(※「The Wired Red Wild Card」沿い)






指に挟んだ煙草を見下ろしてロックが呟いた。

「話を戻そう、君を今の状況から救うためには幾つかの条件が必要だが――解決の糸口はまだ霧の中だ」

肌も露わな女性たちがひっきりなしに出入りする控室は「ジャック・ポット・リトル・ピジョンズ」の奥まった一角にあり、そこでロック、レヴィ、フォンは膝を突き合わせていた。
化粧品のにおいが立ち込める華やかな女の園で、皆一様に面持ちは晴れやかとは言いがたい。
怏々おうおうとした表情のまま、ロックが言葉を継いだ。

「レヴィには話したが、ジェーンの詰問にはあまり意味がない。罠を完了させた段階で、状況は彼女の手を離れてる。追撃者は撃退しても次が来る。つまり――追っ手が追跡を諦めるか、追跡の意味を喪失させない限り、君の安全は図れない」
「八方塞がりだわ」

組んでいた脚を下ろしながら、フォンが肩をすくめる。
キャミソールの紐がずり落ちたのを神経質な指先で元に戻した。

現下の情勢は、ロックの言葉通り霧の中・・・だった。
事態を解決するどころか、当為とうい、そのための踏み出す一歩をどこへ向ければ良いのかすら見当も付かない現状にあって、レヴィが紫煙まじりに助言のようなものをひとつこぼした。
「ややこしい話じゃない、煮詰まらない時は、一旦アホになってみるのも一つの手だ。今ある情報をまっさら・・・・にして先入観なしで洗い出してみるとか――」と。

塵芥ちりあくたが山積みの袋小路へ沈潜していたロックたちへ端無くも与えられたのは、窮状から救い出そうという福音か、あるいは更なる厄介の種だったのか。
板子一枚下は地獄といえど、そのときの彼らにはさっぱり判断がつきかねた。

「こんにちは、皆さん」

品の良い白百合の香りが彼らの鼻腔をくすぐった。
折も折、楚々とした容貌に温雅おんがな微笑を浮かべた女が――なまえが、現れた。
薄く開いた背後のドアからは、腹底に響くショーミュージックの喧騒と猥雑な歓声が漏れ聞こえてくる。
慎み深い尼僧服が如き白いワンピース姿の女は、背景との差異で冒涜的なほど浮いて見えた。
誰がその登壇を予想しただろう。
愛用の白いパラソルを手に佇んだなまえは、控え部屋に詰めていた三者を見渡して、おっとりと小首を傾げた。

「お久しぶりね、レヴィ、ロック。時候のご挨拶を省くのを咎めるような間柄ではないと信じているけれど。同じ街に住む大切な隣人・・だもの。お忙しいでしょうから、簡潔にお伝えするわ。わたしがこちらへお邪魔した理由はひとつだけ。あなたたちに提案があるの。――ね、このゲーム、非力な金糸雀カナリアをワイルドカードとして加えてはいかが?」
「……どういうこと? そんなにここの情報は筒抜けってことなの? もしかしてそのドアの向こうでは、あのイカレポンチ共が時代遅れのコルトだの機関銃だの持って待ち構えてるってことはないでしょうね」

名指しされなかった残りひとりが、憤懣を押し殺すかのように低く呻いた。
太縁の眼鏡の奥で光るのは、あたかも可能ならばひとのひとりやふたり視線で射殺さんばかりに鋭い目だ。
見知らぬ闖入者に殺気立つフォンに、既に数度殺されかけた後とあっては――加えてとびっきりの・・・・・・新参者である――余儀ないことと、なまえは「落ち着いて、ミス・キャプテン・クランチ」とやわらかく苦笑した。

「あなたの言うひとたちのことは知らないけれど……。わたしはここの女の子に尋ねてお邪魔したの。どうか彼女を責めないであげて。本来は口の堅い子なのよ」
「ご、ごめんなさい、あたし――」

おずおずと声をあげたのは、なまえの斜め後ろに隠れるようにして立っていた踊り子のひとりだった。
豊かな赤毛を結い上げ、ステージ上で髪と相まって映えるだろうギラつくブラック・ルシアン色のコスチュームを纏っていた。
挑発的な形貌とは裏腹に、丁寧に化粧を施された顔は申し訳なげに眉を下げている。

「……あの、あたしがなまえに伝えたの」
「ふふ、ノエラ……そんなお顔をしないで。あなたはなにも悪くないの。――すこしお外で待っていてね」
「え、ええ……」

やさしくなまえに促され、ノエラと呼ばれた女は大人しく控室を出て行った。
ドアを閉め、途端に賭場の様相を呈した控室において、やおら小鳥はロックたちへ向き直った。

「あなたたち、揃いも揃ってそう疑わしげなお顔をしないで。珍しいお客様が来ていると教えてくれただけで、それ以外のことは彼女も知らないの。あの子はわたしに借りを返しただけよ。それ以上でも以下でもない」

白腕しろただむきの女はいかにも真摯な口ぶりで語って聞かせた――「前にね、悪い斡旋屋に捕まっていたからわたしがこちらへ紹介したの」。

「はン、ケッタクソ悪ィ。男の方が旦那ンとこでバカやらかして用水路に浮かんだもんで、女の方を恩着せがましく拾ったとか、ンなとこだろうよ、どうせ。金糸雀カナリアが斡旋稼業にも手を染めてたとはなァ。耳に入りゃあ、旦那もさぞ喜ぶ・・だろうさ」

レヴィが皮肉げに顔を歪ませた。
二挺拳銃の険のある舌端ぜったんに、気分を害した様子もなくなまえは「あらあら」と微笑んだ。

「……なまえさん。この件に、香港三合会は?」
「幸か不幸か、まったくの無関係よ、探偵ガムシューさん。いまわたしがこちらにお邪魔していることは、ご主人さまにも内緒なの――ふふ、レヴィやロックならわかるでしょう? わたしがいまどんな橋を渡っているのか」
「お話にならないぜ、ロック。丁重にお帰り願いなァ。この街の流儀も知らねえでこ眼鏡だけで手一杯だってのに、あろうことか、自分から後ろ盾置いてきやがった小鳥一羽、面倒なんぞ見てたらコッチの尻に火がつくのも時間の問題だ」
「あら、いやに噛みつくのね、レヴィ? そんなにこれ以上女が増えるのが気に食わない? 心配しなくてもご存知の通り、男性どころか、わたしは飼い主以外の人間に興味はなくてよ」
「ウッセェな、的外れもいいとこだぜ」

ケッと吐き捨てて、レヴィはいかにもこれ以上付き合いきれぬとばかりにそっぽを向いた。
トライバルタトゥの刻まれた肩を居丈高にそびやかす彼女を尻目に、ロックはどこか冷えた声音で「なまえさん、」と顔を上げた。

「ひとつ聞きたい。なまえさん、どうしてここに?」
「いまお話したでしょう、ノエラに尋ねて――」
「そうじゃない。ミス・なまえ、俺はあんたの“取り分”がどこにあるのか知りたいんだ。あんたが飼い主に黙って……それどころか背くリスクまで負うなんて、勘定が合わない・・・・・・・、だろう? どうして俺たちに――フォンに、手を貸そうと思ったんだ?」

鋭い光をたたえたロックの双眸が、なまえの視線と真正面からぶつかった。
応酬の既視感に、心地さげになまえは目を細めた。
真っ直ぐに見つめてくる彼の射るような眼差しは、自分のカード、場、そして相手のカードを見極める、ギャンブラーの目だ。
ロックの炯眼けいがんを見つめ返して、なまえは一言、きっぱりと言い切った。

「私怨よ」
「……は?」

想定していたものの斜め上を行く返答に、ロックがきょとんと目をしばたかせた。
なまえは彼の間抜け顔を愉快そうに眺めながら、歌うように言葉を続けた。

「敵人的敵人就是我的朋友(※「敵」の字は正しくは舌に攵)――敵の敵は味方っていうでしょう? レヴィと……教会のシスターたちならご存知のはずよ」
「あン?」
「ほら、レヴィ。魅力的なミス・“ブラックハット”が、初めてこの街にやってきたときのことを覚えていて? ヌエヴォ・ラレド・カルテルの追っ手から、彼女、リップオフ教会へ逃げてきたでしょう。この世の終わりの次に不運なことに、小鳥が居合わせてしまった、あのときの。……あのあとね、とっても大変だったんだから、わたし」

淑やかな挙措きょそで、なまえが自分のうつくしい黒髪を撫でてみせた。
なんの変哲もない髪に促されるように、レヴィが胡乱な表情のままぱちぱちとまばたきすること、二秒か、三秒。
頭のなかでなにかのピースがハマったらしい。
それまでの癇立かんだった表情から一変して、レヴィは弾けるように大笑いした。

「ッハァ! こりゃあ傑作だぜ! ロック、なまえの“私怨”ってェのは間違いねえ。そこンとこはあたしが請け合うぜ」

時を得顔のレヴィは未だ笑いが収まらないのか、肩を揺らしつつ、ロックの背をばしばしと叩いた。

「はあ……?」
「あの色ボケ女のせいで、しょーもねえハズレくじ引かされたンだよ、そこの“処女”は。ハッ、信用に足る、真っ当な逆恨みだぜ・・・・・・・・・

ククッとひとの悪い笑みを漏らしているレヴィに、ロックはなんのことやらと首をひねった。
同僚ベニーの恋人によって、金糸雀カナリアがなにがしかの不利益を被ったらしいことまでは察せられたものの――まあジャネット・バーイーのあの性格と言動を鑑みれば、愛すべき同僚には悪いが、どこかしらで敵を作っていたとしてもさして驚きはしない。

それに相棒がそこまで言うのなら、ロックとて疑心を抱き続けるいわれはなかった。
らぬだに丁度袋小路にハマっていたところだ。
彼女がくみすることによって変わる盤面もあるだろう。
なにより、飼い主の掌中の外とはいえ、「金糸雀カナリア」においそれと手を出せる与太者はこの街に多くはない。
なまえ当人もそれを織り込み済みでの参加コールならば、利用しない理合いなどあるまい。

浅く息をつき、やおらロックは頷いた。
なにしろ相手は国家機関システムである、何にまれ手札が多いことに越したことはない――それがとんでもない量の炸薬を秘めた地雷だとしても。
どんなゲームだろうと、いつだって相応の「リスク」からは逃れられないものだ。

「……わかった。――フォン、彼女のことは大丈夫だ。君の職場からの回し者ではないことは、この街の人間なら誰だって知ってる。俺もレヴィもだ。すくなくとも、突然そこのドアが開いて銃を乱射される危険性はかなり減った。彼女の身の安全は……なんていうか、この街では割と重大事でね」
「……ロック、あなたがそこまで言うなら。あなた以上の保証人なんていまの私にはないしね。ま、頼りになる人間が増えるのは、私だって願ったり叶ったりよ」

ことの当事者であるにもかかわらず、思慮深く成り行きを見定めようと蚊帳の外に徹していたフォンは、ロックの言葉に深く頷いた。
ようやく眉間のしわを解いた彼女の表情は、差向きなにかの夢から覚めたようだった。
切り替えがはやいのは優れた点のひとつである。
とりわけこんな芥場あくたばでは、あれやこれやと些事に拘泥しているだけ、安心して眠れる夜から遠のくというものだ。
その美点を示してみせたフォンを前に、なまえも安心したように頬をゆるませた。

「とりあえず概況をお聞きしても良いかしら。意中のフェイク・ビルのおかげで、そちらのミス・解放軍工作員エージェントが窮状に陥ったと……半可通なことしか、知らないものだから」
「どうして知ってるのかなんてつまらないことは聞かないけど。それだけ知ってれば十分だわ。それに、“元”よ。クソったれ“元”工作員。――丁度、状況を順に説明して総ざらいしようとしてたとこなの」

胸襟を開いたフォンは「あなた、タイミングを見計らって来たんじゃないかってくらいぴったりよ」と肩をすくめた。
誰が置いていったのか、化粧台の片隅に静座する簡素なフリップ時計がパタッとめくれた。

「でも、ええと――どこから話せばいいものやら……」

考えあぐねるように頬に手を当てて言いよどむ。
フォンとて全体図を把握しているわけではない。
そもそも自分はいつからあの女に――ジェーンたち「フォーラム」に目を着けられていたのかすら判然としないのだ。
首をひねるフォンに、ロックは「始めからだ」と告げた。

「ジェーンの仕掛けた罠と、そいつに君が頭からはまった顛末のすべてだ。おそらくはその隙間に――君を救う何かの欠片があるはずだ」
「オーケイ、わかった。思い出すと怒りで卒中を起こしそうになるけども、やってみるわ」






フォンの話を聞いたなまえは、おっとりと小首を傾げた。

「そう。nmapでブラインドスキャンして……ポートは?」
「23――テレネットを使ったわ」
「あら、ミス・フォン、既定デフォルトのままだったの?」
「……そうよ」

あたかも口へ荒草をダース単位で突っ込まれでもしたかのようにひどく苦々しげに、フォンは顔をしかめた。
眼鏡の奥の怜悧な眼差しは、平仄ひょうそくが合わないとばかりに、おのが行動の反芻に余念がないことを窺わせた。

「nmap」――ポートスキャンは、攻撃対象のサーバへ侵入できる出入り口が開いていないか、チェックするためのツールである。
情報の流出や外部からの攻撃を防ぐため、使わない出入り口ポートは本来閉じておくものだ。
そのため、攻撃者は内部へ侵入しようと、開いている出入り口ポートを探す。
その際使われるのが「ポートスキャンツール」だ。
ポートは0番から順に番号が割り振られ、1024番まで、なんの用途のものか定められている。
フォンの言う「テレネット」――「23の扉テレネット」、23番目の出入り口ポートは、認証を含め
すべての通信を暗号化せず・・・・・・・・・・・・ 平文 クリアテキストのまま送受信するという脆弱性を持つ。
つまりテレネットのポートが開いたままという事態は、通常ならば考えられにくいのだ。
対象がドイツの「ラインバッハAG」、航空電子機器アビオニクス企業であるならば尚更である。

「フォン、あなたの“元”職場は、二か月前にも同様に、ラインバッハへ攻撃を仕掛けたのよね?」
「そうらしいわ。そのときにも使われたアーネンハイム流通を含め、私は知らされてなかったけど」
「そう……」

玉響たまゆら、なまえは目を伏せた。
航空電子部品アビオニクスの情報は、航空機メーカーにおいて心臓部である。
敵対企業にとっては垂涎の的、産業スパイの目的のひとつだ。
しかもラインバッハAGは国防企業――航空機は航空機でも、軍用機に関する情報に相違ない。
軍用機のアビオニクスは国防における機密情報に当たる。

「大陸」が独軍用機情報を窃取した・・・・・・・・・・・・
畢竟、なまえにとって、フォン一個人も、それどころか中共がなにを目的としていたのかも、知ったことではなかった。
重要なのは香港三合会トライアドが大陸相手に、以後、どこで、どのように利用しるカードなのか――主の手札・・・・にいかに加えることができるのか、その一点のみである。
現段階では霧の果てさながらに判然とはしないが、なるほどこれを看過できようものか。

「他人が作った裏口バックドアを利用するときは、もっと用心すべきね――ミス・フォン、あなたはハニーポット(※サーバに穴を開け故意に攻撃者を呼び込み、攻撃者の手口を記録する罠)辺りは疑わなかったの?」
「管理も警戒も甘すぎて、舐められたもんだとは思ったわ、確かに。……でもやめて。あの女にも同じこと言われたのよ」

おしゃべりが進むにつれ、おもむろにフォンの眉が下がっていった。
意思の強そうな太眉が憎々しげというより悄然と垂れるさまを見て、なまえはそっと溜め息をついた。

「高い勉強代だったわね……」
「ヘイヘイ、さっきからなに唱えてんだテメェらは」

ぶわりと紫煙を吐き出したレヴィが、二日酔いじみた胡乱な目付きでフォンとなまえたちを睥睨へいげいした。
理解するための懇切丁寧な説明を求めているわけではないだろうが、しかしすぐ横で別の惑星の言語をくっちゃべっている人間がいるというのは心地好いものではない。
険のある眼差しを寄越され、なまえは良識めいた口ぶりのまま「そうね、」と頬に手を当てた。

「レヴィ。仮に、あなたが銀行強盗を依頼されたとして……、“わたしたちが銀行の裏にトンネルを掘っておきました、それを利用して盗んできてください”とお願いされて、あなた、素直に行って?」
「ンなバカな話に乗るアホなんざいねェだろ。あることねえことクソみてえな証拠・・を握られンのが関の山だろうよ。こいつが盗みました、それどころか穴を掘ってたのもこいつですッてな」
「……そういうことよ」

なまえが肩をすくめる。
「バカな話に乗るアホ」扱いされたフォンは、無言のまま盛大に口をひん曲げた。
なんのひねりもない児戯じみたストレートな暴言は、時として文藻ぶんそうに彩られた賛美より精神に来るものだ。

フォンが陥れられた罠により、ジェーンたち「フォーラム」が得た証拠・・は四つ。
まず、フォンが人民解放軍士官である証拠――これは彼女がロアナプラに招かれるよりも先に、その手口から見当を付けていたジェーンが解放軍西安シーアン通信学院の生徒記録より入手していた。
次に、何者かがアーネンハイム流通を利用しラインバッハへ侵入、データを領得した証拠――これはジェーンたちから連絡を受け、ラインバッハにて待機していたSEによって把捉された。
次いで、アーネンハイム流通が人民解放軍のフロント企業である証拠、そしてラインバッハへの侵入者がフォンである証拠――これらはフォンが侵入した際、ジェーンの仲間たちによってログを収集されている。

確たるこれら「クソみてえな証拠」とやらを並び立てられれば、誰がどう見ても「主犯」は馮亦菲フォン・イッファイ――解放軍総参謀部GSD士官、李欣林リ・シンリンひとりである。

二か月前の「ラインバッハ工作」から、ラインバッハAGはアーネンハイム流通と人民解放軍の関与を疑っていた。
その調査を、ラインバッハは企業スパイ専門の地下フォーラム、ハイウェイマンズ――ジェーンたちへ依頼した。
そして“元”職場の別部署が行った「工作」を知らぬまま、ジェーンたちの偽札偽造技術を目的に、人民解放軍現役兵士であるフォンが接触を図ってきた。
結果、ジェーンたちは「中共が独アビオニクス企業を攻撃した」というある種事実の、フォンからしてみれば捏造された「辻褄の合う証拠」をいみじくもでっち上げた――といったところだろう。

インターネット上におけるデータの流出、盗難は、犯人を捕縛したところで利は乏しい。
なにしろ一旦流出したデータは、際無くコピーも拡散も可能だ。
にもかかわらず犯人を特定する理由は「賠償」のためだ。
ラインバッハは人民解放軍に「金銭的賠償」を要求するとみて間違いない。
相手は軍事関連企業である。
軍需産業――取りも直さず国家の安全保障にまで話は及ぶ。
結果、ラインバッハは莫大な賠償金を得、中共は外交問題の火種を抱え込むことになる。
フォンの“元”職場が目の色を変え、事実の揉み消しに奔走するのも無理からぬことだった。

口の端でマイルドセブンをくゆらしていたロックが、いささか意外そうに首をひねった。

「この分野、あんたも随分と詳しいんだな」
「あたしも驚いたぜ、金糸雀カナリアが分厚いメガネのギーク共と仲良したァな」

水を向けられた小鳥は、過ぎた賛辞とばかりに肩すくめた。
「わたし自身はなんにもできないわ。持っているのは最低限の知識だけ」と。

あのひと・・・・のところにいるんだもの。生半可な勘定にくちばしを突っ込んでいるだけよ」

三合会における「白紙扇バックジーシン」という役職は、組織における行政、財政、事務上の幹部である。
組織内で最も聡慧そうけい、教育程度の高い者が選ばれる。
組織の管理一般に責を追う幹部だが――たかが妾侍しょうじたるなまえが、詳細をいまここで説明してやる由はあるまい。

「わかっているのは、アーネンハイム流通というカバー・カンパニーがふたつの工作に使われたということね。ラインバッハかミス・フォンの“元”職場へ、繋がる糸があると良いのだけれど……」

思案深げになまえが視線をさまよわせる。
アーネンハイム流通から大本を手繰ろうかと悩む彼女とは対照的に、しかしここではないどこかをしかと見据えていたロックは、確信めいた問いを舌に乗せた。

「――フォン、もう一度、そこに潜ってみられるか?」
「もちろん。微機マシンのある所にさえ連れていってくれるなら、今すぐにでも始めたい」

既にある程度の筋道が見えているのだろう、フォンの眼差しにも力強い光がひらめいている。
ぱちぱちとまばたきしながらなまえが小首を傾げた。

データ解析フォレンジック?」
「そう。まずは、私になにが起こったのか知りたい。ログを洗い出したいの」
「マシンなんざどこにあるんだ。ベニーの機材は船ン中だぜ?」

レヴィの言葉を受け、ロックがニッと唇を吊り上げた。

「ジェーンが彼女を最初に嵌めた場所さ。ナンクワイのネット・カフェだ」






「あーれま。まさか金糸雀カナリアまで抱き込んでやがったのかよォ、色男。見境のねェ男は嫌われるぜ?」
「あら、お久しぶり、シスター」

なまえのあどけない少女めいた微笑のせいで、眉根に刻まれた縦じわを、エダはさりげない仕草でサングラスを直すことによって隠した。

時刻は日も昇りきらぬ早朝だ。
ロックからの「依頼」を受けて 神託 インテリジェンスを携えた尼僧エダと、詰襟カラー神父見習いリカルドが大きな黒鞄を抱え、ジャックポット・ピジョンズを訪れた。
蓮っ葉な口調に彩られたハスキーな声音が「三合会の金糸雀カナリア」を認めた途端、わずかに苦々しいものを含んだことに気付いたのは、共をするリコくらいのものだったが。

ナンクワイのネットカフェにて、フォンたちはデータ鑑識作業フォレンジックのためのダウンロードを行っていた。
しかしながら彼女を狙う殺し屋共に襲撃され、応戦したレヴィが市警に拘留されて一夜が明けた。
さしものエダも、「わたしがご一緒しても、レヴィの負担が増えるだけでしょう。それに、ご主人さまのいない鉄火場なんて、小鳥には怖くてとても無理よ」云々囀って、ジャックポットの控室で留守番・・・をしていたなまえの存在までは把捉していなかったらしい。
尼僧の様子に介意することなく、ロックは「アンタの千里眼でも見通せないものもあったんだな」と素気すげなく肩をすくめるに留めた。

「……まあいいさ、わざわざプレゼントの配達に来てやったンだ、袋を開けてやろうかね。――まず、アルバニア・マフィアからだ」

エダが書類をバサッと広げた。

「元々は“コソヴォ解放軍KLA”のゴロツキ共が母体だが――……そこに解放後のシグリミ隊員秘密警察“アルバニアクス”たちが合流した。地理的な状況も手伝って、今や東欧ではどヤクザ共の新興勢力となりつつある。シシリアのロニー・ザ・ジョーズと付き合ってるのは――ティラナを母体にしてるカルテルだ。構成員のほとんどが、シグリミさ」

開陳してやりながら、エダは煙草に火を点けた。
ふっと一呼吸めを彼女が吐き終えるより先に、躊躇いがちになまえが「失礼、シスター……」と口を挟んだ。

「今回の“アルバニア人”は、……首都ティラナのアルバニアクスなのね?」
「あン? あァ、そういやこの街に先に入り込んでた東欧人ボウハンク共がいたわねェ。ふふん、南伊カラブリアのヌドランゲタと組んでたらしいが、ロニーんとことやらかして叩き出された挙げ句、あっちはあっちで重大事の真っ只中らしい。まったく、バルカンあの辺ときたら、御国のきたる前に鉛玉だけ腹中に溜め込もうッてェ具合さね。まァ、」

エダが軽薄な語調で吐き捨てた――「そこンとこは金糸雀カナリアアンタの方が詳しいだろ・・・・・・・・・・・」。
サングラス越しの青い虹彩は、小鳥をいたぶる性根の悪い猫を彷彿とさせる光を孕んでいた。
フォウニー・ウォーを観戦するよりいくらか愉快とばかりにニヤニヤと含み笑いをしているエダに、なまえは愛らしい桃色の唇をたわめ、靄めいた曖昧な微笑を寄越すだけに留めた。

バルカン半島はその複雑な歴史から、同一の民族が国境という線をまたいで分布している。
旧ユーゴスラビアで続いた紛争は、傍近のマフィアにとって格好の武器、麻薬市場を作り出した。
彼らが行ったのは、コソヴォ解放軍KLAへ武器の販売である。
そして地の利を生かし、志願兵、売春婦、麻薬をも同時に供給していた。
冷戦終結後の九二年、鷲の国アルバニアで民主政権が樹立して以降、組織改編により職を追われた秘密警察シグリミ職員がマフィアへ流れていた。
彼らはシグリミ時代に得た秘密ファイルの情報を基に、恐喝、事件の隠蔽、既得権益の拡大、また弾圧逃れを可能としていた。
丁度、ソ連崩壊後、すくなくない数の元KGB、GRU職員がロシアン・マフィアに流れた――たとえばホテル・モスクワのヴァシリー・ラプチェフやタチアナ・ヤコブレワらがそれに該当する――のと同じ構図である。

特に冷戦終結後、アルバニアでは複数の民間投資会社が、武器密輸と「ネズミ講」を行い資金を得ていた。
外貨獲得のため、なんと当時の政府も黙認していたというのだから始末に負えない。
はじめは武器密輸で得た金をネズミ講の配当に回し、一応の還元は行えていたようだ。
しかし昨年、紛争の終結に伴い武器密輸ビジネスが低迷、ネズミ講も破綻した。
国民の半数以上が無限連鎖講に参加していたため、アルバニアは破産者が続出。
返金を求めて暴動が発生し、くすぶっていた政府への不信感、民族意識、アルバニア南北の対立構造まで浮き彫りにする事態となった。
暴動は内戦といって差し支えないほどに膨れ上がり、難民を発生させ、首相の辞任、国連軍の介入、無政府状態にまで発展した。

これに裏で関わっていたのが、お隣イタリアのマフィアである。
武器密輸で得た資金を、ネズミ講を通じ資金洗浄マネーロンダリングしていたのだ。
これに旧シグリミたちが人民解放軍から窃取した「 金塊 アリ・ドラグア」が絡んでいたことは想像に難くない。

エダの言葉を信じるならば、今回の「アリ・ドラグア」関連のアルバニア人は、数か月前に金糸雀カナリアかどわかした奸賊とは別の組織である。

「で、お次は、イエロー・フラッグやネットカフェであんたたちを襲った連中だが――」

十全とはいかないまでもリコが「 四重奏 ウム・カルティエート」の詳細な説明を行っていると、「四人目」に関する情報が付加された。
なまえが「ああ、それはわたしから、」とちいさな手を挙げたのだ。

「ミスター・ブレンの“マーダー・インク”からお聞きしたの。“四人目”は標的に合わせてお顔を変えるんですって。本当に怖いわ。念を入れて整形までするのかと思って探したけれど、執刀した者はこの街では見付けられなかった。この街の“お医者さま”はだいたい知っているつもりだったけれど……。日数から鑑みてもそう大きな施術はできないでしょう。――残念ながら誰に化けているかまではわからなくてよ」
「ぞっとしねェわなァ。金糸雀カナリアの配下は“ブラック・デス”にまで及んでやがったのか」
「まあ、酷く心証が悪いように聞こえてよ、シスター? あちらの手配師のひとりにね、すこしだけ伝手があって。偶然その“四人目”に接触したことがあると仄聞そくぶんしたの」
「ハ、さっさと女衒屋か情報屋でも開いた方がいいな。合衆国の国務省外交保安部DSS辺りから、“Rewards for Justice”でも表彰してもらえるかもしれねェだろ?」

カードは出揃った。
が、問題がひとつ。
現状、自由に利用できるラップトップパソコンが、オフライン・・・・・だったのだ。
目的地も地図も準備した、しかしそこへ辿り着くための「足」がない。
思わず口元を押さえてロックは呻いた。

「もう一度、どうしても潜ってもらう必要があるんだ、他には――……どこかないのか、オンラインの場所は……」
「この街にいるマフィア共なら、それぞれ回線を引いてるとは思うけどねェ。触らせてくれるかっていや、……まァ、微妙だわな。どうせ愉快とも言えない秘密が満載だろう? 無理に使ったりしようもんなら――……まァ、アタシなら、虎の檻ン中でリブロース片手に徒競走をさせられるほうが、まだマシだ」

鷹揚に指し示すようにひらひらとてのひらを振りながら、エダが口角を歪めた。
ロックは焦燥の滲む表情で、白紙扇麾下きかの女を仰ぎ見た。

「なまえさん――」
「だめね。はじめに言ったでしょう。いまわたしがここにいることは飼い主にも内緒だって。あのひとのお耳に入らないよう大廈本部へあなたたちをこっそりお連れするのは、わたしにも無理よ。それに大陸の厄介事に、万が一我らが“特区”が関わっていると露呈した場合、小鳥一羽の手には負えない事態になってしまう――ああ、あなたをスクリプト・キディ扱いしているわけではないのよ、ミス・フォン」
「役に立つ小鳥さね、ッたく」

いかにももっともらしく細首を振っておのれの無力をひけらかす女に、嘲笑というには少々忌々しいものがまさる表情でエダが笑った。
それでなくとも金糸雀カナリアがこの場にいること自体、案に相違するシチュエーションなのだろう。
憎々しげな眼差しとは対象的に、荒事など知らないとばかりに純真無垢な面持ちで、なまえが完璧な笑みをこしらえてみせた。

「あら、あなたのところも同様でしょう、ミス・スパイ?」
「――くそ、どうにかならないか、このままじゃ見つけ出した金すら引き上げられない!」
「ふん、焦りなさんな、色男。仮に八方塞がりだとしても――まだやれることもあるだろうよ、違うか?」

またも八方塞がりの泥沼に陥りかけたロックに、エダが与えたのは「一旦そっちの方は置いといて、たとえばそう、あのエテ公を連れ出す算段とかだ」という助言だった。
昨日から拘留されたままのレヴィを警察署からどうやって助け出すか。
バラキ公聴会は経ていないが、米国の刑務所ならばいざ知らず、確かにロアナプラにおける警察機関はこの街の「連絡会」ほど敵に回して恐ろしいという相手ではないのと同様に、留置所に身の安全を求めるにはいささか信用が足りない。
とはいえ禍根を残すのは好ましくない相手には変わりなく、市警側から「どうぞ出て行ってください」と穏便に・・・釈放させるのがベストである。

目を伏せ、ロックは「……市警か」と呟いた。
現時点でオンラインに接続できる場所について熟考するのは詮無いことだ。
外的要因、付随事項を一旦保留し、ある一点の問題のみに集中する――点と点を線として描くのも有用な範式だろうが、点を点のまま俯瞰してみるのも意義深いことに相違ない。
口元をてのひらで押さえたまま思案に暮れる彼に、なまえがおっとりと小首を傾げた。

「ねえ、ロック? これはひとつ提案なのだけれど」
「……あんたの提案は、往々にして耳に痛いものが多いのは気のせいかな」
「まあ、どうしてそんなに冷たいことを? 留置場で一晩明かしたレヴィのために、いまもこんなに胸を痛めているのに……」
「……そういうことにしとこう。で、提案ってなんですか、なまえさん」
「わたしが“ブラック・デス”へ連絡して、例の“ 四重奏 ウム・カルティエート”に、レヴィのいる市警を襲撃させましょうか」
「警察署を?」

温雅おんがな口ぶりでとんでもないことをのたまった小鳥に、正気を疑わざるをえなかったフォンは目を丸くした。
この悪都における犯罪組織と警察機関の持ちつ持たれつっぷりに馴染みのない彼女を、安心させるように「白い手の女」は穏やかに微笑んだ。

「確かここ数日、署長さんは休暇のはずよ。そのなか問題が起こるのを、代わりの責任者は避けたがるでしょう。治安軍や余所の機関に介入されて困るのはご本人たちだもの。署に詰めている彼らが一番“副業”に精を出している午後を狙えば、混乱に乗じて――あるいはラグーンの二挺拳銃に泣きつくのも、道理ではなくて?」
「はン、天下の“穢れなき処女”がおっそろしいこと言い出すねェ」
「あら、あなたには負けるけれど、シスター。“主君を尊ぶ者は、その誉れを得る”――わたしは主の御心に沿うことしか考えないの」

いやしくも修道服を纏った聖職者よりもまともに聖書を引用してみせたなまえに、エダは「へっへ」と人の悪い笑い声を漏らした。

金糸雀カナリアが随分とナメた口きくんじゃアないかさ。――アタシらが信仰する女はナザレの処女と、1891年の初代ファーストレディくらいなもんでね」
「……そうよ、市警よ!」

平和的とは少々言いがたいエダとなまえの会話だったが、なんとなく不穏な彼女たちの空気に頓着せず、フォンが声をあげた。
目を大きく見開き、あたかしとばかりに身を乗り出した。

「ここは確かに地の果てだけど、そんなに小さな街じゃない。この街の規模なら――中央のデータベースを利用するため、インフラを構築してるはず。市警になら、ネットは繋がってる可能性はある。――ロック、確かめてみる価値は十分よ」


(2020.02.11)
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