(※alpha/beta/omega dynamics、オメガバースパロ)
(※オメガバースに関して流布している設定に基本的に準じますが、このおはなしだけの特殊設定もあります)






歓喜と絶望と混乱と恐怖とを、完璧に同時に・・・・・・感じて、なまえは不吉な宣託を受けた受難者のように顔を強張らせた。
奥歯を噛み締めれば、ぎりっと不快な音がした。

「――あの子、いますぐ隔離して」

ぐにゃりと足元が波打ちたわむようだった。
あるいは身体の奥底が痺れるようとでもいうべきだったか。
理性なき獣でもあるまいし、抗えぬ衝動とやらに襲われた折、生まれ持った「本能」とはこれほど「自分」という存在を揺さぶるものなのかと驚かされ、否応なしに惑乱へ拍車をかけた。

「オメガの発情期ヒートよ。空いているコンテナにでも閉じ込めて、誰も――特に、アルファを絶対に近寄らせないで」
「し、しかし大姐、こいつらは積む前に全員、抑制剤を摂取させてます」

真夜中の埠頭で、彼らの前には積み荷、具体的には四十名足らずの人間が集められていた。
これから傍らの船舶で西欧へ輸出する「商品」たちだ。
人種、性別、年齢、美醜に至るまで千差万別だが、たったひとつの共通項は全員が「オメガ」であることだった。
どうということはないビジネスのセグメンテーション、しかし金糸雀カナリア十把一絡じっぱひとからげのなかからひとりの女を指し示して、平生の淑やかさを欠いた硬質な語調で命じた。

「聞きただしている暇はないの。旦那さまやわたしを含めて、ここにはアルファが何人かいるでしょう。面倒なことになったら困るわ」

言いかけて目眩に襲われたように華奢なヒールがよろめいた。
尋常ではない女主人アルファの様子に、ベータである部下たちも風雲急、慌てて指示の通り動き出した。

発熱しているかのように覚束ない足取りで、おもむろになまえはコンテナのひとつへ背を預けた。
彼女を支えようと、脇にいた黒服のひとりが困惑に顔を曇らせながら腕を伸ばしたが、首を振ってそれを固辞する。
いまこの場に飼い主がいなくて良かったとなまえは心の底から思った。

「……だんなさまは、どちらに?」
「いまは船舶内で船長、譲渡先と会談中です。……大姐、顔色が悪いです、車へ戻りますか」
「いいえ、大丈夫……。それより、ねえ、
――ひとつお願いがあるの・・・・・・・・・・

人間が定めたこの世のことわり、つまらぬ事象に捕らわれ、さいなまれるなど烏滸おこの沙汰に違いない。
しかしながら血と硝煙にまみれ、なかんずく道理に外れた者たちばかり集うこの魔都ロアナプラにおいても、「本能」というものは――「第二性」というものは、牢固に彼女たちを縛りつけてしまうらしかった。

部下への「お願い」は叶えられたものの、熱と共に靄がかる頭をなまえはちいさな手でくしゃりと掻き乱した。
いま、彼女は肉体の内でなにかが変わってしまう・・・・・・・感覚をまざまざと味わわされていた。
そしてそれが「運命」などというふざけた名で呼ばれていることを、なまえは知っていた。
理解してしまった。
なまえは苦虫を噛み潰したように目端をすがめた。
なにが「運命」だ――こんなもの、「呪い」と言わずしてなんとする?

この世界は男女という性別の区分とは別に、第二性という属性区分により成り立っている。
社会の七割以上を占める「一般人」つまりβベータと、少数の「支配種」αアルファ、そして更に僅少な「隷属種」Ωオメガ、いずれかの属性に生まれつく。

清濁、正邪曲直の職務いずれにせよ、社会的重役は概して支配者階級であるアルファが占めていた。
婚姻はそれぞれ同種間で行われるのが一般的で、とりわけアルファはエリート意識が高い者が多く、アルファの血に他のものを混ぜまい、絶やすまいという意識から、同種間での婚姻に積極的である。
アルファとアルファの子は高い確率でアルファが生まれるためだ。
ひるがえって「隷属種」たるオメガは、社会的立場は極めて弱かった。
たとえばアルファばかりの名家にオメガが生まれてしまった場合、家の恥だの欠陥だのと世間から隠されることも往々にしてありることだった。
基本的な能力や性質、資質をはじめとして、アルファとオメガには様々な差異が存在した。
昨今、オメガの権利向上を訴える風潮もあるにはあるが、差別意識は依然根強く、自分がオメガであるということを隠す者は多かった。
なぜなら一般的に、アルファ性は優生種であり、オメガ性は劣等種だからだ。

そのなかでもオメガが劣等種とされる原因に、社会生活を送るに当たって致命的な問題がひとつあった。
「ヒート」と呼ばれる発情期である。
多少なりとも個体差はあれど、オメガは周期的に一か月から三か月に一度、一週間ほど使いものにならない時期がある。
優れたアルファ、あるいはベータの子を孕むため、妊娠しやすい体へと肉体がつくりかえられる時期だ。
その間まともな日常の生活を送ることは困難であり、それゆえオメガは進学、就職にも不利とされた。
アルファにもヒートはあるものの、それは発情期のオメガのフェロモンに誘発された突発的なものでしかなく、オメガに接しさえしなければ起こらない。
オメガの発するフェロモンは、否応がなしに他のアルファ、稀にベータをも強制的に発情状態に陥らせてしまう。
現代、発情期のフェロモン量を抑える抑制剤が開発されるまで、オメガの処遇はいまより尚一層過酷なものだった。

存在すら隠匿される弱者は、しかしながら黒社会においては、旧来より高値で取引される利の良い「商品」だった。
希少であるということはただそれだけで価値を持つ。
画家の死後に絵画の価値・・が上がるのは、それ以上新しい作品が生み出されないためだ。
てて加えてヒート状態のオメガが発するフェロモンは、そこらの粗悪な興奮剤より遥かに強い快楽と酩酊をもたらすのだ。
人身売買におけるオメガの利幅は、人種、性別、美醜に関係なく、洋の東西を問わず、倍の数のベータを売りさばくより莫大だった。

臨検でも行われない限り足の付きにくい船舶が主であり、ヒートをはじめ、移送中のトラブルを排するため、詰め込むオメガたちにはあらかじめ強い抑制剤を摂取させるのが輸送における作業の一環だった。
先程、部下がなまえへ進言したことは正しかった。

しかしながら、その抑制剤をもってしても抑え込めぬものがある。
「魂のつがい」という存在だ。
アルファだのオメガだのの第二性と共に、人間の「本能」に刻まれているという「運命の相手」に出会ってしまった場合、互いに唯一の存在である「運命」に出会った場合、オメガの肉体は自分の主であるアルファを招くため、受け入れるため、即座にヒートに陥るのだという――相手のアルファも等しくだ。

この世ではひとりのアルファとひとりのオメガが、それぞれ「運命」で結ばれているという夢物語に近い俗論があった。
とはいえ、この世界におけるオメガの比率はわずか五%程度である。
七五%がベータであり、残りの二〇%がアルファだ。
取りも直さず、アルファに対して絶対的に数のすくないオメガのなかから更に「魂のつがい」なんぞ眉唾ものの存在と出会うのは、ほぼ不可能ということだ。
端から「運命」という繋がりそのものに懐疑的な学者や医療関係者もいるほどだった。

「っ、ふふ……本当に、なんてこと……。――ああ、気にしないで。独り言なの。そうそう、あなた、もうひとつ頼まれてくれる? 旦那さまへお知らせしてほしいの。商品がひとつ欠けますって」
「……隔離したあのオメガですか?」
「ええ。旦那さまには子細わたしがお伝えするから」

如上の通り極めて低い確率にもかかわらず、なまえが出会ったのは「運命」などというあやふやなものだった。
言語に絶するあの衝動は「運命」としか言い表せなかった。
積み荷のなかのオメガを一目見た瞬間、認識した瞬間、世界が揺れるかの衝撃がなまえの全身を襲った。
けだし「魂のつがい」だと、自分の片割れだと、それ以外のなにものでもないと、なまえの脳が、肉体が、本能が、狂おしいほど叫んだ。
「運命」などという夢見がちな、ふざけた呼称を信じてしまいそうになる。
あに図らんや、西欧へ輸出・・する商品のなかにくしくも自分の「運命」とやらがまぎれ込んでいると知っていたなら、始めからこうして主と共に取引の場に参じることなど決してなかったというのに。

部下への「お願いごと」を成すと、なまえは隔離されたオメガのところへ足を向けた。
蹣跚まんさんたる足調あしどり、発熱しているときに見る悪夢の如き心地のままでは、自分がどう言いつけたのかすら、おぼろげだったが。






隔離された一TEUコンテナ内は薄暗く、ぞっと肌の粟立つような冷気と腐臭に覆われていた。
墓廟ぼびょうに似た底冷えが、爪先から這い上がってくるかのようだった。
狭い箱のなかには詰まった暗渠あんきょじみた不快な臭気が漂っていたが、いまここにいるアルファとオメガにとってなんら差し障りにはならなかった。
それを上回る、空気ごと塗り潰すかのように濃厚な、甘く、重く、慕わしい芳香が満ち満ちていたためだった。

冷たい金属のコンテナの床にひとりの女が倒れ込んでいた。
発育不良の手足は見苦しいほど細く、栄養状態が芳しくなかったのか、顔を上げたその頬は痩せてはいたものの、これ以上ないというほど紅潮していた。

やわらかなハシバミ色の瞳が、歓喜と情愛をたたえて金糸雀アルファを射抜いた。
赤みがかったヘーゼルの虹彩は、ただひたすら自分のアルファを――なまえを見上げ、喜び、焦がれ、一途な愛を囁きかけていた。
あるいは彼女・・もまた、同じような顔をしていたかもしれない。

「ッ、あなた……」
「……やっと、あえた……」

恍惚に揺れる女の唇は、どちらのものだったか。
はあっと息を吐けば、恐ろしくなるほど熱く甘ったるい色を帯びていた。

強制的になまえの――アルファの本能へ強く作用するむせ返らんばかりの芳香に、呼吸すら危うい。
オメガ特有の濃く甘いフェロモンのせいでどろどろと理性が煮崩れていくのが、常から自制的である小鳥にはつまびらかに理解できた。

目の前のオメガの姿が曖昧に歪み、なまえはいつの間にかぼろぼろと熱い涙が溢れていたことにようやく気が付いた。
どうしてと思った。
――どうしてわたしはアルファに生まれてきたのだろう。
体の奥底でなにかが蠢いた。
なまえの問いに「本能」が答えた。
「お前はこのオメガとつがうために、結ばれるために、生まれてきたのだ」と。

いまなまえが抱いている感情はまぎれもない「歓喜」だった。
やっと見付けた、やっと会えた。
なまえの全身の細胞が痛いほどに叫んでいた。
わたしのもの。
わたしが守るべき、わたしだけの大切なひと。

「――っ、ふふ、」

名前も知らない女へなまえは微笑みかけた。
飽和した感情が、堪えきれぬ涙と嗚咽となり溢れた。
理性も感情も大した問題ではなかった。
目の前のオメガを見つめているだけで強制的に味わわされる幸福と陶酔は、生まれて初めてのものだった。
この世にただひとりだけの、自分のもの・・・・・に出会ってしまったいま、そのやわらかそうな女の肢体を抱き締める以上に重要なことなど存在するはずがなかった。

そしてオメガの方も同じように感じているのは明々白々だった。
これから自分はどうなってしまうのだろう、目の前の女は誰なのだろう云々、当然の不安や疑問を抱いていたに違いなかったが、しかし魂の片割れ、自分の運命、自分のアルファ、自分を庇護してくれる者とようやく逢着した喜びに、自身の置かれた状況、境遇、来し方行く末すべてを遺却して、ただひたすらなまえひとりを幸せそうに見上げていた。

酸素を求めるのに理由があるだろうか。
水を求めるのに咎められることなどあるだろうか。
なまえがこのオメガを、そしてこのオメガがなまえを求めるのは、呼吸をしたい、水を飲みたいという、生き物として当然の欲求、反射に等しかった。

オメガのやわらかそうな唇が、なまえを求めて揺れていた。
静かに涙をこぼすなまえを慰めるように、慈しみ癒やして支えたいと望むように、女が欣幸きんこうの至りと手を伸ばした。

オメガの手に導かれるように、なまえは「魂のつがい」の眼前で膝を着いた。
女たちの膝と膝がふれ合わんばかりに接する。
夜色の瞳とハシバミ色の瞳が真っ直ぐにぶつかり、熱っぽく絡み、やわらかくとろけ、歓喜と愛情だけで満たされた。
自分のアルファを受け入れて抱き締めようと両腕を開いた女へ、なまえはやわらかく微笑みながら身を寄せた。






一発の銃声が鳴り響いた。
噪音そうおんは狭隘な金属製のコンテナ内で反響し、耳をろうさんばかりだった。
銃弾はあやまたずオメガの顎下から入射し、頭蓋を破砕して脳天から抜けていた。

銃の反動は思いの外重かった。
祈るように腕を曲げて至近距離で撃ったため、握っている両のてのひらは勿論、手首や肘、肩までびりびりと痺れた。
生まれて初めてひとを殺したなまえは、主も部下たちもよくも容易く扱うなとぼんやり考えながら立ち上がった。

凄惨な死体は顔ごと吹っ飛ばされ、脳漿をまき散らしていた。
足元にくずおれたオメガを見下ろし、凝然と立ち尽くすアルファの様相は、地獄の淵を歩む幽鬼もかくやとばかりのおぞましさだった。
おまけにいまにも重ならんばかりに身を寄せ合っていたせいで、慎み深い尼僧服めいた白いワンピースにまで血が飛び散り、まだらに汚れていたために、ますます修羅のさまを体現していた。

壁に飛び散った血潮が重力に負け、だらりだらりと垂れていた。
不可逆的な惨状を眺めていると、なまえはまた涙がはらはら溢れるのを堪えきれず、醜い嗚咽おえつを漏らした。
なまえは確信した。
きっと今夜だけで一生分の涙を流し尽くしてしまうだろう。

許して、などとゆめゆめ思うべくもなかった。
天秤にかけるまでもなかった。
だからこそなまえは「魂のつがい」の存在を認識するや否や、即座に部下へ「お願い」を告げたのだ――「あなたの銃を貸してほしいの」と。

部下から借り受けたベレッタ一挺を握って、どれほどの時間そうしてひとり立ち尽くしていたのだろうか。
背後で、かつっと硬質な革靴の音が鳴った。
蜿蜿長蛇えんえんちょうだ、死体の傍で佇立していることなど不可能だと理解していた。
それでもやはりなまえは「ああ、」と暗澹たる溜め息をこぼした。

振り向かずとも、その足音が誰のものかなまえにはすぐにわかった。
アルファだのオメガだの関係ない。
これは、この感情は、衝動は「なまえだけの本能」だ。

「――いい子だ」

主の声音は、恐ろしくやわらかく、甘やかだった。
まるで生温かいぬかるみのようだ。
頭の芯が痺れ、溶け出していってしまいそうなほどだった。

主の足を向けさせぬよう部下に言付けておくべきだったとよぎるも、紗幕しゃまくがかかったようにぼんやりとした意識ではただ呼吸するのに必死で、まともに悔いる余裕すらなかった。

むせ返るようなオメガの芳香は急速に薄れつつあった。
じめじめとした空気が肌と衣類の隙間に潜んでいるような不快な湿り気と潮風を、周囲に漂う腐臭を、血と硝煙のにおいを、そして張維新チャンウァイサンの煙草の香りを、思い出していた。

それを後悔と哀惜と絶望と共に感じていると、やおら後ろから大きな体に抱きすくめられた。
太く逞しい腕は、よみするようになまえの体をしっかりと包み込んだ。
紫煙が垂れ込め、濡れた視界が更にぼやけた。
背に熱を、後頭部に鼓動を感じる。
喪服じみたスーツ姿の偉丈夫は、闇夜がわだかまり形を取ったかのようだ。
なまえはそのなかへ沈み込んでいくような、取り込まれるような心地がした。

ぼろぼろとこぼれ続ける涙でてのひらが濡れ汚れるのも構わずに、張の大きな手がなまえの目元を覆った――世界から隠すように、あるいは世界を隠すように。
夜闇のように真っ暗になった世界で、張の香りと鼓動だけがいまのなまえのすべてだった。

「ッ、う……」

今生ただひとりだけ、自分の「魂のつがい」を失う苦患は、胸を裂かれるようななどと生易しいものではなかった。
肉体の傷などいずれ癒えよう。
しかしこの悲嘆、悔悟、喪失感は、いくら時を経ようと消えはしないのは了然たるありさまだった。
いっそ悲しみが瞳ごと溶け出してしまえば良いのに、となまえは滂沱ぼうだの雫を溢れるままに任せた。

後ろから抱き締められたまま、目元を覆うてのひらとは逆の手で、声音と同じく穏やかな挙措きょそで銃を取られた。
マガジン底の分厚い自動拳銃92Fは、なまえの繊手せんしゅにはあまりに不似合いだった。
紅茶の注がれたティーカップくらいしか持てまいと危ぶむたおやかな手は、未だ大袈裟なほどかたかたと痙攣していた。

「なまえ、」
「……だんなさま、どうか、どうか……おゆるしください、ひ、ひとつだけ……っ、おねがいが、あります……」

なにかを言いかけた張を遮ってなまえは口を開いた。
囀りはか細く、さらさらと灰を落とすような響きだった。
言葉はみっともないほどふるえ、そのまま闇に掻き消えかねないほど揺れている。

張がしっかりと抱きすくめていなかったなら、足元に転がる死体のようになまえの身は崩れ落ちていたに相違なかった。
白い手は、男の腕へ爪を立て痙攣していた。

「っ、は……あなたの、運命が……もし、いたら……もし、出会ったら、――そのときは、」

強欲な女の、血を吐くような懇願だった。
疎ましく、忌わしい声は、聞く者すべての肌をぞっと粟立たせるようだ。
さながらこの世すべての業に焼かれ、未だ罪業の沼底を這う亡霊の如く、禍々しく、狂おしい声音だった。

「……ふふ、」

抱きすくめる男の腕にすがり、かたかたとふるえていた手が、おもむろにだらりと垂れた。

なまえは張の腕から抜け出し、振り向いた。
彼の顔を正面から見上げたときには、既に「自らの“運命”を殺した憐れなアルファ」の顔をかなぐり捨て、「三合会の金糸雀カナリア」の顔をした女は微笑んだ。

彼のためだけにつくられた供物のように、それはそれは甘やかな微笑だった。
血の気の失せた頬は雪をあざむかんばかりに蒼白で、涙をぬぐった目元は痛々しいほど真っ赤だった。
噛み締めすぎて血の滲んだ唇は無様に揺れている。
しかし涙を止めた夜色の瞳は、ただひとりの主をひたと見据え、いかなる慰めも厚情をも拒絶する意思が、その全身を焼く陽炎のように揺らめいていた。

「――いいえ、なんでもありません。お手間を取らせてしまい申し訳ございません、旦那さま……。商品をひとつ駄目にしてしまったお叱りは、いかようにでも」

なにを告げようとしたのか、なにを伝えないと決めたのか。
張が命令すればなまえは素直に吐露しただろう。
しかし全き主、しょうすべき白紙扇――張は、ただ鷹揚に「そうか」と肩をすくめるだけに反応を留めた。
小鳥から取り上げたベレッタを懐に仕舞い込みながら、きびすを返した。

「片付けはあいつらに任せて先に戻るか」
「かしこまりました」

従順に承伏したなまえは決して振り返らなかった。
揺れる華奢なヒールには気付かぬふりをしてやって、張はジタンをくゆらしながら背後へちらりと目線を投げた。
冷たい金属の床に倒れ伏した「なまえの運命オメガ」は顔を無くし、血溜まりにぐんにゃりと横たわっていた。

アルファの特性のひとつに、自分の領域を他者に侵害されることを極端に嫌忌するというものがある。
第二性に振り回されるような愚物ではないとはいえ、なきだに日夜暴力と抗争、相克に身を浸す洪門の者、それでなくとも金糸雀カナリア張維新チャンウァイサンのものである。
サングラスと紫煙により、巧妙、曖昧に隠された偉丈夫の眼差しは、驚くほど冷淡、苛辣からつなものだった。

体温の失われていくオメガの亡骸を、張はサングラス越しに無感動に一瞥し、なまえは先程なにを口にしかけたのだろうか、と目を細めた。
しこの世に存在しているやもしれぬ「運命」とやらと張が遭遇してしまったときは、それを殺せと要求するつもりだったのか――いま彼女がやってみせた掉尾ちょうびと同じようにだ。

それともまったくの反対、なまえ自身を処分してくれとでも乞う腹積もりだったのかもしれない。
そう思い至り、男は苦く笑った。
「本能」は抗いがたい威力を持つ。
平生、張維新チャンウァイサンの絡まないことでは露いささかも感情を揺るがせぬなまえが、これほどまでに周章狼狽を、悲嘆を、煩悶を露わにしていることがなによりの証左だ。
そもそも張も都市伝説めいた「運命」などという繋がりは信じていなかったし、先程なまえの指示を受け報告に参じた部下にも、つい胡乱な反応を返してしまったほどだった。
なによりふざけた呼称も気に食わない。

しかしながら現下の状態を見るに、それほど潜勢的な力を持つのなら、仮令けりょう、張が自らの「魂のつがい」とやらと遭遇した折節、どうするのか――畢竟、彼自身も判然としなかった。
もあらばあれ、本能的に彼が「運命」に惹かれ、あまつさえそのオメガとつがうさまを目の当たりにするくらいなら、小鳥は自らの幕引きを願うだろうか。
おのれよりも、なによりも、張を尊ぶ女のことだ。
そちらの方が、前者の憶測よりずっとありるように思われた。

黒いコートの裾を湿った夜風に嬲らせるままに任せ、紫煙を漂わせた偉丈夫は厚い唇から、はっと薄靄まじりの嘆息をこぼした。
いくら考えようとも詮無いことだ。
すくなくとも、いま血と硝煙の泥濘に浸りきっているにもかかわらず人間を殺めたのは生まれて初めてだった女は、自らの「運命」を殺してみせた女は、アルファだのオメガだの関係なく、ただひたすらにもろく、か弱く、――途方もなく、うつくしかった。

「なまえ」
「はい、旦那さま」

恭謙きょうけんな瞳に映っているのは、ただひとりの男、なまえの飼い主、誇り高きアルファの選んだ無謬むびゅうなるアルファだ。
「本能」に刻まれた「魂のつがい」とやらを凌駕するほどの情念をなまえは自分へ抱いているのだと思うと、名状しがたい仄暗い愉悦を覚え、張はつと口元が醜く歪み、ジタンを咥えた唇が新月間際めいた極めて細い微笑を刻んでいるのを自覚した。
――まったく、酷い話だ。

白磁が如きうつくしい手を握る。
やおら互いの指を絡めた。
体温の失せた羽翼うよくの指へ熱を与えるように愛撫しながら、張は自若たる口ぶりで「仮定の話は好きじゃねえが、」と前置いた。

「――そのとき・・・・は、処遇はお前に任せるさ、なまえ」
「ふ、うふふ……あまり、なまえを……甘やかしてはいけませんよ。身の程知らずの女にはなってしまいたくないのに」

泣き笑いの形に相好を崩し、なまえは今世、唯一愛するひとをまばゆげに仰いだ。

ふたりのアルファは手に手を取り、薄汚れたコンテナを後にした。
残されたのはひとりのオメガの死体だった。


(2020.04.02)
(2023.09.07 改題)
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