1
それを発見するや否や、なまえは目を眇めた。
歪んだ目元は忌々しげで、不祥な徴でも突きつけられたかのようだ。
とはいえ表層の揺らぎはせいぜいその程度だった。
飼い主へ差し伸ばした腕を強張らせたり、言葉を詰まらせたりと、わかりやすい動揺はおくびにも出さなかった。
然なきだに目を細めたのはまばたきより短いほんの一瞬のことであり、気付いた者はいまい。
その実、ああ、とてのひらで顔を覆ってしまいたいほどだったというのに。
玉響、目を伏せたなまえは、いまのこの瞬間が賭場におけるプリフロップの段階であることを極めて冷静に理解した。
宵の口に仕事を切り上げた張を「お帰りなさいませ」と恭しく出迎えたなまえが、ごくわずかな違和感を覚えて、笑みを殊更にやわらかく増したのがつい先刻のことだった。
多忙な熱河電影公司「社長」の命で数日バンコクの出張所へ赴いていた彼女は、戻ってきていの一番に彼へ飛びつきたかった――が、残念ながら、当の飼い主は予定されていた「連絡会」へ出席していた。
入れ違いになってしまい、塔の天辺にて大人しく主の帰りを待っていたのだ。
一週間にも満たないほんの数日といえど、今生ただひとり、恋焦がれるひとから離れて、平穏無事であるはずもない。
一日千秋の思いで求めていた主人へようやくすがりついて、なまえは「旦那さま……」と甘やかな溜め息をこぼしたばかりだった。
恍惚と見上げる先、火の点いていない煙草を咥えた張は、喉の奥で低く笑った。
いつものことながら、女の潤んだ眼差しは見つめ返していると胸焼けしてしまいそうだ。
「やり遂げた感ばっかりは一人前以上だが、しっかり“おつかい”に励んできたんだろうな?」
「お疑いになんかなっていないくせに。ただ、あなたにお会いできなくて……その上、真っ先にお顔を拝することも叶わず、悲しみで胸が潰れてしまいそうでした」
「はッ、よく言うぜ。一遍そのさまを見てみたいもんだ」
「まあ、なんて酷薄な」
男の笑みは一見ひとの好さそうな洒脱なものだったが、翻ってなまえは責めなじるような表情で手を伸ばした。
口元の煙草へ、恭しい所作で火を点した。
途端に白靄とジタンの薫香が立ち上り、なまえはゆるやかに目を細めた。
常ならば気付かない程度の微香を、嗅覚が認識していた。
嗅ぎ慣れない、なにかを。
髪といわず肌といわず、全身に深く染みついているとはいえ、数日黒煙草にさらされず、苦い口付けも賜っていなかったなまえだからこそ感知できた程度の、曖昧な香りだった。
「――そういえば、旦那さま。先日、トラブルがあったとお電話でおっしゃっていましたけれど……」
「ん? ああ、リアウ沖の件か。この街からすこしでも離れりゃあ何しても良いってえ筋違いの勘違いしてる手合いにゃ、ほとほと参ったもんだ。まったく、お陰で無関係だったこっちの取引までご破算になっちまった」
「まあ、なんてこと。あなたはお怪我もありませんでした? あるはずがないと重々承知しておりますが、委細お聞きできなかったものですから……わたし、本当に心憂くて」
「俺が直接出向いてやる必要はなかったからな。禍福どっちだか、ここにいたさ。ご芳情は、報告を受けて頭痛薬でも欲しそうなツラしてやがった彪にでも向けてやってくれ」
「あらあら」
白紙扇と金糸雀の興じる物騒な会話はあくまで和やかだった。
なまえは微笑みながら、おもむろに悠然と煙草を燻らす張の背後へ回った。
上着の背襟と袖へ手を添え、脱ぐのを助勢する。
――ああ、なんて広い背中なんだろう。
声に出さずに心の内だけで呟いて、うっとりと見上げた。
このまま抱き着いたらどんなお顔をなさるかな、と思いついて頬を紅潮させたなまえは、しかし実際に行動に移すことはできなかった。
喪服じみた黒い上着をいつものように預かり、折しもこそあれようやく違和感の原因を知って、彼女は眦を歪めたのだ。
なんとなれば上着を預かる際、ゆくりなくも白いシャツに「それ」を見付けた。
許されざる痕跡は男のワイシャツの背中、襟のすぐ下にあった。
丁度、ベッドの縁に腰掛けた男へ、女が背後から抱き着いて頬を寄せればそうなるだろうところ、ヨークにひっそり付着していたのは、かすれた口紅の跡だった。
そのまま軽々に上着を羽織ったなら、張が気付かないのも無理からぬ位置だ。
腰の銃とホルスターを隠す上着を、戸外で脱ぐこと自体が稀な彼が――。
手を止めてじっと見つめるわけにもいくまい、しかしなまえの目は抜かりなく、ごくちいさな痕跡を視認していた。
鮮烈だが品の良いルージュは、アザレに似た色味だ。
緋色ほど暗くなく、桃色ほど軽くなく、華やかなうつくしさではあるものの、肌や髪の色に合わせるのはいささか難しい色調でもある。
しかし相応しからぬ紅を塗るような女に無謬なる主が手を付けるとも思えないのもまた事実だった。
きっと明るい髪色の女だろうな、わたしよりもすこし背が高そう云々と、色合いや箇所からなんとはなしに見当が付いてしまう。
香り高い黒煙草により既に掻き消されていたが、帰宅の際覚えたかすかな違和感の正体は、女物の香水だったのだろう――白百合以外のものの。
一度だけゆっくりとまばたきしたなまえは、睨めつける眼光をきれいさっぱり拭い去ると、おっとりと首を傾げた。
「あら……旦那さま? ここのボタン、外れかかっています」
遠慮がちに取られた左腕のガントレットボタンは、彼女の言う通りややゆるんでいた。
シャツの上からなまえが逞しい腕をそっと撫でていると、彼はこともなげに「脱いだら捨てといてくれ」などとのたまった。
なまえは苦笑した――「ふふ、このくらいならなまえがすぐに直しましてよ」。
彼女の選択はベット。
この舞台のプリフロップにおいて降りるなど小鳥にはできない相談だった。
しわが寄らないように黒い上着を抱えながら、なまえは主人を見上げた。
「お手間ですが、旦那さま、シャツもお脱ぎいただけますか?」
「着たままでもできるだろ」
「ふふ、お召しのままだと、あなたが近くて胸が高鳴って……針で指を突いてしまいそうで」
恥ずかしそうに唇へ指が添えられると、上品な淡い桃花色の爪先が口角をそっと隠した。
「いまから着替えるのもな、――そのまま風呂に入るか」
面倒そうに首を傾げながらのたまう「雅兄闊歩」の様相は、平生と更々変わらず、憎たらしいほど軽妙洒脱だった。
目元を覆い隠す傲然たる黒いサングラスがあろうとなかろうと、その面差しからなにかを推し量ろうなど、詮無いことだ。
なまえは従順に「かしこまりました」と頷いた。
「邸ではなくこちらで?」
「ああ、末節程度とはいえ、まだ雑事が残ってるもんでね」
「本当にお忙しいんだから……ねえ、“社長”?」
「まったくだ。表の方の仕事まで手を出さんで良かったよ――有能な“秘書”もいるしな」
「もう……そんなお言葉ひとつでなまえを余所へおやりになるの、おやめになって。あなたから離れてつらい思いをしていたのに」
ふたり連れ立って上がるペントハウスのストリップ階段すがら、飼い主へ嬉しそうに纏わりついては、業務的な報告とは別に、離れていた間のことをあれこれ囀る女の足取りは、華奢なヒールとは思えないほど踊るように軽やかだった。
張もなまえの囀りに付き合ってやりつつ、細い腰へ腕を回していた。
「そう喜ぶなよ。珍しい西裝姿の澄ましたツラなあ、部下たちにも好評だぞ」
「あら、残念です。あなたにお褒めいただかなくては意味がないのに」
辿り着いた私室にて、なまえは如才ない手付きで主のネクタイをほどいた。
カフリンクスを、そして胸元のボタンをひとつひとつ外していく。
鼻歌でも歌わんばかりに楽しげななまえを見下ろし、やりたいようにさせていた張は、呆れ顔で紫煙を吐き出した。
「……本当に俺の服を脱がせるのが好きだな」
「まあ、まるでわたしがいやらしい女みたい。プレゼントの包み紙は、丁寧に開けたい性質なんです」
「我慢できずに包装紙ごと破いちまうのも満更じゃあねえだろ、お前は」
「ふふ……中身があなたならね、旦那さま」
瞳は甘やか、囀りは涼やかだった。
なまえの様子から、最前からずっと、痛みを覚えるほどの熱に臓腑を焼かれていることを察知できる者などいなかっただろう。
ボタンなんぞただの口実だった。
張がひとりでシャツを脱いだ際、口紅の跡を残されていることに彼が気付くことを、そして、他の女の痕跡をなまえが見付けたのを、主に察知されるのを、忌避しただけに過ぎなかった。
やわらかく微笑んだなまえは、煮え繰り返った腸をもてあましながら、張維新のシャツの前を開いた。
惚れ惚れする威容にうっとりと目を細めて、逞しい胸元へ擦り寄った。
「――ああ、旦那さま……」
そっと頬を寄せ、幸福そうに溜め息をつく。
愚にも付かぬ戯事、無為な僻心と笑われても構わなかった。
今世ただひとりと渇仰する男の身へ、刻まれた余所の女の香りと紅を心底嫌忌して、なまえになんの罪があろうものかと云爾。
胸元へうずめた顔の、その目がおぞましいまでに禍々しい光を帯びていることなど、全き主といえど、やはり知り得る術はないだろう。
2
――このまま落ちちゃいそう。
熱河電影公司の最上階からは眼下にロアナプラの景観を一望できた。
象牙の塔で床へ座り込んだまま大きな窓へ寄りかかり、額を預けていると、そんなことばかり考えてしまう。
大粒の雨雫が熱帯のつららの如く軒から垂れ下がっていた。
天が引っ繰り返ったような急な雷雨は、始まりと同じように唐突に終わった。
気のはやい鶏鳴の朝日は、垂れ込めた雲をさっさと割って降り注ぎ、湿気まじりの熱を齎している。
今日も暑くなりそうだ。
伏し目がちに濁世を見下ろした女は、手を伸ばし、気怠く雨粒を纏った街並みを爪先でなぞった。
幼な子のような指先は「どれにしようかな」と拍子を付けて歌い出さんばかりだった。
ガラスに立てた爪が、きっと不快な音を漏らした。
女の唇が幽鬼じみてほころんでいることなど、それこそ天上の者くらいしか認められまい。
3
「大姐、わざわざそんなことしなくても――」
遠慮がちに進言する部下は、その強面にそぐわない冷や汗をこめかみに浮かべていた。
威圧的なお仕着せの黒服と相まって近寄りがたい風貌だったが、よくよく見れば青年と呼んで差し支えないほど歳は浅い。
ひょっとするとなまえと同齢程度かもしれなかった。
痩せて落ちくぼんだ眼窩は酷薄そうだったが、いまは、のんびりと帳簿を繰る女を見下ろして情けなく眉根を寄せていた。
「なにも大姐の手をわずらわせるこたァないでしょう。作業なんぞオレたちに任せてもらえりゃ……ここまで来なくても」
「あら、わたしがいてはなにか不都合でもあって? 事務作業をするのに、いままでにもここを利用したことはあるけれど。ふふ、邵ったら……知らなかった?」
少女と見まがうほどに無垢な笑みが、黒服の青年を――邵を見上げた。
細首を傾げる「穢れなき処女」相手に言い募る手を持たず、邵は薄い唇をつぐんだ。
そう頻繁ではないものの、金勘定のため大廈の管理室へなまえが足を運ぶことは彼も知り及んでいた。
決済、裁定済みの近来の文書のほとんどはここへ集められる。
「管理室」とは名ばかりで、その実、用途は資料室のようなものだ。
先程申し訳なさそうな顔をしたなまえから「ちょっとお手伝いしてほしいの。高いところのものにね、手が届かなくって……」などと手招かれでもしなければ、邵のような下部構成員が気軽においそれと出入りする場所ではなかった。
「空気が悪いでしょう。ここ、窓がないものだから。空調はきいているけれど。はやく終わらせちゃうからそんなお顔しないで、邵」
苦笑してなまえが首をすくめれば、さらりと黒髪が揺れた。
凝った紙のにおいに白百合が混じる。
邵は悄然と目を眇めた。
そういうことじゃないんだ、と口に出して訴えることができたならどれほど良かったか。
時期を過ぎた、もしくはさして重要度の高くない文書は、更にここから資料室という名の物置へ、あるいは当節いくらかデータベース化され処分するかのどちらかである。
しかしいまなまえが手にしていたのはここ数日のものだった。
最近のものが目当てらしい、だからこそ管理室へ赴いたのだろう。
なにかの記述を探しているらしく、黒い目は如才なく書面をはしっていた。
邵はやはりおずおずと「大姐、」と口を挟んだ。
いま女主人に帳面を――それも組織一般の財務諸表ではなく、直近の支出の記録まで検められるのは、少々具合が悪いはずだった。
ひどく落ち着かなげな彼の眼前で、頓着することなく女が「ねえ、」と声をあげた。
「ひとつ気になることがあるの。邵、ここ、見てくれる?」
握ればあっけなく砕けてしまいそうな細指が、書類のある箇所を躊躇いがちになぞった。
事業費や管理費に問題はない。
しかしながらここ二、三日の支出欄に、一見してはなんの違和感もないはずだが、平生から帳簿をチェックするなまえだからこそ、彼女の目は見慣れないものを発見していた。
それは「追加された訂正」だった。
「わたしが不在だった間、誰が帳面を付けたのかしら。普段ね、一度記したものを後から修正や校閲をすることって、あまりないの。わざわざ訂正することなんて滅多にないわ……こんなふうにね。悪弊かもしれないけれど、個人支出にとやかく言うひとはいないから。特に、
あのひとのものについては」
とつおいつ並べられる口舌は訝しげだった。
独り言めいた彼女のセリフ通り、一度記載されたものを消し、上書きした跡がそこには残されていた。
一度記帳したものを後々精査することは稀であるならば、誰がわざわざ訂正を加えるという手間をかけたのか。
淡い桃花色の爪先が指し示す箇所を一瞥し、邵は図らずも言葉を飲み込んだ。
ひくっと肉の薄い片頬が引き攣るのを視界の端で認め、なまえはおっとりと小首を傾げた。
「邵?」
「あー……スミマセン、大姐、オレみたいな下っ端は詳しくは」
男の眼窩へ落ちる影が濃くなる。
うろたえるというにはいささか凶相が過ぎたが、進退谷まったかの如きありさまの彼を見かねたのだろうか。
なまえは「そう……」と、それ以上の追求を是としなかった。
閑話ついでに「ああ、そういえば、」と微笑んだ。
「わたしがいなかった……ええと、三日前ね、リアウ諸島の沖で外部と取引があったのでしょう? トラブルがあったと旦那さまがおっしゃっていたわ。邵、あなたは大丈夫だった?」
子細わたしはお聞きしていないの、と囀る声は、邵へ対する慈しみと仁愛に満ちている。
久しくそのような眼差しや厚情を向けられた記憶のなかった部下は、慌てて「は、はい」と首肯した。
「ご心配には及びません。オレは大廈にいましたんで。ただ――取引に出てた奴らは哨戒艇に捕捉されました。いまのところ、容疑は船舶証明書偽造だけで済んでますが」
「まあ、なんてこと……」
頬へ手を当ていたわしげに嘆息したなまえは、大人しく続きを飲み込んだ。
続きすなわち「保釈金の勘定と手配までしなきゃならないなんて」という愚痴は、彼に聞かせる必要はあるまい。
気遣わしげな面持ちのまま、部下を振り仰いだ。
「あなたが無事で良かった。でも、どうしてこちらの取引が把捉されていたのかしら? 内通者の類の話は聞いていないわ」
「それが……端ッから、こっちの情報は漏れちゃいなかったんです」
「どういうこと? それなのに哨戒艇と鉢合わせてしまったの?」
なまえは不思議そうに口角をたゆませた。
四九仔(※組織の下部構成員のこと)が言うには、香港三合会とは関係のない、別の組織――と呼ぶにはささやかな「団体」が、リアウ島嶼の沖にて武器取引を目論んでいたらしい。
どこの誰へ売り飛ばすつもりだったのか、買い受けるつもりだったのか、とにもかくにもそいつらがヘマをやらして、海洋警備隊の知るところとなった。
それだけならば済度し難い軽薄者が自らの垂れたクソを踏んだ程度の話だが、なんの因果か、くしくも三合会が同時刻、同所にて別取引を行う手筈だったのだ。
結果、こちら側が愚か者共の側杖を食ってしまった。
つまるところ、スケジュールの衝突による不運な事故ということだ。
無論、余所の組織の「用件」があると把握していたなら、被らぬよう排除なり変更なり対応できただろう。
しかしその表六玉共が悪逆の都の人間だったとしたら、また別の問題が浮かぶ。
思案顔でなまえが「でも、」と言葉を継いだ。
「この街の風聞は、細大漏らさずあのひとのお耳に入るでしょう? それなのに……」
「そうです、大姐。そいつらがチンケな取引を企ててたなら、三合会が知らないはずもねェ、つまりダブルブッキングするはずがそもそもないんです。まァ、あっちもあっちで、事を構えるってェ腹積もりはなかったンでしょうが……。ともあれ街のなかで暗々裏、悪巧みしようとしてる奴らがいた――ッてのが、大哥のお考えらしく」
「まあ、そんな不届き者が……。でも三日も経つものね。隠れてこっそり謀を巡らせていたということは、組織立ったそう大きな相手でもないでしょうし、もう後始末まで終わったのよね?」
肯定を求めてくる双眸は邪気なく澄んでおり、見上げられた邵はしかつめらしい表情から一転、歯切れ悪く「それが……」と言いよどんだ。
「あら、まだ済んでいないの? 掃討になにか問題があって?」
理非曲直など溝渠に浮かぶゴミ程度の価値しかないロアナプラといえど、「他人の商売の邪魔をしてはならない」という金科玉条は遵守して然るべきだ。
香港三合会の目と耳を掻い潜り、それどころか取引をご破算にさせるという蛮勇まで振るったのだ。
小蠅の一匹二匹程度さっさと駆除しておかなければ、ことは街における三合会の「面子」にも関わってくる。
烏滸の沙汰だが、こちらを軽んじて「街でデカい顔をしているが、手仕舞いすら行えない程度の奴らなら」云々と血迷って厄介事を起こそうとする手合いも出てこないとは限らない。
無論、それらの有象無象から三合会が損耗を受けようはずもないが、一々叩き潰してやる労を執ねばならない状況に陥ることそのものが不首尾なのだ。
にもかかわらず部下の口はひとしお重くなったようだった。
喉に石でも詰まらせたような面様の青年を見上げ、なまえは戸惑いと躊躇いに顔を陰らせながら「もしかして、」と唇をふるわせた。
「処断しなければならないのにまだ残っているのは、関係のある女性なの? さっき見付けた、支出金の訂正箇所の件と……関連はある?」
事実と推察を整理し、言葉を探し、質疑はゆっくりと紡がれた。
返答はやはり無言だった。
なによりも雄弁な沈黙だった。
金糸雀の問いかけに答えを差し出せないということは、彼女よりも上位の者が係っていると白状するのと同義である。
そしてそれに該当する者は、そびえたる象牙の塔にいくらもいない。
奥歯を噛んだことによって男の痩せた頬が強張るさまを見やって、なまえは「あなた、やさしいのね」と苦笑した。
「大丈夫、あなたが気に病むことはなにもないのよ。旦那さまのおそばにわたしがどれくらい置いていただいていると思って? 前にもね、似たようなことがあったの。だから思い至ったんだけれど……。潰す予定の敵対勢力の女に御手を付けるなんて、もう、本当に悪趣味なんだから。……ね、だから今更思いわずらうことなんてないのよ、邵」
だからそんなお顔しないで、とさも痛痒を感じないと囀る小鳥は、ちいさく笑い声を漏らした。
邵の目の前で、閉月の女の長い睫毛が、ふっと頬へ影を落とした。
憂き身をやつすのを堪えるような横顔だった。
「ただ、すこし、悲しく感じてしまうのは……嘘ではないけれど」
笑み混じりの声は、しかしまた、隠しようもない寂寥を含んでいた。
可憐な唇からこぼれた吐息のような呟きは、いま彼らふたりしかいない密室でなければ、ゆめ幻のように霞み消えてしまっていたに違いない。
伏し目がちの顔は、つい手を差し伸べたくなってしまうほどに清らかだった。
儚げな横顔を目の当たりにした邵は、不覚にも「大姐、」と声を上ずらせてしまった。
なにを言うつもりだったのか、どうしたかったのかも、それかあらぬか彼自身判然とはしなかったが、なまえが憂えた表情をしているのはどういうわけか堪りかねた。
直接言葉を交わすのも今回が初めてだったにもかかわらず、否、だからこそ邵が知っている「金糸雀」といえば、清澄、従順、爛漫の象徴のような女だった。
なんとなれば一介の部下である彼がなまえの姿を目にする際、隣には常に彼らのボスがいたからだ。
飼い主の傍らに侍り、なまえは常に幸せそうな笑みを浮かべていた。
呼ばれたなまえは、知らず知らず自分がうつむいていたことに、そこでようやく気付いたらしい。
つと頤を上げ、ぱちぱちとまばたきした。
そのさまは大層いとけなく、端無く浅い夢から覚めたようだった。
「……ああ、ごめんなさい。気にしないで、邵。ふふ、もう、こんな愚痴っぽいことを言うつもりはなかったのに。……あのひとには、内緒にしてね」
秘密を打ち明けるかのようになまえはそっと彼を見上げた。
淑やかな白百合の香りがかすかに漂う。
寂しげに「どこの女性かわからないけれど、あのひとにも困ったものね」と微笑む顔は、ともすれば紅涙を絞らんばかりで、清らけき唇は弧を描いてはいたが、それは「笑み」と呼ぶにはあまりに繊細に過ぎた。
しかるがゆえにそのとき彼が取った選択もまた、余儀ないことだったのかもしれない。
邵は意を決したように「大姐、」と口を開いた。
4
「このくらいで良いかしら、なまえ?」
「ええ、充分です。ミス・バラライカ」
携帯電話を耳に当てたまま、やおらなまえは温雅な所作で立ち上がった。
長々ソファへかけていたためか、少々脚が痺れていた。
ステップを踏むように、街を見下ろす大廈高楼の私室の窓際でくるりと旋回する。
昼下がりの強い陽射しを受け、花嫁衣装じみた白いワンピースがふんわり翻った。
「重ね重ねありがとうございます。来週のお茶会、楽しみにしています。このところホテル・モスクワの皆さまにもお会いできず、寂しく思っていたところでした」
「ハ、金糸雀がよく囀るわね。平和でなによりってとこかしら。――まあ良いわ、ちゃんと顛末まで聞かせてもらえるんでしょうね。別段、労を執ったわけじゃあないし、私にとっては明日の天気より細事だけど……フフ、なまえ。あなたは私を情報屋代わりに利用した。テーブルに饗する 駄菓子 程度、要求してしかるべきよね?」
女の薄い唇が愉快げに吊り上がっているのが、電話越しにも視認できるようだった。
ホテル・モスクワの女頭目のいささか不穏当な舌端に、なまえはくすくすと軽やかな笑い声を返した。
「まあ、チョコレートまでご用意くださるなんて。そうだ、次回は紅茶ではなく、コーヒーをお淹れいたしましょうか」
「そういえば、紅茶以外をあなたに淹れてもらったことはなかったわね」
「ふふ、実はカクテルをつくるのも得意なんですよ、わたし」
「あら、小鳥本人は酒を飲めないのに? 誘ったっていつもつれないじゃない」
「アルコール耐性と給仕技量は別物ですもの」
数日前と迫った茶会のための連絡がてら、四方山話に興じていたバラライカが、殊更やわらかい声色で――猫撫で声といっても過言ではなかった――「期待してるわ、茶話」と嘯いた。
今頃、底の見えぬ湖に似たブルーグレイの瞳が剣呑な愉悦を帯びているに違いない。
女傑のハスキーな声から滲み出る揶揄の気配に、なまえは心密かに嘆息した。
慇懃な口調で「お話しするのは構いませんが……」と前置いた。
「あなたを喜ばせて差し上げられるようなことは、なにも。至極つまらない話ですよ。お話しして、“やっぱりつまらなかった”とバラライカさんをがっかりさせてしまうことだけ、わたしは心配しているんです」
「そこまで言うなら聞かないでおいてあげても良いけど。ま、楽しみにしてるわ、なまえ。茶話にはぴったりの与太話なんでしょ?」
「Да, именно так……小銭をばらまく前に、このお話がどう転がるのか、楽しみにしていらっしゃってください。ふふ、それでは来週に。ミス・バラライカ」
失礼いたします、と礼儀正しく通話を終える。
明け方の雨が嘘だったかのように雲ひとつない青空を見やり、なまえは、ふっと息をついた。
部下から借りた携帯電話を、手持ち無沙汰にくるくるともてあそんだ。
飼い主が本当に隠匿しようとした場合、暴くのはほぼ不可能だとなまえは熟知していた。
しかしだからといって安穏と座視するなど、まして 初手 から降りるなぞ、それこそ不可能であると痛感したのはつい昨夜のことだ。
心中でなまえは自問自答した。
――あんなはっきりと口紅の跡を残しておいて、知らん顔なんてできるもんですか。
女としては仕方のないことよね、と。
顔見知りの受付嬢に余所ながら尋ねたところ、なまえが一週間近く不在だった間、本社ビルに出入りした外部の女は皆無だった。
本邸も、誰かを連れ込んだ痕跡は、すくなくとも彼女が視認した限り見当たらなかった。
ならば口紅の主は、余所の女、それも商売女の可能性が高い。
真っ向から部下に訊ねて回答が得られるなんぞ、なまえも端から思っていなかった。
妾侍と余所の商売女という、あまりに馬鹿馬鹿しすぎて頭痛すら覚える 悶着 だけに話は止まらない。
問うたのがたとい「三合会の金糸雀」であれ誰であれ、上司の身辺について容易に吐く無能な部下など、こちらから処断してやりたくなる。
張から「トラブルがあった」と仄聞したときから、彼の身を案じる気持ちは言うまでもなく、しかしなまえには思うところが別にあった。
主の元へ戻って慮外の女の影が見えたことにより、なまえの「思うところ」は「すべきこと」へなめらかにシフトした。
すべきこと、そのために明らかにしなければならない疑問点、生じる問題点は、概して三つだった。
愚昧なる女はどこの誰か、なにが原因で彼と関わりを持つに至ったか――そして最たる問題、その女を排除するためにはなにが有効か。
最前、四巨頭の一角との電話で、なまえは昨日の「連絡会」に関する質問をした。
生半可な情報屋風情に、この街の趨勢を決定する「連絡会」で俎上に載せたもの、交わされた言葉のひとつたりとて入手できようものか。
要らぬ労を執り、わざわざ「わたしはこの事柄について関心があります」とあれこれ喧伝する愚かな真似などしでかすべくもない。
従ってなまえは来週予定していた茶会の連絡にかこつけて、列席者へ尋ねたのだ。
簡明直截に「昨日の会合で、三合会ではなく、あなたや他の皆さまにご面倒をおかけしている愚か者――そうですね、規模は少数、街の中だけで動いている、はやめにご退場願いたい“敵”……そんな愚か者に関する議題は、ありましたか?」と。
果たしてホテル・モスクワ頭目の答えは、肯定だった。
咥えた葉巻を左の口角から右の口角へ転がして、バラライカはこう言った――「なあに、まるで心当たりでもあるかのような口ぶりね? 妙に具体的じゃない――質問っていうよりまるで確認だわ。まさかあなたにも関係のある案件だったの、なまえ? そろそろ金糸雀もテーブルに着席させる頃合いかしらね」。
「とんでもない。バラライカさんったら、そんな怖いことをおっしゃらないでください」
「ま、そもそも飼い主が許さないでしょうけどね。大体、あなた、張に直接聞いたら良いじゃない。どうして私に尋ねるような回りくどいことを?」
「だってあのひと、わたしがお仕事のことに首を突っ込むと、良い顔をなさらないものですから」
「あら、聞き捨てならないわね。金糸雀が飼い主に隠れて、なにをしでかそうって魂胆?」
「特段隠れて、というわけではありませんが……。ふふ、犬も食わない与太話にご興味がありますの、ミス・バラライカ?」
「来週の茶会で饗される、紅茶のフレーバー程度にはね。なまえ」
バラライカから得た情報や事実をどう扱うか。
上手く事が運べば、なまえの見通しでは、今日明日中にもこんな戯れはおしまいにできるはずだった。
茶会の頃には既に終幕どころか収束し、「ああ、そんなこともあったな」レベルの認識になっていると理解もしていた。
ゆえに主からわざわざD通告でも命ぜられない限り、敵対勢力との懇話に饗そうともなまえに不利益はなかった。
無論、すべてをつまびらかにしてやるつもりは毛頭なかったが。
今回の愚にも付かぬ一悶着について、あるいは先々バラライカが張維新を揶揄する際のネタに利用をされるかもしれなかったが、なまえには直接的な手落ちはなく、たとい飼い主に繰り言を賜ろうともこの程度は愛嬌の範疇と押し切ってみせよう。
――後々、火傷顔にからかわれてちょっとだけ困ってしまったときの、あのひとのお顔を直接拝見できないのは、残念ではあるけれど。
やおら窓へもたれかかりなまえは微笑んだ。
床から天井までを覆うガラス窓は、澄み渡る群青の空を損ねることはない。
炎天下、陽炎に揺らぐ街並みを慈しむような眼差しで見下ろした。
とどのつまりバレなければ良いのだ。
なにをしようと、なにをさせようと。
5
ジャスミンに似たごく淡く甘い芳香は、手ずから活けた黄素馨のものだ。
なまえはガラスの花瓶へ顔を寄せた。
滲むような微香といえど、こうして近寄れば清に香った。
ああ、良い香り、とゆっくりと目を伏せた。
魔都は落陽に燃えている。
なまえは花片を愛でながら、仕舞い込まれた塔の天辺からロアナプラを見下ろして、電話相手へおもねるように囁いた。
「あら? わたしはそうお聞きしたけれど……あなたはご存知なかった? 街ではまだ出回っていない情報だったのかしら。ごめんなさい、わたし、あまりお外に出られないせいでその辺りの事情や機微に疎くって……。わたしもね、詳しいわけではないの。この件についてご主人さまが部下たちとお話していらっしゃるときに、偶然お隣にいただけだから。どうしよう、こういう組織に関する情報を外部へ漏らして……もしかして出すぎた真似をしてしまったのかしら……」
心細げに小鳥が声をふるわせた。
途切れ途切れの囀りは思案に暮れるというより、失言だったかもしれないと不安がっているのがまざまざと伝わってくる調子だった。
電話口の男は酒焼けした声音を精一杯やわらげ、勇気づけるように「いいや、あなたのおかげで厄介事がひとつ減るかもしれないんだ。喜びこそすれ、そう気落ちするもんじゃあないでしょう」と嘯いた。
情報屋の男ときたら、実以て我慢しかねる人物だった。
声も態度も大袈裟で、電話口で己の売り込みをしようとでもいうのか、声には、浮き立ちそうになるのを必死に堪えているざらついたかすれが端々に混じっていた。
大方、いまなまえから得た情報を売り飛ばして、小銭稼ぎに利用するつもりなのだろう。
そこらの生半可な情報屋風情では得られない情報を無分別に漏洩させた小鳥を、愚かな女だと侮り軽んずる気配は、一応、隠し果せるだけの慎みは持ち合わせているらしく、真っ向からそれを指摘することはなかった。
ここで悪印象を抱かせなければ、またなにがしかの情報や種取りに必要なものを寄越してくれるのでは、との腹積もりあってのしおらしさとはなまえの了解するところだったが、やはり彼女も指摘してやることはなかった。
「でも、わたしの口から聞いたって……ねえ、あなた、黙っていてくれる?」
頃来最も不快な応酬に、電話というものは声音にだけ気を配ってさえいれば表情を読み取らるやもと思い扱わずに済むのだからなんて都合が良いのだろうと、なまえが心密かに嗟嘆していることなんぞ露知らず、殊更に不安そうに揺れる「穢れなき処女」の声に、愚鈍な男は安心させるように力強く請け負った。
「心配せんでください。あなたは偶然聞いたことを、金になるとも知らず俺に話した……俺は感謝してるんですよ」
「わたしが話したことが……お金になるの?」
「ええ、ええ、そうです。価値を知らないってのは罪なもんですね、まったく。でも、これはあなたの罪じゃあないんだ――安心してください。大体、お宅のところがもう把握してンだ、近いうちに万事手仕舞いって塩梅でしょうよ。それに、情報源を吐くなんぞ、飯の種を捨てるようなもんだ。俺らみたいな奴らにもね、守るべきルールってもんはあるんですよ。この街で生きてる奴なら誰でも守るべきルールってやつがね」
「そう? あなたがそう言うなら安心だけれど……」
いかにも訳知り顔ぶった上ずった声音が癇に障る。
あたかも頭のゆるい子に言い含めるかの如き物言いに、なまえはさっさとおしゃべりを切り上げることにした。
男の方も得たばかりの情報を売り飛ばして小銭を手にしたいのだろう、他の同業者に先を越されはしないかと矢も盾も堪らずそれに応じた。
小鳥は慎ましやかな語調で「ありがとう」と会話を締めくくった。
男は知る由もなかった――直後、通話を終了するボタンを押すや否や、なまえが用済みとなった携帯電話を傍らの花瓶へ投げ込んだとは。
活けられた黄素馨の花弁が、はらと落ちる。
行為そのものは言うに及ばず、鬱陶しげに放り投げた手付きも挙止もはなはだお行儀が悪かったが、ペントハウスの上階の、なまえの私室に幸いにして余人は誰ひとりいなかった。
口の広い繊細なガラスの容器は、口の狭いものに比べて花々のバランスを取りにくいこともあり、活ける際にはなかなか技量が求められるものだ。
涼しげな透明のガラスのなかで、いまや水中の仲間となった茎たちに引き摺りこまれるようにぶくぶく沈んでいく黒い電子機器を眺め、なまえは「こういうときにはぴったりね」とやわらかく微笑んだ。
――後で不注意で濡らしてしまったって謝らなきゃ。
内心そう託ちながら、バラライカ、そして情報屋との折衝において大いに役立ってくれた携帯電話を看取る。
控えめにお願いしたところ快く貸してくれた部下に対して心苦しく思うところはなくはないが、致し方ない。
備えつけの固定電話を使用した場合、どこからどう伝播して飼い主の耳へ入るかわかったものではないのだから。
無作為に選んだ部下のひとりの個人的な携帯電話ならば、その危険性は極めて低くなると小鳥は熟知していた。
後顧の憂いを断つため、きまり悪げに「旦那さまには内緒にしていてくれる? こんなそそっかしいところを知られたら、恥ずかしいもの……お願い」云々、くだらない釘でも刺しておけば、そこからなにか勘繰られることもないだろう。
カードは出揃い、舞台は整った。
あとは万事上手く運べば、今夜にでもすべておしまい。
なまえは精巧な造花めいた微笑を浮かべた。
この無稽な舞台に、彼女がプレイヤーとして登壇することはない。
なにせ「金糸雀」は外に出られないのだから。
ただなまえは「お膳立て」しただけだ。
己の分を弁えず、幼な子のように駄々をこねて、泣き喚いて、首尾よく物事が運ぶような甘ったるい世界ならば、素よりそうしている。
単に「気に食わない」というだけの理由で、所詮情婦に過ぎない「金糸雀」が、主人の女へ手を出せるべくもなかった。
ならば排除せざるをえない理由を揃えてやれば良いだけの話だ。
公明正大、誰からの目から見ても十全の過誤を。
(2020.05.05)