女はやわらかな笑みを浮かべて、汚れた床にうずくまるあたしを見下ろしていた。
背後のドアが開いていて、表情はよく窺えない。
逆光のせいだとわかっているのに、女はあたかもわだかまった夜闇から生み落とされたように見えた。

「……あなた、大丈夫? 真っ青な顔をしているわ」

閉め切っていたためだろう、狭い部屋には胸の悪くなるようなよどんだ空気が充満していた。
電気も点いていない薄暗いあたしの部屋に突然、涼やかな声が響いた。
ひとりの女が現れた。
はたき込んだファンデーションを落とすことすら億劫になっていたあたしの肌とは対照的に、女の頬はくすみなんてものは経験したことがないとばかりに見当たらず、撫でたらやわらかそうだな、なんてぼんやり考えていた。

「なんと呼べば良いか悩むもの。あなたのお名前は? わたしのことはなまえと呼んでちょうだいね」
「……ノエラ」
「そう、ノエラ。良い名前ね」

馬鹿正直に本名を答えれば、女はなにが楽しいのか、嬉しそうに頬をゆるめた。
この街に来てそう長くないあたしでも、この女のことは知っていた。

目の前の女は知らないだろうけれど、「ノエラ」と名前で呼ばれるのは久しぶりのことだった。
死んだおばあちゃんと同じ名だと昔々母は語っていたが、本当のところはわからない。
そもそも祖母どころか、母親の顔すらあたしはちゃんと覚えていないのだ。

恋人だと思っていた男に「俺と一緒に来てほしい」と真剣な眼差しで告げられたのも、思い出せないほど昔のことだった。
この街のことを知らずに自分から足を踏み入れる愚か者なんて、あたしくらいのものじゃないかといまなら思う。
あの男に本当にここで成し遂げたいことがあったのか、それとも積み重なった借金のせいで首が回らなくなって逃げ出してきた果てがここだったのか、そんなことはもうどうでも良かった。
手に手を取ってこんなところまで連れて来られて、いつの間にかわたしたちの間柄は、ポン引きと子飼いの娼婦とかいう最低に最低を重ねた代物に収まっていたなんて、笑えない三文芝居みたいだ。
売る方も売る方なら、買う方も買う方だった。
客は複数人で女を嬲りたがる頭のネジが外れた変質者だったり、女を殴らないとまともに勃たないド変態だったり、具体例を挙げ始めたらキリがない、とにかくロクなやつがいなかった。
稼ぎがすくなければあの男に殴られるものだから、先日欠けたあたしの奥歯はそのまま治療もしていない。
おかげで顔は熱を持って腫れているし、頭の中身が崩れそうな鋭い頭痛は治まる兆しを一向に見せない。
胸糞悪い冗談みたいな日々も、夜が来て、朝が来て、また夜が来て、ただ酸素を消費するように呼吸していれば過ぎていった。
――でも、それももう終わり。

「ノエラ、あなた……もう聞いているかしら。あなたを周旋していた“彼”ね、亡くなったの」

痛ましそうな表情で女が言う。
あたしは無言で頷いた。
いつもならとっくに帰宅して、わたしの稼ぎを指を舐めながら数えるか、酒を飲むかしているはずの時間だった。
ここ数日、物音ひとつにさえ怯えるようなありさまだったから、余程追い詰められているんだろうとは考えていたけれど、おそらくその原因からわたしよりも一足先に解放されたんだろう。
悲しいとは思わなかった。
羨ましいとも思わなかった。

ただ、あたしはこれからどうなるんだろうと思った。
ロアナプラを出ることは考えていなかった。
この街に入り口はあるが、出口はない。
さすが地の果て、大抵のやつはここを最後に棺桶に入る――いいや、棺桶などという、死体のためのモノへご大層に納められるだけ恩の字というやつだろう。
あの男だってどうせ今頃、どこかの用水路に浮いている真っ最中に違いなかった。
そもそもこの街から出たところで、あたしには行く場所も頼る当てもまったくなかった。

「ねえ、ノエラ。あなた、生きたい? それとも死にたい? わたしね、あなたの助けになれたらと思って……ここへ来たの」

なにを吐いているんだ、この女は。
口をつぐんだままただ胡散臭げな顔をしていると、女はちいさく笑ったようだった。
うずくまったあたしの目の前で、汚い床に頓着する素振りすら見せず膝を着いた。
ゆっくりと顔を覗き込まれて、女の黒髪がさらりと流れた。

ちいさな手が目の前へ差し出された。
あたしはそれを一瞥して、はっと笑った。

「あんたにさわっちゃいけないんでしょ。ここに疎いあたしだって、それくらい知ってる」
「あら……ふふ、思っていたよりわたし、有名人だったのかしら」

なにがおかしかったのか、意外そうに笑った彼女は、躊躇う素振りひとつ見せることなく、自分からそっとあたしの手を握った。
あたたかな手だった。
ぎゅっと握ると壊れてしまいそうなほどやわらかかった。

咄嗟のことであたしは驚いて、振りほどくこともできなかった。
いいや違う、このあたたかくて、ちいさくて、やわらかな手をただ離したくなかったのだ。

「わたしたち女は、どうしてこういう生き方しかできないんでしょうね。男の庇護なしで、ひとりで生きていくことが、どうしてこれほど難しいのかな……」

男たちから性的な欲望をぶつけられることはあっても、労わるように、寄り添うように、こんなふうにあたしにふれる手は、いままで与えられたことなんてなかった。
ふれたてのひらからあたしへ熱を分け与えようとするかのようにそっと撫でさする肌の、やわらかさといったら。
独り言のように呟く女を呆然と見上げた。
女はどこか寂しそうに笑いながら、あたしを見つめていた。
そのときあたしが唐突に思い出したのは、顔も思い出せない母親にこうしてふれられた経験があるということだった。

「ねえ、ノエラ。立場は違うかもしれないけれど、でもね……あなたと、わたし、なにが違うのかしら」

女の――なまえの顔がぼんやりと歪んだ。
一拍遅れて、なぜだかぼろぼろと涙が溢れていたことに気が付いた。
あいつが死んだと聞いたときにも出てきやしなかった涙が、こんなにもあっさりと流れてくることに、誰よりあたし自身が驚いていた。
痛む奥歯を噛み締め嗚咽を堪えるものの、涙腺がバカになったみたいに後から後から水滴は溢れてくる。

「ノエラ、まずは体を癒しましょう。どこか行く当てはある?」
「っ、ない……」
「そう。ひとりで頑張っていたのね……。ふふ、もう、そんなに泣かないで。目蓋が腫れてしまうわ。あなた、生きていくって決めたでしょう。そのためなら、なんでも利用しなきゃだめよ。わたしだって利用してみせるくらい強くなりましょうね、ノエラ」

なまえは手を握ったのと反対の手で、子供をあやすようにあたしのもつれた赤毛を撫で続けていた。

「このお部屋にいたくないなら、新しいところを手配するわ。――そうそう、この近くにね、ストリップバーがあるのだけれど……きっとあなたに合うと思うの。あなた、見目が良いもの。あなたが嫌なら、こうやってお客を取らされることもないお店よ。同僚の女の子も良い子たちばかりなの。あなたさえ構わないなら、そこへ紹介するわ」

勿論、無理強いはしないけれど、と微笑んだなまえに、あたしは鼻水を啜りながら「おねがい、」と頷いた。
なまえは背後にいた部下のひとりに「あとでローワンのところへ連れていってあげて。彼にはわたしから連絡しておくから」と言伝けていた。

普段のあたしなら、会ったばかりの他人に、自分の行く末を委ねるような真似は絶対にしない。
でも、きっと、なまえなら、あたしを悪いようにはしないだろう、となぜだか確信を抱くことができた。
それにいまのあたしには他の選択肢なんてなかった。

細い指先でそっと目尻をなぞられて顔を上げた。
なまえは穏やかに笑いながらあたしを見つめていた。

「ふふ……目元が真っ赤になっているわ、ノエラ。あとでちゃんと冷やしましょうね」

あたしは母親というものをよく知らなかったけれど、たぶん、きっとこういう顔をして笑うんだろうと思った。
同じくらいの年頃の女に思うことじゃなかっただろうけれど。






念入りに洗った手をハンカチで神経質にぬぐいながら、大姐が薄く溜め息をついた。
眉はいまにも舌打ちせんばかりにひそめられている。
邸への帰路、硬いステアリングを握ったままバックミラー越しにそれを眺めていると、ふと顔を上げた大姐と目が合った。

「ふふ、どうしたの、ビウ。なにか言いたげなお顔をしていてよ」

不快げな表情は、まばたきの間に、ある程度見慣れた俺ですら見間違いだったのではないかとよぎるほどにきれいさっぱり消え去っていた。
女の貞淑そうな声音と笑みへ、しかし笑顔なんぞ返せるはずもない俺は、空とぼけて首をひねった。

「はあ、そんな顔してましたかね」
「……もう、言い訳くらいさせてちょうだい。処分する必要があったのは、男の方だけだったでしょう? あの子をどうするかまでは決まっていなかったはずよ」

拗ねるように唇をとがらせるさまはあどけない。
大姐は俺の視線を、あの娼婦を拾ったことをなじるものと思ったらしい。
別段そのことに異議を唱えるつもりはなかった俺は「おっしゃる通り」と肩をすくめた。

「殺すのは、シマの線引きなんぞお構いなしに女と薬を売りつけてたあの馬鹿ひとりだ。ウチが手を下さんでも、早晩他の組織から蜂の巣にされてたでしょうよ。あの女は、面倒が残りそうなら殺す――行きがけの駄賃程度のもんだ。わざわざ生かしてやったところで、利なんぞたかが知れてる。そんな女ひとり拾って、まァ、大姐がどんなを描くのか気になるってェのが正直なところで」

漂う白百合の香りは、車中という密閉空間でなければ気付かない程度にかすかなものだった。
「白い手の女」は、ハンカチを丁寧に畳みながら「そうね、」と呟いた。

「この世に無駄な命なんてない……みたいな答えは聞きたくなくて?」
「まァ、ぞっとするんでやめてほしいですね」
「ふふ、失礼ね、あなた。――いままでにも“ジャックポット”には、何人か女の子を紹介していたんだけれど……いま、わたしが預けた子の在籍がゼロになってしまっているの。バオのところほどではないけれど、あそこも比較的中立で、規模も大きいからいろんなひとたち・・・・・・・・が来るでしょう。わたしのお願いをきいてくれるような子をね、最低でもひとりは確保しておきたくて。なにがあるかわからないでしょう? ノエラが行ってくれて良かったわ。あちらも女の子が増えて喜んでいたし。顔立ちの整った子だったもの、ちゃんと手入れをしてあげれば、きっと生活を持ちなおすことはできてよ」

丁度良かったわ、とやわらかく微笑んだ大姐の顔は、先程の娼婦を落とす・・・ときとなんら変わりない表情をしていた。
思わず、はっと感嘆の息が漏れた。
「精神的に無防備になった人間を説得すべき」などとのたまった西洋人がいたように記憶しているが、大姐の行為は見事この基本を押さえた所業だったといえた。
男の方を殺すよう指示しておいて、その死に様すら眺めておいて、――あの女へ慕わしげに寄り添っている後ろ姿ときたら。
ドアのところで待機していた俺がぞっとするほどやさしげだった・・・・・・・

大姐はなにも知らぬ子じみて、おっとり「なあに?」と細首を傾げた。

「――流石だと思ったんですよ。あの女に言ったこと、これっぽっちも思っちゃいねェでしょう。性根が悪いにも程がある」
「あらあら、お口が過ぎてよ、彪。あのひとのモノになんてことを言うの。だいたいわたしのこの玉体が、ふふ、あんな女と同じであるはずがないでしょう」

同性を中心とした、大姐がこの街に張り巡らせた情報網は、それで生計を立てているそこらの情報屋共に引けを取らぬものになっていた。
なにせ女という生き物は、相手によって口が際限なくゆるくも堅くもなる。
特に商売女たちのその傾向は顕著で、「色仕掛けハニートラップ」という言葉が存在するほどに、男というものはベッドのなかで口が軽くなるが、目的を持った女たちの冷淡さは、こちらの考えなど及ばぬほどの苛辣からつさを持つ。

「失礼しました。忘れてください、大姐」
「ええ、そうしてあげる」

くすくすと笑った大姐は、窓から夜空を見上げていた。
どうせ大哥のことでも考えているんだろう。
この女の行動原理は、結局、すべて大哥へと帰結する。

こんな重たい女、正直俺なら持て余すところだが、受け入れるどころか、あまつさえ掌中で転がすくらいのことはやってのける我らがボスの度量のデカさには、今更ながら恐れ入るしかない。


(2020.02.10)
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