閑雅な寝室で女がひとり眠っていた。
伽羅キャラの微香漂う寝台の、真っ白なしとねを這う黒髪は夜に似て、コントラストを支配しえも言われぬほどうつくしかった。

ジタンをくゆらしたチャンはベッド横に佇立し、夜降よぐたち言いつけ通り先に就床していたなまえを見下ろした。
暗晦あんかい満ちる寝所といえど、最前までサングラスをかけていた彼にはさして差し障りはなく、雪のように横たわったなまえを視一視して「ひとりで寝るとすぐにこれだ」と溜め息をついた。

「っ、う……」

ひとりの眠りの淵で、どんなろくでもない夢を見ているのやら。
なまえは眉を寄せ、おのが身を抱えるようにぎゅっと丸まって寝ていた。
窮屈そうに抱き込まれた胸が苦しげに喘いでいた。
荒い呼吸は、しかしあくまでちいさく、静寂に満ちたねやでなければ誰にも気付かれないほどにか細かった。

佇んだまま見下ろす男は、はっと紫煙を吐き出した。
暗い寝室に、煙草の火がぼうっと浮かぶ。
男の眼差しに浮かぶのはなんだったのか――蜷局とぐろを巻く白靄によって曖昧にぼかされ、誰にも、彼自身すら判然としなかった。

ジタンをナイトテーブルの灰皿へ放り、張はベッドへ腰かけた。
瀟洒な寝台は軋むことなく主人の身を受けとめた。
寝乱れ、頬へかかった髪を除けてやる。
やさしい指先は野の小鳥を撫でるようだった。
夜を彷彿とさせる黒髪が男の指とさらさら戯れた。
夜がやわらかく縁取る輪郭、白い頬をやおらなぞる。
なまえのまるい頬は、極上のさわり心地でもって甘やかな愛撫に応えた。

次いで張は、ぎゅっと握られた繊手せんしゅを手に取った。
強張ったたなごころをあやすようにのんびりと撫でてやれば、ゆっくりとこぶしが開かれた。
ややあって、ようやくてのひらが空っぽのその中身をさらしてみせた。

てのひらとてのひらを重ね、ゆるやかに指を絡めていると、閾下いきかといえど、ただひとりの主がふれてくれるとあってはいつまでも不祥な夢にとらわれているわけにもいくまい。
そうこうしているうちになまえの苦しそうな呼吸が、ふっと和らいだ。
しかりしこうして、尖った氷がなめらかに角をなくしていくように、硬い蕾が春と共にほころぶように、うっすらと口角をゆるめてさえいた。

ほんの数秒前までとは打って変わって、なまえはすやすやと無垢に眠っていた。
――まったく、手のかかる。
乳飲み子の如き反射行動、安心しきった清澄な寝顔をてのひらひとつでつくり出した飼い主は、やはり無言のままに肩をすくめた。

とはいえ女の柔肌は、春泥が惑溺わくできを誘うかのように離れがたく、握るようにするっと首へ手を回した。
平生はワンピースの襟で慎み深く隠されている、真っさらな――彼が刻んだ噛み痕や鬱血痕を別にして――愛鳥の喉頸のどくびは、従順に飼い主の手を受け入れた。
華奢な首は容易に張の片手に収まってしまった。

てのひらの下ではどくどくと血の巡る感触がした。
今し方うなされていたのとは違う、夢寐むびに相応の落ち着いた脈拍に、安堵のようなものを覚えた。
と同時に、それを止める生殺与奪の権を、所有権を握っている事実に、じりじりと浸され喰われていくような心地がした。
火を点けたばかりの煙草のようだ。
らしくもないその衝動は、焦燥にひどく似ていた。
銃も弾丸も必要ない、いま、ほんのすこしでも力を込めようものならその眠りをとこしえにすることはあまりに容易かった。
あるいは、薄い皮膚と肉の奥に潜むけい手折たおることさえも。

そんなつまらない妄想は男を妙に昂らせた。
張にすがることで生きながらえている女をどうこうしようと彼の思うまま、気随気侭なものだったが、いつでも殺せるのだと思うと、生々しい傷口が熱を持って脈打つのに似た昂揚と、ひるがえって、惜しみ、愛で、いつまでも掌中に収めていたい欲求とが等量に襲ってくる。

相反する情動に自嘲した。
ああ、本当にらしくない。
ともすれば失望じみた諦念を自分に対して覚えた。
たかが飼い鳥一羽のためにはなはだ愚かな男に成り下がると知っていて、そしてそれが不快ではないというのだからいよいよもって、始末に負えなかった。
ならばもうすこしだけこうしていようかという気にもなる。
益体もない感傷に煩わされるおのれいたずらにもてあましながら、張は薄く笑った。

「ん……」

可憐な桃色の唇からあえかな吐息が漏れた。
いつの間にやらいくらか力がこもっていたらしい。
握った細首から手を離した。
健やかな寝顔を飽くことなく眺めながら、張はなまえの額へ口付けを落とした。






意識が浮上して自分以外の熱を認識した瞬間、目を開けるよりも先に、なまえの唇は微睡まどろみながらほころんでいた。
間近に感じる熱が、香りが、残夢ではないことを教えてくれる。
胸を占める多幸感に促されるように、ゆっくりと目蓋を開いた。

果たして隣に横たわっていたのはなまえの飼い主、張維新チャンウァイサンだった。
昨夜なまえはひとりで床に就いたが、そのあとに帰宅したのだろう。
音にせず「お疲れさまです」と心密かに呟いた。
「おかえり」も「おやすみ」も言えなかった悔いは消えはしないが、それよりもいまは、眼前に供された彼の寝顔を眺めるのに忙しい。
泥のように寝入っているらしく、張はいっそあどけなさすら感じられる寝顔を惜しげもなくさらしていた。

眠りを妨げないように、おもむろになまえは肘を着いて上体を起こした。
至近距離で華胥かしょの国の主をまじまじと見下ろした。
横を――なまえの方を向いているせいで、むっといささかつぶれた頬が愛らしい。
やや疲れの残る目尻や、眼窩へ落ちる影すら慕わしく、なまえは唇へゆるやかに弧をいた。

――このひとのこんなお顔を見ることのできる者が、一体、この世にどれだけいるのかしら。
そう思えば、今世すべての罪業も災禍も、許し、受け入れたくなってしまうのだからどうしようもない。
ずるいといじらしく責めなじりたい心地すらした。

彼女にも覚えのあることだったが、眠りの浅い者にとって、他者の存在や気配はひどく気に障るものだ。
なきだになまえとは比べものにならないほど安逸というものから程遠い、張維新チャンウァイサンという男が、自分と共寝している――ただそれだけの事実が、ともすれば涙がこぼれてしまいそうなほど僥倖なことだとは、目が覚めて隣に張のいる朝がゆめ幻のように尊く得がたいものだとは、彼と出会うまでなまえは知りもしなかった。

喉元へせり上がってくるような熱を、なまえは幸福と共に呑み下した。
陶然としたまま、この穏やかな光景に唯一不似合いな、枕元に鎮座する「天帝双龍ティンダイションロン」へちらと目線をやった。
ほの明るいねやにおいて二挺のベレッタはひどく浮いて見えた。
主人とふたりっきりのベッドを邪魔する存在に、所有物仲間としてなんとなく嫉妬めいたものを感じるものの、昔からの習慣なのだから致し方ない。
ふれたことは皆無とはいえ、あまりにも身近すぎる「人殺しの道具」の使い方程度、鳴鳥とて知り及んでいた。

しいま銃口を向けたとしても、寝聡い主といえど眠ったままかもしれなかった。
金糸雀カナリアは殺気というものを向けたことも、覚えることもない。
引き金を引けば、あるいは気取られることなく為果しおおせるかもしれなかった。

面映ゆい心地がして、尚一層やわらかく、とろけんばかりになまえは相好を崩した。
――許されている・・・・・・
夢寐むび、横にいることを。
ひとを殺すためのもの、彼の銃へふれ目睫もくしょうの間にいることを、なまえは受け入れられていた。

半臥はんがの姿勢のまま、張の目元へかかった前髪を指先でそっとはらった。
現れた左の眉の上あたり、秀でた額へ唇を落とした。
それでもなお破れない眠りを心の底からいとおしく思いながら、なまえは身を離した。
あまり凝視していては、いくらなんでも熱っぽい視線で起こしてしまいかねなかった。
名残り惜しく思いつつ、ゆっくりと寝台から降りた。
白いナイトドレスが、しゅるっと密やかな衣擦れの音を立てた。
素足のまま、そろりそろりと窓辺へ寄る。
分厚いカーテンが細く開いていた。
寝室が薄明るいのはそのためだ。

未だ陽光はその姿をはっきりと現してはいないものの、ドレープの隙間から、既に朝の気配が忍び込んでいた。
ぴったりカーテンを閉めようと伸ばした手が、ついうつくしい夜明けに引き留められてしまう。
窓際でぺたりと座りこみ、白々明けの空を遠望した。
窓にふれた爪先が、ガラスの冷たさにそっとふるえた。
飛ぶことを知らない小鳥のような眼差しで、なまえは白藍しらあい色の東天を眺めた。

いつだったか、同じようにひとりで空を眺めたことがあったことを唐突に思い出した。
そのときと違うのは、今世ただひとりと慕う男を知った我が身だけだ。

「――……なまえ?」

音というより吐息に近い、かすれた低い声、ねやに落ちた彼の声音に、なまえはぱっと振り向いた。
寝台の上で張が半身を起こし、寝ぼけまなこでこちらを見ていた。

「おはようございます、だんなさま」

蜜が滴るように甘く、芳しく、なまえは微笑んだ。
空を隠すカーテンをしっかりと閉め直して、億劫そうに伸ばされた張の腕のなかへ幸せそうに舞い戻った。


(2020.06.10)
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