仰向けのまま水底へ沈められると、意に反してごぼりと大きく息を吐き出してしまうものなのだと初めて知った。
無理やり押さえつけられて、水面が上へ上へと登っていく。
いいや、違う、わたしが下へ下へと落ちていく。
感じるのは途方もない息苦しさと、臓腑を拳でぐっと握られて引きずり下ろされるような違和感と不快感だ。
沼底へ沈んでいくわたしは目を大きく開いて、口の端から漏れた空気のかたまりがわたしの代わりに水上へ逃げていって、そうして弾けるさまを見ている。
水面から射し込む光は、おぼろげな円の集合体となってきらきら輝いている。
わたしを覗き込む男たちの顔ははっきりとしない。
辛うじて頭部だとわかるシルエットがぼんやり水面に映っているだけだ。
丸くて、黒くて、ゆらゆらと曖昧な輪郭で、ふたつみっつ、わたしを取り囲むように並んでいる。
まるでそういう形のお化けみたいだ。
水中からでは見えるはずがないのに、そいつらの口が愉快そうな三日月の形に割れているのがわかる。
水中では音にはならないのに、わたしはただ幼い子のように「だんなさま」と呼ぼうとする。
――その途端、無理に浮上したかのように意識が戻った。
酸素が肺を膨らませた。
夢を見ていた――そう自覚するや否や、なまえは胸元を握り拳で押さえ、ひっと引き攣れた息の塊を呑み下した。
ぜえぜえと息を荒らげたまま目線をはしらせれば、気韻を感じさせる趣の置き時計は、まだ夜が始まったばかりの時刻であることを示していた。
なまえが現状を把握したところで、眠りに沈んでいた間に忘れていたのかもしれない鼓動が、どっと押し寄せてきた。
握り潰されたように心臓が痛んだ。
ひくっと喉が弱く鳴り、意識して深呼吸を繰り返した。
大仰な呼吸音はひどく耳障りで、彼女自身が戸惑うほどだった。
居心地の良い主寝室の広いベッドの上で、不安定な呼吸のままなまえは体をくの字に折りたたんだ。
あれはいつだったか、既往、香港三合会に弓引く系列下部組織によってなまえが拉致された折のことだ。
いくら詰問されようと求める情報を明かそうとしないなまえは、拷問がてら水に沈められた。
気まぐれに時折与えられる酸素は、救いというより猛毒のようだった。
そのときの、いたぶる男たちの楽しそうなさまといったら。
愚かな狼藉者共が支配域拡大のため必要としていたのは、三合会の張はじめ高位幹部たちのスケジュールだった。
無論、なまえが吐くはずもなく、そもそも小鳥は飼い主以外のフォーマル、インフォーマル問わず、貴顕の御用、行状など知るべくもなかった。
水責めは苛烈だったが、所詮、敵は蟷螂の斧であり、ただちになまえを救い出してくれたのが飼い主だったのは言を俟たない。
あれから一体、どれだけの月日が経ったことか。
いたずらにいつまでも引き摺るはずもなく、実際、とうになまえは忘れていた。
にもかかわらず先日アルバニア・マフィアに拉致され、やはり張によって助け出された危難から安閑と朝夕を経て、この期に及んでなんらかのトラウマを刺激されたとでもいうのか。
「は、っ……」
ぐしゃりと髪を掻き乱した。
治りかけの傷が痛んだ。
濡れた不快な感触に自嘲しながらなまえは深く息を吐いた。
冷たい汗をかいていた。
もしも戦うことができたなら。
もしも自衛するだけの力があったなら。
なにか違ったのだろうか。
心底つまらないIFに、なまえはぬるく微笑した。
浮かべているのは笑顔に類するもののはずだが、おそらく倦怠しか感じられない無様な出来だった。
彼女の黒い目はどこまでも空ろだった。
息を吸い、吐いた。
意識していなければまた呼吸が荒く崩れてしまいそうだった。
てのひらで顔を覆い、かちかちと不快な音の鳴る奥歯をなまえは強く噛み締めた。
もしも戦うことができたとして、もしも自衛するだけの力を有していたとして、もしも銃を手に取れたとして、自分はこの街で生きていけるか?
答えは否だ。
戦うための能力はそこらに蔓延るチンピラ共より劣るどころか、そもそも比べ物にすらならない。
なにより中途半端な示威は往々にして死に直結するものだ。
己を大きく見せようとして威勢の良いことを吐き、またはやらかし、どデカいクソを踏む頭の足りぬ与太者は、この街のなかだけに限らず枚挙に遑がない。
ましてや悪逆の都にその名を轟かす二挺拳銃や戦争狂い、始末屋といった女傑たちと渡り合えるはずもなかった。
彼女たちの強さは一朝一夕で育まれたものではない。
果ての見えない地獄が如き泥濘のなかで磨かれ、己の力で勝ち得たものだ。
なまえが同じ、血と硝煙の舞台に立つことは永劫決してなかった。
レヴィのように、背中を預けあい、共に敵を殺すこともできない。
バラライカのように、互いに銃を突きつけあい、一騎打ちで銃弾演舞のお相手を仕ることもできない。
シェンホアのように、仕事における露払いや後始末を担うこともできない。
安閑たる塔の天辺に飾られた小鳥が、主と同じ場所に立つことはない。
仮になまえが武器を手に握ったとして、彼女たちに、この街の者たちに、及ぶべくもないのは自明の理だった。
嫉妬というにもおこがましい。
嫉妬というより、これは「劣等感」と呼ばれるものに他ならなかった。
加うるに、もしひとを殺すことを覚えた「白い手の女」を果たして張維新はいまのように手元に置くだろうか。
置いたとして、それはなんのためにだろうか?
自分よりも著しく能力が劣化しているものをありがたがってそばに置く道理はあるまい。
なまえは、自分がこの悪党共の世界では稀有な存在であり、同時に、取り替えの効く安い命であることを知っていた。
ひとを殺したことがない人間、瑕疵ひとつない人間なんぞ、探そうと思えばいくらでも見出すことはできるものだ。
無謬の主ほどの威容、度量ならば、すぐになまえと同じくらい彼を敬慕する女のひとりやふたり侍らせることも容易だろう。
もしかしたらそれはなまえよりもずっと張を利せる者かもしれなかった。
なにより最も救いがたかったのは、なまえ本人がそのことにまがう方ない「喜び」を感じていることだった。
流氓、アウトロー共の世界において、自衛すらできない女ひとり、デメリットこそあれ裨益するところなど皆無といって良かった。
それでも張維新はなまえを手元に置いた。
拐かされれば、己の危険も顧みず必ず迎えに来てくれる――なまえにふれた者たちを皆殺しにして。
なまえがなんの利もない妾侍にもかかわらずだ。
言うまでもなく、女を引っ攫われて顔を潰されたとあっては、手打ちを済まさねば面子に関わると理解している。
しかしこれを喜びと言わずなんとする?
――まったくもって救いがたい。
「ひとは、どうせ……ないものねだりだもの」
声はかすれ、音になり損ねた。
いまは水中ではないのに。
しかしおかげで済度し難い問わず語りを口にせず済んだ。
なまえは自分の身がどれほどうつくしく、尊く、誇り高いものなのか、知っていた。
なぜなら「金糸雀」は張維新の「所有物」だからだ。
そのことに彼女は傲慢なほどの自負心を持っていたし、自分の玉体をなにより優先すべきという不文律を金科玉条と定めていた。
しかし同時になまえそのもの、ただの個人である「なまえ」は、ただひたすらに脆弱で、無益で、それどころか有事の際は足を引っ張るだけのブラック・シープでしかないこともよくよく知っていた。
「なまえ」は羽翼になり得ない。
そしてなまえはそのことに喜びを覚えていた。
どうにもならない。
どこへも行けない。
なにもできない惨めな女の首を、矛盾する感情とサーカマスタンスが絞めてくる。
銃を手に生きるか死ぬかという駆け引きの世界に身を置く人間に言わせれば、なまえの思春期の少女ったらしいセンチメンタルな「悩み」なんぞ、蓋し鼻を噛んだ使用済みティッシュペーパーよりも無価値に相違なかった。
しかしこの喜びがなまえだけのものであるのと同じように、この悩みもまた、彼女だけのものだった。
誰にもやらない。
誰にも味わわせてなどやるものか。
悄然となまえはまた「……救いがたい」と呻いた。
何をか言わんや、自己嫌悪、劣等感がぐるぐると体の内側で渦を巻いた。
鼻の奥がツンと痛み、ともすれば目の奥が熱く潤んでしまいそうだった。
「――……なまえ?」
この世で最も尊い主人の声に、ほとんど反射的になまえは微笑んだ。
丁度、張が閨房の扉をくぐって来るところだった。
風呂上がりのバスローブ姿でグラスを手にしている。
繊細なカットを施された薄いオールド・ファッションド・グラスは、しかし重量感のある趣で、彼の大きな手にしっくりと馴染んでいた。
琥珀色の液体が丸氷と戯れ、とぷんと揺れた。
広いベッドで殊更にちいさくなっているなまえが物珍しかったらしく、張は首を傾げた。
風呂上がりでサングラスはかけておらず、整髪料も付けていない髪からはぽたりと水が滴った。
平生きっちりと撫でつけられた黒髪がそうして下ろされていると、ただでさえ童顔ぎみの容貌がますますどこか愛嬌を漂わせるものになるとなまえは知っていた。
どうやら張がシャワーを浴びるのを待つ間、なまえはうとうとと微睡んでいたらしかった。
男のやわらかな目元が堪らなくいとおしく、彼女は潤んだ瞳を細めた。
いまにも泣き出しそうな顔のまま「だんなさま、」と囁いた。
今度こそ、声は音になった。
水のなかではない。
なまえはいま、張維新と共にいる。
また眠るのが怖かった。
あんな夢を、あんな思いをさせられるくらいなら、眠りたくなどなかった。
「――だんなさま……」
確かめるようにもう一度呼びながら、甘ったれた仕草で両腕を伸ばした。
張は濃い眉を器用に片方だけ上げて、手招かれるまま、寝台へ乗り上げた。
グラスをベッド脇のナイトテーブルへ置き、なまえの体へ覆いかぶさった。
なまえの視界の端で、からんと涼やかな音を立て、グラスのなかでランプ・オブ・アイスが揺れた。
男の背へ腕を回しながら、酒でも飲めばさっさと眠りに就けるだろうか、となまえはぼんやり考えていた。
アルコールに逃げようとするなど、実以ていま自分は参っているらしい。
なまえの視線で察したのだろう、張は微笑まじりに「飲むか?」と尋ねた。
「ふふ、お酒はだめだったんでしょう?」
「余所では、な。俺の前じゃあ構わんさ。……どうした、はぐれたガキみたいな情けねえツラして」
擦り寄り、唇をねだった。
重なった唇は熱く、酒と煙草の苦い味がした。
なまえの好きな味だった。
この男限定でだ。
頭の芯が痺れるような、心地好い倦怠感がじわじわと指先まで広がっていった。
ゆっくりと一度だけまばたきをすると、とうとう目の端から涙が一粒こぼれた。
「ふ、ふふ、さっきね……こわい夢をみたんです。内容は、もう……わすれてしまったけれど」
口付けの合間、吐息と大差ないちいさな声でなまえは囁いた。
目睫の間でなければ、きっと張にすら聞こえなかっただろう。
「――なまえ、」
「ん、ぅ……だんなさま……もっと、」
なにか言いたげな主人を遮り、まだすこし湿っている彼の頭を引き寄せた。
饒舌な張の厚い唇を、なまえは己の唇で塞いだ。
抱いてほしかった。
夢も見ないほど、ひどく。
(2020.02.01)