「うう……だんなさまがかっこいい……」
「完全に酔ったな、お前」

はあっと大きく吐かれた溜め息は、しち面倒臭いと思っているのを隠そうともしなかった。
チャンは口の端の煙草を遠ざけ、不承不承まだ長さを保ったままのそれを灰皿へ落とした。

ソファに腰かけた彼の上で、足をまたいで乗っかったなまえは、真正面からぴったりと上体をくっつけていた。
おかげで男の厚い胸板にはやわらかな乳房が重なっており、彼女が身じろぎするたびとろけるような肉感をもたらしている。
服越しはいえアルコールのせいか、なまえの肢体は平生よりも熱かった。

さして深酒させていないというのに、いまのなまえはすっかり出来上がっていた。
とろけた笑みで頭の悪い囁きをつらつらと続けて、張維新チャンウァイサンを全肯定――というより全称賛する生き物と化していた。
――「んー……だんなさま、すてき……。ね、サングラスを外してもよろしいですか? っ、ん……ふふ、おかおを見ることができてうれしいれすっ、……ね、お手々ぎゅってしていい? ああっ、おっきくてぶあつい……。なまえと全然ちがう……すごい……。ふふ、だんなさまぁ……」諸々、以下略。
主人の首元へ顔をうずめて香りを嗅いだり、「はあ……しあわせ……」と胸焼けか頭痛でも覚えかねないほどうっとりと吐息をこぼしたりと、それはもう延々とやっているのだから、張が鬱陶しげな溜め息のひとつやふたつ吐いてしまうのも無理からぬことだった。

奪い取ったサングラスを手にしたまま、なまえは過剰なほど甘ったるく目を細めた。

「ああ……こんなに慕わしいひとがいるなんて、生まれてきてよかったぁ……。かみさまありがとう……。あっ、なまえのかみさまはあなたですけれど」
「さすがに重すぎないかそれは」
「おもい? ……降りなきゃらめ?」
「うーん、そっちじゃなくてなー」

あー面倒くせえ、と張は口をへの字に曲げた。
相手は酔っ払いだ。
あまり会話を続けているとこっちまで頭が悪くなりそうだった。
とはいえ大変始末に負えないことに、無視して放っておくと「旦那さまがなまえの相手をしてくれない」云々ぐずりだすものだから、おいそれと投げ出すわけにもいかなかった。
もうすこし酔いが進んで潰れてしまうと、甘えよりも眠気の方が勝って途端に静かになるものと熟知していたが、「しっかしこれ以上飲ませるのもなあ」と張は胸の内で嘆息した。

「失礼します、大哥――」

そんなふたりのところへ折悪しく足を踏み入れてしまったのは、憐れな部下だった。
入室するなりびたっと足を止め、持ちうる限りの表情筋すべてを引き攣らせたのは彪如苑ビウユユンである。
たっぷりの沈黙のあと、薄い唇をひくつかせながら彼は「……お邪魔ですか」と呻いた。

今更ボスが囲っている女と戯れている程度のことで、感情を顔に出すようなつまらぬ真似などやらかすべくもなかったが、しかしながら対象が、なかんずく平素は言葉を交わす以上の接触を他人の目にさらそうとしない金糸雀カナリアであり、てて加えて然許しかばか色々とダメになっている・・・・・・・・・・・只中とあっては、逃げたくなるのもやむなしだった。
張維新チャンウァイサン以外の人間に対して極めて関心が薄く、かつ冷淡であるなまえという女の顔を多少なりとも知り及んでいる彼だからこそ、余計にだ。

「……大哥、そう急ぎじゃないンで出直してきますが……」

書類を手に「これに目を通してもらいたいだけなんで」と彪が地を這うような声で申し出るものの、残念ながら、無慈悲な上司は「構わん、くれ」と悠長に片手を差し伸べた。
ひらひらとはためくボスのてのひらへ書類を渡す彼の顔色は、元より威圧的な風貌ではあったが、いまはますます凶相に磨きがかかっていた。

そんな彼らのやりとりが聞こえているのかいないのか。
なまえは主人とぴったりと密着したまま、ぐずるように身を揺らした。

「だんなさまぁ、どうしてなまえのおはなし、ちゃんと聞いてくださらないんれす……いじわるなひと」
「お前が酔ってるからだよ。暴れるな、ほら、降りろ」
「んんっ、ふふ、やらぁ」

舌っ足らずに間延びした口調で、頭の悪い子犬のようにじゃれるなまえを、ソファの斜め後ろに佇立した彪は心底胡乱な眼差しで見下ろした。
その顔面にはありありと「あーいますぐ逃げてえ」と書かれている。
我関せず焉、飼い鳥にしがみつかれたまま、のんびりと書類をる作業を、彼らのボスはやめてくれそうになかった。

「っ、ん……」
「乗ってるのは構わんが、あんまりそこで動いてくれるなよ、なまえ」
「あぅ……ン、ふふ……だんなさまったら」

まるでことの最中でもあるかのように身をくねらせたなまえが、くすくすと笑った。
つとおとがいを上げた女の黒い瞳は、陶然ととろけている。
隠す気があるのかお前というほど死んだ目をしている不本意極まりない第三者を見上げて、なまえは罪深いほど甘えた語調で「もう」と唇をとがらせた。

「彪ったらぁ……。せっかく、だんなさまがね、なまえとご一緒してくださっているのに……じゃましちゃいやよ」

わるい子、と人差し指で指さす仕草は、あどけない児戯のようだった。
しかし糖蜜を連想させる甘ったるい声色、滴るように潤んだ瞳、ねだるような眼差しは、まがうことなき妖婦のそれだ。
誘うようにかすかに開いた口唇からは、ふれずとも熱すら感じられそうな赤い舌が覗いていた。
甘く責めなじるように見上げられ、男の骨ばった指が一瞬、ぴくっと引き攣った。
生憎、彼らのボスはそれを目敏く視界の端で捉えていた。

「……」
「自分を責めなくて良いぞー、彪。かわいいだろこれ・・
「やめてください大哥、俺も疲れてるんです、気の迷いです。書類はそれとこっちのまで目を通してもらえりゃア結構なんで後はごゆっくりどうぞ失礼します」
「なんだその早口」
「さっさと御前から下がりてェ気持ちがあんたに理解してもらえますかね」
「やれやれ、尻尾巻いて逃亡の上申たあ、九底分草鞋(※組織内各団体ごとの通信、連絡を担う役職)の名が泣くぜ」
「あんたの趣味が悪すぎるんです、大哥」
「言うじゃねえか。見てくか、彪? これからもっとやらしい顔見れるぞ」
「二度も言わせんでください。趣味が悪すぎる・・・・・・・
「もう、なんのお話していらっしゃるの、だんなさまぁ……。んー……ね、なまえと、ちゅうする?」
「しない。ほら、水飲め」
「む……」

なまえは手渡された水を大人しくこくこくと飲み始めた。
張は肩をすくめ、横長の特徴的な青い箱から新しい煙草を取り出した。
毒気にてられたかの如く、そのさまを絶妙にデッサンの狂ったような面持ちで眺めていた憐れな部下は、ボスの咥えたジタンへ火を点けるや否や、御役御免とばかりにさっさと退散した。

ドアの開閉音が普段よりも乱雑に聞こえたのは気のせいだろうか。
張は、ふっと白靄まじりに浅く笑った。
書類をローテーブルへ放り、煙草を挟んだのと反対の手でなまえの黒髪をすいてやった。

「あーあ。悪い女だなあ、お前」
「んー……?」

なんのことかと首を傾げている女を抱えなおす。
張は鷹揚にまた一服つけると、なまえの顔へ深々紫煙を吹きかけてやった。


(2020.04.11)
(2021.12.18 改題)
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