「フォン、あなた、いまのお部屋はもう慣れた?」
「そうね。ミスタ・ロニーのとこが世話してくれたんだけど、悪くはないわ。……ま、ここで最初に宛がわれたあの部屋・・・・に比べたら、大抵のとこは五つ星のスイートに感じられるでしょうけど。二階下に住んでる嗜酒者アル中がたまに間違えてドアを殴ってくるのを除けば、なかなか快適よ。そのうち階段から落ちやしないか、そっちの方が心配なくらい」
「あらあら、それはびっくりしちゃう……」

注意喚起や無事を祈る文言が、傍らで舞う土埃より軽い土地柄においては詮無いことではあったが、なまえは眉を下げて笑った――「どうか気を付けてね。アルコールにとても強いあなたに言うことではないけれど」。
ストローに移ったルージュを、指の腹でそっとぬぐった。
グラスに詰め込まれた氷が、からりと涼しげな音を立てて崩れた。

名うての魔窟ロアナプラといえど、どの組織にも属していない店や人間というものは数多く存在する。
シマとシマの微妙な境界だったり、過去のいさかいにより恩と仇、利害と損得の絡み合う人間がかかずらっていたりと、理由は多岐に渡るが――とまれ彼女たちが気兼ねなく「お茶会」に興じるとなると、選択肢が狭まってしまうのは事実だ。
なにしろ「三合会の金糸雀カナリア」と「コーサ・ノストラの主計係」――そろそろ茶飲み友達のお歴々の物騒さが際立ってくるところだが、この街で穏和な・・・面々をリストアップしろという方が無理難題というものだ。
そんな限られた選択肢のひとつ、テラス席とは名ばかりの、街路に面した狭苦しい喫茶店の露台は、なまえとフォンたち以外の人間はいなかった。
すこし離れたところでたむろしている、喪服じみた黒服を着為きなした人相の悪い男二名に目をつぶれば、おおよそ牧歌的な昼下がりといえた。
店内からこぼれてくる冷房の容赦ない強風が、表に陣取った彼女たちへ程良く届いている。

また一口アイスティーを嚥下したなまえを、フォンは頬杖をついたまま眺めた。
メニューの選択に際して「わたしに気にせず注文してちょうだいね」と苦笑する意を問えば、金糸雀カナリアは酒が飲めないというのだから、珍しくフォンもアルコール抜きの閑談に興じていた。
汗をかいたグラスを指先で突っつきながら、形良い唇が、にっと吊り上がった。

「なまえ、あなたこそあのとき大丈夫だったの? 私も聞いたわよ――あなたの“飼い主”のこと」
「ふふ。わたしのご主人さまは、わたしの交友関係にまでお口をお出しになるような狭量な方ではないの。ほんとうにね、素敵な方なんだから」
「なあに、今日のトピックはあなたのノロケ話ってわけ? そもそも私が聞いていいの? それ」
「あら、ぴったりではなくて? こんなのんびりしたお昼には――」

頬を染めるさまはさながら初恋を打ち明ける少女だ。
くすぐったそうに微笑みながらなまえが言いかけたところで、ふいに口をつぐんだ。
丸い目が「あら、」とぱちぱちまばたきした。

「なに、なまえ――」

なまえの視線を追い、次いでフォンも「あ、」と口をあんぐり開けた。
彼女たちの続く言葉を奪った犯人の正体を認めてひくりと頬を引き攣らせた。

折しもあれ、露台に座っていた彼女たちの真横へ一台の高級車が乗りつけた。
威圧感たっぷりのスモークガラスが下りたかと思えば、端無く現れた面様おもようは皮肉っぽく歪んでいるのだから堪らない。

「――おい中国女。ンなとこでアフタヌーンティーたァ、随分いいご身分だな? 仕事の話だ、さっさとオフィスに出てこい。……と、言いたいとこだったんだが――相伴のご紹介如何いかんによっちゃあ、ここでクビ・・をすっ飛ばす宣告で済ました方がお互い手がかからねェかもしれねえ。なァ、そう思うだろ?」

後部座席におわしていた闖入者は、本来「マフィア」と呼ばれるべき唯一の組織――ウオーモ・ドノーレたる、フォンの“現”上司だった。
驚く彼女たちが口を開くよりも先に、「ロニー・ザ・ジョーズ」の剣呑な弧を描いた唇が、これまた物騒な口上を述べた。
彼に限ったことではないが、この街でのこういった不吉な舌端ぜったんはえてして陳腐な脅迫ではなく、ただの「通告」になりかねないのがまた一髪千鈞いっぱつせんきんな事態だった。

熱帯の半島におけるシチリアマフィア頭領の登場に、周囲の黒服たちが騒然となる。
なきだに逍遥しょうようには向かぬ時候、彼らの大姐――「三合会の金糸雀カナリア」と、シチリアの十人頭領カポデチーナ、悪名高き「ロニー・ザ・ジョーズ」が相対するなど、浮足立つな、色めき立つなという方が土台無理な話だ。
当の小鳥が素ばやく目線をはしらせて制止しなければ、懐へ片手を突っ込んでいたに違いない。
無言で部下たちを制した女主人は席を立つと、中途半端に開いた車窓越しに「ご挨拶させていただけますか、ミスター?」と礼儀の教範に記載されていそうな折り目正しい仕草で礼を執った。

「はじめまして、なまえと申します。どうかお気を悪くなさらないでください。彼女とはすこしおしゃべりしていただけなんです」

毒にも薬にもならないような、と抑制の利いた声音で微笑むなまえに、ロニーは片頬を歪めて笑みのようなものを返してやった。
三日月の形に割れた口から、歯列矯正器具がぎらりと覗いた。
軽薄な口ぶりは値踏みする声色を隠さない。

「あんたが“金糸雀カナリア”ってェやつか。ふん、御大層な名前だな」
ええSi, スィニョーレsignore.
お噂はかねがね伺っておりましたがPer sentito dire ho udito di te,
お初にお目にかかりますma è un grande onore poterla conoscere.

おっとりと綴られた伊語に、今度は男の方が目をまじろがせた。

「……こりゃあ驚いた。まさかクソ忌々しい東南アジアの奥地で、トゥッリタの言葉を聞くことになるなんざ思いもしなかった――発音も悪くねえ。鼻が曲がりそうなほど、言い回しが古臭くて仕方ねェのを抜きにしたらな」
「ふふ、それに関してはお目こぼしを。古いテキストしか持ち合わせていませんでした」

それともあなたが教えてくださいますか   Oppure può insegnare a me ?   、と恭しく女が小首を傾げた。
さらりと黒髪が揺れて白百合の香りがかすかに漂う。
握れば折れてしまいそうな華奢な体を一瞥した男は、ふんと傲慢に口の端を片方吊り上げた。

「そうあれこれ囀ってくれるなよ。飼い主の“許可”ってえやつが必要なんだろうが、お前は。堅っ苦しいご挨拶に免じてここは大人しく引き上げてやるから、そっちもせいぜい飲んだくれのロシア女で満足しとくんだな」
「ああ、そうでした……困りましたね。“許可”が出ると良いのですが。いつかお国でオペラを観劇するのを夢見ていましたのに。――それでは、いずれ機会がありましたら」

残念そうに目を伏せた女を認め、面長の顔を至極物騒なあだ名に相応しい笑みの形に歪めると、ロニーは運転手へ向け「出せ」とことすくなに命じた。
累卵るいらんの危うき事態は去って行ったが、最後に、凝然と黙したままのフォンへ「てめえはさっさと戻れよ」と念を押すのは忘れなかった。

車が離れ去るや否や、なまえはすとんと椅子へ腰を下ろした。
溜め息と共にこぼれたのは「ふう、緊張した」というぼやきだった。

「……こっちのセリフよ、なまえ。折角生き延びたっていうのに、寿命が縮むかと思ったわ。あなたまさか、あの男と渡り合おうとするなんて……。普通語・・・もしゃべれるみたいだし、どれだけ手広くやってるのか、尋ねるのも怖いくらい。――それにしても、招待文の文句は虚偽じゃない? “のどかな昼下がりをご一緒しない?”だったっけ、今日の誘い」
「挨拶しただけなんだから、そう目くじらを立てないで。そんなおっかない考えなんてなくてよ。だいたい、あの方をお呼びしたのはわたしじゃなくてあなたでしょう、フォン。それに、」

言葉はわかった方がなにかと便利でしょ、となまえはこっそりと秘密を打ち明けるように目を細めた。
諸国の犯罪組織が竜蟠虎踞りゅうばんこきょする狭い街ロアナプラに辿り着いて日の浅いフォンといえど、「三合会の金糸雀カナリア」のことはとうに知り及んでいた。
一見して邪気のない清らかな笑みに、GSDの“元”士官も「そりゃあそうでしょうけど。ここ・・では特にね」と苦いものを含みつつ唇をほころばせた。

「さすがに、あれ以上お付き合いするのは寿命が縮んでしまいそうだけれど……。フォン、あなたもロックも、よく取り引きなんてできたものね」

先日の騒動を指してなまえがしみじみと嘆じてみせた。
褒められたのか微妙なラインの賛辞を受けた当人は、浮かべた微苦笑をそのままに立ち上がると、干したグラスの横へ紙幣を置いた。

「あのときは他に選択肢なんてなかったもの」
「それにしても、よ。……ふふ、わざわざ足を運んでくださるなんておやさしいのね?」
「そんなわけないでしょ。仕事のついでに通りがかったとか、どうせそんなとこよ。もうひとつついでに、この暑さだもの、乗せてってくれたら楽だったのに」
「そう? あなた、あのままあのお車でご一緒したかった?」
「……やっぱりいまのはナシで。どこかで足を拾うわ」

肩をすくめたフォンは、苦笑まじりに「それじゃあ、なまえ」と片手を挙げた。
なまえもやわらかく微笑んだ。

「お仕事がんばって。またね、フォン」


(2020.03.09)
(2022.05.20 改題、加筆修正)
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