バラライカとの電話で、なまえは「昨日の会合で、皆さまにご面倒をおかけしている、愚か者に関する議題はありましたか?」と尋ねた。
その質問をバラライカは「心当たりでもあるの?」、そして「妙に具体的じゃない――質問っていうよりまるで確認だわ」と評した。
しかしながらまったくもってである。
確認ではない。
なまえの言葉はまさしく質問だったのだ。

金糸雀カナリアが把握している限り、街における現下の情勢、ホテル・モスクワ近傍にそのような火種は――すくなくとも連絡会にて槍玉に上げるべきレベルのものはないはずだった。
ではそれ以外・・・・の組織ならば?
なんとなれば済度しがたい俗衆たちの係争地ロアナプラである。
火種なんぞ枚挙にいとまがないのは言うに及ばず、よりどりみどりだからこそ、なにを、誰を、使うか――結果的にこちらに火の粉が飛んでくる、責を負わなければならない事態に陥っては元も子もなかった。

よってなまえは今回理想的な「敵」をバラライカに選ばせた。
さすが実利主義たる大尉殿バラライカ、過不足なく、精密に、なまえが求めるのにぴったりな「敵」をいみじくも提示してくれた。
堅陣の権益外、おのれの庭先の外での乱痴気騒ぎならば、いわんや余所の紛擾ふんじょうならば、どんな人間でも、し火傷顔といえどいくらか舌がなめらかになるというものだ。

後腐れのない、街の中だけで収束可能、かつ三合会に関係のない・・・・・――こう三つ揃った纓絡ようらくの与太者が、なまえには必要だったのだ。
塔の上の小鳥や、街に蔓延はびこる二束三文共では安易に手を出せない、「連絡会」にて議題に挙がる程度に厄介であればなおあらまほしい。

「ふふ。まさかコロンビアの皆さまのところで、薬の横流しがあっていたなんて……」

なまえは頬に垂れた黒髪を、淑やかな所作で耳へかけた。
どこまで自分の手札を開示するか、相手からいくら情報を引き出せるか。
暇潰しには相応の、たっぷりの贅言ぜいげんによってなまえがバラライカから得たのは「コロンビアのマニサレラ・カルテル絡みで、薬物の不正転売が行われていたこと」、そして「主犯共はほぼ処断済みだが、未だ末端の数名が捕捉できていない」という事実だった。

一九七五年まで続いたベトナム戦争は、戦争の悲惨さやら世界における米軍の立場やらといった包括的なテーマはさておいて、コロンビアにおける主だった組織カルテルを発展させしめるというサイド・エフェクトをもたらした。
戦時中、米兵がコカインを興奮剤として常用しており、その供給によって急成長していった歴史があるためだ。
最大の市場である米国への麻薬供給は、昨今、隣近所のメキシコに圧されつつあるとはいえ、ロアナプラにおける勢力版図、影響力は未だコロンビアに分があった。

しかるにマニサレラ・カルテル下部構成員がコカインの一部をくすね、ロアナプラ内で売りさばいていた。
全体から見ればほんの微量だったため、かつ、そんな気を起こすとは思えない亡状ぼうじょう極まる下っ端梯団ていだんが主犯だったゆえに、組織内でも発覚が遅れたらしい。
烏滸おこの沙汰とは言いじょう、大量の薬物なり札束なり武器なりが積載されているのを日々目の当たりにしていると、感覚が麻痺して「すこしくらい」と手を伸ばしてしまうことは起こりる。
実以じつもって、どれほど厳しい掟なり罰則なりがあろうと、そういった不逞の輩は往々にしてどの組織にも発生するものだ――『 邪鬼 The Imp of the Perverse』を呼び起こすまでもなく、生まれながらにして万人の性質が倫理的エシカルであるならば、そもそもロアナプラという街なんぞ存在すまい。
目先の誘惑に弱い表六玉が蔓延してこそ、暴力も麻薬も賭博も売春も、人身から銃器に至るまでありとあらゆる違法な売買も、その他様々な「悪事」がこれほどまでに濁世をかくたらしめるのだ。

今回、カルテル内だけで事態を収束させるのが最善だったのは間違いない。
しかしながらまったくもって面倒なことに、そのささやかな横流しに、どの組織にも属していない街の衆愚がちらほら関わっていたとあっては――おのが組織よりも、遣わされた赴任地ロアナプラでの相関に注力するなど、いくら単純接触ザイオンスなどという度し難い効果があれど、愚の骨頂どころの話ではない。

先程の情報屋との電話にて、なまえはその関係者とやらについてほのめかしてやった。
無論、真正面から教えてやるべくもない。
見返りも求めずただ情報を与えてやっては「天秤」が釣り合わず、なにを企んでいるのかと相手を身構えさせかねない。
無用な疑念を与えるのは得策ではない。
従ってなまえは、さも瑣事か、さもなくば共通認識程度の戯言たわごとでもあるかのように口を滑らせて・・・・・・みせた。
情報の価値を理解できない愚鈍な女の囀りは、さぞや聞き心地が良かっただろう。

情報屋の男がその事実を知り得ることはない。
否、なまえが言ったことに事実などなにひとつない。
これから事実に「なる」のだ。
なまえが情報屋へ語ってやった話はまるっきり嘘である・・・・・・・・・
張と部下の会話を横で聞いていたというのも、マニサレラ・カルテルが探している不正転売に関わった烏合うごうのひとりがある娼館の商売女である・・・・・・・・・・・ということも。

情報屋がすこしばかり頭の回る男だったなら、なまえの口上から矛盾やほころびを剔抉てっけつできたかもしれない。
が、そもそもあの男は三合会に並々ならぬ借りがあった。
金糸雀カナリアは賭け事をしないため理解しかねるが、あの情報屋は三合会に属する賭場で売掛金を生じさせていた。
一朝一夕にどうにかなる額の負債ではなく、膨れ上がった利息で首が回らなくなっている頃合いだろう。
反駁はんばくする度胸などあるまい、ただでさえ金糸雀カナリア直々のご宣託だ。
しっかり裏付けを取ることもせず、必要な者のところへ――この場合はマニサレラ・カルテル構成員、あるいはその関係筋へ――安易に売り飛ばしてしまうだろう。

白昼、なまえが「管理室」にて探し求めていた記録は支出ばかりではなかった。
そもそも本来の目的は「彼」と話すことだ。
加うるにそろそろ取り立てを厳しくしてやらねばならない喫緊の与太者たちの債務リストだった。
女主人が貞淑な顔をしながら、使い勝手の良い、目的にぴったりのい鳥を探して「どれにしようかな」と帳面をなぞっていたことを、同座していた「彼」は――部下は、知る由もないだろう。

小鳥が債務リストから選び出したのは、情報屋のあの男だった。
電話をかけたなまえは、いくら探られてもまったく彼女には問題ない些細な案件について、しかつめらしくあれこれと問答を繰り広げてみせた。
その会話の最中、毒にも薬にもならない閑話がてらに口を滑らせてやったのだ・・・・・・・・・・・――「そういえば、コロンビアの皆さまがお探しのひとはもう捕まったのかしら。お外に出られなくて、わたし、怖くって……。ほら、薬の横流しをしていたっていうでしょう?」「薬の横流し? この街で?」「ええ。その関係者がね、娼館の女性だって……あら? わたしはそう聞いたけれど……あなたはご存知なかった?」。

今頃、喜び勇んで男がカルテル関係筋へ売り渡しているだろうこの情報の報酬は、一箭双雕いっせんそうちょう、大方、賭場への返済にてられよう。
とはいえ積もり積もった負債をすべて返す宛てなどあの男にあるまい。
早晩行き詰まり、排水溝を詰まらす原因のひとつとなるのは明白である。
なまえが囁いた言辞ひとつたりとて、彼から露呈することはない――死人に口はないのだから。

賭場の借金はカルテルからの報酬によって幾許いくばくか返って来、その情報によってカルテルは薬の横流しに関わっているらしい女を始末し、そのうち情報屋の男は膨らんだ負債により処理される――まさしく一石で二鳥も三鳥も得られる寸法だった。
金糸雀カナリアが描いたのは、そういう画だった。

とはいえ、一点のみから寄せられた情報タレコミは確証に欠ける。
小金欲しさに疎放そほうなデタラメを並べる愚か者はすくなくないからだ。
各々利害の関与しない複数徴証ちょうしょうがあって初めて、信憑性というものは生じる。
そのためなまえは先程の情報屋とのやりとりのような茶番を、あと二、三ほどやるつもりだったが、なにしろこれ以上街の中で恥の上塗りをすべくもない、早急な収束を望むカルテルは、鑑取りにそう時間も人員も大きくは割くまい。
幾人かにほのめかしてやる程度で、信憑性の補強は事足りるだろう。

やることは他にもあった。
商品をひとつ損失させるのだから、例の女を雇っている娼館との談判、折衝せっしょうまで弄さなければならない。
「“三合会の白紙扇バックジーシン”が手を出した女」を手にかける・・・・・カルテルのための斟酌等、その他根回しは欠かせない。

何事にも順序というものがある。
切要な物事の前後には、いくら迂遠だろうと煩雑だろうと踏むべき無数の手順があり、パズルのピースをはめるべき場所にはめ込むようにそれをひとつひとつ正しく配置することによって、初めて全体が完成する。
ただし必ずしもそれぞれのピースが、真実まったく完全に、完璧に、正しくあるべきとは限らない。
スタートとゴールがそれらしく整っていれば、どのような一断片を使用しようと最終的に絵図の形が仕上れば良いのだ。

言わずもがな、このくだらないソープオペラのアウトラインを余所へ披露してやるつもりは更々ないが、なまえは念頭に「友人」の姿が浮かんでいたことを認めるのにやぶさかではなかった。
――フォンの一件から着想を得たなんて知ったら、彼女は気分を害するかしら。
友人のひとりである馮亦菲フォン・イッファイをこの街の死人に仕立て上げた顛末てんまつの「どこ」を発端とすべきかなまえにはわかりかねたが、すくなくとも転落の小片ピースは小鳥になにがしかの啓示を与えた。
騒乱の一断片であるジェーンたち「ハイウェイマンズ」の策謀は、スタートとゴールだけは辻褄が合っていた。
ドイツの航空電子機器アビオニクス企業、ラインバッハAGへの攻撃をフォンは行っていなかったが、そんなことは彼女以外の誰にとっても・・・・・・どうでも良いことであり、結果、彼女に故郷も経歴も本名すら一切合切を捨てさせた。

よくもまあ自暴自棄にならなかったものだとなまえはいまでも感嘆の念を覚えるが、とまれかくまれフォンによる犯行の「証拠」を集めて捏造したのは、ラインバッハから依頼を受けたジェーンたち地下フォーラムだった。
規模が大きくなりすぎて、最終的に物語は国家機関システムがらみの陰謀論の様相を呈したが、ビッグ・ブラザーもエマニュエル・ゴールドスタインもオセアニア国に存在するのか否か、どっちみちそこに生きている人間に開示されることはない。
そこには体制レジームがあり、統制コントロールがあり、理念イデオロギーがあり、宣伝プロパガンダがあり、お題目があり、支配する者と支配される者がいるだけだ。

辻褄さえ合えばそれは事実になり、各々の立場や都合によって如何いかようにも改竄も糊塗もやり放題だ。
それがこの街の流儀だ。
――騙される方が馬鹿なのさ・・・・・・・・・・・、と。

「ああ、ほんとう、なんて、益体もないことを……」

自らの手で銃を取れない、自らの足で鳥籠から出られない、「飼い主」がいなければ精神的のみならず立場的にも能力的にも生きながらえることすら敵わない女は、うすらと自嘲した。
らしくもなく、それは彼女の嘘偽りない正直な笑みだった。
自分自身をあざける苦い笑いだった。
焦燥に似た情動を飲み下して目を伏せる。
愚かだと笑い飛ばしてほしかった。
残照を受けて、伏せた睫毛が頬へ影を落としていた。

物事を必要以上に複雑化するべきではないと理解していた。
しかしながら胡乱なことを勘案し、浅ましく糊塗し、暗々裏に立ち回ることでしか、したいことも、すべきことも、なにひとつできやしない脆弱な女ひとり、こんな馬鹿げた真似を披露したところでなんの罪があるだろう?

透明なガラスの花瓶から、なまえは使用不可になってしまった携帯電話を遅ればせながら救出した。
無遠慮に手を突っ込んだせいで、バランスの悪くなってしまった黄素馨キソケイを丁寧に整えた。
畢竟、目的さえ達成されれば良いのだ。
泥棒猫を排除する、という目的さえ。






街を鳥瞰ちょうかんするなまえの、うろのような黒目だけがきらきら光った。
禍々しく三日月の形に割れた唇から、蜜のような悪意が滴った。

「だからね、ぜんぶ、あなたに八つ当たりしちゃうの。あのひとには内緒よ」

不祥極まる問わず語りに付き合わされた女は、電話口の女へ罵声をぶつけようとしたが、きつく噛まされた猿轡はくぐもった醜い唸り声以外を許さなかった。
お気に入りの光沢のある黒いサイドオープンパンプスが顔の横に転がっている。
長い栗色の髪には赤黒い血潮が付着し、視界に入るだけで感じている痛苦がいや増す心地がした。
ぐっと呻いた。

下品なネオンサインがハレーションを起こす宵の口、身支度を整え出勤しようとしていた彼女は、突然怒鳴りこんできた男たちによって床へ引き摺り倒された。
罵声は吶喊とっかんというにはあまりに卑俗であり、全員が銃を持ち殺気立っていた。
手際良く拘束され「さっさと他の奴らのことを吐け」と怒号を浴びせられたが、他の奴もなにも、そもそもどんな用件で彼らが我が物顔で戸口を潜ろうと決心したのかさえ、彼女には皆目見当も付かなかった。
理解できないということは、眼前に突きつけられた銃口と相まって、否応なしに恐怖と嫌悪感とを増幅させた。
浅黒い分厚い指が食い込み、彼女は顔面を大きく歪ませた。
スラングだらけな上にひどく聞き取りづらいスペイン語訛りの英語は、この街に多くいる南米系の組員によるものだろう。
職場で客が付くことはあれど、取りも直さずその程度の関わりであり、問題を起こした覚えは皆無だった。

起こした問題――心当たりはあるにはあるが、しかしそれは数日前のことであり、失敗したリアウ島嶼とうしょ沖での「武器取引の件」だ。
闖入者たちが叫ぶ「他の奴ら」なんぞ、皆とうに掃き溜めの排水路かエメラルドグリーンの海底に沈んでいるはずだった。
長年とこを共にしていた情夫は殺されてしまったが、彼女自身の命に代えられるものではない。
なにより三合会のトップが我が身に陥落したのだ。
むしろより良い男を籠絡し、窮状を切り抜けたおのれの幸運と美貌とに優越感を抱きこそすれ、今更、問題などあるはずもない。
二日と空けず昨日も「彼」は訪れたのだ、ふざけた俗称を冠する邪魔な女の存在知り及んでいたが、そんな情婦のひとりやふたり、そのうち追い落としてやれば良いと彼女は考えていた。
おいそれと余所の馬鹿に手を出されるリスクも減り、すくなくともこの街での立場は安泰だと思っていたのに――。

とはいえ身に覚えといえばそれくらいしかなかった。
その件だろうか、しかしならばなぜ南米系組織が出てくる、と混乱の極みにあって、唐突に突き出されたのは黒い携帯電話だった。
不可解さに顔を引き攣らせている彼女を余所に、地に伏せた側頭部へ立てかけるようにして、乱雑に電話機を固定された。
聞こえてきたのは、もしも穏やかさと清らかさとを声にしたなら、こういう音になるのだろうと確信させしめる女の声だった――「もしもし? わたしの声はちゃんと聞こえて? ――こんばんは、良い夜ね。あなたがきちんとお店に所属してくれていて助かった。流し・・の女性だと探しづらかったものね。ああ、ゆっくりご挨拶したいけれど、時間があまりないのが残念。あなたのことを教えてさしあげる見返りに、彼らからいただいた猶予は五分だけなものだから。こちらのことはわからないようにしていたとはいえ、連絡があんまり遅くって……ご用事が済んだらって申し合わせだったけれど、わたしとの約束を忘れちゃったのかしらって心配していたところだったの。――本当はね、手間だし、こうやって直接あなたとお話するのは避けた方が良かったのにね。電話越しとはいえ、彼らがわたしのことを突き止めてしまったら後々面倒なのに……。ふふ、恥ずかしい。わたしね、どうしても我慢できなくって」。

悪戯が成功した幼な子のような、くすくすと軽やかな笑い声が響いた。
声音はひどく細く、周囲にいる男たちには聞こえないよう留意しているらしかった。
男たちは、イライラした様子で腕時計を見下ろしては舌打ちしていた。
まるでいまそのさまを観賞しているかのように、また電話口の女はちいさく笑った。
やわらかな笑い声がいやに耳に障った。
「あのひとには内緒よ」と囁いた清らかな声は、ゆっくりと息を継いだ。

「わたしは詳しくは知らないけれど……慣れていないと、銃で自殺するのは案外難しいそうね? 片手で銃を握ってこめかみに当てるより、銃口を咥えて歯で固定するのが一番安全・・らしいけれど。もしもミスして、死に損なってしまったら大変、ね?」

困惑と狂乱の只中に突き落とされている彼女に頓着することなく、なにか熱病のようなものに侵された濃い霧を思わせる声が、途切れることなく電話から滔々とうとうと漏れ聞こえてくる。
屠所としょの羊を安心させるような仮象かしょうの語調は、だからこそ・・・・・忌わしく、ぞっとするほどやさしげだった。

「ねえ、あなた、想像してみて……。仮にそんな状況に陥ったら、あなたはどうする? もしも自死に失敗して、すぐには死ねない程度の重傷を負ってしまったら。もう一度撃とうと、激痛に悶えながら取り落としてしまった銃へ手を伸ばすかしら。いまにも手が届きそう。はやく楽になりたい。そう気が急いているとき、もしわたしが銃を蹴って、遠くへ……あなたの手の届かないところへやってしまったら――」

冗長極まる独り言がべらべらと並び立てられる。
縷々綿々るるめんめんと続く広長舌は、あたかも携帯電話を媒体にして、ひたひたと毒に侵食されていくようなはなはだ不快な効果を有していた。
思考や精神が汚染されていくかの如きおぞましい感覚だった。
床に転がされて身動きひとつ取れない女は、携帯電話から逃れることもあたわず、生きながら地獄へ突き落とされた亡者のように青褪めた。
見るも無残なアザレの唇の間、並びの良い歯が軋むような音を立てた。
彼女は途中から、電話のぬしが、ふざけた俗称を冠する邪魔な女――「金糸雀カナリア」であることに気が付いていた。

「失意と激痛にさいなまれながら、たっぷり時間をかけて、あなたは失血死。ねえ、この場合わたしがやったことは殺人かしら? 楽にしてあげなかったわたしは極悪人? あなたの血塗れの手に、どうぞって銃を握らせてあげるのが……もしくは手ずから射殺してさしあげるのが、やさしさだったかしら? ――でも、どうしようかな、困ったわ。わたし、人殺しにはなりたくないもの」

小夜、ひとり囀る小鳥の声に相応しい、現世の三悪趣、死者の都ネクロポリス
眼下に見晴みはるかすロアナプラの眺望を、金糸雀カナリアは――なまえは見下ろし、床から天井まで覆う大きなガラス窓へ額を預けた。
おもむろに手を上げて、溢れる可視光でまばゆいばかりの街並みを爪先でなぞる。
幼な子のような指先は、この街のどこかにいる、いままさに死に瀕している女を、慈しみ、愛でるようだった。
ガラスに立てた爪が、き、と不快な音を漏らした。

なまえは恐ろしいほど穏やかに微笑んだ。
誰ひとりとして見ていないことが勿体ないほどうつくしく、凄艶な笑みだった。

鳥籠から下りてくることはそう多くはないとはいえ、いやしくも「なまえ」の名は、飼い主のもとにおいてささやかながら威光を持つ。
その上であの「痕跡」を残したのなら、分を弁えない愚かな女へ十全に意趣返ししなければ、誉れ高き「金糸雀カナリア」の名がすたるというものだ。

「ええと、なんの話だったかしら……ふふ、気にしないで、大したことではなくてよ。あら、もう五分経ってしまうのね? 誰かとこんなにたくさんおしゃべりしたのも久しぶり。楽しかったわ、付き合ってくれてありがとう。すこしだけ残念なのは、いまのあなたの顔が見られないことかしら。……いいえ、小鳥にあなたの顔が記憶されるなんて腹立たしいものね。だからこれで良いんでしょう、きっと」

凋落の女を言祝ことほぐように白いワンピースの裾を揺らし、今般、やはり自らは一歩たりとも外界へ下りてこなかった「籠の中の小鳥カナリア」は、おっとりと弔詞ちょうしを述べた。

「さようなら。――旦那さまとわたしとは違う地獄に落ちてちょうだいね」






夜も更け最も繁華のときを迎えた街は、きらめく夜景を山嶺さんれいの大廈、熱河電影公司イツホウディンインゴンシの瀟洒な「社長室」へ奉じていた。
惜しげもなく供される夜色やしょく奢侈しゃしっぷりときたら、ほんのわずかでも気韻きいんを噛み分ける者ならば皆一様に溜め息を禁じ得ないほどだった。

しかしその偉観など目もくれずにいたのは、張維新チャンウァイサンとその隣にはべるなまえだった。
なまえは可憐な唇を「もう」ととがらせた。
飼い主を見上げて、一応、品良く膝を揃えてソファへ腰を下ろしてはいるものの、そのさまはいまにも座面に乗り上げて主人へ詰め寄らんばかりだ。

「旦那さまったら、途中から楽しんでいらっしゃったでしょう。本当にどうかと思います。よくわたしのことを性悪だなんておっしゃるけれど、あなたに比べたら、わたしなんて他愛ない児戯のようなものです」
「なんのことかわからんなあ」

軽薄な口調でへらりと笑った男は、寛闊かんかつにグラスを傾けた。
グラスのなかで琥珀色と戯れる丸氷が、からんと涼やかな音と共に揺れた。
伊達男はソファにだらりとかけた、その居住まいひとつすら画になった。
張がサングラス越しに一瞥を投げてやると、それ以上のり言を諦めたらしい。
なまえは、はあっと溜め息をついた。
楚々とした顔貌がわかりやすく不承認の態度を表明しているのは、幼な子が拗ねてみせるのに似て、いっそいじらしさすら感じさせた。

しかしながらそんななまえの媚態に、幸か不幸か――彼女にとっては不幸だろうが――この世で唯一決してまどわされてくれない全き主は、頓着せず、笑いながらまた一口酒を嚥下した。
いささか意外そうに、のんびりと首を傾げた。

「最後の最後に自分から暴露してんじゃあ、全部無駄だろうよ。小芝居は終わりか?」
「だって、あなた、最初からご存知だったでしょう」
「ふ、“最初から”ってえと――」
あの紅の跡・・・・・。すこしはよぎりましたよ。旦那さまほどの御方が、いくら背襟の辺りとはいえ、お気付きにならないかしらって。……ということは、わざわざわたしへお見せになって、なにかお考えがあったのでしょう? 訳合わけあいを尋ねるくらい、お許しくださいますよね?」

物言いはあくまで慇懃ではあるものの、らしからぬ語気の荒さだ。
飼い主の前で不平不満を露わにする金糸雀カナリアなど滅多にないことだが、今回の顛末てんまつを鑑みれば、作為義務に等しいとなまえは心の底から考えていた。

むっと唇をひん曲げている飼い鳥を幾分か物珍しげに眺めながら、張は新しく煙草を咥えた。
すぐさま躾けられた所作でなまえが火をともすと、かすかに漂う白百合の芳香を圧倒する、葉巻とまがうほどの黒煙草の薫香が立ち上った。
鷹揚に一服つけると、麗しの香港より「四一五」を拝命する男は「あの女な、」と口を開いた。

「リアウ沖での取引を御破算にしやがった件だけでも、壊し・・は決まってたんだが……あれでなかなか面白い伝手を持っててなあ。覚えてるだろ。中共に追われて、シチリアのお友達ロニーのところに逃げ込んだ娘の一件」
「……以前、わたしが関わった?」
「ああ、お前の“お友達”だよ。間接的に、あの件にもちょっとばかり噛んでたのが、男の方をバラしてからわかってな。――といってもほんのささやかなもんさ、客の伝手で手引き屋を紹介してやった程度のことだ。まあ、それ自体は一向に構わねえんだが……。頭越しってわけでもなかったのが災いして、これまで見落としてたらしい。そこんとこ二、三、聞きたいことがあったんだよ。魚のエサにしてやる前に、な」

なまえが不在だった間にげていたことを正当化するでもなく、男は紫煙まじりに吐いた。
臆面もなくのたまう主人の隣で、従順に弁明ですらない口上を受けとめていたなまえは、嘆息でもって返答とした。
喉に巣食ったイバラが痛くなければ、なめらかに吐いていたに違いない――「わざわざあなたが動く必要はどこにもなかったでしょう。わたしがいない間に、わたしを苦しめてまで」。
しかしなまえが音にすることはついぞなかった。
どこの馬の骨とも知れない女のために、苦しめられた、悲しみを与えられていたなどとわざわざ認めてやるものか、そうとつおいつかこつ胸の内は、恐らく主には手に取るようにつまびらかになっていただろうといえども。

なまえはぐずるように張の腕へおのが腕を絡めながら、努めて不満げな声・・・・・・・・、嫉妬する愚かな女の声で言い募った。

「そんな女に、どうして御手を付けましたの?」

言いながら、やおら座面へ膝を着いて乗り上げた。
毒蛇くちなわめいて伸びた繊手せんしゅが、張維新チャンウァイサンの腕を、肩口を、そして太い首を這った。
単に「殺すには惜しい女だった」などと吐こうものなら、爪を立てるくらいは可愛いものかしら、と考えながら張の身へすがりついた。
銃にふれたことすらないやわらかい指先が、堕落を誘う妖婦もかくやとばかりに頬を撫でれば、男の喉がわずかに鳴った。

思考をとろかす桃花色の指先、物騒に甘ったれたなまえの行為をそのままに、張は薄く笑った。
怏々おうおうとした表情の女を見下ろし、ふっと紫煙を吹きかけてやった。

「このところ暇してただろ、お前」

突然のことでなまえが軽く咳き込んでいるのを眺めながら、張はあっけらかんと言い放った。
なまえは空咳も忘れて、きょとんとまじろいだ。
もたれるように、縫い止めるように、くっついていた上体も起こした。
見上げた先で、白靄を纏わせた澆薄ぎょうはくな口角は、好事家じみて吊り上がっていた。

「どこの陣営にも縁もゆかりもねぇ女ひとり、殺しちまうのは容易いが……ペットのストレスを軽減してやるのも、飼い主の責任だろうよ」

だらりとソファにかけたまま、いけしゃあしゃあ「小人閑居って言うしなあ」と嘯いた男は、のんびりとした挙措きょそで酒をあおった。

目眩に似たなにかに襲われ、なまえは頭痛を堪える表情でしなやかな手指を張の身から引き上げた。
今回の舞台ゲームにおいて、水端みずはなから不首尾ふしゅびをやらかしたあの女こそがなにより悪いが――しかし、とはいえあまりにマッチポンプもはなはだしいのではないか。
さすがにコロンビア・カルテル絡みの案件までなまえが利用するとはめぐらしてはいなかっただろうが、幾分かは張の掌上でのことだったのだろう。
もあればあれ、俯仰ふぎょうどれひとつとっても憎らしいほど洒脱な男は、堂にった挙止で口の端の煙草を灰皿へ放った。

一連の動作を胡乱な目で見守っていたなまえは、たっぷりの沈黙のあと、苦いものを口内へ無理やり突っ込まれたかのような表情で呻いた。

「……やっぱり、あなた、本当に性根が悪くていらっしゃいますのね」
「今頃気付いたか。小鳥もまだまだ片生かたおいところがあるたあ喜ばしいな」
「存じておりましたよ、もちろん!」

声高に返答して、毒気を抜かれたようになまえはソファへ座り直した。
ふてくされるようにそっぽを向いた彼女に、ひるがえって張はとうとう声をあげて笑った。

汗をかいた薄いグラスを置くと、手を伸ばし、結わず流れるままに任せているなまえの髪をすいてやる。
人を殺すこと、支配することに長けた偉丈夫の手は、なまえにふれるこのときばかりは、いつも驚くほどやさしい。
なまえのぬばたまの黒髪は、飼い主に撫でてもらうためにある。
大人しく髪を撫でられながら、なまえはむにむにと口元をたわめていた。
大方、こんなことでは絆されないぞと内心葛藤しているところだろう。

「そう拗ねなさんな。お前だって若い男引っかけて遊んでただろうが」
「まあ、なんて大仰な言い草。もしかして邵のことでしょうか。彼は憐れなわたしへ手を差し伸べてくれただけです。彼が色々と教えてくれなかったら、わたし、なにもできませんでした。顔立ちはちょっと怖いけれど、やさしい子だわ。……あなたの運転手を任されて浮かれているようだったから、探さずともすぐにわかりました。――ああ、彼はちゃんと行き先やお相手を口にはしませんでした・・・・・・・・・・。だから、お叱りはだめです。ただ、思っていることが表情に出てしまったり、小鳥の媚態に流されてしまったり、すこし心配なところがあるのは事実ですから……あなた、教育しなおしてあげてください」

振り向きざま、「どうか、やさしくね」と微笑んでみた愛鳥の淑やかな容儀を認め、飼い主は満足げに口元を笑みの形にめた。
彼のとらえどころのない飄々とした笑みは、しかし見る者へ奥底の知れない不祥な情感を喚起させるものだった。
地獄の釜を開けるとき、その人物はきっとこんな表情をしているに違いないと思わせる笑みだ。

「――悪い子だ」

紫煙よりも軽く、人命よりも重く、理非なき濁世になによりも相応しい、夜のような張維新チャンウァイサンの賛辞に、なまえはうっとりと見惚れながら「嬉しそうですね」と嘯いた。
鏡のように、愛らしい桃色の唇が至上の弧を描いた。

こんなわたしに・・・・・・・・あなたがなさいました・・・・・・・・・・。……ご満足いただけましたか、旦那さま?」

女のろうたけた微笑は今生、張維新チャンウァイサンだけに向けられるものだ。
甘やかな笑みを見下ろし、張は「そうだったかな」と空とぼけてみせた。

従容しょうようたる佇まいの男へ、なまえは当てつけがましく、思案げに頬へ手を当ててみせた。
白頬に桃花色の爪先が沿う。
所作はあくまで奥床しげだったが、黒い双眸はぬめるように光っていた。

「ストックホルム症候群かしら」
「はッ、そう被害者ヅラに励むなよ、なまえ。反吐が出る」
「ふふ、ひとは図星をさされると不快になるそうですが、あなたはいかがでしょう」

良識めいた女の語調に、張は厚い唇を吊り上げた。
安っぽい挑発は肌をくすぐられるようにいとけない。
居丈高な舌へ煙草でも押しつけてやりたかったが、生憎、先程灰皿へ放り投げたばかりである。
代わりになまえのまるい頬をゆっくりと指の腹で撫でてやりながら、「それで、」とわずかに首を傾げた。

悪い子・・・のなまえは、褒美になにが欲しいんだ?」

「いい子だ」と称する際には特段なにも寄越しやしないというのに、「悪い子」と断じたときには褒美をやろうというのだから、その性根は深甚しんじん、悪夢のようにやさしく、たなごころを指すほどに悪辣である。
なまえはおもねるように見上げた。

「……抱き締めてください。あと、あの位置はもうおやめになって」
「あの位置?」
「お背中の――ヨークのところ。前になまえも同じことをいたしましたから、今回、余計にかんに障りましてよ」

貪婪どんらんなる桃色の唇が歪んだ。
今回、口紅の跡を残した女を排除するために徒爾とじ極まるはかりごとを成したのは、その行為自体が看過できないものだったのは言うまでもないが、なんとなれば既往、なまえもまた同じ戯れを犯したことがあったためだ。
だからこそ尚更、肺腑の煮える情動もまた致し方ないことだった。

辟易したように眉をひそめている飼い主の面様おもようは、肯定を読み取るのに十分だったとみえ、なまえは「わたしがつけたときは、お気付きになりませんでした?」と小首を傾げた。
見上げる黒い瞳には悪戯っぽい光が灯っていた。

「ふふ、旦那さまったら。そんなにお可愛らしいお顔をなさらないで。もういたしませんから……たぶん」
「……そりゃあ、以後気を付けねえとなあ」
「そのうち後ろから刺されないようにしてくださいね、旦那さま」
「お前が言うのか、それ」

要望通りなまえを抱き上げてやりながら、張はやれやれと嘆息した。
両脚の上に乗せ、細い腰を支えてやる。
なまえはすがるように、あるいは囲うように、主の首へおっとりと白腕しろただむきを回した。

今世、最も幸福な場所、ただひとりと恋い慕う男の腕のなかで、白百合を纏った女はそれはそれは傲慢、かつ爛漫に囀った。

「そうですよ。――“なまえ”はあなたの、従順なペットだもの」


(2020.06.06)
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