なまえは街を見下ろして、そっと溜め息をついた。
大廈高楼の天辺でひとり手慰みに本を読んでみるも、どうにもそわそわして落ち着かなかった。
閉じた本の小口を指の腹で撫でる、その面差しも上の空だ。
それというのも飼い主が戻ってくる予定の時刻をとうに過ぎていたためだった。
無論、万事がスケジュール通りに進むなんて思ってもいない。
主の身になにか起こったのでは、という愚かな杞憂は過るべくもなかったが、とはいえ濁世を見下ろす層楼にひとり座するのも、焦がれるひとをただ待つだけというのも、古今東西、恋する乙女にとって時の流れはひどく遅く感じられてしまうものだ。
なにくれとなく憂うのも致し方ない――あのひとはまだかしら、と。
窓の外は重い鈍色だった。
沛然とした雷雨は先程止んだばかりだった。
塔の上の金糸雀が憂慮することではなかったが、短時間といえど堰を切ったようなあの雨量では、元からゴミやら死体やらの詰まった溝渠が汚水と腐臭を増している頃だろう。
垂れ込めた分厚い雲は既にところどころ切れ込みが入り、雲の上が常しえ晴天であることを思い出させていた。
やおらなまえは立ち上がって、雨に濡れ薄汚れた街並みを熱のない眼差しで見やった。
またこぼれた吐息は恋うる雨月の色であり、細い指先で窓をつっと引っ掻いた。
と、天上の何者かが願いを聞き届けてくれたのか――否、なまえの望みを叶えてくれるのは当の飼い主をおいて他にない――、鳥籠の重厚な扉を開け現れたのは、いまのいままで恋い焦がれていた張維新そのひとで、なまえはぱっと破顔した。
念のため支度していたタオルを手に、ぱたぱたと駆け寄った。
案の定、慮外の雨は彼をもいくらか濡らしてしまったらしく、なまえは背伸びして、濡れた頭をタオルで包み込んだ。
しっかり撫でつけられた黒髪は水を弾き、纓絡の飾りめいて点々と水滴を纏わせていた。
「お帰りなさいませ、旦那さま。急な雨でしたね」
「んー……思ったより濡れたな」
外したサングラスを胸ポケットに引っ掛け、張はなまえが伸ばした腕に合わせて上体をやや屈めた。
両手をコートのポケットに突っ込んだまま、なまえのちいさな手が丁寧に水気を拭うのに任せる。
男の丸い双眸は、望まぬ驟雨に遭ったとは思えないほどのんびりしていた。
手を止めることなく、真正面から彼を見上げたなまえはやわらかく微笑んだ。
「ふふ……この体勢は困りましたね。あなたのお顔が近くって、キスしたくなってしまいます」
「それじゃあやめとくか。そろそろ腰曲げてるのも疲れてきたしな」
「まあ、空言を。なんて意地悪なの」
拗ねましたと言わんばかりになまえが唇をとがらせた。
媚態を笑い飛ばしながら、張は鷹揚にタオルを受け取った。
小鳥の他愛ない繰り言は、飼い馴らされた愛玩動物が時折立てる爪のようにくすぐったい。
張は気疎げにネクタイをほどくと、シャツのボタンをひとつふたつ外した。
濡れた前髪が秀でた額へ影を落としている。
労わるようななまえの手付きからは程遠く、自らがしがしと乱雑に首の後ろを拭きながら、水気を孕んで常より一層艶やかに光る黒髪を大儀そうに掻き上げた。
外したネクタイをなまえへ手渡そうとしたところで、これはいかなこと、張は彼女がじっと微動だにしないことに気が付いた。
濡れ鼠となってしまったいまですら眩いばかりの威容は露いささかも損なわれず、匂い立つような色香と洒脱さとを纏わせた偉丈夫は、反応のない飼い鳥を見下ろして「ん?」と首を傾げた。
男の太い首を、つっと水滴が伝い落ちた。
口をつぐんで彼を見上げていたなまえは、そこでようやく、はっと弾かれたように黒い目をしばたいた。
「っ、すみません、旦那さま。お気になさらないでください。……あなたに見惚れていただけです」
顔を赤らめて面映ゆそうに目を側めるさまは、まるで生娘の如き初々しさだった。
いつものことながら、張維新のみに向けられる小鳥の思慕は、今日も今日とて底無しに甘ったるい。
愛らしく色付いた頬を見下ろし、張は呆れたように面輪をゆるめた。
「シャワー浴びてくる。――こっちの書類な、要否で分けてまとめといてくれ。嫌がらせかってほど量が多くてなー……いやつまらん単純作業でいびりたいだけなのかもしれんが」
「まあ、あなたの御手をわずらわせようなんて、そんな愚か者がいますの?」
「さてなあ、心当たりはあるにはあるが」
言いながら懐から茶封筒を取り出した。
無闇やたらになまえが仕事のことへ嘴を突っ込むのをあまり好まない彼にしては珍しい命だが、小鳥が目を通しても差し障りない程度の、それもさして急を要さないものなのだろう。
なまえは従順に頷いた。
「かしこまりました、旦那さま。……ああ、あの雨だったでしょう? お風呂を準備していましたの。お急ぎでなければごゆっくりどうぞ。新しいお召しものも……お煙草も湿気てしまったでしょうから、一緒に用意しています。コートと上着だけは先にお手入れしたいので、いまいただいてもよろしいですか?」
おっとりとした口調ながらも、繊手はてきぱきと封筒の玉紐を外して既に書類を繰り始めていた。
書面を走る視線は本当に読んでいるのかと疑いたくなるほどの速度だった。
無駄も如才もないそのさまを、悠揚たる眼差しで見下ろしていた飼い主は、暗々裏なにを考えていたのやら。
平生饒舌な唇が、軽口どころか返答のひとつも寄越さないのを訝しんだなまえが顔を上げかけたところで、なんぞ図らん、唐突に抱きすくめられた。
「っ……! ど、どうかなさいました、旦那さま?」
突然の挙動に、心ともなく戸惑いの声をあげずにいられようか。
鬱憤やら気苦労やらが積み重なると、やわらかなものやあたたかいものにふれたくなるのは彼女にも理解できる情動ではあったし、飼い主もそんな戯れ、無体を働くこともしばしばだった。
確かに急な雨でいくらか鬱陶しげではあったものの、しかし小鳥の目から見て、それとわかるほど機嫌を損ねているようには見受けられなかったが、腹に据えかねることでもあったのだろうか。
咄嗟にかばった書類たちはともかく、なまえの白いワンピースは張のせいでやや濡れてしまっていた。
これでは彼女も着替えなければなるまい。
なにか意に沿わないことでもあったのかしら、となまえは首を傾げた。
「……だんなさま?」
「――ふ、濡れたなあ、なまえ。風呂は一緒に入るか」
そんななまえの思慮を知ってか知らでか、腕の中に彼女を閉じ込めた張は、低く囁くように、そのくせ極めて明瞭に言ってのけた。
精悍な顔が、悪戯好きの悪童じみた笑みを浮かべていた。
口角を吊り上げる、男の楽しそうなさまといったら。
断章取義、わざわざラディゲを引かずとも、完璧に結い上げたばかりの女の髪をめちゃくちゃに乱したくなるのも、才腕を振るう最中に抱きすくめてしまいたくなるのも、致し方ない――所有する女の身を自分本位に邪魔する男の驕慢に、なんの罪があるものか。
さしたる訳合も要すまい、それでなくともなまえという女は、黒髪の一房、白磁の肌、たおやかな爪先に至るまですべて、張維新のものなのだから。
ぱちぱちとまばたきしたなまえは、次いで、張の腕のなかでそれはそれは幸福そうに相好を崩した。
にんまりと瓢げた男の笑みを見上げて、滴るような媚を含んだ鶯舌が言った――「あなたがそうおっしゃるなら、喜んで」。
(2020.04.07)