月のない夜だった。
もうほんの一、二時間もすれば、東の空が白み始めるだろう時分だ。
深夜というより白々明けを間近に控え、最も暗闇の深くなる夜空には、地に満ちる可視光によってその姿を幾許か霞ませてはいたものの、幾百の言葉を連ねようと形容しきれないほどうつくしく星々が輝いていた。
閑静な邸宅は華美というより明媚、豪奢というより瀟洒、粋を凝らした見事なものだ。
いまは邸全体に、穏やかな眠りがベールのように垂れ込めていた。
その奥の女性らしい白色を基調とした寝室には、ごく控えめに伽羅の香りが漂う。
それを塗り潰すような馨しい黒煙草を纏わせ、女の閨に入ってきたのはその飼い主だった。
一応あるにはあるものの、夙夜夢寐、部屋の女主人が自らの傍に侍っているため普段あまり踏み入れることのないなまえの私室へ、張維新は足を踏み入れた。
耳を澄ますとかすかに健やかな寝息が聞こえた。
寝台の中央、真っ白な褥から覗く黒髪は大層うつくしく、眠る女の輪郭をやわらかく縁取っていた。
風呂から上がったばかりのバスローブ姿で静かに腰掛ければ、ベッドは軋みもせずに男の身を受け止めた。
首にタオルをかけたまま、張が悠然とジタンを燻らしていると、ぐずるように「んー……」とあえかな細声があがった。
深く寝入っていたらしいものの、物音か、薫香か、あるいは主人の存在にか、眠りの淵から掬い上げられたように、なまえが身じろぎした。
「――起こしたか」
咥えていた煙草を指先で遠ざけ、張は低く問いかけた。
闇夜を思わせる声は夜凪の海めいて静かに響いた。
「いいえ……だんなさま……」
目を閉じたまま、なまえがむにゃむにゃと曖昧な返答をこぼした。
平生よりずっと舌足らずな口調で、可憐な桃色の唇がほころんだ。
「ん、ぅ……もうしわけ、ございません、だんなさま……お迎えもせず」
透けるように白い目蓋がふるえ、夜を思わせる瞳が現れた。
夢寐の姿は侵しがたい清澄さを漂わせていたというのに、いまはあどけない幼な子のようだ。
隙だらけ――どころか隙しかない安心しきった様子のなまえに、張は口元のジタンへ穏やかな微苦笑を添えた。
「構わんさ。先に寝とけって言ったのは俺だ」
本来予定されていた系列組織の幹部との会合は、つまらぬ横やりによってそもそものスタートが遅れてしまった。
現下の街で三合会へ真正面から喧嘩を売る愚か者などそうそう現れ得ぬことではあったが、なんの因果か、その馬鹿が薬でもキメて短機関銃を手に踊り込んできたのだ。
馬鹿共の本来の目的は張ではなく会合相手の系列組織にこそあったらしいが、ことしもあれ、泥臭い靴でお行儀悪く足を踏み入れられて五体満足で帰ることを許すべくもない。
つまらぬ表六玉のお相手すら務まらないのかと、相手の手落ちについてジタンを燻らしながら張が慨嘆している間にも、優秀な部下たちは匪徒共を制圧し、お行儀良くさせていた。
面倒な死体の後処理、そしてなにより相手方への処断等は、これまた優秀な部下に任せ、一足先に張は帰宅の途に就いた。
前もって帰宅が遅くなるため床に就いておく旨を言付けていたのは他ならぬ彼だったが、まさかここまでずれ込むとは思ってもみなかった。
やれやれと嘆息する代わりに、小鳥を愛撫するように艶やかな黒髪を撫でてやれば、なまえの目がとろとろと細まった。
張の大きな手をそれはそれは幸せそうに甘受し、微睡みながら微笑んだ。
打算も奸計もない幸福な笑みは、男の胸奥の深いところをくすぐるようにいとけない。
間違っても、数え折る指も到底足りぬほど数多の他人を黄泉路へ追いやった無頼者が向けられて良いものではないだろう。
が、然もあらばあれ、この女は、なまえは、今世、自分だけのものである。
掛け値なく真っ直ぐ向けられる思慕に、張はいっそ面映ゆい情感すら覚えた。
乱入してきた馬鹿共の乱痴気騒ぎのせいで腹底で澱のように燻っていた不快感が、あっさりと失せるような心地さえした。
そんな張の情動など知りもしないだろう。
なまえはまた眠ってしまうかと思われたが、やはり主人を出迎えられなかったのが余程心残りだったらしい。
緩慢に目元をこすりながら上体を起こした。
先日、済度し難い余所者によって負わされた傷も治りきっていないとあってか――しかし襲われているはずの痛苦をちらとも窺わせることなく――、ゆっくりと半臥の姿勢を取った。
改めて恭しく張を見上げ、とろけた声音で「おかえりなさいませ」と微笑んだ。
「おつかれさまでした……ご無事のおかえり、なによりです」
「ああ、時間ばかり食って大した話じゃあなかったな。会合中、どいつもこいつも揃って、偉そうなソファにふんぞり返るんじゃなくて、さっさと揺り籠か墓穴にでも埋まりたそうな顔してやがった。――そういや、なまえ、なんでこっちで寝てたんだ?」
枕元の灰皿へジタンを落としながら、張は首を傾げた。
なまえの横へ寝転ぶと、すぐに彼女が甘えるように擦り寄ってきた。
張の言う通り、このベッドはなまえの私室のものであり、平生は主寝室にてふたりで眠りに就くのが常だった。
主人の仕事の都合でなまえが先に就床する夜はしばしばあるものの、そのときも大抵、彼女は主寝室で眠っていた。
それが今晩に限ってなぜ、と。
些細な寝物語代わりにそう問う張に、なまえは甘ったるく「ふふ、」と笑みをこぼした。
愛嬌すら感じられる主の丸い双眸は、どこか不思議そうな色を浮かべていた。
サングラスという覆いがない分、いま張の表情は普段より窺いやすい。
隣に寝そべる張へすがりついて、なまえは逞しい胸元にうっとりと顔をうずめた。
シャワーを浴びたばかりだったらしいことを知って、ますます目元をとろけさせた。
いつもより高く感じられる主人の体温にふれ、また穏やかな睡魔に手招かれつつあるのを自覚した。
いままで眠っていたこともあり、小鳥の身も普段より温かい。
熱を確かめ合うように、分け合うように、互いの脚を絡ませた。
染みついた白百合と黒煙草の香りが混じり、脳髄の痺れる心地すらした。
なまえは馥郁たる芳香で肺をいっぱいに満たして「だってね、」と呟いた。
またとろとろと目蓋が重くなってきていた。
細い指を伸ばして張の頬をそっと撫でた。
「だって……あちらのベッドは、あなたの香りが濃くて……」
引き摺られる微睡みに相応に声音はおっとりと間延びし、甘やかな吐息はさながら夜にふれるかのようだった。
「……ひとりで寝ていては、さみしくなってしまうんだもの」
囁き声は極上の甘露よりも甘かった。
はにかむように身じろぎする彼女に、張は思わず相好を崩した。
おそらく情けなく眉が下がっているに違いない。
特段こちらの寝室で寝ていたことに不服も疑義もなく、なんの気なしに尋ねただけだったにもかかわらず、まさかこれほど愛らしい答えが返ってくるとは思わなかった。
音に出さず喉奥で笑い、張は腕のなかになまえを囲い込んだ。
どこか悪戯っぽく口角を吊り上げた。
「そんじゃあ、ふらふらされんのも心臓に悪いしな。こっちのベッドもマーキングしとくか」
「……いじわるなひと。あなたのスーツにも、わたしの香水をふりかけてしまいますからね……連絡会がおこなわれるときにでも」
なまえは、むっと桃色の唇をとがらせた。
今度こそ声を出して笑った張は、彼女のたおやかな肉体を傷に障らぬようやさしく、しかししっかりと抱きすくめた。
清らかな白百合の微香に包まれた。
抱き締めた女の肢体のやわらかさときたら。
気を付けていなければつい壊しかねないと危ぶむほど――金烏玉兎なき夜、目眩がしてしまいそうなほどだった。
(2020.01.22)