4
「レヴィは無事なのね? あなたやフォンも大過なく……ああ、やっと安心できた。警察署どころか、二ブロック周辺までとっても騒がしくて心細く思っていたの。あなたたちの無事を聞けて嬉しいわ。“ 四重奏 ”も、……そう。残った“四人目”を除けばいまのところ最適解ではなくて? ふふ、さすがの手腕ね、ロック。――これからあなたたち三人で、“ヴィスコンティ・フード・サーヴィス”へ向かうの?」
奥床しげな語調でなまえが問うた。
昼下がりのジャックポット・ピジョンズの更衣、化粧室は、開店時間までまだ遠いとあって彼女以外の者の影はなく、平生の耳を聾する喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っていた。
品の良い所作で足を組みながら、ひとりのんびりと「気を付けてね、ロック」と微笑んだ。
一呼吸分だけのわずかな逡巡の後、電話の向こうで、ロックが躊躇いがちに口を開く気配がした。
「なまえさん。あんたは……来ないんでしょうね」
「ふふ、そうね。付添いを引き連れた金糸雀がいては、進む話も進まない……というより、口火より先に火蓋を切ってしまいかねないと思わなくて?」
くすぐるような笑み混じりの女の言葉に、ロックは通話相手が視認できるわけがないと理解しつつも「そりゃそうだ」と肩をすくめてみせた。
携帯電話を耳に当てたまま、車窓からロアナプラの街並みを眺めた。
大通りに入りスピードを上げた車は、建物の輪郭一つ一つを識別できないほどに溶かし、汚れた窓枠の外へ足早に押しやっていく。
拘置所から出たばかりのレヴィと、電子の海からデータを引き上げてみせたフォンと共に、ロニー・ザ・ジョーズのオフィスへ向かう途上のことだった。
ロックが持っていた携帯電話が、ゆくりなく見計らったように鳴った。
なまえからの連絡を伝える着信音だった。
この騒動で、否、この街で起こった彼の知るすべての乱痴気騒ぎにおいてずっとそうだったように、彼らと連れ立って金糸雀が表舞台に立つことはないだろう。
――そりゃそうだ。
再度ロックは口の中だけで繰り返した。
然なきだに逍遥には向かぬ此岸、小鳥が出歩くとなれば護衛が付かないはずがない。
三合会の黒服がイタリア人のオフィスへ足を踏み入れるなんぞ烏滸の沙汰どころの話ではなく、なまえの言う通り、これ以上紛擾の「火種」など勘弁被りたいところだった。
熱気のピークをそこかしこに残す下午、濃い影を落とす気怠げな街並みを気のない眼差しでなぞっていたロックは、電話口の女が「それに、飼い主のお耳に入ったらと思うと怖くて」と苦笑と共に付け加えるのを、どこか他人事のように聞いていた。
「最後の博打ね、ミスター・ギャンブラー。楽しんでいらっしゃって」
塔の上で鳥瞰しているときとなんら変わらない安穏、やわらかな声音で女が笑った。
ロックは口の端で燻らしていた煙草を億劫そうに車窓から投げ捨てた。
「……あんたが言うと気が滅入る」
「ふふ、お疲れなのかしら。自分の身も労ってあげて。……ああ、そうそう、もしミスター・ロナルドがお話を聞いてくださらないときはね、ロック。わたしの名前を出してごらんなさい。きっと、悪いようにはならないでしょうから」
「……あんた、“ロニー・ザ・ジョーズ”となにかあったのか」
ロックは舌に残るマイルドセブンの味に、ドープじみた苦いものが混じるのを感じた。
そもそもなまえと――否、香港三合会とコーサ・ノストラの関わりなど、寝耳に水だった。
悪党共が微妙な均衡を保ち、共存共栄の楽土としているこの悪虐の都において、ことしもあれ、その勢力版図を大きく占めるところの二点がなんらかの連関を持つなど、耳をそばだてざるをえまい?
ただでさえそのうちのひとつは今回の件にすくなからず絡む――然らしめたのはロック当人だったが――「三合会の金糸雀」が、どこまで把握していてこのゲームに参加したのか。
ロックは上辺だけでも無関心を装ったが、それは幾分骨の折れる作業だった。
声色へ懐疑の念を滲ませる彼に、我関せず焉、女は涼しげな声で囀った。
「いいえ、心配しないで。今回の件にもフォンにもちっとも関係ないの。わたしは直接お会いしたこともなくてよ。ただ、以前すこしね、アルバニア人のことで
手綱が緩んでいらっしゃらないか、助勢したことがあって。もちろんわたしではなくて、正しくは旦那さまが、だけれど。――“借り”というものがお嫌いな方々でしょう? ほんの些細とはいえ、“金糸雀が嘴を突っ込んでいる”とお聞きになれば、穏便にお耳を貸してくださるかもしれないわ。……ふふ、教えてあげるのはあなただけよ、ロック。他のひとには内緒なんだから」
「……どうも。せいぜい心に留めておくさ、なまえさん」
どこか呆れたような響きを孕んだ男の声が「それじゃまた後で」と吐き出した。
能事足れりと、やおらなまえは細指で通話終了のボタンを押した。
化粧品のボトルやブラシたちに並んで置かれたフリップ時計がパタッとめくれ、経時のさまを認めた小鳥は焦がれるように目を細めた。
5
銃声と、叫喚と、ガラスの破砕する高い音が鳴り渡った。
地へ伏せる前に彼我の境を越えていた死人は、テーブルを巻き込み、外れかけた蝶番を彷彿とさせる不快な音を立ててどうと倒れた。
逃げ惑う観客たちが蹴り飛ばしたスツールやグラス等が散乱する床に、死体がひとつ加わった。
「兎も角――ひとまずはこれで一件落着だ。そうだな?」
焦慮に歪んでいた眉を開きつつ、ロックが仰ぐように片手を上げた。
死体を囲んだ四人は、「 四重奏 」最後のひとりを見下ろした。
「そう、“バンジョー抱えてアラバマまで、いつかお手紙頂戴な”だ。にしても――似てるか? こいつ」
三発の銃弾と引き換えに死人を一体つくり出したレヴィは、転がる頭をサイハイブーツの爪先で足蹴にした。
関係者に化けることによって対象を殺すとは知り及んでいたものの、まさかラグーンの二挺拳銃に化けるとは、当のレヴィといえど予想だにしていなかった。
あるいは兄たちを殺した彼女への意趣返しの意もあったのかもしれない。
ごろっと向けられた顔を見やり、フォンが「暗いとこで見てる分には」と薄い肩をすくめてみせた。
死者の指は、失われたなにかをつかもうとしているかのように険しく曲がっていた。
「みんな、怪我もなくて良かったわ。わたしも安心して鳥籠へ戻れるもの……こんな時間だけれど」
「夜遊びが過ぎンじゃねぇの、なまえ。旦那に小言くらっても知んねーぞ」
「そこなのよね、問題は……」
浮巣鳥の囀りに、レヴィが大仰に顔をしかめた。
なげやりな目線でなまえを睨めつけた。
「そりゃお前だけの問題だ。あたしらには関係ねェ。はン、火の粉でも飛ばしてみろ、このバラ鞭でエミュシラの代わりにご丁寧にシバいてやッからな」
「まあ、怖い」
なまえがくすくす笑う。
あどけない笑みは牧歌的なものだった――冷たくなりつつある死体がその足元に転がってさえいなければ。
笑う小鳥をねじくれた表情で見やりつつ、レヴィは未だ状況を理解できていないエミュシラの拘束と目隠しを解いてやっていった。
エミュシラもまさかショーの真っ最中、目隠しをされている間に劇場はもぬけの殻で、代わりに死体が増えていたとなれば困惑の極みに陥るのも無理はない。
何事かと混乱しきりのエミュシラを伴って、レヴィはブーツの靴音高く楽屋へ引っ込んでいった。
「……あなたにも、世話になったわね」
のんびりと「お迎えを呼んでもう帰ろうかな」と呟いていたなまえを、フォンは顧みた。
出会ってほんの数日の浅い交わりといえど、憑き物が落ちたようなフォンの面差しに、なまえは穏やかに頭を振った。
「わたしは特になにもしていなくてよ」
「晴れて“元”職場と手を切って……とりあえず生き延びたのよ。なんにでも、それこそこのストリップバーにすら感謝の祈りを捧げたい気分だわ」
笑いながら肩をすくめたフォンは、なまえの目を真正面から見つめた。
あなたの差し引きはどこだったの、と。
問うのは、殊の外凪いだ眼差しだった。
太縁の眼鏡の奥で光る寧静な双眸に見つめられ、なまえはゆるやかに唇へ弧を刷いた。
「ミス・フォン。わたしね……普段、あまり外を出歩けないの」
今回は例外、と苦笑した。
「外出と、お友達との会話が息抜きなの。……あなたさえ良ければ、たまにおしゃべりしてくださる?」
勿論「新しい職場」に関する質問はしないわ、と誓うような禁欲的ななまえが声音で囀った。
「おしゃべりって、そんなこと? 今更、わざわざ改まって頼まなくたって――」
「ちょっと待ってくれ、なまえさん、それはまた別の厄介があるんじゃないか」
なまえの「頼み」を即座に首肯しようとしたフォンを見かねて、眉をややひそめたロックが口を挟んだ。
アルバニアとイタリアの絡んだ洗浄済み資金を見事ヨーロッパ貿易商業銀行から引き上げてみせたフォンは、今後、「アリ・ドラグア」の資金洗浄における分別や 統合 といった、重要な段階を担うことになるだろう。
とはいえロアナプラへ辿り着いてからまだ日の浅いフォンは、街の勢力版図をよく呑み込めていない。
「愛想良くすることによって物事が上手く転ぶならばそうすべき」「私はそれが不得意なタイプじゃない」と自認し、行間や場の空気を汲み取るのに長けた元諜報員ならば、ロアナプラで上手く立ち回るのは自今以後そう難しいことではあるまい。
しかしながら理非の区別もなく人命が鉛弾よりも軽いこの暴虐の街において、「三合会の金糸雀」と「コーサ・ノストラの新しい洗浄係」が懇意にするというのは、彼でなくとも差し出口を叩きたくなるのも道理である。
ロックの懸念は至極当然のものだったが、当のフォンによって制された。
意思の強さを感じさせる精彩を放つ目で、フォンはなまえへ右手を差し出した。
「いいわ、私は構わない。むしろこっちからお願いしたいくらいよ。――ところで、まだちゃんと挨拶してなかったわね。私は馮亦菲、本名の李欣林でも構わないわ」
凛然たる返答を受け、この上なく嬉しそうになまえは相好を崩した。
やわらかな微笑を浮かべたまま「慣れてしまったものだから」と前置きした。
「改めまして、フォン。わたしのことはなまえと呼んで。――どうか許してね、握手はできないの」
6
昼下がりの青雲はあたかも遠近感が狂わせようとするかのように晴れ渡り、見上げていると盲になってしまいそうだった。
澄んだ群青を背景に、強風に煽られた黒い裾が夜の如く翻った。
白いマフラーが輪郭に添い、彼の威容をそれはそれはうつくしく彩った。
その立ち姿ひとつすら画になる伊達男――張維新をヘリポートにて待ち設けていたのは、喪服めいたお仕着せの黒服たちと、ひとりの白い女だった。
「お帰りなさいませ、旦那さま!」
タラップを降りる張へ、万緑叢中一点紅、黒服たちを伴ったなまえは恭しく頭を垂れた。
剽げた声音で「良い子にしてたか?」と問う飼い主に、なまえははためくワンピースの白裾を押さえながら「ええ、もちろん」と頷いた。
「――大哥、すみません。こちらに目を通していただきたく」
「ん、ああ……市警の件か」
「はい。中央の規律部に関するものです」
ただでさえ深空の下で、照りつける陽光に負けず劣らず晴れやかな笑みの小鳥は、飼い主以外なにも目に入らない様子だった。
邪魔するつもりもあらばこそ、両人の間へ割って入る身の置きどころがない心地に強面をいささか強張らせながら、黒服のひとりが書類を差し出した。
張は気にした素ぶりもなく、歩みを止めぬまま部下へ指示を出しつつ、ちらりと傍らの飼い鳥へ視線を落とした。
斜め後ろを大人しく追従するなまえはどこか落ち着きなくそわそわしていた。
やわらかそうな桃色の唇は口にしたものか否か悩むように、むにむにとたわめられている。
彼女の様子を見かねた飼い主は、呆れ顔で「ん、」と片腕を広げてやった。
「ほら、なまえ」
「っ、だんなさま!」
華奢なヒールは迷わず地面を叩き、平生よりすこしく淑やかさを欠いた挙措で、なまえは張の腕のなかへ飛び込んだ。
主の身にふれることのできる感動に胸を喘がせすらしながら、男の胸元へ顔をうずめた。
数日ぶりの主の声音、感触、香り、温度になまえは熱っぽく、はっと息をついた。
久しぶりに呼吸ができる――言葉以上に雄弁な為様だった。
左腕でなまえの腰を抱き、右手で部下の差し出した書類を繰っていた張は、ある程度目途が立ったか、彼女を伴ったまま涼しい顔で車へ乗り込んだ。
車中にあっても、相変わらずなまえは主人の身から離れたがらなかった。
平生なら苦言のひとつでも呈してやろうかというところだったが、なにせ「留守番」を言いつけたときもこのありさまだったのだ。
余儀ないことと飼い鳥の好きなようにさせていた張は、おもむろに「それで、」と口を開いた。
「俺が不在の間、なにか変わったことは?」
サングラス越しに見下ろされ、なまえは甘ったるい笑みのまま首を振った。
「んー……ふふ、いいえ、なにも。なまえも大人しく孤閨を守っておりましてよ」
愛らしく笑ってみせた女に、一体どれくらいの人間が違和感を抱けただろうか。
とはいえ相手が悪かった――いいや、良かったのか。
なまえのただひとりの全き主、張維新はなにかしら察するところがあったらしい。
意味ありげに片眉を上げた。
無言のままに白状するよう促す張の眼差しに、なまえはそっと息を吐いた。
すがりついていた上体をわずかに起こして素直に口を開いた。
「面白いお友達がひとり増えただけです、旦那さま。それ以外は至っていつも通りのロアナプラでした。あなたがいらっしゃらないのが、苦しみと憂いの極地だったというだけで……。あなたがご不在の悲しみをすこしでもまぎらわせようと、ゲームの末席に加わってみたら……ふふ、特典に“お友達”が付いてまいりました」
女は滴る蜜を音にし得る。
甘露の声色で掻き消されそうだったが、内容はいささか不穏当であり、聞き流すことは敵わなかった。
やれやれと言わんばかりに、張は太眉をハの字に下げた。
「その“お友達”ってのには、存外心惹かれるもんがあるがね……。まあ、お前のことだ、どうせまたぞろ上手く騙くらかして落としたんだろ。――ったく、そろそろ本当に、籠の鍵、開かねえようにしちまうぞ。なあ、なまえ?」
「あらあら……無体なことをおっしゃいますのね? ……だって、あなたが本国へわたしも連れて行ってくださらないから」
甘ったれた仕草でなまえが唇をとがらせた。
そのさまは幼な子が拗ねてみせるのに似てひどくあどけない。
しかし唯一彼女の媚態に惑わされぬ偉丈夫は、低く笑い声をこぼした。
「お前まで揃っていないとなると騒ぐ輩がいるだろ。俺の不在はどこまで知れた?」
「最小限に。教会辺りはご存知かと」
「上出来だ」
男の厚い唇が嘉するように笑みを湛えた。
いま、ただ自分だけへ向けられる精悍な微笑に、なまえはとろけんばかりにうっとり双眸を潤ませた。
彼女もまさか、騒動の終局においてシチリアのコーサ・ノストラにまで彼らが食い込むとは予想だにしていなかった。
ロックの采配はフォンを救っただけではない。
暗々裏、なまえの意図にも応えるものだったとは、彼女しか与り知らぬことだった。
なまえが今回ロックへ手を差し伸べた理由は、レヴィたちに話した「私怨」ばかりではなかった。
私怨は私怨でも、南伊と手を組んでいたアルバニクス共に関し、今後優位に立てるカードが欲しかっただけに過ぎない。
なんとなればアルバニア人には私怨どころではない遺恨がある。
今回の顛末が、早晩、白紙扇の耳に入るのは必定だ。
騒動そのものはさして重要ではない。
重要なのは、解放軍総参謀部の“元”士官がシチリアのお友達に加わったことだ。
それも多少なりとも金糸雀が恩を売ることができた――なまえにとって最上の勘定である。
情報屋というものがそれを飯の種にできているのは、時として「情報」が金や銃弾よりも、命よりも値打ちがあるからに他ならない。
照覧あれ、冷静時代の米露の諜報合戦など最たるものだ。
そして情報は専有されているからこそ重要性を持つ。
昭然若曷(※「曷」の字は正しくは手偏に曷)、誰もが既に知っている事柄を伏して知りたがる者などいない。
中国人、なかんずく大陸の華人は地縁や血縁をなにより尊ぶ。
誰に「貸し」があり、誰から「借り」があるのか、儒教的観念に基づく「関係」は、差向き世界中に華僑が広まる理由の一端でもある。
今回の騒動で左袒した金糸雀の得たカードが、今後どのように張の役に立つのか――いまはまだ不明瞭だが、彼の手札が多いに越したことはない。
畢竟、あくまでプレイヤーは金糸雀ではなく、「金義潘の白紙扇」だ。
なまえは無謬なる主の手元へそっとカードを滑り込ませるだけ。
可能ならば、場における相手プレイヤーのみならず、進行にすらそれと覚られぬままにだ。
か弱い小鳥一羽、全任意符合ではなく、特殊札でいられればそれで良かった。
なにせ昨年本国が「大陸」へ返還され、魍魎蠢く景況のなかいかに情報が重要か、他言を要すまい。
深く息を吸い込めば、彼女の身にも濃く染みついたジタンの薫香が肺を満たした。
飼い主の身にすがりついたまま、糖蜜を連想させる陶酔の笑みでなまえは囁いた。
「旦那さま、懺悔をしたいのですが、お聞きくださいますか」
「……告解室は必要か?」
「いいえ、どうか、このままで」
主の厚い唇が洒脱な弧を描いた。
なまえは今回の顛末を「懺悔」するため、張の頬へ手を伸ばした。
(2020.03.04)