(※ノベライズ『ブラック・ラグーンA 罪深き魔術師の哀歌』沿い)
序章
なまえは胸中でひっそり呟いた。
「一体どこからお読みになっていたのかしら」と。
主の差配は、傍から見ていると、あたかも推理小説を最後のページから後先にめくっているかのような気分にさせられる。
元より主人、張維新の巡らせた謀を解そうなどと露いささかも思っていないとはいえだ。
眼下には繁華をやや過ぎた時分の魔都が広がっている。
炳として存すそのどこかで、いまも騒動の元凶たる娘が逃げ隠れしているらしい。
命の価値が平等ではないことなどとっくに小鳥は知悉していたが、それにしても舞台に上げられた対象が美国経済界における重要人物の娘、挙げ句NSAだの福建の布袋幇だのまで絡んでいるとくれば、なるほどお手軽にロアナプラ危急存亡の秋である。
そうそう気安く街の存続に関わるような事件が起こってもらっては困るというのに。
宵の口、件の娘を連れたロットンが、サンカン・パレス・ホテルで布袋幇の連中とかち合った。
なんぞ図らん、どのような天の配剤か、当座に居合わせたのはラグーン商会の二挺使いと水夫だった。
この街一番のホテルで阿鼻叫喚を演じたうちのひとりであるシェンホア当人から聞き取ったため間違いない。
大層お冠だったところをみるに、トリシア・オサリバンを巡るのとは別件でロットンはシェンホアの不興を買っていたらしいが、そこまでは小鳥の知ったことではない。
ともあれロットンたち逃亡者は、サンカン・パレスでの騒動後、レヴィやロックと合流したとみて間違いなかった。
前者はともかく、後者がこの“一大事”をうかうか指を咥えて看過すべくもない。
おそらくラグーン商会の水夫は、ネクタイを締めた首をまたも厄介事に突っ込んだのだろう。
そして彼をけしかけた――然らしめたのは、元を辿れば白々しくもラグーン商会へ情報を寄越した張である。
水端、本土南東の黒社会たる布袋幇には先んじてこちらの手の者を噛ませていたのだから、言うにや及ぶ、非力な小鳥一羽如きが名高い「金義潘の白紙扇」の深謀遠慮に類うべくもないとはいえ――。
ヒールのないフラットシューズを履いたまま、おもむろになまえは窓から離れた。
ひとりの寝室は秒針の音も聞こえず、塔の天辺には街の喧騒すら届かなかった。
床から天井までを覆う大きな窓越しに見える乱痴気騒ぎは、さながらスクリーンで繰り広げられる無声映画のようだ。
通話を終えた電話機をナイトテーブルへ避難させると、控えめな挙措で寝台に腰掛けた。
靴を脱ごうとして全身がつきりと痛んだ。
ひとりで眠るには広すぎるベッドに伏せて、なまえは、はっと息をついた。
睫毛に涙がしずくを結ぶのも致し方ないことだった。
日居月諸、ひとりの夜はあまりに長いものだから。
1
「ご協議中の無礼、どうかお許しください。旦那さま、お耳にお入れしたいことが……」
街で一等目を引く大廈高楼、熱河電影公司最上階へ、白百合の異香と共に現れたのは小鳥だった。
客人を迎えるにはすこしくはやい時刻ではある。
しかしロアナプラの眺望を見晴かす玉座めいたソファに構えた飼い主、張維新はなんら変わりなく金甌無欠、泰然自若であり、もしも慮外の客人さえいなければ、いつものようになまえはうっとりと瞳を潤ませていたに違いない。
正面に坐す客人、會克敏へなまえは「失礼いたします」と礼譲の微笑を奉じた。
絨毯を踏むレペットのバレエシューズは、靴音をほとんど立てない。
なまえはゆっくりと――事情を知らない者の目には「おっとり」と映るギリギリの緩慢さで――張の耳元へ唇を寄せた。
「旦那さま。“あの子”から連絡がありました。サンカン・パレス・ホテルでの騒動から一夜明けて……あちらの損失は現在、九名。このままでは舞台から降りるのを、皆さま、良しとはしないでしょう。引くに引けない情況かと。別途、窘めるお言葉が必要かもしれません。あの子には、もうしばらく浮足立たないよう抑えさせ、折を見て戻るように伝えました」
「ああ、上出来だ、なまえ。こっちもモスクワから連絡があったところさ」
「まあ、“彼女”から? どうして……」
「ロックだよ。あいつ、舞台上に火傷顔まで登壇させることにしたらしい」
「あらあら、ロックったら……。濫りに賭のレートを吊り上げたがるのには困りますね」
先程の電話で、飼い鳥と同じようなことを口にしたばかりだった張は「まったくだ」と肩をすくめて笑った。
次いで正面に座する青年、福建マフィア布袋幇を裏から操る“操偶老” 會舜天 の孫、會克敏へと向き直った。
「――失礼しました。トリシア嬢を巡る駆け引きが進行中なのは裏が取れました。先程の電話、いまの報告とあわせ、これは良い報せかと」
「ああ、そうでしたか。やはり貴方の耳には、この街を巡る風聞のすべてが届くようですね――張先生、貴方を頼って正解でした」
付き人のひとりすらもなく訪れた會家の御曹司は、粛然たる面持ちで頷いた。
配下の者たちの心積もりとは裏腹に、三合会の協力を取りつけた彼は、暴勇とも衒気ともかけ離れた礼儀正しさで「小姐、あなたもありがとうございます」となまえへ笑みかけた。
「張先生のお隣にいらっしゃる貴女のように、まだ見ぬ私の許嫁も、慎み深く、聡明な女性だと良いのですが」
「まあ、そんな……」
なまえはまるい頬に手を当てて面映ゆそうに微笑んだ。
恋を知ったばかりの処女もかくやとばかりの初々しさに、克敏はまた相好を崩した。
しかしながらこの場において、金糸雀の媚態に唯一惑わされぬ者がいた。
誰だろう、彼女の飼い主だ。
張は覚られない程度に浅く溜め息をついた。
なまえは會家の御曹司に称賛されたことを喜んでいるわけではない。
余所の人間から「“飼い主”に相応しい」と評されたことにただ満足しているだけに過ぎないのだ。
そんな腹の底を、女は恥じらいという擬態で隠して微笑んでいた。
主以外からの賛美など歯牙にもかけぬ小鳥の性根を知っている張は、和やかに会話を弾ませている會克敏となまえを胡乱な目で見やった。
2
分厚く垂れ込めた黒雲は、射るような驟雨を齎した。
突発的なスコールに沛然と見舞われた湾岸区画で、張は「なまえを連れて来なくて良かった」と形良い濃い眉をハの字に下げた。
飼い鳥は雨を――というより、服や靴が汚れるのを嫌う。
そもそもなまえがこの舞台の表へ躍り出て来る必要も理由も皆無であり、大人しく塔の天辺にて裏方に徹していた。
なにしろあのありさまだ。
方今、布袋幇の連中が自棄を起こして筋書きを破綻させるような不首尾をやらかさないように、この街からお払い箱にするため――下手を打てば、なにかと喧嘩っぱやい福建人との間に禍根を残しかねないとあって、方々手を尽くしていることだろう。
気疎い雨粒に打たれながら、手慰みにやわらかい黒髪を撫でたい心地がしたものの、当座、不在の飼い鳥に思いを馳せていると露呈しようものなら、これ以上色ボケ事は勘弁してくれと辟易されかねなかったため彼が馬鹿正直にそれを吐露することはなかった。
「……噂にゃ聞いてたが……旦那、本当にあのニンジャを手懐けちまったんだな」
「まぁな」
すくなくとも、岸壁に設置されたデリッククレーンのアーム部を、毒気を抜かれた表情で見上げているレヴィに露見しようものなら、胡散臭げな表情が輪をかけたものになること請け合いだった。
愛玩物に関するあれこれを十把一絡げに“色恋沙汰”と判ずるのは、いささか疑義を挟みたいところだったが。
雨粒が首を伝い、鬱陶しい。
当初こそ、土砂降りの雨のなか、地上約七〇メートルの高所、濡れた鉄骨の足場という、頭のネジがどこか外れていなければそも立とうとも思えない窮境で行われる異種格闘戦に、レヴィだけでなく周囲の黒服たちも目を奪われていた。
が、元来気の短いレヴィは端的に言って、そろそろ飽きてきた。
「あいつら、落ちるとか思わないのかな」
「さあな。どっちも心底、高いところが好きなんだろうさ」
「だな」
張に直接「やめとけ」と制されてしまった手前、懐のカトラスを抜くことはなかったものの、彼女が剣呑な期待を抱くのも致し方なかった。
「いっそのこと、さっさと二人まとめて落下死でもしてくんねェかな」と。
そんな彼らの冷淡な静観の姿勢は、誘拐された許嫁を救出すべく馳せ参じた會克敏にはお気に召さないものだったらしい。
「張先生、あの誘拐犯は忍者との対決に手一杯です。今ならばトリシアを保護する絶好のチャンスではないですか!」
「いやその、あいつら馬鹿だからあんな楽しそうに跳び回ってるんでして。今あのクレーンの上は大変滑りやすくて危険です。天候が収まるの待ちましょう」
「私の許嫁は、あんな危険な場所に取り残されて、雨に打たれて震えている! それをただ指をくわえて見ていろと?」
レヴィは、張が内心ぼやいた「いやでもそれ自業自得だし」というセリフが聞こえた気がした。
まったくもって彼女も同意見である。
「……宜しい。ならば私が行ってきます」
ふたりの無言の返答に、青年は覚悟を決めてしまったらしい。
「良いとこの坊ちゃん」然とした會克敏は、情義に燃えつつデリッククレーンへ駆け寄っていった。
レヴィは内心、バカが増えたな、と呟いた。
ともあれ眉をひそめながら「放っといていいのか旦那?」と張を仰いだ。
この街に――係争地を牛耳る「連絡会」に、いまのところ布袋幇の「席」はない。
しかしながら三合会の仕切る場において他組織の来賓者の身上になんらかの不都合が生じた場合、不味いどころではない窮地に陥ることくらい、無関係である彼女も了知するところだった。
「福建から来たお坊ちゃんってあいつだろ?」
「……まぁ仕方あるまい。無謀も若さの特権だ」
胡乱な目で眺めやっていた張が、純然たる疑問を口にした。
「なぁレヴィ、あの坊ちゃんがあそこまで入れ込むほどに、オサリバンの御令嬢ってのはイイ女なのか?」
レヴィはまるで項についた毛虫を払い落とそうとでもするかのように、ぶるんぶるんと頭を振った。
乳脂肪分過多のクロテッドクリーム並みにたっぷりトリシアとロットンのバカ騒ぎに付き合わされて、心底うんざりしていた彼女は、勘弁してくれと言わんばかりの食傷気味な表情で呻いた。
「いっくら口が裂けてもよ、アレを“イイ女”だとか言えねェよ……。そンなら金糸雀をありがたがる、イカれた団体の開祖になってやった方がなんぼかマシってもんだぜ、旦那」
「残念だったな、二挺拳銃。その役はとっくに売り切れだ」
「は?」
自分の耳が腐ったのかと、顔をしかめて聞き返してきたレヴィに、張は瓢げた仕草で肩をすくめた。
顎をしゃくって、遥か頭上のクレーンを指し示した。
「金糸雀を“聖女”と崇めるイカれた新興宗教はとっくにあるんだよ。ちなみに筆頭信者は、あそこで跳ねてるニンジャだ」
「……」
レヴィはげんなりと口唇をへの字に曲げ、閉口した。
3
陸韜は、握った電話機を砕かないよう堪えるのに必死だった。
「長々しい前置きはお望みではありませんでしょう? 初めてのご挨拶がこのようなものになってしまったことは、こちらとしても心苦しいばかりです」
鳴禽の囀りをひとが紡げたなら、蓋しこのような声をしていよう。
電話越しの女の声は、細い声音、謙抑的な語調、あえかな息継ぎに至るまで、片手一本で縊り殺すのは容易かろうと、陸が憶度するには十二分のか弱さだった。
「武威は皆さまの誇りとするもの、そう聞き及んでいます。殉ずるお気持ちは重々承知していますが、どうかお怒りを納めていただけませんか。――こちらの申し出は簡明です。會克敏さまとご令嬢、おふたりをお引き渡しします。皆さまがつつがなく本土へお戻りになることを我々は望んでいます。おふたりを無事にお連れすれば、あなた方の瀬も、多少は立とうというものではございませんか?」
女の言に違わず、陸がこの街に留まる理由も意義も、最早失していた。
己が身すら厭わないとまでに猛っていた激情も、折しもあれ、予想だにしなかった事態によって、あるいは煮立った脳髄へ突っ込まれた澄声によって、溜飲を下げるとまでは到底行かないもののいくらか緩和してもいた。
「……そっちの要求は理解した。が、あんたはここのボスってわけでもねえんだろう。居丈高にどのツラで俺たちにその“申し出”とやらを下しやがる」
「テーブルでお顔を突き合わせることをご所望ですか? それとも、このような重要な連絡を女から受けるのがご不満なのでしょうか。部下に摂行させても構いませんが……」
「は、お高くとまったあんたにゃ知ったこっちゃねえことだろうが、俺は男だの女だので区別しねえ。特にこんな人食い虎共の巣窟ではな。――首を刎ねるのに絞り込んだ、剣難な柳葉刀使いの女と撃ち合った後なら尚更だ」
「……まあ、それはそれは。さぞ高い悪役だったのでしょうね」
「やっぱり名うての殺し屋かなんかか、あの女」
「ふふ、どなたのことをおっしゃっているのか、わたしにはわかりかねますが。……いずれにせよ、主人からは礼を尽くすよう我々は命を受けています。會克敏さまはもちろんのこと、いま、
モーテルに滞在しているあなた方へも」
耳当たりの良い言葉は懇願めいて響き、小鳥の囀りを思わせた。
が、陸は間違っても懇願などではないことを理解していた。
これは慇懃に粉飾した「命令」である。
なにしろ會克敏から直接「大人しく引き上げろ」と言明され、糅てて加えて見計らったかのタイミングでこの電話だ。
本土ならばいざ知らず、ここロアナプラで幅を利かせている香港三合会と全面的にぶつかろうものなら、到底、陸ひとりに負える責ではない。
會家嫡子直々の指顧に反し、挙げ句この申し出とやらを蹴り飛ばした場合、残った弟弟たちの立場はおろか、命すら危ぶまれるとあっては、なんのためにこんな悪逆非道の芥場にまで足を運んだのか、馬鹿馬鹿しさに目眩まで覚える。
「……そもそも俺たちがこんな魔窟にまでお前ら香港相手に恥をさらしに来たのは、クソ厄介な娘ひとり連れ戻すためだ。――元凶のトリシア嬢は、まだ五体満足か」
「ええ、ご安心ください。こちらで保護いたしました。いまはおふたりご一緒です」
たかが素人の娘ひとりに振り回され、悪都を駆けずり回った陸たちを嘲るどころか、鴃舌めいた女の声には勝ち誇る色もなく、ただひたすら穏便に収めたいのだと切々に訴えかけていた――その本心がどこにあるのかまでは、彼にはまるで底が知れなかったが。
然らぬだに通訳兼添乗員の追い回しとして使役していたはずの男が行方と素性をくらましたばかりである。
悪魔の取引じみてやさしげな「お引き渡しについて相談したい旨、ご了承いただけますか」という「申し出」を諾とする以外、陸にどんな選択肢があったというのか。
4
小鳥は塔の天辺に飾られるようにソファに座していた。
眼下へ膝を着く巨躯を前に、なまえはぱちぱちとまばたきした。
「あら、あら、どうしたの。旦那さまからお聞きしていたけれど……あなた、もしかしてあれからずっと勝負していたの?」
シャドーファルコンには、福建南東の厦門で布袋幇の連中と接触させて以降、彼らの動きを逐一報告させていたが、主人より与えられた命を果たしたあとのことまでは関知するところではないとは言い条、まさかこの街のトリックスターとの熾烈な争いを繰り広げていたなど、にわかに信じられるだろうか。
「くっ、一生の不覚……! 未だ勝敗は付かず、おめおめと帰投したところ。しかし拙者、あれほどの相手と仕合うたのはこの街へ辿り着いてよりなかったこと。更に精進せんと修練に励み、必ずや戦果を挙げてみせましょうぞ」
「ふふ、好敵手を見付けられたのは良かったわね。でも、あまり無茶をしちゃだめよ。もしあなたが怪我でもしたら、わたし、悲しくなってしまうもの」
「御意ッ……!」
慈悲深い「聖女」の言葉に熱く頷き、黒装束に身を包んだ男はその場から掻き消えた。
相も変わらずご丁寧にシュタッとSE付きだった。
「……どんな手玉に取りゃあ、あんなザマになるンですかね、大姐」
溜め息をつきながら、彪はこれ見よがしになまえへ首を傾げた。
シャドーファルコンの報告の間も小鳥の傍らに控えていた彼は、サングラスでは隠しきれないほど全力で引き攣った顔をしていた。
元々良いとはいいがたい目付きが含んでいる険は、仮令この街の与太者共といえど目を側めて距離を取るだろうレベルだ。
しかしなまえは彪の凶相にも慣れたもので、辟易したような口ぶりの彼に、「人聞きの悪いことを言わないで」と肩をすくめてみせた。
手玉も揚げ足も取るつもりのない彼女にとって、部下の物言いははなはだ遺憾である。
なかんずくシャドーファルコンはわかりやすかったし、時宜を図るのも、どう振る舞うべきなのか、他人の欲するものを予測するのも、
自らへなにを望んでいるのかを酌むのも、主の威光以外に己の身を守る術を持たない「鉱山の金糸雀」は、それかあらぬか、昔から暗々裏嗅ぎ取るのに長けているというだけのことだった。
なまえはソファにかけたまま「そんなことより、」と大儀そうに彪を見上げた。
「最後のお仕事よ、彪。夕方、ラチャダ通りでロックを殺そうとした男の身元を洗わなくちゃ。こんな馬鹿げた恋愛コメディ、はやく終わりにしてしまいましょう」
「おや、今回の茶番はお気に召さなかったんで」
「CIAだのNSAだの、美国の富豪の娘やら福建“操偶老”の孫やら……要素を詰め込みすぎてだれちゃう映画、苦手なの。それに余所の色恋沙汰を楽しむには、役者も舞台も少々趣味が悪すぎると思わなくて?」
「はは、おっしゃる通り」
「わかったら、はい、何人か手配してちょうだい。本当にあの死体が間諜だったのか……望み薄でしょうけれど。とにかく素性が割れたら、旦那さまにご報告をお願いね」
「了解です、大姐」
「わたしは下がっているわ……。旦那さまがお戻りになる際は教えてね」
終章
白いフラットシューズのヒールは皆無であり、平素より格段に歩きやすかった。
ベッドに腰掛けたなまえが、足首のストラップを外そうと上体を屈めた瞬間、唇がかすかにふるえた。
夜も更けた閨で、女の一挙一投足を注視していたわけではあるまい、しかし憎らしいほど耳聡い張維新は息を詰めたなまえを看過してくれなかった。
「……あなたにこんなことをしていただくなんて」
口調はあくまで典雅であり、唇がつくるのも微笑の形だ。
しかしながら床に膝を着く張を見下ろし、小鳥は言に違わず居た堪れないとばかりに目を側めた。
彼女の背後でだらりと寝そべって煙草を燻らしていた主人は、苦心するなまえを認めるや否や、つと上体を起こしたのだった。
ベッドを下りて眼前へ跪いたとあっては、なまえが居心地悪そうな顔をしてしまうのも当然だった。
ジタンを咥えたまま「自分のものをどう扱おうが、俺の勝手だろ」と嘯く偉丈夫の闊達なさまときたら。
ガラス細工にふれるような手付きで、なまえの靴の留め具を外す飼い主はどこか楽しげですらある。
見下ろすなまえの顔は、飲み込めないものを無理に嚥下するかのようだった。
翼翼とした表情の理由は、言わずもがな主人の手をわずらわせているためだったが、しかし最たる原因は自らの情動によるものだった。
「恋い慕うただひとりのひとが、誰よりもわたしのことを理解してくれている」――それはまぎれもなく喜びだった。
自分の些細な変化や心情に敬慕する男が気付いてくれる面映ゆい心地は、喜悦に他ならない。
しかし同時に、覚られたくないのもまた事実なのだから、なまえが己の矛盾っぷりを厭わしく感じるのも仕方がなかった。
喜びと、無様な失態に気付かずにいてほしいと望むくだらない虚栄心、矜持とがないまぜになって、あに図らんや、いっそのこと男を責めなじりたい心地すらしてしまう。
断章取義、わざわざシェイクスピアを引かずとも、自身ひとりのためならば高望みしようもない身が、千倍もうつくしく、万倍も豊かになりたいと欲するのも、痛苦に歪みそうになる顔へ笑みを強いるのも、致し方ないだろう。
惚れた男の前でよりうつくしくありたいと欲する女の望蜀に、なんの罪があるものか。
「……もし、わたしが歩けなくなっていたとしても……こうしてくださいました?」
「金糸雀」は仮定の問いかけをしない。
なにしろ「もし」「だったら」「ならば」と仮定の話をいくらしようとも詮無く、この浮き世は起こったことしか起こらないと彼女は深く知り及んでいたからだ。
にもかかわらず、愚かな問いを吐いてしまったのは、飼い主の手をわずらわせている眼下の光景に耐えかねたためだったのか。
局外者の目には瑕疵ひとつなく映るなまえのうつくしい白肌は、しかしながらその実、間近で矯めつ眇めつしようものなら、うっすらとはいえ刻まれた古傷や痕が散見されるものだった。
白磁のひびを知り得るのは、今生ただひとり――その誘因である張維新ばかりだ。
そしてまた、醜い傷を他の誰より知らずにいてほしいのも、うつくしいだけと誤想していてほしいのも、彼ひとりなのだ。
なんという矛盾だろう!
己の内で渦巻く相反する感情に、なまえが自分の愚かさに耐え難くなるのもまた道理だった。
ただでさえなんの役にも立たない小鳥一羽、縦し歩くことすら困難になっていたら、軽々に厄介払いされてもおかしくない。
とても無事とはいいがたいものの、今回は後遺症の残るような重傷を負わなかっただけ幸いとすべきなのだろうか。
ストラップを外し、張は女物のローヒールを乱雑に放った。
咥えていた煙草をナイトテーブルの灰皿へ落とすと、益体もない盲言を吹鳴する女へ覆いかぶさった。
褥に横たわる華奢な身がかすかに強張った。
しかし逃げたり拒んだりすることは決してなく、白頬を撫でればやわらかく相好を崩した。
仰々しいガーゼからようやく解放されたなまえの頬は、張の指を無防備に受け入れ、あえかに紅味がさした。
「んなつまらねえこと囀ってくれるなよ」
女を窘めるには穏やかすぎる語調で、張はなまえの愚かさを笑い飛ばした。
今更だろ、と。
怪我に障らぬようゆるく腕のなかに閉じ込め、頬と頬がふれ合わんばかりの至近距離で低く囁く。
「それ以上、泣き言垂れるんならな、なまえ。お望み通り、傷ひとつ付かねえよう香港に――後生大事に仕舞い込んでやっててもいいんだぜ」
男の声は平生の恬然たるものより、多分にやわらかさを増していた。
ふたりきりの閨といえどあまりにやさしい声音だった。
なまえは瞳を潤ませた。
喉の奥が痛みを覚えるほど熱く、先程の比ではないほど唇がふるえた。
今生、張維新のそばにいられる以上の喜びをなまえは知らない。
有益な後ろ盾も縁故もない、不要であれば切り捨てるのはどんな人間よりも容易い所有物だ。
なまえが張のそばにいられるのは、不要ではない――畢竟、張がなまえを求めているということに他ならない。
張維新が望むから、なまえはいまここにある。
誰より、なにより恋い慕うひとの腕のなか、その幸福に肩をふるわせながら、彼女は愛らしく「やだ、おそばにいさせて」と呟いた。
(2020.01.27)
(2021.11.13 改題、加筆修正)