示により、関係した者たちにはしっかりカタを付けさせた。
大方、皆、未だ死後の裁きにも至れず、黄泉路を渡らんとバラバラになった四肢を自ら拾い集めている頃合いに違いない。
そうして重ねたある夜――世界のすべてが死に絶えてしまったかの錯覚に襲われるほど静かな夜、目覚めない男の隣で、前述の通りなまえは「わたしを引き換えにしても良いから」と祈った。
なまえの望みを叶えてくれるのは、天上の何者かではなく、いつだって当の主である。
張の意識が回復したのはその次の日のことだった。
すこしく面やつれしてはいたものの喜びに涙をこぼしながら笑むなまえを見上げて、目を覚ました飼い主は不審げな眼差しで一言こぼした。
「誰だ、あんた」と。
誰何の声に即答できなかった彼女を、誰が責められるだろうか。
記憶障害との診断を受け、なまえは忌々しげに「ドラマや映画ではよくあるパターンね」と口角を歪めた。
映画でも小説でも、大抵、医師は生真面目な顔をしてこう言うものだ――「記憶は次第に戻ってくることが多いのですが、いつ取り戻せるかは断言できません。明日かもしれません……もしかしたら一年後、あるいは十年後かも」。
物語ならば紆余曲折を経て記憶を回復して大団円となっただろう。
しかし残念ながらそうはならなかった。
張が香港へ戻ることすらなかった。
詮議立てする必要もないと判断されたためだ。
幸いなことに、仕事に差し障りなどなかった。
なぜなら忘れたのは「なまえ」の存在のみだったからだった。
そのことを知ったとき、思わずなまえは笑ってしまったものだった。
あまりにもつまらないメロドラマじみていたし、そう都合良くピンポイントで記憶というものが失われて堪るかと悪態をつきたかった。
忘れたいほどに自分が疎ましかったのかと彼をなじってやりたかった。
なにより、自分の愚かしさにただ笑うしかなかった。
主、張維新の特別になりたいなんぞ身の程知らずの願望もあらばこそ、「特別扱い」を僅々嬉しく
感じてしまったなど、あまりに救いようがなかった。
「っ、いた……」
鋭い痛みのせいで思考が中断された。
どうやら無意識にまた傷をこしらえてしまっていたらしい。
ちいさな白い手は握り締めすぎて青みがかってすらいた。
なまえは血で汚れたハンカチを捨てた。
雑に拭ったせいで滲んでしまった口紅をなおしていると、なまえの私室へ恐る恐る顔を覗かせた者がいた。
先程退出したばかりの部下が戻ってきて、遠慮がちに「大哥がお呼びです」と招請を言付けられた旨を告げた。
「そう……。あなたたちも肩身が狭いわよね。ふふ、面倒をかけてごめんなさい」
「大姐、」
「ほら、そんなお顔をしないで。すぐに参りますってあのひとにお伝えしてちょうだいね」
一度だけ深呼吸すると、なまえはひとりでペントハウスの階下へ降りた。
ただでさえ手摺りもないストリップ階段は、ステップを叩くヒールが無様にぐらつかないよう難儀した。
足取りは踊るようにとはとても言いがたく、さながら罪人が絞首刑の階段を上がるのに似ていた。
「……このなかから、お選びになるんですか」
そして、ローテーブルを挟んで向かい合って座したふたりは、恐ろしく静かな目でそれを見下ろした。
書類が乱雑に卓へ抛られていた。
なまえは紅を塗りなおしたばかりの唇をまた噛んでしまいそうになったが、細く息を吐くことでそれを堪えた。
口内の切り傷が熱を持ってじくじくと痛んでいる。
こうして対話することすら久方ぶりに感じられたが、顔を上げて真正面から主を見上げることすらなまえはできなかった。
クリップ留めされ、いくつかに大別された紙の束を指して男は――張維新は「そうだよ、大した量だな」と嘯いた。
怪我の影響もなく、一見なにも変わりなどないようだ。
しかし元来甘さを残す丸い双眸は、いまは鋭利な凶器のようにたわみ、薄い三日月を形づくった厚い唇はジタンの代わりに冷ややかな言葉ばかり乗せた。
ソファにかけた姿は気怠げですらあったが、しかし、真正面で居住まいを正したなまえを如才なく睥睨しているのは、その視線を向けられていない背後に控えた部下にも明らかだった。
サングラスに遮られ、その双眸に浮かんでいる心情が何なのかまでは掻暮見当も付かなかったが。
いつも通りなまえが隣へ侍っていたならば、あるいは。
まるでそこが万乗の玉座でもあるかのように、張は悠然と足を組んだ。
「ふ、至らぬ身が恨めしいよ、ここんところ俺も思い悩んでいてなあ。手元で飼い殺すには気が重いが、そこらへ放り出したり“商売”に回したりするには、お嬢さん、あんたは内情を知り過ぎてるらしいときた。そこで手付きでも構わんと奇特な御仁方をリストアップさせていただいてな? どこへやったもんか、進路相談ってわけだ。ああ、無論、ご希望は伺おう。内部のお偉方から、余所の関係各所のお歴々……待遇は正妻から側女、侍女まで、引く手数多、選り取り見取りだ。は、なんの利もないと自称する割には、随分と人気者だな?」
厄災を齎した当人の声は、およそこの場にはそぐわないのんびりとしたものだった。
語り口は普段通り軽妙洒脱、非の打ちどころがないほど紳士的だった。
まるでここがどこかの典雅なサルーンでもあるかのようなゆったりとした偉容と、耳に馴染んだ悠揚迫らぬ低い声色は、しかしだからこそなまえの神経に障った。
このひとは、わたしへ向けてこんな声音を、眼差しをなさらない。
――旦那さまは、わたしにこんなことをおっしゃらない。
「……過分な評価です。それに、仮に潜り込むことができたとしても、間諜の真似事だったり、伝手になったりだなんて……とても、わたしに務まるとは思えません」
「はは、聞き間違いじゃあなければ、あんたにそこまで期待しているように聞こえるが? そう気負いなさんな。勘違いさせたならすまないが、そこまでの大役を背負わせるつもりはない。あくまでお嬢さんは先方とのパイプ役程度だよ、なにも橋頭堡やら閨閥やらまで担ってもらおうなんざ、端から期待しちゃいないさ。――わざわざ注釈が必要たあ、余程、自分の器量に覚えがあるってことだな。結構なこった、感に堪えんよ」
やや芝居がかった仕草で肩をすくめると、張は軽蔑したような薄い笑みを見せた。
サングラスの奥の、髪と揃いの夜の双眸は怏々とした陰を帯びていた。
すまないと口にしつつも、その実、詫びるつもりなど毫もないのは明白だった。
掌を指すほどに了然と軽んずるセリフの合間、弧を描いた偉丈夫の唇は俗気なく、こんなときですら精悍で、なまえはうっとりと見惚れそうになってしまい、すぐに目を伏せた。
喉に焼けた石を無理やり詰め込まれたかのように声も出せず、熱と痛みで唾液を嚥下するのも非常に難しかった。
かすかに香る白百合、あるいは煙草の煙くらい脆弱な立場、所詮ただの情婦に過ぎないなまえは、張に不要と判断されれば、手を離されれば、袖にすがることはできない。
知っていた。
わかっていた。
いつだったか、既往、ラグーン商会の水夫とのつまらない戯言で、「わたしはあのひとの所有物だけれど、あのひとはわたしのものではない」と吐いたことがあったのを思い出していた。
そう、それだけのことだ。
なにしろ、思慕に満ちたなまえの目が鬱陶しいと申し渡されてしまえば、詮方ない。
こればかりはなまえにはどうにもできないことだった。
なまえの嬌羞を含んで潤む瞳、とろりと滴る蜜を音にしたかの如き声色、甘えすがるように纏わりついてくる白い手指は、この世でただひとり、張維新にだけ向けられる。
張の意識が戻ってすぐのことだった――病室に詰め切っていたなまえの媚びたその目、その声、甘ったるい香りすらもが煩わしく、辟易しているのだと、嫌悪まじりに突きつけられたのは。
あのときの張の顔貌と口ぶりを思い出すだけで、いまもなまえは血液の代わりに氷塊を全身へ流し込まれたような心地になった。
ならば躊躇せざるをえまい。
声をかけることも、ただ見つめることすらも。
仮になまえが好意を――恋心を隠そうとしたところで、無謬なる白紙扇の炯眼は、小鳥の他愛ない努力など意図せず見破ってしまうだろう。
瞳も声も腕も、必要とあらば主人へ差し出すことを厭いはしないが、なまえの瞳も声も腕も、存在すらも、彼には不要だった。
ただでさえなまえよりもずっと、殺気をはじめ他者の気配や存在に極めて鋭敏な張のことだ。
己のテリトリー内に我が物顔でのさばる慮外の女なんぞ、唾棄の対象にもなろう。
いっそのこと、その他の数多の女のように張が臥せた病室へおいそれと参ぜぬ身だったなら、ここまでの嫌悪を抱かれることもなかったかもしれない。
しかしなまえは付きっ切りで張維新の看病をしていたこと自体は後悔はしていなかった。
皮肉なことに、これほど彼を独り占めできたのは、長い時間を共にしてきて初めてといっても過言ではなかったからだ。
言うに及ばず、はやく目を覚ましてと明暮泣き濡れていたのは嘘ではないが、同時に、なまえは余所の女など近寄らせもしなかった――部下たちへそう命じることが「金糸雀」の立場は可能だった。
幼な子じみた独占欲と笑うなら笑うがいいと涙まじりに自嘲していた日夜、これは身の程知らずの優越感に対する罰だとでもいうのか。
「――どうした、なにかご不満かな。どれもすこぶる好条件の出仕先だと思うが」
視線は値踏みするようだった。
洗練された男の舌端を損ねてしまいかねぬ無遠慮な眼光は、なまえにとって時と場合によっては数多の雄から向けられるのに慣れてはいたものの、他でもない張にそんな目でいま見られているのだと思うと、ひくりと喉が引き攣った。
逃げるように、なまえはちいさく「いえ、申し訳ございません、過ぎた口を」と謝罪した。
目の奥が熱を帯びて痛んだ。
つい泣き出してしまいそうになり、反射的にうっすら微笑んだ。
とまれかくまれ「もし」「だったら」「ならば」と仮定の話をいくらしようとも詮無い。
この浮き世は、起こったことしか起こらない。
素直に「不要なら、いっそ御手にかけてくれれば良いのに」と責めなじることができたらどれだけ良かっただろう。
張維新から死を賜うのなら金糸雀は喜んで受け入れるというのに、主はそうしてくれなかった。
畢竟するに.22LR一発と殺してやる手間よりも、下げ渡しの面倒を選んだということだ。
彼の性分で、使えるものは何にまれ使ってやろうというだけの話だろう。
あくまで「なまえ」の存在が頭のなかから消えてしまっただけで、性根や天稟そのものが変質してしまったわけではないのだということを、今更ながらに痛感する。
不要な女のために手間を割き、俗事を共にするなど、酔狂を通り越してただただ愚かである。
生かしておく利と、保護してやる面倒――天秤は容易に傾く。
お払い箱だと正面玄関から叩き出すことも可能にもかかわらず、身元保証の紹介状まで付けて廃棄してやろうというのだから、御の字と思うべきなのだろうか。
不要になった女を適当な人間へ宛てがい厄介払い、かつ有効活用とは、いみじくも人事考課に秀でていらっしゃる。
洋の東西を問わず繰り返されてきた、縁故、姻戚外交の有用性、エフェクティブについては今更言を俟たない。
嫁ぎ先で閨閥でも成せるなら、組織へ寄与するところは非常に大きいだろう。
「――っ、あ、」
ぐるぐるとひとり思考の渦に呑まれ、知らず知らずのうちにうつむいていたなまえは、やにわに顔を上げた。
折しもあれ、躾けられた腕がぴくっと反応して無意識に懐へ伸びていた。
出し抜けに小説の一節を思い出した――「女性というものは驚くべき生き物なのです。彼女たちは行き当たりばったりになにかを思いつく――しかも、それが奇跡的に正しいのです。しかし、実は奇跡ではないのです。女性は無意識のうちに無数の些細なものを観察しています。しかも、本人はそのことを自覚せずに。女性たちの潜在意識は、そうして些細な事柄をひとつに纏め上げます――その結果が、いわゆる直感と呼ばれるものです」。
これこれこういう根拠により、と理由を並び立てて判断したわけではない。
ずっと、ずっと、主、張維新だけを見つめてきたなまえだったからこそ、彼の目線、動作、一連の挙措を酌み、直感的に気付いたのだ――いまから彼が煙草を吸うだろうと。
飼い主がペットの不調や求めているものに他人よりいちはやく気付くように、その逆もまた然りということだ。
なまえは口をつぐみ、使い慣れたライターを無意識に取り出そうとしていた手をやおら下ろした。
彼女の中途半端な挙動が余程不審だったとみえる。
張がサングラス越しの上目で、居丈高に「どうした」と問うた。
その目線ひとつでこの胸が愚かにもいまも高鳴っていると知ったなら、きっと彼は心底辟易した表情でこの相談を切り上げてしまうだろうな――などと考えながら、なまえは静かに頭を振った。
「いえ……なにも。お気になさらないでください」
牡丹と称するにはあまりに繊弱な女は、座したまま淡く微笑んだ。
果たして彼は特徴的なブルーの箱からジタンを取り出した。
なまえであれば持て余し気味の黒煙草は、張の大きな手に収まっているとうっとり見惚れてしまうほどよく映えた。
煙草の火は、結局、控えていた部下が点けた。
途端に白靄と鋭く苦いジタンの薫香が立ち上る。
張は書類の散ったローテーブルに足を乗せ、堂に入った所作で天井へ煙を吹きかけた。
漂う紫煙をぼんやりと見ながらなまえは頬をゆるめた。
肺の奥底から煙を吐くその仕草が、彼ほど様になる男を、なまえは他に知らない。
気を付けていなければ、こんなときですら目を奪われてしまいかねなかった。
「――ああ、進路相談といや、……なあ、来月の美国との取引、どうなってる? 登録番号蔵匿のコンテナが六台だったか……。輸出入管理の手筈は? 俺が寝てる間、本国とあっちの支部とが進めてただろうが」
「大哥、しかし、俺は――」
「……すみません、差し出口をお許しください。その件でしたら、彼ではなくて彪へお聞きになった方がよろしいかと。いまはこの本部内にいるはずです。お呼びいたしましょうか。……それと、あの、貨物の積載検査免除に関する手配はもう済んでいます」
「四一五」を拝する男の疑問へ慇懃に答えたのは、問われた黒服ではなかった。
どこか韜晦するように座していた小鳥が、おずおずと口を挟んだのだ。
「申し訳ございません。担当官と懇意ということもあって、検査の部分はわたしが段取りに関わっておりましたので……」
「人間のたましいの敵なる悪魔」――輸出入管理、税関のたかが一担当官との関係如きで、無論、複数の後ろ暗いTEUコンテナを右から左へ流すべくもない。
しかしながら、その上、商務省の貿易局一部にまで手が及んでいるとなれば話はまた別である。
貿易関連の国際法務は、主に正式に登記された配下の法務事務所が担っているが、いまここで子細まで説明する必要はあるまい。
卑屈とまではいかないものの、なまえは恐る恐るといった声音で、自分が深く関与していたために記憶に残っていないのでは、と端的に補足した。
顔色を窺うような言い訳じみた口ぶりで「覚えていないのも無理はない」と言外に伝えてくる女に、張は鬱陶しげに紫煙を吐いた。
然らぬだに記憶の欠落は微々たるものであり、それが絡む案件に関しては彼の頭の中で矛盾なく補完されているらしかった。
厚い唇が不快げな微笑を矯めた。
「ふん。今更、人的価値のアピールか? 残念だったな、ちょっとばかり期を逸したみたいだぜ」
「まさか……。ご判断に嘴を容れるはずもありません。それに、この件はともかく……重大事や本国のご裁定の絡む案件には、わたしが首を突っ込まないように以前からさせていらっしゃいましたから」
「だろうな。ま、放逐するときのためだったんだろうさ。――それにしても随分と囀るなあ。確かコールサインは“金糸雀”だったか? は、よく言ったもんだ」
「不興を買うつもりはありませんでした。ご容赦ください」
あなたが名付けたんですよ、とはなまえは言わなかった。
正直に「いつも姦しく囀るわたしが、怖い目に遭って口をつぐんでいたとき、旦那さまがふざけてそうおっしゃったの」とは。
やかましい囀りではない、黙っていたからこその名であるというほんの些細な――しかしなまえにとっては大切な思い出を、知っている者はそう多くはない。
――忘れられるということは、なかったことにされてしまうのと同義だ。
指一本触れるどころか、見つめることすら許されない我が身が憐れで、無様で、惨めで、いますぐこの場で殺してくれないだろうかと、愚かな女は夢見るように微笑んだ。
ほんとうに、あのひとのおかげで生き存えていたのね――そう当然のことを改めて思った。
ゆっくりと一度だけまばたきをした。
そっと春の日にまるまると膨らんだ綿毛に顔を寄せ、その綿毛たちを吹き飛ばしてしまわぬよう努めて気を配る幼な子のように、彼女は、なまえは、まるで生まれて初めて恋を告白する処女のようにそっと唇を開いた。
あたかもその華奢な肉体の内にはあらゆる感情や信仰がはちきれんばかりに満ち満ちており、そうやって静かに、そっと、すこしずつ漏れ出でるようにして吐き出さなければ、硬い石へ落とされた繊細なガラス細工のように彼女自身が砕け散ってしまうと本気で信じ切っているようだった。
――わたしのこの恋心も、一緒に死んでくれたら良かったのに!
「……最も利の大きいお相手はどなたでしょうか。わたし、その方のところへ参ります」
控えていた部下が息を呑んだ。
そうあからさまに感情を顔に出してどうすると叱りつけてやりたいのを堪え、なまえは奥床しげな所作で顎を引いた。
面白いことを聞いたとばかりに、ジタンを咥える男の唇が歪んだ。
ソファにもたれた張は気疎げに首を傾げた。
「どれだと思う? この程度のなぞなぞ、あんたにとっては造作もないことかもしれんがね、お嬢さん」
「……こちらの方ではないかと」
女の細指が、無造作に抛られた書類のひとつを示した。
指されたのは台湾南部における大手新聞社の、元社長に関する資料だった。
社長の座は退いているとはいえ未だ同社の過半数の株を所有しており、陰で「鳧奚(※「奚」の字は正しくは彳に奚)」とも渾名される老獪な人物である。
新聞社だけではなく、南部における複数の重要産業の共同経営者でもある。
義弟のひとりは中央政治局の重役であり、本土とのコネクションも強い。
一声鳴けば争いを起こすその不吉なあだ名の通り、いささか不穏当かつ荒っぽい手法で権益を拡大させてきた、後ろ暗い噂の絶えない実業家だ。
なまえの回答を受け、張は「ほう?」と形良い太眉を洒落っ気たっぷりに片方だけ跳ね上げた。
一見人の好さそうな洒脱な笑みのまま、探るような視線と悪意に総身がさらされる。
蔑する如く眇められた目は、一歩たりとも近寄ることなど決して許されぬ嫌悪の色をしていた。
もしも視線に温度があったなら、寒々しさに痛みを得ていたかもしれない。
背筋が凍り、肌がざわめいた。
その目には覚えがある。
なまえも知っていた。
なぜなら飼い主以外の者に相対するとき、彼女自身、その目をしている自覚があったからだ。
不要なもの、興味のないもの、場末の溝渠、あるいは死に瀕した者への、冷えた眼差しだった。
「大した自信だな。自分の身代なら“鳧奚”も誑かせるってか。まあ姑獲鳥にゃぴったりかね」
「……お役に立てるよう尽力いたします」
人選に抗うでもなく、くだらない贅言に反論するでもなく、従順に宜うばかりでさほど感情の波も見えないなまえに、張は心底つまらなさそうに鼻を鳴らした。
燻らすジタンを面倒くさげに灰皿へ落とした。
完璧に調律された絃楽器を思わせる男の豊かな声が、恬然と「そうだな、俺も同意見だ」と同意した。
頬へ垂れた黒髪を白磁めいた繊手が耳にかける。
元の主人ならばすぐに気付いただろう。
その仕草が不随意に痙攣した頬を隠すためだったと、過たず。
我関さず焉、背もたれへ左腕を上げた張は、業務連絡のような声音で「ま、お嬢さんのご指名なら仕方ないわな」と嘯いた。
磨かれた黒い革靴が陽光を受けて暗く光った。
「欲を出すんなら、これよりも大陸の――ああ、こいつだな、副省級城市の政治家先生を推したいところだったんだが……妾として囲いたがってんのはともかく、本妻の方が中央との繋がりが強くってなあ。お嬢さんが目の敵にされちゃあ、差し出したこっちとしても心苦しいだろ? まあ、その点“鳧奚”のおっさんならうってつけさ。なんせ三人目の細君との離婚が成立したばかりだ。片手落ちの持参金代わりにちらつかせてやった、三合会の顧客情報の一部ってえ疑似餌に食いついてくれて助かったよ。スキャンダルは避けたいだろうが、あっちはあっちで台北に圧されつつあるとかで焦ってらっしゃるときた。――幸い、“お下がり”とはいえあんたの戸籍はきれいなもんだ。あちらさんがバツ三つ食って丁度いいくらいだろうさ」
白紙扇の流れるようにふるう広長舌に、小鳥は聞き入っていた。
なまえは理解していた。
平生から饒舌ではあるものの、彼がこうまで懇切丁寧に冗語を連ねるのは、そうしなければ「金糸雀」が解さぬと判断されたからだということを。
久しぶりに長々しく声を、言葉を、賜ることのできる喜びと、そこまで張維新に軽んじられている、蔑まれているのだという純然たる事実は、思いの外、陰鬱な女を打ち据えた。
天秤は傾く。
「……かしこまりました。わたしの方でお話を進めます。――ああ、すみません。お邪魔でなければ、準備が整って香港へ戻るまでの間、ここのお部屋をお借りしていてもよろしいですか」
「いやに謙るな、“借りる”ときたか。お嬢さん、あんたもここで生活してたんだろう?」
「見慣れない廊下鳶のわずらわしさは、わたしにも理解できますから」
本当に自分よりも張を大切に思うのなら、彼の判断に諾々と従えば良い。
それでも抗いたくなってしまうのは、「嫌だ」と泣き喚きたくなってしまうのは、主よりも自分のことを優先しているからなのだろうか。
そんな自分に辟易した。
肥大した自意識が喉を絞めあげて、呼吸すら下手にさせた。
面倒な立場の女の、悲劇のヒロインぶった表情なんぞ見たくもないだろう。
なまえも張の前でそんな顔をさらしたくなかった。
透けるような花瞼を伏せたたまま、なまえは恭しく頭を垂れて「それでは、失礼いたします」と「借りた部屋」へ下がった。
白を基調とした淑やかな部屋で、空の灰皿の横へ備えつけられた電話機に手を伸ばした。
受話器を手に、恨めしいほど晴れ渡った碧落の下でなにも変わらぬ街のありさまを、露いささかも感情の窺えない洞の如き目で見下ろした。
3
「そう言わないで。わたしも寂しいんだもの、離れがたくなってしまうわ。でも、あなたのこと、きっと忘れない。なにかあったら……そう、こちらの……ええ、彼へ伝えてくれる? あなたのことが気がかりだったから彼にお願いしたの。きっと助けになってくれるはずよ。彼にはわたしからきちんと伝えているから、心配しないでね。ありがとう、どうか、元気で。――ふふ、そんな、今生の別れじゃないんだから……。ええ、さようなら」
顔馴染みの娼婦との通話を終えてなまえは浅く嘆息した。
背後のソファへ電話機を放り投げた。
総攬していた情報源たちの、「整理」「再配分」をようやく済ませたところだった。
「三合会の金糸雀」という一点に集めていた糸を、ほどき、仕分けし、編み直す――彼女がやったのは、街に散らばる複数の「お友達」を三合会の数多の黒服たちへそれぞれ引き継がせることだった。
立場や利害関係のみならず、個人と個人との相性やら適性やら、フィーリングもある。
煩雑かつ億劫な作業ではあったが、定められた布の定められた位置へ針を刺して刺繍を縫っていくようにひとつずつ丁寧に組んでいけば、うつくしいとはいいがたいものの、なにがしかの形を成したように思う。
複数の部下たちから仄聞したバラバラの情報、要素を、総合し、照らし合わせ、結果見えてくるものもあるだろうが、全き主ならばさしたる労もなく采配を振るだろう。
そもそもなまえ如き女がひとり掌握していた協力者などたかが知れている。
愈もって引き継ぎというにはおぼろげな他愛ない作業を終え、なまえは大廈高楼の天辺で、床から天井までを覆う大きなガラス窓へ寄りかかった。
丁度そのとき、放り投げられた電話機が不遇を訴えるようにコール音を響かせた。
こちらからかけるならばともかく、外線から直接この受話器に着信が入ることは稀だったため、誰かしらとなまえは目をしばたいた。
「もしもし……まあ、あなたでしたの。こんにちは。え? ……ふふ、お別れのご挨拶が遅くなったのはお詫びしますが……。さすがシスター、びっくりしてしまいました。現況もそうだけれど、この電話の番号もどこから底が割れたんでしょう、ねえ、シスター・ヨランダ?」
電話の主は通称「暴力教会」の大シスター、小高い丘の上に鎮座する聖堂の老尼僧だった。
なまえは心密かに「本当にお耳のはやいこと」と呻いた。
電話の向こうでふうっと煙草を吐く音が挟まり、ヨランダが白々しく笑いまじりに「寂しくなるねェ」と嘯いた。
「ありがたがれなんざ言うつもりはないがね、そう邪険そうにすんじゃアないよ。あの“金糸雀”が飼い主から鏡を破られるたア、一体、どんな理由があンのか――気にかかンのが人様の機微ってもんだろ?」
「まあ、驚いてしまいました。そんなものがあなたにおありだったなんて。それに意地がお悪いのではありません? あなたなら委細ご存知でしょう、シスター」
「はン、さてねェ、天上におわす我らが神のおかげで、直接一次情報に当たる程度にゃア――手が空いてるだけさね」
「お気の毒さまです、あなたに差し上げられるような情報は、なにも。だいたい、ふふ、“よくある話”でしょう?」
涼やかな声に応えたのは、「よくある話、ねェ」という多分に揶揄を含んだ反復だった。
声音はさながら気まぐれに小鳥をいたぶる老猫のようだ。
ヨランダの揶揄を、なまえは「以前、わたしが惚気話をしようとしたらちっとも取り合ってくださらなかったくせに。今更わたしの恋路にご興味が?」と拗ねた子めいた語調で退けた。
「心残りなのは、シスター、あなたのお茶をもう一度くらい頂戴したかったことです。ここを離れるのが惜しい理由のひとつだもの……」
「ふん、飼い主があのザマだ、媚の売り先が余ってンのかい? 生憎もう供給過多だよ、金糸雀。どうしてもって言うンなら、あんたの編んだ連中、一部でもウチに寄越してくれるってンならありがたく頂戴すんだがねぇ」
老尼僧の狡知に長けた隻眼が如才なく光っているのが見えるようだ。
なまえはくすくす笑い、いっそあどけないほど無邪気な声で囀った。
「あらあら、なんのことかしら。まさかわたしが了承すると思っていらっしゃるの、シスター? それに、餞別を要求するのはわたしの方でしょう?」
「ふふん、心打たれるねぇ、その囀りも聞き納めかと思うと。そういやあんたを“処女”だのなんだの持ち上げてる連中は、どう丸め込んだんだい? 資産管理ってェのは離れりゃ離れるだけ厄介になってくるもんだよ」
「まあ、それこそ今更だわ。ご指導いただけるなら、もっとはやく手ほどきしてくださったら良かったのに」
「はッ、ンな大層なもんじゃアないよ。――……そもそもあんた、“こっちの領分”に足を突っ込むつもりなんざ、端ッからなかったろうに。どうしてまた、指揮者気取りで手綱を握ってやがったのかね」
「教会」の老シスターとのおしゃべりにおいて、基本的に小鳥は倦まず身構えていたものだったが、このときばかりはさすがに虚を衝かれて口をつぐんだ。
濃い群青と強い陽光のせいだろうか。
ふいにくらりと目眩を覚えた。
顧みれば、はじめからこの街に情報網を張り巡らせようなんぞ大それた腹積もりは皆無だったはずだ。
きっかけは、組織間の紛擾に巻き込まれて死にかけた女へ手を差し伸べてやったことだったのは、覚えている。
恩を売りたいわけでも、まさか助けてやりたいわけでもなかった。
ただ単純に、息のかかった病院へ入院させる患者の頭数を欲しただけだ。
病床利用率のかさ増しに利用するためという、どこまでも自分本位な、組織にとって都合の良い選択を取ったに過ぎなかった。
しかし助けてやった女は、見目や器量が秀でていたためか、後にある組織の情婦となった。
図らずも、結果、ある程度の義理堅さも持ち合わせていた彼女は、情報源として、なまえの、正しくは三合会の役に大いに立ってくれた。
海老で鯛を釣る とはこのことかとなまえは肩をすくめたものだった。
はじまりはその程度のことだ。
いつの間にか、その編みが――網が拡大していた。
そのまま放り出してしまうのははばらかれる程度には、引き継ぎをしなければならないくらいには。
「――本当に……わたし、どうしてこんなこと……」
自問は羽のように軽く、煙のようにぼんやりしていた。
ヨランダから「なまえ、」と呼びかけられ、なまえははっとまばたきした。
すぐさまいつもの調子で微笑んだ。
「失礼、感傷的になっていますの、わたしも。ふふ、あなたにお会いできて良かった。これは信じてくださいますよね、あなたでも? シスター・エダたちにもよろしくお伝えくださいね」
なにしろ一世一代のお芝居だもの、とは口が裂けても言えなかった。
なまえのセリフをどう受け取ったのか、電話の向こうで、枯れ木の葉の擦れるような笑い声がうっそうと響いた。
「あんたにゃア用無しなんだろうがね、どれ、神の御加護のひとつでも祈っといてやろうかね。いくらでも見てきたよ。すがるもんがないと
あんたみたいな手合いは、すぐに無様に潰れるもんさ。――ふふん、文字通り、老婆心ってェやつさね」
「いままでのどんなお説教より、身に沁みて感じていましてよ。あなたの神様にもどうぞよろしく、シスター・ヨランダ。失礼いたします」
無駄なこと、なんの利もないことに、あの教会の老尼僧が口を挟むことは蓋し稀有であり、まして潰す暇などあるまい。
協力者たちを割譲してくれるなど彼女自身期待など端からしていないだろう。
ならば偶さか本当に老婆心での忠告ひとつを寄越したのか。
必要だと判断されたのか。
損なわれた矜持がなまえに何度目になるのかわからない溜め息をつかせた。
手から滑った受話器が床に落ちた。
ともあれ能事足れりと、なまえは窓ガラスへ手を付いた。
山嶺の鳥籠から見下ろす穢れた街へ額を預けると、ごつっと鈍い音が鳴る。
結局、はやいものであの「相談」から一週間近く経ってしまっていた。
張のそばを離れたくない辞柄だったのか否か、なまえ自身もよくわからない。
その間、一歩たりとも外に出ていなかったが、私邸の片付けを済ませ、早急に香港へ戻って準備をしなければなるまい。
襲ってくる途方もない達成感と虚無感に、なまえは穏やかに笑った。
その微笑といったら、性質の悪い熱病に侵された孤児のようでもあったし、生んだばかりの赤ん坊を初めてその腕で抱いた母親のようでもあった。
――ほんとうに、わたしは役目を終えてしまった。
否、従前そもそも白紙扇麾下の彼女に「役目」なんぞなかった。
ただ、張維新のそばにいること――それだけが、なまえに求められた要路であり、意味であり、理由だった。
生きている意味、生きている理由。
それらを失ったいま、この身は烏有であり、どうして生き存えねばならないのか――殃禍極まれり、なんとも明快になまえは新たな役割を提示された。
今度の立場は関係企業のお飾り夫人らしい。
あかぬ別れといえど、多少なりとも組織の役に立つ――ひいては張の役に立つものであるだけ死に花とすべきなのだろう。
地獄めいた配役を恨めど、小鳥に否やを唱えられようか。
目も眩む階の下に広がる魔都を眺めながら、なまえは「あのひとはご存知だったかしら」と小首を傾げた。
――わたしの初恋はあなただったのよ、って。
なにを見てうつくしいかと思うか、なにを聞いて心地良いと感じるか。
どんな表情を浮かべると、どんな声音で話すと、どう他人に作用するのか、どう利用できるのか。
相手の顔を立てつつ、いかに手札を隠して自分の要求を通すか。
なにが正しいか、なにが悪いか。
世界がどれほど広くうつくしいか、どれほど狭く醜いのか。
ベレッタの銃声も、血と硝煙の臭いも、断末魔も、死体の濁った目も、拐かされる恐怖も、殴打される痛みも、同じ舞台に立てぬ劣等感も、彼が他の女へふれる悲しみも嫉妬も、独り寝の夜の長さも、――煙草の火の点け方も、香水のつけ方も、歩幅の違う男へのすがり方も、ネクタイの結び方もほどき方も、酒と煙草の苦い味も、見つめ、見つめられる喜びと面映ゆさも、彼の声が音にする「なまえ」という名がどれだけうつくしいのかも、目が覚めて隣にある寝顔を眺める幸福な朝も、逞しい男の体も熱も、――なにも知らない生娘だったなまえへ一から教え込んだのは、飼い主、張維新だった。
苦しいほどの恋心を与えたのも。
忘れられるということは、なかったことにされてしまうのと同義だ。
大波に攫われるような心地で「かみさま」と口にしかけて、なまえはやめた。
祈るもの、願うもの、救いを求めるもの、すがるものを神と呼ぶなら、なまえの神はあの男以外にいなかった。
だから彼に祈った。
「いつまでも息災でいてくださいますように」と。
以て瞑すべし、そもそも二世、 一蓮 などと元より望むべくもない身である。
主人の無事以外に望みなどなかった。
無論、いまの飼い主はなまえの祈りなど意にも返さないのは理解していた。
けれど彼女がなにを祈ろうが、願おうが、それはなまえだけの自由だった。
張からなまえが与えられた、最後のものだ。
「――そんなものっ、いらなかったのに……」
窓ガラスに反響したのは知らない女の嗚咽だった。
揺れる声と息は悲鳴じみており、自分のものだとは信じたくないほどみっともなかった。
熱っぽい頭痛と、口のなかに塩辛さを感じて、そこでようやくなまえは自分がぼろぼろと涙をこぼしていることに気付き、情けなさと惨めさとで、尚以てくしゃくしゃに顔が歪んだ。
なまえは窓へ手を付いたままその場にずるずるとしゃがみこんだ。
落ち続ける大粒のしずくと、醜くしゃくりあげた呼吸の止め方を、飼い主は教えてくれなかったから。
(2020.09.01)