てのひらで頭を押さえた。
不快な熱が頭蓋の奥で波打っていた。

部屋にはわたしひとりきりだったから、人目を気にせず行儀悪く自堕落にソファへかけていると、そのままどろどろに溶けてひとの形が崩れていってしまうような心地がした。
紅茶に入れた砂糖みたいだ。
さっき淹れたばかりの紅茶はいつの間にか冷めて香りが弱くなっていた。

こう頭痛が酷くちゃ、普段通り本を読むことも難しかった。
ぎゅっと目をつむると目元のお化粧がよれてしまうから、強く目を閉じないように、眉をひそめないように、あれこれ気を配りながら息をしていると、倦怠感かしら、そんななにかが胸を覆っていて呼吸すら下手になってしまった気がした。
胸に巣食う気怠さは霧みたいにもやもやして捉えられないのに、鉛みたいに重くて到底逃れられそうになかった。

ぼんやりとまばたきをすると、足元には脱ぎ散らかしたヒール靴が落ちていて、ストッキングに包まれた脚を伸ばして爪先で突っついた。
しばらくそうしていると、ゆらゆら揺れていたマノロ・ブラニクのスティレットは絨毯に音を吸われて静かに倒れてしまった。
ああ、ちゃんと履かなきゃ。
でもそれすらなんだか億劫だった。

頭痛も、塞ぎ込むような気分も、荒れる天候のせいかもしれなかった。
吹き荒れる雨風が割ってしまおうと窓を叩いていた。
もちろん、床から天井を覆う大きな窓はびくともしないし、音もほんのわずかだ。
だからこそ変な感じがした。
あたかも大きなスクリーンでBBCOneの自然ドキュメンタリーでも見ているみたいだった。
雨季とはいえ雨は日々短時間のものだけれど、台風の影響で暴風雨はここ数日続いていた。
雨垂れを見つめるながら、ドリー・パートンが「虹に会いたかったら、雨を我慢しないとね」なんて言っていたのを思い出した。
なにかを求めるのになにかを我慢しなきゃいけないなんて本当につまらない。
ひとは欲望で生きているのに。

欲望で濾過された街の灯りが明滅した。
窓を叩いて伝い落ちる雨粒のせいで、輪郭をなくしてぴかぴか光る真鍮みたいだった。
見下ろしているはずなのに、まるでこちらが海の底にいるような錯覚を抱いた。
アタラクシアなんて馬鹿げた理想でしかないのは、この街に住んでいれば誰だって理解している。

彼岸嵐のせいで外は暗く、窓ガラスは鏡めいて室内を反射していた。
だからぼんやり外を眺めているわたしの顔が窓に映ってしまったのも、仕方がないないことだった。
ああ、いやだ――漠然とそう思った。
なんてひどい顔だろう。
誰にも、とりわけ旦那さまには見られたくなかった。
醜い女の顔は、窓に波を描きながら流れ落ちていく雨垂れのせいだけではないと知っていた。
鬱屈した心地と相まって、年甲斐もなく泣き出してしまいたくなるおのが情緒の不安定さがひどく疎ましい。

自分の体なのに思うようにならない不快感に顔をしかめた。
吸って、吐いて、呼吸するごとに、熱のこもった頭の奥がじくじくと膿んでいくようだった。

ソファの座面へ足を上げてのろのろと両膝を抱え込んだ。
曲げた膝へ額を乗っけた。
――ああ、頭が痛い。
顔を上げれば窓に反射したわたしが嫌でも視界に入ってしまうから、そして考えなくて良いこと・・・・・・・・・まで考えてしまいそうだから――膝を抱えて丸まったまま、努めて「あのひとはまだかしら」とだけ思っていると、どのくらい時間が経ったのか、つと控えめなノックの音が聞こえた。

「大姐、失礼します」
「……なあに、どうしたの」

脚を下ろした。
数時間ぶりに発声したからか、喉に妙な感じがしたけれど、ちいさく咳払いすればすぐに違和感は消えた。
意識して微笑み振り向いた。
わたしがここにひとりでいるとき、用もなく声をかけるような不行跡を彼らがするはずもない。
心当たりはひとつだけだった。
ドアから顔を覗かせた部下がわたしの待ち望んでいた言葉を口にした――「そろそろ大哥がお戻りです」。

「ふふ、嬉しい。予定よりはやいお帰りね」

靴を履き直してソファから立った。
立ち上がった瞬間くらりと目の前が暗くなったけれど、目眩もすぐに治まった。
にこにこしていると、一見すると威圧感の強い顔に似合わない穏やかな声で、部下が「嬉しそうですね」と苦笑した。

「まあ、恥ずかしい。そんなにわかりやすかった? だってね……旦那さまのこと、ずっとお待ちしていたんだもの」
「はは、存じてますとも」

恥ずかしい、と手を添えて口元を隠した。
意識して笑んでいたけれど、わざとらしいものだったかもしれない。
笑みの度合いをすこし控えめにして、そして、部下の誰にも気付かれなかったことに安堵した。
笑顔をつくることは泣くよりもずっとずっと容易い。
口にした通り、旦那さまのお帰りなんだから、自然と顔がゆるんでしまうのも当然ではあるけれど。

「お帰りなさいませ、旦那さま」

一報からややあってお戻りになったご主人さまをいつものようにお迎えした。
つい抱き着いてしまいたかったけれど、背後に彪を伴っていたから我慢した。
たとえ部下といえど人前でわたしがくっつくと良いお顔をなさらないものだから。
いわく「そういうときのお前の顔な、見せられたもんじゃないぞ」らしいけれど。
失礼しちゃうと頬を膨らませていたのはいつのことだっただろう。

そんなことをつらつらと考えているわたしを、旦那さまは見下ろして「ああ」と頷いて――どうしたものか、ほんの一瞬だけ動きをお止めになった。
それとはわかりにくいけれど、どこかいぶかしげな表情をしていた。
サングラスに隠されているとはいえこれほど近くで見上げていると、眉をひそめていらっしゃるのも見て取れた。
すがめるというほどではないけれど、その奥の瞳は勘繰るように細められているものだから、なにか不興を買うことでもあっただろうかと首を傾けた。

と、腕が伸びてきたかと思えば、やにわに頬っぺたを摘まれた。

「えっ……あ、ぅ……らんな、ひゃま?」

ぱちぱちとまばたきをするも、摘ままれた頬のせいでまともに発音もできなかった。

そんな旦那さまの背後で無駄口ひとつ叩くことなく、彪が扉を静かに、かつ即座に閉めていた。
なにそのスピード、と驚き呆れるしかない即断即決っぷりだった。
危機管理がしっかりしているのはなによりだけれど、いまはわたしひとりを置いていかないでほしかった気がする。

無言でわたしの頬っぺたをむいむいと引っ張っているご主人さまは、なぜだか仏頂面だし。
本当にどうなさったんだろう。
ふれてくださっているんだし、楽しんでいらっしゃるならこの戯れに付き合うのもやぶさかではないけれど、飼い主さまの表情はこちらとしても不服だった。
力加減はぎりぎり痛くない程度とはいえ、あんまり行動に脈絡がなくってクエスチョンマークを浮かべるしかない。

ふたりっきりになった部屋でひとしきりわたしの頬を撫で繰り回した飼い主さまは、やっとご満足いただけたのか、はじまりと同じく唐突にスキンシップを終えた。
浅く溜め息をつきながら「熱はないみてえだが、」と手を離した。

「……ねつ?」

引っ張られていた頬を手で押さえた。
なんのことですかと首をひねっていると、眉を下げた旦那さまは口元を苦くたわめた。
わたしのことをお叱りになるときは、大抵こういう、苦笑というには呆れの色の強い笑みをしていらっしゃるような気がする。

「笑うんならな、なまえ。もうすこしマシな笑い方しろ」

素っ気ない口ぶりだけれど、語尾はやわらかかった。
ぐっと口をつぐんだ。
不意を突かれて口ごもるなんて、わたし、滅多にないことなのに。

「……そんなに酷い?」

くだらない虚勢と見栄とが崩れ、これ以上情けない顔を見られたくなくって、片腕を広げてくださった旦那さまへ抱き着いた。
黒い上着の下へ腕を差し入れて、腰の銃にはふれないように広い背中へ腕を回した。
胸元へ、隠すように顔をうずめた。
慣れ親しんだ旦那さまの香りに、ほんのすこし雨のにおいが混じっていた。
上着ごとではなくシャツ越しに御身へふれていると、旦那さまの体温がはっきり感じられた。
世界で一等幸せな場所におさまって、目蓋がひくりと痙攣するのを自覚した。

「さあな、及第点ってところかね。余所じゃあ通用するだろうよ」

旦那さまの普段通りの軽口に、ぎゅうっと胸の奥が引き攣れ、すがりついたまま、なじるように「ほんとう、困ったひと」と悪態をついた。
気を付けていなきゃ、喉の奥が熱くなってしまいそうだった。

「は、ありがたがられんならともかく、まさか不平を聞かされるたあ思ってもみなかったな。可愛くないぞ?」
「ふふ……だからですよ。あなたにだけは気付かれたくないのに。……あなただけ、気付いてくださるんだもの」

思ったより声音が湿っていて、呟いたわたし自身が驚いた。
「Such as I am. Though for myself alone I would not be ambitious in my wish To wish myself much better, yet for you I would be trebled twenty times myself――A thousand times more fair, ten thousand times more rich」――恋い慕うひとの前ではいつだって「最良のわたし」でいたいのに、当のご本人がすぐに見抜いてしまうんだから、り言のひとつくらいこぼしたくなるのも道理というものだ。

旦那さまの香りと体温に満たされて、ずっと頭のなかで癇立かんだっていた痛みが和らぐ心地がした。
ちいさな声で「頭痛がしていたんです。ただ、それだけです」と白状すれば、「んなことだろうと思ったよ」とぐしゃぐしゃに髪を乱された。
大きく厚い手は、けれど乱暴ではなくて、労るように穏やかだった。

「俺に隠し事するにゃまだはやいってこったな」

精進しろよ、と笑う旦那さまに、わたしはなにも言葉を返すことができなかった。
背中を撫でてくださる、旦那さまの手がとてもおやさしいものだから。
一滴ひとしずくだけ涙がこぼれ落ちてしまったのも、仕方のないことだと思うの。


(2020.07.15)
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