ねたみ

「うーん、そろそろ退いてくれんかねえ、美人さん」

困ったように彼が視線を落とした先では、一匹の白い猫がスーツの足元にじゃれついていた。
この街で野良猫自体はさして珍しくもないが、それにしても非常に人に馴れている。
首輪こそないものの真っ白な毛並みはうつくしく、どこかで甲斐甲斐しく世話されているらしいことが窺えた。
張の両足の間をくぐったり頭を擦り寄せたりと、喉を鳴らしながら足元へ纏わりついている白猫は、大層上機嫌らしい。

無下にするでもなく張はやれやれと太眉を下げた。
せっせと黒い裾へ擦りつけられて付着する白い毛は、その色合いのせいで非常に目立ってしまう。

「っ……!」

車から降りてやや離れたところでそのさまを見ていたなまえは、舌打ちせんばかりに息を詰めた。
いつの間に取り出したのやら、ちいさな手はハンカチを握り締めていた。
「三合会の金糸雀カナリア」といえば、清澄、従順な笑みが代名詞だったはずだが、残念ながらいまのところ見る影もない。
ひそめられた柳眉の下で黒い瞳はじっと飼い主を――あるいは彼に纏わりつく白猫を凝視していた。

顔ばせはいまにも地団駄でも踏まんばかりである。
傍らでひっそり佇立していた彪ははばかることなく、はあっと溜め息をついた。
こういう貧乏くじじみた役回りが多くないかとおのれの不運をひとしきり嘆いたところで、仕方なく「あー、大姐、」と呼びかけた。

「面倒だが、一応どうしたのか聞いてやった方が良いですかね」
「……ねえ、彪。あなた、最近わたしに冷たくなっていない?」
「気のせいです」

不満を訴えてくるなまえの眼差しはこの際無視して、彪は不承不承「で?」と促した。

「なんとなく想像は付くが、なんでまたそんな顔してらっしゃるんで」
「……別に、大したことじゃないの。我が物顔で旦那さまのお召し物へ自分の痕跡を残して、あの泥棒猫って思っただけ。だって腹立たしいじゃない。ずるいと思わなくって? でも、邪険にするでもなくああして困ったお顔をしていらっしゃる旦那さまを見ることができて、胸が高鳴っているのも事実なものだから……もちろん感謝なんてしないけれど。もう、あの泥棒猫の満足げな顔ったら……ああ、頭がどうにかなってしまいそう」

飼い主への視線をちらとも逸らすことなく、なまえはフラットな声音でのたまった。
その横顔は至って真剣だった。
よどみなくつらつらと並び立てられる与太に、彪はどっと疲労感が襲ってきたのを自覚した。

「……大姐の嫉妬基準、どうなってンだ。他の女のときはそんな顔しねェでしょうよ」
「あら、彪。あのひとが余所の女と戯れていらっしゃるとき、ちっとも嫉妬していないなんてわたしが口にしたことがあって?」

首を傾げてにっこりと笑んだ女主人に、打草驚蛇やぶへびの気配を察知した聡明な部下は肩をすくめるだけに反応を留めた。


(※その後)
「もう、旦那さまったら。なんでも魅了なさってしまうの、おやめになって」
「あ? んなこと言われてもな」
「ああ、嫉妬で胸が潰れてしまいそう……。憐れななまえをどうか慰めてくださいませんか?」
「犬猫に妬くなって言っただろ、前に。なんだ、同族嫌悪か?」
「あなたのペットはわたしだけで充分だもの。ところでお着替えなさいません?」
「するかよ、わざわざ。この後どっかに顔を出すでもなし、もう帰るだけだろ」
「なんてひどいひと……」
「言いがかりもはなはだしいな」
「傷付きました。責任を取って抱き締めてくださいませ、旦那さま」
「ん」

新しい煙草を咥えながら、張が粗雑な挙措きょそで片腕を伸ばした。
広げた腕のなか、飼い主の懐へなまえは一も二もなく飛び込んだ。
「ご機嫌斜めです」と書かれていた顔は、しかし張の胸元へ頬を寄せれば、ものの二、三秒も経たないうちにそれはそれは幸福そうにとろけていた。
ご機嫌取りが容易くて大変助かるが、それこそ猫でもあるまいし、喉でも鳴らさんばかりのなまえを見下ろして飼い主は形良い太眉をハの字に下げた。

「……いやー簡単だな、お前。俺が言うのもなんだが――そんなんで大丈夫かたまに不安になるぜ、なまえ」
「すべて、あなたのせいですよ、旦那さま」


そねみ

嫉妬を露わにする女は鬱陶しいでしょう?
でもね、あなた、まったく嫉妬しない従順な女がいたとして……そんな都合の良い女、きっとつまらなくてさっさとお払い箱になってよ。
だからちょっとくらい爪を立てたり、なじったりして、ねじ伏せる喜びだとか、抗弁する手間だとか……些細な厄介事を生じさせて差し上げるのも意義深いことなのかもしれない、ねえ、そう思わない?
……本当に勝手なものよね。
笑っちゃう。

でも相手が人間ではだめ……何分「面倒」が多いでしょう?
ひとがひとりでは生きていけないように、ひとりの人間にはたくさんの関係者が存在しているものだから。
どこかのお顔を立てるとどこかのお誰かの顔を潰してしまったり、どちらかを重んじればいずれかの不興を買ったり……ああ、どうしてこう人間の関わりってわずらわしいことが多いのかしら。
わたしみたいにご主人さまおひとりだけを見つめていれば、ふふ、世情も随分すっきりすると思わなくて?

それに、嫉妬している人間って醜くなってしまいがちだもの。
だからちいさな犬や猫くらいで丁度バランスが良いんでしょうね。
嫉妬するのは・・・・・・

――嘘偽りなく正直に・・・おのれの心情をべらべら語って聞かせたなまえは「独り言」の締めくくり、繋辞コピュラに白痴じみた笑みを添えた。
到底うつくしいとはいえない不祥な笑みだった。
元来楚々とした顔貌がそうして高踏こうとう的な笑みを浮かべていると、不釣り合いさ、不自然さが否が応でも際立った。

金糸雀カナリアの妙に浮世離れした問わず語りに付き合わされていたのは、ひとりの女だった。
裸足の膝は擦り切れ血が滲み、栗色の髪を泥で汚した彼女は、猿轡を噛まされていなかったならばありったけの罵声をほとばしらせていたに違いなかった。
しかしながら拘束され地に這ったまま囀りを聞かされていた女の表情に、弾指だんしの間、なんの話だと困惑が混じった。
いぶかしげな表情が見えたのだろうか、鳴禽めいきんは殊更簡潔に説明を補足した。

「あなた、あのひとの御手が付いたでしょう。ふふ、良かったわね。光栄に思いなさい」

街を鳥瞰ちょうかんするなまえの、うろのような黒目だけがきらきら光った。
禍々しく三日月の形に割れた唇から、蜜のような悪意が滴った。

「だからね、ぜんぶ、あなたに八つ当たりしちゃうの。あのひとには内緒よ」


(2020.05.01)
- ナノ -