君に馴れにし
(※IF死ネタ)
矢車菊の芳香にやわらかく目を細めて、なまえは小花散らし模様の繊細なティーカップを丁寧な手付きでソーサーへ戻した。
「――あら、“誤解”って? どんな?」
ソファにかけたまま傍らに立っている男を見上げると、彼女の視線を受けて「大姐のこと誤解してましたよ」と言い放ったばかりの男は――
彪如苑は、至って簡潔に「誤解」の内容を補足した。
「てっきり大姐は、さっさと後追いするもんだとばかり」
張維新が死んで二週間が経っていた。
その間、彼がやり残した――というより、死亡の原因となった案件を引き継いだ
金糸雀は、夜の目も寝ずに何にまれ手を尽くして事態を収束させしめ、残すは明日、本国から後任を迎えるばかりとなっていた。
そういえば小鳥がのんびりと紅茶を嗜んでいる姿すら、久方ぶりに見る気がする。
その折、彪は抱いていた「誤解」を前述の通り直截に口にしたのだ。
飼い主亡き後も生き
存えているなまえをして、もし「
金糸雀」という女を知る者ならば、十人が十人、彼の台辞に同意したに相違なかった。
なまえはゆっくりと一度だけまばたきをして「そうね、」と細い指を頬に当てると、
謙抑的な語調で続けた。
「それでも良かったんだけれど。でも、あのときすぐわたしが
御許へ追いかけていたら……この件、後始末まできちんと片付けられなかったかもしれないでしょう。それに、わたしは計画を聞き及んでいたもの。あのひとが巡らせた
謀は完璧だったわ」
武勲と
英邁に秀でた「金義潘の白紙扇」を失いながらも、主の残した采配を取り、カタを付けるところまで
為果せた女は、「わたしのことはともかく、余所の人間からあのひとが
貶められるかもしれないなんて、腹立たしいじゃない?」と小首を傾げた。
顔に浮かんでいるのは、秘密を打ち明ける幼な子めいた、くすぐったそうな笑みだった。
彪は浅く嘆息した。
――惜しむらくは女であることか。
香港三合会の純正たる構成員ではなく、あくまでなまえは「
張維新の女」である。
上が考えあぐねるのも余儀あるまい。
なんとなれば、なにも知らない数多の女のように捨て置くには機密を知りすぎ、要路を与えるにはあまりに脆弱だった。
恐らく「飼い主」のように飼い殺すのが最善だっただろう。
しかし後任と入れ替わりに彼女は明日本国へ戻り、以降の処遇は未だペンディング、宙に浮いた状態だった。
こういった場合、往々にして組織内の上位の者がその後の面倒を見てやるものだったが、果たしてなまえがそれを受け入れるだろうか。
余程、気忙しげな表情でもしていたのか。
神経質そうに眉をひそめている彪を見上げて、なまえは「そんなお顔をしないで」と微笑んだ。
眼差しは凪いでいた。
自分の命よりも大事な主人を亡くした女は、それまでの淑やかさに、静かな憂いと喪失とをベールの如くうっすら纏わせていた。
「ふふ、わたし、あのひとの恩恵で生きていたものね……」
我関せず焉、なまえは独り言のように呟くと、油照りに揺らぐ街並みへついと視線を転じた。
見晴かす悪徳の都、修羅の
巷、ロアナプラ。
層楼の天辺から
鳥瞰した女は、能事足れりと街そのものをいとおしむように、穏やかに目を細めた。
臈たけた女の微笑は
眩いばかりで、差向き夢のようにうつくしい。
暫時、彪は言葉を忘れ、サングラスの下の目をしばたいた。
そのとき、ボスはいつもこの笑みを向けられていたのだと気が付いた。
「心配しないで。あのひとのいない世界でも、わたし、生きていることはできるみたいだもの」
翻って部下を見上げたときには既に見慣れた笑顔で、鳴鳥は朗らかに「意外よね? わたしも驚いていてよ」と囀った。
無二の飼い主がいないのだから、小鳥の媚態を見破れる者なんぞ、畢竟この世には存在すべくもなかった。
食言而肥に踊らされていたことを彼が知ったのは、翌朝のことだった。
発見されたなまえの遺体の掌中には、どう策を弄して手に入れたのやら、見慣れた銃、「
天帝双龍」の片割れがご丁寧に握られていた。
顔面を著しく損傷した遺骸は、死体に慣れた男たちですら二度と見ることを厭うような、酸鼻を極めるありさまだったという。
然もあらばあれ、報告を受けた彪は薄い唇を苦々しく歪めた。
金糸雀が初めて殺したのが「なまえ」自身だったとはどこまでもふざけた女だ、と。
死後なんぞ信じちゃいないが、あのふたりが地獄のどこかで再会してりゃあ良い――そう願わなくもなかったが。
夢現つ
肉がねじ切れるような鋭い痛みだった。
耐えがたい疼痛のため、深夜、なまえは目を覚まして思わず顔を歪めた。
ぐっと腕を握られていた。
後ろから張に抱きすくめられるようにして共寝していたなまえは、
夢寐、背後から回された男の手によって
前腕をつかまれていることに気付いた。
本当に眠っているのか
訝しむほどに静かな寝息からは、どんな夢を見ているものか窺い知れないが、すくなくとも心地良いものでないことだけは確かだ。
背中に感じる男の体は強張り、常からそばに
侍るなまえだからこそ感知できる程度に、平生よりいささか荒い吐息が繰り返されていた。
閾下の力はかけらも容赦がなかった。
張の大きな手では、なまえの肘から手首までの
前腕など、容易にぐるりと一周てのひらに納まる。
拘束は拷問じみており、ぎりぎりと骨が軋んでいた。
握り潰されんばかりの力に、平素はどれほど加減してふれてくれているのかとくすぐったい思いはすれども、さすがに堪えられるものではない。
後ろから抱え込まれているなまえは滲んできた冷や汗を
拭うこともできず、奥歯を噛み締めた。
指先の感覚はとうにない。
もしもそのとき声をあげなかったなら、
過たず彼女の腕はへし折られていたに違いなかった。
「……っ、だんなさま!」
短く鋭く叫ぶと、ふっと拘束がゆるんだ。
またすぐに抱き締められる。
ただし今度は意思を持って、あくまで「抱く」範囲の力加減だった。
背後から「あー……」と、呻きとも溜め息ともつかぬかすれ声が漏れ聞こえてきた。
男の重たい腕をよいしょと持ち上げて、なまえはもぞもぞと寝返りを打った。
痛みで少々潤んだ目尻をこっそり
拭い、そっと張を見上げると、彼は夢かうつつか判断しかねるような、ぼんやりと濁った目をしていた。
「だんなさま、ごめんなさい、起こしてしまって……」
申し訳なさそうに眉を下げ、向かい合ったままわずかに身を離した。
つかまれていたのとは反対の腕を伸ばして、寝乱れた男の髪をすいた。
整髪料も付けていない、やわらかい前髪を耳へ流す。
強張っていたこめかみ辺りをゆっくりと指先でなぞっていれば、眉間の深いしわが幾分か解けていった。
平生の軽妙洒脱な弁口はどこへやら、一言も発さない彼に、許可はされていないが拒絶もされていないため、据わった目がわずかばかり穏やかにゆるんだのを見計らってなまえは疲れの見える目元をそっと撫でた。
気遣わしげな女の手を甘受しつつも、やはり憂いとも倦怠ともつかない濁った眼差しで彼女を眺めやっていた張は、そのままシーツへ沈んでいくような不快感に襲われていた。
それは澱のように沈殿していく――あるいは泥濘に沈んでいくのに似た心地だった。
全身が妙に重怠く、酸素が薄い気がする。
頬をなぞっていたちいさなてのひらが、呼吸を促すように背へと回された。
折も折、彼は目敏く気付いてしまった。
ふれてくる
繊手とは反対の細腕に、
痣が刻まれていた。
夜目にもさやかな白腕に、指の痕がくっきりと残っていた。
爪先は冷え、細腕は鬱血し、痺れてさえいることにようやく気付き、張は双眸を
眇めた。
そこらの人間なら逃げ出してしまいかねないほど険のある眼差しが、既に指の形に変色し始めている皮膚を認める。
張は強張りの残る口元を苦くたわめた。
「……なまえ、」
「だんなさま、なまえ、ねむたいです……ね、また寝ましょう」
忌々しいとまではいかないものの、不穏にねじくれた面持ちで言いさした主を、なまえはのんびりとした口調で遮った。
ぐずるように張の頭を引き寄せると、
文目もわかたぬ幼な子の如き甘ったれた仕草で彼の頭を抱き込んだ。
やさしく胸元へ顔を寄せさせられ、張はとうとう総身から力を抜いた。
白百合や
伽羅とも違う、なまえ自身の香りに包まれた。
なにも聞こえなかった――彼女の心臓の音以外は。
振り解くことなんぞあまりに容易いゆるやかな束縛は、しかし彼による先程の拘束よりもずっと
逃げられない力を有していた。
なまえにされるがまま、微熱を帯びた目蓋を閉じた。
やわらかな女の感触は、
彼我の境目すら曖昧にし、
現し世の一切衆生、来し方行く末すべて投げ捨て、ただ溺れてしまいたくなるようだった。
「おやすみなさい、だんなさま」
軽いベールのようにゆるやかな声でなまえが囁いた。
すべてを許し、すべてを受け入れ、すべてをいとおしむ女の声だった。
今生、彼だけに捧げられる、たおやかな囀り、離れがたい柔肌、穏やかな眠りへ誘う体温、そして泥濘から掬い上げる女の華奢な腕が、彼の機先を制してしまった。
玉響、間を置いて応えた「おやすみ」という声は、
静寂満ちる
閨といえど、なまえ以外、他の誰にも届くまい。
悪癖
(※以前いただいた
このマシュマロ が発端です。ありがとうございます!)
(※頭ゆるふわ時空)
「あらあら、もう、旦那さまったら」
「……癖ってのはなかなか抜けねえな」
聞いていると胸焼けしそうなほど多分に媚を含んだ声音をたっぷり振りまきながら、なまえが張の膝上へ乗っかった。
ソファに腰掛けた主人の上へ、足をまたいで座する。
飼い主も飼い主で、制止どころか反論するでもなく、小鳥のしたいようにさせていた。
折悪しく居合わせた憐れな部下は、即座に「アッ、これ面倒くせぇタイミングで来ちまったな」と察した。
残念ながら正解である。
憐れな部下こと彪は、顔をしかめずにいられただろうかと自問した。
考えていることが
濫りに表情に出るなど、立場的にも言語道断ではあるものの、さしもの彼といえど自信がなかった。
さっさとお暇を願い出たいところだったが、不幸にも要件は済んでおらず、仕事を置いていますぐ逃亡するわけにもいくまい――上司が仕事をさっさと終わらせてくれれば話ははやいのだが。
それにしても普段、言葉を交わす以上の接触を人目にさらしたがらない彼らにしては珍しいことだった。
真っ昼間から
金糸雀が酒でも飲んでいるのかとも疑ったが、それにしては受け答えがしっかりしている――と言って良いものかはなはだ疑問ではあったが――、シラフでコレかと頭痛のようなものを覚えざるをえない。
余程、物言いたげな表情をしていたのだろうか。
すっかり飼い主の脚を占領したなまえが、ソファ脇に佇立する彪をおもねるように見上げて「旦那さまがね、」と愛らしく微笑んだ。
「テーブルに脚をお乗せになったら、そのたびにわたしが注意させていただいていたの。お膝に乗って」
口調こそ
窘めるように良識めいていたが、声音と
顔がとろけんばかりに喜色たっぷりなのはいかがなものか。
彪は胸中だけで呻いた――揃ってなにやってんだお前ら。
「それならいっそのこと、最初っから乗ってりゃ良いンじゃないですかね……」
地を追う声とは
正しくこのことだ。
この世の終わりの際だとしても、まだいくらかマシな顔をしているに相違ない。
彼はなげやりに言い捨てたが、しかしながらふたりは大して気にした素振りもなく、素直に「ああ、」と頷いた。
「お前賢いな、逐一
これが行ったり来たりするのが面倒でなあ」
「本当! そうすれば良かったわ」
「いやいやいやいや」
正気かこいつら。
ぎりぎり口に出さなかったことにむしろ彼自身が驚いた。
取り繕うのもそろそろ困難になってきていた彪は、がしがしと頭を掻きながら「だいたい、」とこぼした。
「なんで、ンなことやってるのか聞いても構いませんか」
「あら? どうしてだったかしら?」
こてんと細首を傾げたなまえに、呆れ顔の張が気怠げに言い添えた。
「足癖直せって言い出したのはお前だったぜ、なまえ。付き合ってやってるんだからそれくらい覚えといてくれ」
「ああ、申し訳ございません、そうでしたね! でも……あなたがおみ足でグラスをお倒しになってしまったのが発端だったでしょう? あれ、わたしのお気に入りだったのに」
「だーから新しいの買ってやるって言ってるだろうが」
「もうたくさんあるから要りません。あっ、ほら、いま、また脚を上げようとなさったでしょう、旦那さま? なまえが転んでしまいますっ」
べたべたいちゃいちゃ(死語)している上司たちからよどんだ目を逸らし、彪は窓の外を眺めながら「はやく帰りてぇな」などと考えていた。
戯れU
「旦那さま……もう、結構です、なまえ、高鳴って胸が痛いくらいだから……っ、はなして、」
「先に音を上げるなんぞ、情けねえ真似するなよ。言い出したことには責任を持て。な?」
「だ、だって、緊張してしまって……あなたにこんなことしていただくなんて、わたし、あっ」
「動くな。汚したかねぇだろ、服」
「っ……だんなさま、」
「……いやまァそういうオチだろってわかっちゃいましたがね」
失礼します、とドアを開けた
彪如苑は、人目もはばからず溜め息をついた。
扉から、部屋の主たちの
坐す中央のソファまでは少々距離があるものの、大袈裟な嘆息は彼らにも十二分に届いたらしい。
本来ならば上司の前で、なかんずく
向けて、呆れ果てたポーズを取るなど示しが付かないどころの話ではなく、間違っても若い衆には見せられなかったが、幸か不幸か、いまこの場には彼と当のボスたちしかいなかった。
頭の上にサングラスを乗っけた張は、小鳥の爪先にマニキュアを塗っている真っ最中らしかった。
既に爪化粧は終えたとみえて刷毛を小瓶へ突っ込み、素知らぬ顔で「どうした、彪」と嘯いた。
こちらも涼しい顔で、なまえは並んだマニキュアの小瓶を片付けながら、
窘めるように飼い主を愛らしく睨んだ。
「もう、旦那さまったら。あんまり部下で遊んではいけませんよ」
「そうかい。途中から乗っかってわざと煽ってたのはどこの小鳥かね」
他愛ない諫言を聞き流しながら、張は長くなっていた煙草の灰を落とした。
我関せず焉、ソファの背面へ左腕を上げる。
漂う紫煙が広がる景観を白く霞ませるのを眺めながら、鷹揚にこぼした。
「あー……そろそろ老眼には堪えるな」
「ふふ、嘘ばっかり」
張はサングラスをかけ直し、一作業終えてだらりとソファへ沈んだ。
その隣でなまえは手をかざして、張自ら塗ってもらった自らの指先をうっとりと眺めている。
幸福そうにとろけた瞳の先、白に程近い
藍白色は爽やかで、繊細な爪先に大層映えた。
見慣れた
張維新とその飼い鳥の光景である。
入室はしたものの近寄りもせず、彪は胡乱げな眼差しと口調で「……お遊びも程々にしてやってくださいよ」と呻いた。
彼らは知っているのだろうか――定期的に階下で行われている、いじらしくも、恐ろしく馬鹿らしいごたごたについて。
「……ここに入るとき、誰が行くか部下の間で押しつけ合いやってンの知ってますか」
「んなことやってるのか。暇だなあ、お前らも」
「あらあら。通りでこの頃、あまり他の子が来ないと思った」
のんびり濃い紫煙を吐き出している男と、清純な笑みで「あなたも大変ね」とのたまう女に、彪はこれ以上ないというほど唇をひん曲げた。
真正面から「あんたらが言うな」と正論を叩きつけてやることができたなら、さぞかしすっきりするに違いない。
しかしながら悲しいかな、正論など無意味だ。
この濁世、上司が黒を白というならこちらも白とするのが保身と立身のコツである。
いくら考えようとも詮無い空想に彼が
耽っていると、煙草を咥えたままの張が「それで、」と言葉を継いだ。
「部下思いの阿彪は、なんのご報告に来てくれたんだ?」
「――ああそうでした。ご判断を仰ぎに来た次第で。……先日のキャバレーで相手をした女が、大哥の威光を笠に着てやりたい放題してるってンで、扱いに難儀してるそうです。手を出すにはちょっとばかり面倒な
性質だったンですかね、大哥にしちゃ珍しい。躾が至らなかったのか、口を塞ぐにゃあ気性が荒いってことで、店側から苦情と上申が入ってきてます。しょうもねェことで手を煩わせて申し訳ない、処遇はこっちに任せる、とも」
滔々と述べ立てる弁口の合間、ボスの
燻らすジタンの火がほんの一瞬だけわずかに揺れたのを、彪は見逃さなかった。
同時に、隣に
侍る小鳥がにっこりと笑みの度合いを増したのもだ。
「ふふふ、もしかしてなまえはお邪魔ですか、旦那さま? このままわたしまでご指示を拝聴してもよろしいんでしょうか」
「……どっか下がる了見なら止めはしないぞ? ご指示とやらを小鳥の耳に入れることでもねえだろ」
「まあ、驚いた。あなた、そうお思いですか? 本当に?」
未だマニキュアが乾ききっていないらしい。
なまえは手を伸ばさないままじりじりと飼い主へ身を寄せている。
張はそんな彼女を片手で押し留めつつ、口の端の煙草を灰皿へ放った。
心底億劫そうに、相も変わらずドアのところで佇立している部下を顧みた。
「おい彪、これ後が面倒だぞ」
「はあそうですか。俺は仕事なんで」
「ねえ旦那さま。彪ではなくなまえをご覧くださいます?」
上司たちの
為体に、多少なりとも溜飲の下がる心地がする。
彪は素っ気なく「で、どうしますか、大哥」と促した。
膨れっ面をしたなまえと、彼女に詰め寄られている
張維新へ向け、ざまあみろとは口にはしなかっただけ、上出来というものではないか。
手紙
さわやかな季節、いよいよ御清祥の御事と拝察いたします。
わたしもこの頃、あの御方の死にとざされた日々から、すぽんと抜けたような天地に生まれ出て、亡きひとと
生々緊密に遊び始めました。
ご安心ください。
亡きひとの墓地の垣が
沈丁花だったというので、わたしの庭にも沈丁花を植えてあの御方をしのんでおりましたが、墓地の垣はしきみなのです。
そこでこんどはこちらが向こうに照応するよう、墓地に沈丁花を植えてやりました。
墓地はわたしとあの御方にとって、ランデヴーの場所にしか過ぎません。
いっしょに行って、いっしょに帰って来ます。
この頃は生も死も、あまり角立ち固定した形のものには見えませんので、具体と抽象にも、現在も過去未来にも、際立った境はないように感じます。
生と死の継ぎ目のないあの御方のいのちの恩愛が、鈍根のわたしの上にも及ぶことといまさらに報謝しております。
長年の御交情にあまえ、今生の楽しみのことをちょっとお話してみたくなりました。
お許しください。
(川端康成『掌の小説』(1971)より「手紙」)
(2020.07.02)