空言

「もう、嘘ばっかり。ロック、あなたったらまたなにか悪巧みでもしているの?」

おもねるように上目で覗き込みながら、なまえが悪戯っぽく笑った。
愛用の白い日傘を傾けて見上げてくる女の横で、ロックは、ふっと紫煙を吐き出した。
強い日射しに目を細めた。
彼らのいる開けた埠頭の一角には陽光を遮るものはなく、それこそ小鳥のように日傘でも差すしかないだろう。

「そうは言うけど、なまえさん。あんたも大概“嘘吐き”だろう」

やや離れたところでは、ダッチと張たちが仕事の話を詰めているところだった。
後から合流してきたロックを、折しもあれ「お久しぶり、フォンの一件以来ね」と引き留めたのは金糸雀カナリアだった。
仕事の話には混じらず、飽きもせず飼い主をうっとりと眺めていたなまえの話し相手に選ばれてしまったらしい。
三合会の黒服たちが忙しげに行き来する只中で、のんべんだらりと立ち話に勤しむのはいささか心苦しいものがあったが、彼らの「大姐」直々のご指名とあっては致し方ない。
自分が必要であれば呼ばれるだろうと、ロックはおもむろにマイルドセブンに火を点けた。

「……俺も最近、わかってきたよ。自分の都合のためなら、あんたが他人を騙そうが踏み台にしようが知ったこっちゃない女だってこと」

男の呟きは緩怠かんたいをなじるようだ。
愚にも付かない題目に相応の、吐き出す紫煙の行く末を探すような眼差しだった。

彼の隣で、肯定や否定どころか返答すらもなく、女は精巧な造花めいた微笑を寄越して続きを促した。
よくできた笑みをちらりと一瞥し、ロックは浅く嘆息した。

「初めて会ったときもそうだったけど、二回目のメイドの騒動のときも――ガルシア君に言っただろう、なまえさん。メイドと同じように“もし武器を取れたら、きっと同じことをする”とかなんとか。……あのとき、あんた、そんなこと更々思っちゃいなかっただろ」

贅言ぜいげんの口火はどこにあったのか、彼自身、判然としていなかったに違いない。
まことやなんの話をしていたのだったかとくゆらすマイルドセブンの先端を胡乱に眺めていたロックは、隣に立つ小鳥がかすかに目をみはっていたことに気付かなかった。

なまえは白い手で自らの頬をそっと撫でた。
あれはいつのことだったか、既往、ホテル・モスクワの女頭目バラライカとの「お茶会」で、「もし仮に主の元を離れられたとして」などとつまらぬ仮定の話を俎上に載せたことを思い出していた。
あのときなまえは「どこへ辿り着こうとも、そこで生きなければならない」などと囀ってみせた。
良識ぶって笑みながら「生きていたら、いつか死にます。死ぬまでは、生きています。わたしがいま生きているところが、生きているところです」と。
しかしながらなまえという女は、主の掌中の外で生きるつもりなど毛頭なかったし、そもそもそのような世界に自分が存在していられるわけがない・・・・・・・・・という確信があった。
いいや、確信ではない。
それはきっとただの事実だ。

なまえはどこか嬉しそうに瞳をきらめかせた。
あの火傷顔フライフェイスですら見破れなかった「嘘」を、この日本人は――否、「ロック」は看破したというのか。

「ふ、うふふ、思いも寄らなかった……。わたしの“飼い主”以外に、そこまでわたしのことを推し量ってくれるひとがいるなんて」

可憐な桃色の唇からうっとりとこぼれた溜め息は、あえかに色付いていた。
言葉すくなに、ロックは「そりゃ光栄だ」と顔を背けた。
漂う紫煙のように、否、ふれるため指を伸ばすことすら許されないという点においては、それよりもずっと捉えどころのない「穢れなき処女」の唇は、彼を仰ぎ、恐ろしく蠱惑的な弧を描いていた。
危うく見惚れかねない、本来、主のみに奉じられるだろういとけない微笑を真っ直ぐに向けられるのは、どうにも居心地が悪かった。

「ロック、あなた――」

なにを言いかけたのだろう。
丁度そのとき、張維新チャンウァイサンがこちらへ――飼い鳥の方へサングラス越しに視線を寄越したがために、結局、わからず仕舞いだった。
なまえは花がほころぶようにぱっと破顔して「だんなさま!」と張の元へ走り寄って行った。
飼い主が名を呼んだわけでも手招いたわけでもない。
わざわざそんな労を主人に取らせずとも、なまえは自分が招請されたことをきちんと見取っていた。
ロックとの与太話に興じながらも、躾けられた従順な犬のようにずっと張のことだけ見ていたのだろう。
もあらばあれ、後に残されたのは、かすかな白百合の香りだけだった。

「なまえとなに話してたんだ?」
「……別に。なまえさんもこの街の人間だなと思っただけさ」

短くなったマイルドセブンを指先で弾き、どこかなげやりな口調でロックは呟いた。
なまえとすれ違いにロックの元へやって来たレヴィは、彼の素気ない返答に丸い目をしたばたかせた。
そんなことかと書かれた顔であっけらかんと言い放った。

だァから最初に言ったろ・・・・・・・・・・・ロック・・・金糸雀カナリアも大概、性悪だってよ」


夢路

女が横たわり眠っていた。
三人がけのソファをひとりで占拠して惰眠を貪るのは、飼い主の帰りを待っていたはずのなまえである。

張は平素より幾分かひっそりとした足取りで歩み寄ると、おもむろに小鳥の眠るソファの前でしゃがみ込んだ。
ちいさな手には分厚い書物が絶妙なバランスで引っかかっており、どうやらひとりで読書中に、つい横になってうたた寝してしまったものと窺えた。
幸運にも落下を免れた本を力の抜けた手から取り上げ、テーブルへ避難させた。
なまえの顔を覗き込んだ。
一房、顔へ垂れかかった髪を指先で除けてやるも、相も変わらずなまえはすやすや眠ったままだ。

自ら黒いネクタイをゆるめながら、張は浅く嘆息した。
つい先程まで権謀術数渦巻く濁世にて、「連絡会」と銘打った仮初めの共存共栄関係にある者たちとの会合に顔を出していた彼が、塔の天辺のあまりに牧歌的な昼下がりの光景に、つい脱力してしまうのも道理だった。
白百合を纏った夢寐むびのなまえを見ていると、剃刀の刃を渡る役儀やくぎをしおおせたばかりの張が、のんびり寝やがってと毒づきたくなってしまうのも、また同じく。

張は健やかな寝顔を無防備にさらしているなまえの頬へ手を伸ばした。
さしたる訳柄も目的もなかったが、短く整えられた爪先で、あえかに色付いた頬を突っついた。
やわらかい素肌は飼い主の指を従順に受け留め、極上のさわり心地を奉じていた。
心地好い感触にやめ時を失った彼は、ついでにむにっと頬を摘まんでみた。

「ん、んー……」

その刺激にさすがになまえも眉をひそめて、むずがるようにむにむにと口元をたわめた。
起きるだろうか――のんびり彼が眺めていると、頬にふれたままだったてのひらを、くっと握られた。

「なまえ?」

不意を突かれて名を呼ぶも、なまえは目を閉じたままだ。
やわらかなてのひらが、きゅっと張の大きな手を握っていた。
口付けるように煙草のにおいのする男の指先へ唇を寄せたたかと思えば、彼女ははにかんだ笑みを漏らした。
糸がほどけるようでも、花がほころぶようでもあった。
やわらかくゆるめられた頬は打算も奸計もなく、ただひたすらいとけない。

「……」

なまえは未だ深く眠り込んでいた。
張維新チャンウァイサンは飼い鳥の虚飾や欺瞞を造作もなく見破ることができる。
だからこそ続く言葉を持たず押し黙った。
本当に、無意識の所業らしい。
なにより金糸雀カナリア相手といえど不意を突かれたおのれに、彼自身が最も眩惑に近い情動を覚えていた。

依然としてなまえは張の手を握ったまま、幸せそうにすやすやと眠っている。
無論、無理押しにでも振りほどいたり揺り起こしたりするのは容易かったが、彼女の一連の行動をついうっかり心底愛らしく思ってしまった飼い主は、ソファの前でしゃがみ込んだまま「さてこれどうしたもんかね」と太眉を下げた。


(※その後)
「ん……っ、あれ、だんなさま……?」
「やーっと起きたか。満足したら離してくれると助かるんだが。そろそろ手も足も痺れてきた」
「えっ……あっ、も、申しわけございません! 手を、ええと、その、にぎっていてくださったんですか……?」
「誰かさんが寝ぼけた挙げ句、無理やりつかんできてなあ。一向に離してくれなかったんだよ」
「そ、それは、ご迷惑おかけしました、どうかお許しください……。でも、あの、起こしていただければよろしかったのに……」
「気持ち良さそうに寝てたしな。……ふ、笑ってたが、俺の夢でも見たか?」
「……もう、女の寝顔を眺めるなんて、ひどいひと。――そうですよ。目が覚めて、目の前にあなたがいらっしゃって、びっくりしました……ゆめみたいで」


胡言

ぬるい潮風が吹き抜けなまえ愛用の白い日傘を揺らした。
動物は動くものに対し、優先して目の焦点を結ぶ習性がある。
目線の下方で揺れる日傘を、吐き出した紫煙がそれのせいでうやむやに掻き消えるさまを、ダッチは静かに視認していた。

当の金糸雀カナリアは、彼の言を受けて先程からくすくす笑っているところだった。
日傘の下の細肩が揺れていた。

「ふふ……大仰ね、ロビイストだなんて。わたしにはね、ダッチ、分不相応というものよ」
「ハ、金糸雀カナリアらしくもねェ、そう謙遜しなさんな。俺にはこれ以上ないほどぴったりの要路ポストに思えるがね」

ダッチは大洋を見やった眼差しに冷淡さと揶揄が混じるのを自覚しつつ、アメリカンスピリットを素気すげなくくゆらした。
小鳥の他愛ないおしゃべりを等閑視するでもなく、ただし決して真に受けることもなく、ラグーン商会のボスは分厚い唇を皮肉げに歪めた。

「――ふん、この間の女中メイドの騒動のときにな、ウチの厄介な従業員についても似たようなことを考えたぜ」
「……御意に適うように動いていたものね、あのときの彼は」
金糸雀カナリアッてえロビイストだけで充分だってのに、あんときは頭痛がしたもんさ――お宅は営業マンまで揃えてやがったかッてな」
「まあ、ダッチったら。ロックはともかく、か弱い小鳥になんて荷が重すぎることを……ふふ、」

思わずといった仕草でなまえは口元に白い指を沿えた。
軽やかに笑いながら、遥か頭上にある男の顔を見上げた。

「あん?」
「いいえ、ダッチ、気にしないで……ただの思い出し笑いなの。あのときね、ベニーにも“おっかない女”だの“表彰台を増やさなきゃいけない”だの言われちゃって……あなたたち、揃いも揃って金糸雀カナリアを買い被りすぎだわ。こそばゆくって敵わない」

くすぐったそうに笑う小鳥に、「そりゃ失礼」と禿頭とくとうの大男は大仰に肩をすくめた。
紫煙まじりに「これでもひとを見る目はあるつもりだがね」と呟きながら。


犬も食わない

なまえが「はあ、旦那さま……」と甘ったるい溜め息をついた。
言うまでもなく目線の先にあるのは、やや離れたところに立っている張維新チャンウァイサンの姿だ。

「なまえさん。あんたもこっちに出て来てたんだな。……その様子じゃお変わりないようで」
「あら、ロック。お久しぶりね。お仕事のお話はもう良いの?」
「俺はね。飼い主の方は別件でもうちょっとかかるらしいが」
「そう……」

ロックの返答を受けてなまえは残念そうに眉を下げた。
依頼を持ち込むためラグーン商会の門戸を潜った三合会の偉丈夫は、白妙の鳴鳥を伴っていた。
とまれ仕事の話に混じることもできず、なまえは放って置かれているつれなさが余程身に堪えるらしい。

ロックは内心「相変わらずだなこのひと」と呟いた。
熱っぽい黒目は初恋を知ったばかりの処女もかくや、一時いっときたりとも見逃せないとばかりに飼い主の偉容を追っている。
いつも通りといえばいつも通りだが、たまたま仕事の場に追陪ついばいした小鳥の気もそぞろなありさまを眺めていると、ある疑問――というよりただの贅言ぜいげんのネタが降って湧いてしまった。

「なまえさんを見てると、なんていうか……どうして張さんにそこまで入れ込むようになったのか、ちょっと気になるものがあるというか」

さしものロックも「はたから見りゃ病気じみてるから」とは声には出さなかった。
なにしろ長日月、明け暮れしているだろうに、よくもまあ飽きもせずに熱を上げられるものだと呆れるのもやむない。
深いとはいいがたいが、決して浅くはない煩累はんるいかかずらってきて、なんとはなしに抱いた些細な疑問だった。
持って回ったような口前だったものの、「余所の恋路の水端みずはな」なんぞ、毒にも薬にもならない、あぶくのような贅言ぜいげんにはあるいは向いていたかもしれなかった。

ロックは口をひん曲げて「いやほんと別にまったくこれっぽっちも興味はないんだけど」と念を押した。
なまえはぱちぱちとまばたきを繰り返した。

「あら、あら、もしかして旦那さまとわたしの馴れ初めについてのお話? ロックったらお聞きになりたいの? うふふ、嬉しい。すこし長くなるけれど付き合ってちょうだいね」
「アッ、結構です」
「あからさまに拒否しなくたって良いじゃない。あなたが尋ねてきたのに……」
「そんなに惚気たかったのかあんた」
「だってね、もう最近では誰も付き合ってくれなくて。彪なんて、すぐ“じゃあ大哥呼んできますね、本人にどうぞ”なんて逃げ出しちゃうの。酷いと思わなくて?」
「いやーなんでかな、全然思わないな、ハハ」

あどけない表情で不満を訴えるなまえへ、ロックは胡乱な笑みを返してやった。
考えあぐねるようにつっかえつっかえ「馴れ初めっていうより、」と首をひねった。

「あんた、飼い主以外の全般に興味がないだろ」
「そうね、否定はしないかな」
「……いくらなんでも、生まれたときからそう・・ってわけじゃないでしょう。そうなった理由がなんとなく気になっただけですよ。……勿論、あんたたちの関係に口も首も突っ込むつもりはまったくないのは、前提だが」

思いの外、迂遠極まりない言い草になってしまったが、しかし彼女はロックの言わんとするところが理解できたらしい。
珍しく真剣な表情をしたかと思えば、自らの内側を探るように思案げに頬へ手を当てた。

「理由なんて、わたしに聞かれても……。すべてご主人さまの手腕ではなくて? あのひとに飼われてみれば、こう・・なってしまうのも道理じゃないかしら。女なんてみんな……ううん、やっぱりだめ、考えるのも嫌。あのひとのペットはわたしひとりで十分だもの」

話している最中で、なにやら悋気りんきの念が湧き起こってきたらしい。
愛らしく頬を膨らませながら、なまえは「ね?」と同意を求めてロックを見上げた。

先程、同じように問われて「俺に聞かれてもなあ、あれ・・の性根が元々そうだったんだろうよ。他の男に飼われても似たようなザマになるんじゃないか? ――余所に媚売る小鳥なんざ、想像しただけで鳥肌モンだが」とのんびり嘯いていた飼い主と、同じことを吐いていることを女は知っているだろうか。

レヴィ辺りに露呈しようものなら「マジで一回馬に蹴られてみな。そのクッソしょうもねえ突っ込みグセが治るかもだ」とでも罵倒されそうことを考えながら、ロックは最前もいまも「ソウデスネ」とご両人に首肯する他、返答を持たなかった。
藪を突いたのは自分自身だったとはいえ、ほんとこいつら、と痛みを覚え始めた頭を押さえた。


(2020.04.24)
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