――ああ、これは、まずい。
なまえは浮かべた笑みをこっそり引き攣らせた。

ここ数日、多忙を極めていたチャンが、今晩は比較的はやめに本社ビルの居城へ戻ってきたことに、彼女が頬をゆるませたのもほんの一瞬のことだった。
ジタンの香りと、くらむほどの嗔恚しんいを濃く着為きなした男は、出迎えた小鳥を静かに一瞥した。
どうやら意に沿わないことが多々重なったらしく、端的にいって、今夜の飼い主は非常にご機嫌がよろしくないようだった。

主人の機微を汲み取れない小鳥ではない。
すべてを察したなまえは内心「ああ……」と天を仰いだ。
叶うならいますぐ全力で逃げ出してしまいたいほどだった――無論、そんなことできるはずもないが。

主の表情はいつも通りだった。
しかし纏う雰囲気があまりにも剣呑に過ぎた。
一見して近付きがたい硬質な怒気は、まるで可視していないのが不思議なほどだ。
いまは隠されている黒い双眸がどのようなものかまでは、照明を強く反射するサングラスのせいで窺い知ることは敵わなかった。

すべて御意のまま事が運べば、速やかかつ合理的に――あくまで張や三合会にとってという注釈付きではあるものの――はかが行くに違いない。
しかし残念ながら外部要因、生きている人間というものが絡んでくると、そうも言っていられないのが此岸、こと済度しがたい無頼共の蔓延はびこるロアナプラである。
わざわざ彼が出向いてやるほどの案件が累積し、このところ連日連夜帰宅は非常に遅く、大廈高楼たいかこうろうの天辺におわすときも入れ替わり立ち替わり采配を求める部下たちへめいを下す主人が、打ち見にはそうとわかるほどではないにせよ、少々お疲れなのは知っていた。

そもそも平生から飄々とし泰然自若な風体の彼だが、別段、気が短くないというわけではない。
血腥ちなまぐさい現し世に蠢く有象無象よりも、遥かに大局を見晴みはるかせるがため、実利を重んじ、軽い舌端ぜったん程度流してやる度量があるだけで、寛容というわけでも、ましてや間違ってもそれを許容するべくもない。
だからこそその無謬むびゅうなる主がご機嫌斜めなのをわかりやすく露わにしている現状が、なまえはただただ恐ろしかった。
わかりにくくお怒りのときも恐ろしいことに変わりはないけれど、と彼女は張に気取られない程度に肩を落とした。

ドアを閉めて退出する際、こちらを伺う部下の顔がちらりと見えたが、表情は疲労と悲愴感と同情と憐れみとその他諸々――とりあえずこの世のあらん限りの不幸が入り混じった、名状しがたいものだったような気がする。
見間違いだと思いたい。
そんな申し訳なさそうな顔をするくらいなら、金糸雀カナリアの元へ差し出す前にどうにかボスのご機嫌をすこしでも浮上させておいてほしかった――なんて、期待しすぎだろうか。

「……お帰りなさいませ、旦那さま」

なまえは普段よりもゆっくりと張の元へ歩み寄った。
今回、切歯扼腕せっしやくわんの原因であるご多忙の理由の子細までは、なまえは知らなかった。
探ろうと思えば可能かもしれないが、いたずらにくちばしを突っ込んで飼い主の不興を買いたくなかったというのがひとつ、ことはこの街だけではなく、本国絡みのものだったというのがもうひとつの理由だった。

自分が置かれた状況を正しく把握し、自覚し、分を弁えるのは、なにも鳥籠のなかだけに限らず、この浮き世で生きていく上で非常に重要な処世術に違いない。
迂闊な言動で大変ご立腹らしい主の神経を逆撫でするような愚かな真似など小鳥がするはずもなかったが、なにせ今夜は分が悪かった。

「お疲れさまです。すこしはやい時間ですが、今日はそのままお休みに、ッ、んっ……!」

ぐいっと引き寄せられたかと思えば、すぐさま唇が重なった。
咄嗟に開いたなまえのちいさな口のなかへ、自分のものと言わんばかりの粗雑な所作で熱い舌が侵入してきた。
口腔や鼻腔に、ぶわりと煙草と酒の味が広がった。
苦い味はなまえの清廉な味覚や嗅覚を塗り潰さんとするかのようだった。

不意のことでよろめいたなまえが体勢を整えるより先に、張の大きな手によって拘束されてしまう。
躁急そうきゅうな仕草で左腕で背を、右手で後頭部をがっちりと押さえられ、一部の隙間などなくぴったりと肉体が重なった。
なまえの身体は彼女よりもずっと大きな張の体躯にすっぽり収まってしまう。
抱き潰されてしまうのではないかと危ぶむ圧迫感、息苦しさに、なまえは思わず苦しげに呻いた。
彼の腕の力は、相手が女の身であるということを失念しているとしか思えなかった。

「あぅ……ん、んぅ……く、ッ」
「っ、ん、悪いな、なまえ……付き合ってくれるか」

口付けの合間に、張が謝罪と懇願を吐息まじりにのたまった。
なまえの下唇を甘く噛みながらの声色には、大して悪びれた様子はない。
――全然悪いと思っていらっしゃらないでしょう。
恨み言は、呼吸すら惜しいとばかりにまたすぐに重なった唇によって案の定音にはならなかった。

なんとなくこうなることはわかっていたもの、となまえは諦めて力を抜いた。
普段饒舌な男の厚い唇が、軽妙な与太のひとつも飛ばさないのがこれほど恐ろしいことだとは、残念ながら小鳥はよく知っていた。
ご機嫌斜めの主が八つ当たりのようになまえの身へふれるのは、幸か不幸か――彼女にとっては幸一択なのは言うまでもないが――、そう珍しいことではなかった。

問題は、このくらいのお怒りレベルの場合、こちらの肉体、あるいは精神が著しく擦り減る目に遭わされることだった。
往々にして翌日は息も絶え絶え、一日ベッドから出られないハメに陥ると、なまえは過去の経験から学んでいた。
勿論、張にふれてもらえるのも、抱いてもらえるのも嬉しい。
しかし如何いかんせん過去に強いられた無体の数々があまりにえげつなかったものだから、どうしてもひるんでしまうのもまた仕方がないことだと思いたかった。

なんにせよ逞しい主の腕に些細な身じろぎすら封じられている現状で、ひたすら口付けを甘受する以外、なまえにできることも、すべきこともありはしない。
明日は予定もお約束もなかったかしら、とあんずる間にも、遠慮も容赦もない男の舌が彼女の舌を絡め取り、ぢゅっと音を立てて吸った。
なまえの喉の奥が、くぅっと引き攣った。

「ん……っ、考え事たぁ、随分余裕そうだな、なまえ」
「そんなこと、ん、んぅ……! は、あぅ」
「遠慮は要らねえってか……は、そりゃなによりだ。ちゃんと最後まで相手になってくれるんだろ?」
「ひぅ……ぇ、えんりょなんて、はぁっ、さいしょから、するおつもり……っんん、く、ぅ……!」

まともに話させて旦那さま! という文句は、勿論声にさせてもらえなかった。

身長差のせいでずっとなまえは上を向いたままだ。
加えて、背と後頭部をがっちりつかまれての口吻は呼吸が苦しかった。
ともすれば咳き込み、むせてしまいそうになる。
そして首がすこぶる痛かった。
大きな手で固定されている後頭部もだ。

もしも張の背後側から見る者がいたなら、大きな身体が覆いかぶさっているせいで、なまえの姿は視認できなかったかもしれない。
あるいは頼りなく揺れる白い爪先くらいは見えただろうか。
逞しい腕に抱えられ、なまえは爪先が浮いてしまいそうだった。
華奢なピンヒールがぐらついた。
しかしながらそんな彼女の辛苦を鑑みて手加減するつもりは、張には毛頭ないらしい。
抵抗する気など元々ないとはいえ、溢れる唾液を嚥下することすらいまのなまえには困難だった。
上を向いたまま、必死にこくこくと喉を鳴らした。

「ふ、ぅ……! っく、だんなさまぁ、ぁ、んんっ……」

なまえの唇を蹂躙する張の苦い舌は「貪る」という言葉が相応なほど激しい。
ぢゅっと音を立てやわらかな舌を吸い上げられると、無防備な咽頭がふるえた。
口蓋の奥、鼓膜や三半規管に近いところで、ぐちゅ、ぢゅるっと卑猥な音がひっきりなしに鳴っていた。
それは肉体の内側で、聴覚から脳髄まで犯されるような喜悦だった。
脳に近いところで感じる悦楽は、彼女の理性を加速度的にだめにしていった。
なまえの口腔は、飼い主によってとうに快楽のための器官となり果てていた。
加虐心を帯びたざらつく舌で上顎をなぞられて背がしなる。
腹の奥がじんわりと熱く、重たくなっていく心地がした。

「ぁう……! ん、く……っ」

苦しい呼吸、そして悦楽により意識が白みそうになった。
意思とは関係なく浮かんでくる涙で視界がぼやけた。

はじめから抵抗するつもりなんて皆無だというのに、呼吸という、生き物として最低限求めてしかるべきもののためなまえがほんのすこしでも身をよじろうものなら、張は気に食わなかったのか、後頭部をつかむ手の力が咎めるように増した。
口付けというより、これはむしろ「捕食」だ。
文字通り食べられてしまいそうだった。
無慈悲に押さえ込まれたまま、憐れななまえは、ぴく、ぴくっと背をわななかせることしかできなかった。
張の黒い上着に爪を立てながら、なまえは折れ崩れてしまいそうになる膝を必死に強張らせていた。

「んンっ! ふ、ぅあ……ぇ、あっ、待って、まってくらさ、ひゃ、ぁッ」

懸命に喉を鳴らしつつ凌辱めいた口吻に耐えていると、いつの間にか白いワンピースの背中のボタンが外されていた。
酸欠のために意識があやふやになっていたせいか、反応が遅れた。
なまえが気付いたときには、拷問じみた拘束がわずかにゆるみ、下に着用していたスリップごと、すとんと床へ落とされていた。
すぐにブラジャーのホックも外され、乱雑に放られた。
剥き出しの白背をなぞられて、ぴくっと肩が揺れた。
背筋を撫でおろした男の手がそのままショーツまで至っていた。
なまえが声をあげる余地もなく、ショーツも呆気なくワンピースたちと同じ道を辿った。

あっという間に着用していたガーターにストッキングだけというあまりに淫靡な格好にさせられており、なまえはびくっと総身が引き攣らせた。
足元に白い布切れが纏わりついてますます動きを制限された。
酸欠のためばかりでない、羞恥によって視界が霞んでいた。
張は未だコートどころか、サングラスすらも外していないというのに――なまえは彼の黒いスーツにしわが寄ってしまうのも構わず、ぎゅっと強く握り締めた。

「〜〜ッん、はぅ……! ぁん、は、だんな、ひゃま……」

最早だるくなってしまった顎が、彼女の意思とは関係なく、ぱかっと開いてしまう。
口の端からだらしなく唾液を垂らしながら、なまえは、はっ、はっと犬のように荒く息を漏らした。

処女でもあるまいし、今更恥ずかしがる必要はない。
そう頭では理解していた。
しかしながら差し当たりひとりたりとも部外者の影はないとはいえ、ここは平素から頻繁に部下たちの出入りする瀟洒な応接室である。
煌々こうこうと明るく、窓の外にはいつものように見事な夜景が広がっていた。
この状況で一糸纏わぬ姿では――否、ガーターとストッキングだけは身に着けているとはいえ――さしもの金糸雀カナリアといえど羞恥を覚えるなという方が無理だろう。
主人を送り届けたときの部下の様子を鑑みて、ひと払いはしっかりされていると信じたいが、いつそこの扉が開くやもと不安に思うのも無理からぬことだった。
とはいえそう訴えて、大人しく聞き入れてもらえるかどうか。
限りなく成算は低い。

「っ、――なに考えてる?」

ようやく唇を離した張が、濡れた声で囁いた。
厚い唇は互いの唾液でてらてらと光っている。
かすれつつも語尾に情欲の余韻を纏わせた声音は、女の背にぞくぞくっと痺れのようなものを感じさせた。
男の逞しい腕に支えられていなかったなら、自らの服や下着の散乱する床へ同じように崩れ落ちてしまっていたに違いない。

「は、あぅ……ん、――あ、あの、ここれは……っあ、ぅ……はずかひく、て……」

痺れてしまうほど吸われた舌がもつれた。
明日には唇が腫れてしまうかもしれない。
しかし呂律が回らぬ口唇のみっともなさなど、介意している余裕はなかった。
張の胸へ手を当て、なまえはやおら上体を離した。
涙で崩れた焦点にも構わず恐る恐る飼い主を見上げたが、しかしすぐに彼女は後悔することになった。

「はは、なまえ、そう煽るなよ。――酷くしてやりたくなるだろ?」

引き絞るようにして漏れた、くっと唸るような笑い声――いや、それは本当に笑い声だったのだろうか?
夜を反射したサングラスのせいで、あるいは潤んだ視界のせいで、張がどんな表情をしているのかなまえにはわからなかった。
しかし他でもない張維新チャンウァイサンの声が、なまえを蹂躙した。

声などただの音だ。
にもかかわらず、張の声はなまえにとって毒のようなものだった――恐ろしく甘く、溺れるほど苛辣からつな。
この男が感情を声に表すのは稀だった。
まるで音によって肌を撫でられているかのような錯覚に、反射的になまえの下肢がふるえた。

離れたことを戒めるように強く右腕を握り引かれる。
骨が軋むほどの力によって再び腕のなかへ囲い込まれながら、なまえははじめと同じことを思った。
これはまずい、と。

下肢のふるえを指摘するように、ところどころ皮膚の硬くなった男の指が、肉付きの良い太腿をなぞった。
ガーターの紐と肌の隙間に指が入り込み、爪を立てられた。
やおらやわらかな腿を引っ掻かれて、快楽に弱い女は痛みと陶酔に吐息を荒く漏らした。

肺腑の冷えるような憤懣。
我が物顔でふれる傍若無人なてのひら。
異を唱える口は塞ぐ他ないとばかりに、また重ねられた唇。
いま手中に収めているにもかかわらず、どこか切迫感、焦燥の感じられる、主らしからぬ性急さ。

「――なまえ、」

まるですがるような声音で、自分の名を舌に乗せられてしまえば、もう。

叶うなら「ずるいひと!」となじってやりたい気分だった。
元より主の意に沿わないことなどしおおせるはずもなかったが、そんな声と表情をされてしまえば、すべてを受け入れたくなってしまう。
なまえは耐えがたい恥じらいよりも男を抱き締めることを優先して、両手を広げた。
先程強く握られた右腕は、既に指の形に赤く色を変えていた。

たとえば黒煙草ジタンを吸う所作だったり、愛銃の引き金を引く指先だったり――「嗜好品」にふれる主の手はいつだって繊細だった。
しかしながら必要なパフォーマンスや示威行動による結果、あるいは稀に腹立ちまぎれに握り潰される煙草や、八つ当たり気味に扱われ、欠け、割れた酒器グラスといったものたちも過去には存在していて、そういった残骸を片付けている間、なまえが感じているのは大抵、嫉妬の念だった。

張維新チャンウァイサンの感情の発露はなんであれ、なまえにとって喜びだった。
それが情欲であれ、憤懣であれ、彼の持つ情性じょうせいすべてがあらまほしい。
心密かに、そういった情動をぶつけられる無機物を妬んでいるのだと知れば、彼は呆れるだろうか、笑うだろうか。

煙草や酒器グラス、なかんずく他のイロに奪われるくらいならば、すべてわたしへぶつけてほしい。
なまえの愚かな我欲だ。
あるいは、ただの愛玩物ペットの分際でおこがましい欲望なのかもしれない。
しかし、張維新チャンウァイサンの所有物だからこそ・・・・・、そのなかで彼女は一等誇り高く、欲深かった。
これほど余裕のない主の珍しい姿を他の存在にくれてなどやるものか、と。

「だんなさま……」

なまえは張の広い背へ腕を回して、甘やかすように、許すように、そっと撫でた。
すべてぶつけてほしかった。
この白い手は、ただ主を癒すためだけにあるのだから。






「――ほら、指が止まってるぞ、なまえ」

とはいえこんなことまで了承した覚えはない! となまえはぐちゃぐちゃになった頭で考えた。
潤んだ瞳からまた、ぼろっと大粒の涙がこぼれた。

いつものように悠然とソファにかけた張の真正面で、なまえは行儀悪くもローテーブルの上に座っていた――膝をM字に曲げ、足を大きく開いた、あまりにも卑猥すぎる姿勢でだ。
宵に相応しく少々明度を落としているとはいえ、完璧な調度品たちに囲まれた瀟洒な居室は、相変わらず恨めしくなるほど明るかった。
オーバーニーのストッキングとガーターベルト、スティレットヒールもとうに剥かれ、平生、慎み深く隠されたなまえの素肌はすべて・・・主の眼前にさらされていた。

「っ、う……こんな、格好っ……」

もうやだ、と力なくなまえは細首を振った。
両の手はおのれの下腹部に伸ばされていた。
彼女は自分の指で、すくなくとももう二度は達していた。

とうにほころびきった肉の花弁はもの欲しげにくぱりと開ききっている。
失禁でもしてしまったのかと見まがうほど彼女のそこ・・はたっぷり濡れそぼり、溢れた蜜液は尻たぶを伝い落ちてテーブルを汚していた。

大きく開いた内腿が、ひくっとわなないた。
なまえはうつむき、ふるえる指先を思わず握り締めた。
しかししとどに濡れた指のせいで、ぬるっとてのひらがすべり、また泣きたくなってしまう。
勝手にまた目の奥が熱くなる。
漏れる啜り泣きを堪えようと喉が痛んだ。

なまえは視姦されながらの淫らなひとりあそびを強要されていた。
今回は肉体を酷使されるのではなく、精神が擦り減らされるパターンだったか、と理性の片鱗が呻いたが、そんな現実逃避まがいの思考は、頭のなかが沸騰しそうな羞恥と興奮でぐちゃぐちゃに崩れた。

「うぅ……ひ、っく、」

快楽をいとうわけではない。
しかしそれはふれてくれるのが、快楽を与えてくれるのが、張維新チャンウァイサンという男だからであって、なまえがひとりだけで気持ち良くなるのも、この世で唯一、崇め、跪き、慕う彼相手に自らこのような痴態をさらすのも、彼女にとってひどい辱めだった。
飼い主にめいじられたからこそなんとか懸命に堪えているものの、なまえ自身はこんな信じられないほど下品な真似なんてしたくはなかった。

なまえの背後には、大きなガラス窓が床から天井までを覆っている。
その向こうでは、一日のうち最も繁華を迎えた魔都の眺望が広がっていた。
きっと眩耀げんようの夜景と相まって、張からは一幅の絵のように見えていることだろう。

一糸纏わぬ姿のなまえとは対照的に、そのさまをつぶさに観賞している男は、上着こそ脱いでソファの背へ放っていたものの、やはり衣服に乱れなど見当たらなかった。
きっちりと撫でつけられた黒髪は勿論、サングラスも帰投したときとなんら変わりない。
口には煙草、手には酒の注がれたオールド・ファッションド・グラスが収まっていた。
右足はテーブルに乗せ、なまえの左のくるぶしの上辺りを靴底で軽く押さえつけている。
先程彼女が言いつけを破り、足を閉じてしまったのを咎めたためだ。

張と自分のありさまの落差にすら熱が回って、なまえはくらくらと目眩を覚えた。
自慰にふけ愛玩物ペット賞翫しょうがんするさまは、なるほど「飼い主」と称するに相応しい。

「なまえ? 俺に・・二度も言わせるほど悪い子だったかな、お前は」

不自然なほどやわらかい語調に、金糸雀カナリアのプライドが咄嗟に「違う」と口走りそうになったが、主人の言う通りであることを遅れて自覚した。
ひととしての尊厳すら凌辱されるような羞恥に、なまえは耐えがたいとばかりに目を伏せた。

眼差しにも、色が、熱が、拘束力があるということを知る。
黒い目がわたしを見ている。
――見られている。
紅潮した肢体すべてに、這うように視線が絡んだ。
視線によって肌をねっとりとくすぐられている心地さえした。
全身が脱力感、重怠い余韻に覆われていた。
にもかかわらず神経は鋭敏になるばかりで、与えられる刺激――視線すらをも快感と錯覚してしまう。
サングラス越しの無慈悲な眼光に、なまえはただ身をふるわせることしかできなかった。

「……も、もう、ゆるして……ぁぅ、だんなさま……」

伏せた目蓋を重たげに上げた。
恐る恐る張を見上げれば、また、ぼろっと涙が落ちた。
だんなさま、とろくに呂律の回らぬ舌で懇願したが、彼女への返答はあまりに酷薄なものだった。

「ひッ……!」

ばしゃっと水音が高く鳴り、あたかも電気でも流されたかのように、なまえの総身がびくっと引き攣った。
火照っていた身体へ突如冷たい液体を浴びせられた。
一拍遅れて、頭から酒をかけられたのだと理解した。

氷が浮いていた酒は冷え切っており、一瞬にして全身に鳥肌がぶわりと浮いた。
気化熱により更に体温が奪われ、アルコールが目や鼻腔に沁みて、なまえは思わず咳き込んだ。
度数の高い酒により氷の角は溶けていたが、それでもぶつかればそれなりに痛む。

張が手にしている、グラスを満たしていた琥珀色はきれいに空になっていた。
呆然と身をすくませたなまえの顎の先から、わずかに色付いた水滴が、ぽたぽたっと伝い落ちた。
グラスに注がれていたのはワンショット程度だったが、溶けた氷によって彼女をずぶ濡れにするのに十分なくらいには分量を増していた。

「っ、……ふ、ぅう……」

ただでさえ羞恥と快楽で酩酊していた意識が、強いアルコール臭によってますます煮崩れていった。
元来それほど耐性のない彼女は、おのれの身から立ち上るむせ返るような薫香にぐらぐらと目眩を覚えた。

いまのなまえはテーブルに饗された憐れな供物のようだ。
酷いありさまの女を悠々閑々観賞していた張が、やおら首を傾げてみせた。
平生となんら変わらぬ鷹揚な様子でソファに腰掛け、空になったグラスを指先でもてあそびながら嘯いた。

「“許して”? お前はなんにも悪いことはしちゃいねえだろ、なまえ? ――ああ、テーブルに水溜まりを作った罰は、しっかり受けてもらうつもりだから気にするな」

男の声音は穏やかで、静かで、まるで状況が状況ならば眠りに就く際の寝物語を囁くように、やさしい。
なまえはぞっと肌を粟立たせた。

謝罪に意味などないと知っていた。
しかし怯え、屈服した口は、勝手に「ごめんなさい」と吐いてしまいそうになった。
張に逆らうなんぞ、なまえにとって考えるのすら愚行と呼べるものだったが、悪いことをして叱られる、なるほどそれなら納得もしよう。
しかし理不尽な命令に素直に従わなかった罰が、更なる罰を生むなんて、到底受け入れがたかった。

怯えた表情をまざまざと浮かべるなまえが余程お気に召したのか。
葉巻とまがうほど香り高い黒煙草ジタンくゆらしながら、観賞する男の丸い双眸が愉しげにたわんだ。
なまえの喉がひっと引き攣った。
まだ、この淫らなひとりあそびを終わりにして良いとは言われていない。

「っ、うぅ……」

なまえは唇を噛み、潤んだそこへまた指を這わせた。
元々これ以上ないというほどぐっしょり濡れていた秘裂は、滴り落ちる酒のせいで更に水浸しになっていた。

「んっ、あ……ッ、」

薄紅色の肉びらを指先で割り開く。
途端に、くちゅっと粘性を帯びた水音が響いた――耳を覆ってしまいたくなるほど、淫靡な音だった。
しかしいま両手は塞がっていた。
とうにほぐれて粘液を垂らし続ける膣口と、痛いほどに張りつめ勃起した秘豆を嬲るのに忙しい。

それぞれ両手で掻き回し、擦り、摘まむ。
はしたなく口を開いた媚肉へ指を埋めれば、滴る酒までナカへ入り込んでしまい、アルコールの冷たさに、きゅうっと胎の奥が収斂した。
熱い蜜液と違う液体の感触のせいでびくびくと膝が揺れた。
とりわけ酒に塗れた指の腹で、赤く膨らんだ肉芽をね回すたび、はしたない嬌声を堪えられなくなってしまう。
まるで神経の塊のような突起は、指先でくすぐるだけで爆ぜるような愉悦を生じさせた。

「はぁっ、ぁあ……っふ、だんなさまぁっ……! そんな、みないれぇ、っあ、あぁっ」

無意味な懇願を口にするが、その間にも、興奮に包皮から顔を出している淫核を擦る指は止まらない。
じゅくじゅくに熟れた花唇をゆるゆる上下にスライドさせれば、腰が浮くほど感じてしまう。
浴びせられた冷感に身をすくませていたにもかかわらず、紅潮した肉体はますます異様な昂りを覚え始めていた。

――こんなに大きく脚を開いて、自分で自分を慰めているいまのわたしを、飼い主はどうお思いなの。
脳裏にそうよぎれば、ますます身体中が火照り、口からはみだりがましい嬌声ばかり溢れた。
愚かにも自意識に追い詰められた彼女は、現実から逃げるようにぬかるむ秘園を掻き乱す行為にますます没頭してしまう。

こんなこと、いますぐやめて逃げ出してしまいたい。
そう望んでいることは嘘ではないのに、身体の奥からは次から次に蜜が溢れ、くちゅくちゅっといやらしい音は、他でもない自分自身が生み出している。
すがるように目線を上げれば、張は凝然と煙草をくゆらしながら、なまえの媚態を眺めている。
可憐な桃色の唇をなまえは噛み締めた。
唇は酒の味がした。
強要された自慰にふけっていると、彼に支配されているという自覚が否応がなしに高まってしまう。
その思いがますます被虐の悦びを掻き立てた。
自分の意思など塗り潰され、なまえという人格すべてを犯されていく錯覚、倒錯すら、堪らない喜悦になる。
かくあれかしと躾けられた女の身体は、隷従感にすら炙られるような法悦を覚えた。
憐れなほど涙の溢れる瞳は、しかし爛れた悦びに耽溺しているのを隠そうともしない。
- ナノ -