彪は慎重に、しかしどこか諫言じみた声音でボスにお伺いを立てた。

「手勢は整ってます。頭の足りねえ勇み足のバカ共が大量に。大哥が出張るほどの相手でもねェ。それでもわざわざお越しになりますか」
乃公出だいこういでずんば――まあ、俺が出た方が良かろうよ。飼い主直々のお迎えと来りゃあ、後々あれ・・り言に付き合わされんで済むしな」

張はやれやれとばかりに形良い太い眉を下げた。

「この街の人間が小鳥に手を出さねえのは狐假虎威――余所から来たばっかりの新参者フレッシャーには、そりゃ効果は薄いわな」

遠路遥々ご苦労なこったと肩をすくめ、通話を終えたばかりの電話機にちらりと目線を投げた。

「しち面倒臭えことに、ニュービー共はこの街に心底初心・・ってわけじゃなかったらしくてな。この街の意大利人ウォップに電話してやったら――奴ら、ちょいとばかり心当たりがあるんだと。ご丁寧にレター・オブ・クレジットまで発行してやった覚えはないらしいが」
「……最近、カラブリアがシチリアに下ったッてウワサですか」

思案顔で言葉を選び選び問う部下に、張は「どうかねえ……」と呟いた。
平生の洒脱な口ぶりこそ露いささかも変わりなかったが、眼光紙背がんこうしはいに徹する白紙扇の眼差しはどこか陰惨な憂いを含んでいた。
強い斜陽を反射するサングラスのその下、決して窺い知れない双眸に、気付ける者などこの場にいるはずもなかった。
――ただし飼い鳥ならばあるいは。

「八〇年代のゴタゴタで、ンな話も流れたもんだが。クソ共が立錐りっすいの余地もないこの街のなかではデカい声じゃあ言えねえが、ちらほら蚕食さんしょくされて、そのうち“友人たち”が引っ繰り返される・・・・・・・・ってえのもあながち――……。ふん、奴らの慌てようときたら、下手したてに出るどころか、山羊・・の区別も付かねえくらいで……笑えるぜ。さっきの電話、スピーカーにしてやりゃあ良かった」

上着へ腕を通しながら張が嘯いた。
立ち上がり、ばさりと黒いロングコートがはためいた。
有象無象すべて呑み込まんとばかりに黒い裾が、夜のようにうつくしく翻る。
新しく火を点けたジタンを唇の端でくゆらして男は笑った。
その立ち姿ひとつすら画になる伊達男――張維新チャンウァイサンは革靴の音高く、見晴みはるかすロアナプラの眺望に背を向けた。

「愛すべき我らの“ザ・ジョーズ”が、ここでデタラメ並べる利も義もねえしな。……まあ、売れる恩は存分に売りつけさせてもらうさ」

ひょうげた仕草で「レンドリースまで請け負ったつもりはねえが」と肩をすくめ、層楼の天辺から発った。
委細承知いさいしょうちと部下もその後を追従した。

黒煙草を咥えたその口角に笑みのようなもの・・・・・・を浮かべた男は、落陽を言祝ことほぐように低く呟いた。

「通す筋も通したところで――さて。ウチのお姫様を迎えに行くか」






廃工場に備えつけられた中二階メザニンの大きな窓からは、先程までなまえが転がされていた一階部分がよく見下ろせた。
窓といってもはめ込まれていたはずのガラスはとうに失せ、錆びた枠組みがぽっかり口を開けているだけだ。
思い出したように時折チカチカと点滅する安蛍光灯が、ますます寂れた雰囲気を増長させていた。
元は工場労働者たちを監視、監督するための場所だったのだろう、金網の床に三人がけのソファがひとつ置いてあるだけの簡素極まりない空間だった。

湿気のよどむコンクリート床から数時間ぶりに解放されたなまえは、スプリングなどという機能は数年前に放棄したらしい埃っぽいソファにぐったりと腰掛けていた。
今更、汚損や衛生面を憂うこともあるまい。
荒い網目の金属の床は歩くどころか立つのも難しいとあって、愛用のスティレットヒールは足元に揃えて置いていた。
ハンカチを取り出したなまえは、元の色を思い出せないほど汚れた靴を気怠げな表情で見やると、淑やかな挙措きょそで顔の泥、口元の血をぬぐった。

「ッ、う……」

ほんのすこし身じろぐだけで、殴打された腹部をはじめ、全身が筆舌に尽くしがたい疼痛を訴えてきた。
ともすれば目の前がふっと暗くなりそうだった。
とはいえ、舌こそべらべらと回りはするものの差し向きなんの脅威にもならず、仮借かしゃくない留置には値しないと判断されたらしく、なまえの両腕の拘束は解かれていた。
結束バンドジップタイできつく縛られていた彼女の手首は血が滲んで真っ赤になっていた。
擦過傷を負った皮膚は熱を持ってじくじくと痛んだ。

「……随分のんびりしてるなァ、アンタ」

服の袖口が傷に接して痛むのだろう、袖を折り、おっとりと肘までまくり上げているなまえを見やり、呆れた口調でドゥシュクが肩をすくめた。
硬い髭に覆われた口元に煙草を咥え、彼は最早ただの金属の卓でしかないコンソールに腰掛けた。
簡易ドアの向こうでは部下が二名、同じく煙草を吸いながら佇立していた。
先んじてロアナプラに逗留していた「イタリア人」に連絡し、本国の傍系組織を陥れる手筈は現下着々と進行していた。
手勢も武器も劣勢である現況で、熱帯のポイズンヴィル内で中国人共と真正面からやり合うつもりなんぞ端からドゥシュクにはなかった。
とはいえこの女の処遇はすべて彼の一存による。
犯すのも殺すのも融通無碍な身代、腕の一本でも置き土産にしてやっても構わなかった。
いずれにせよ日付けが変わる頃まで生きてはいまい。

にもかかわらずこんなときですら寧静ねいせいとして座す女に、ほとほと呆れたと言わんばかりにドゥシュクは首をひねった。

「困ったな。女の叫び声なんぞ楽しむシュミはないとはいえだ。ちょっとくらいは怯えるなり泣き喚くなりしてもらわねェと、なァ、こっちとしても張り合いがない」
「……いくらあなたたちが露悪的だからといって、わたしが嫌悪をいだいてあげる必要はないでしょう」

出血は止まったものの泥と血で見る影もなく汚れたワンピースを見下ろして、物憂げになまえが囁いた。

「そうか? 本当に・・・? そう思うか・・・・・?」

笑いながら、ドゥシュクは懐から標準装備のFNブローニング・ハイパワーを取り出した。
ブラウニング最後の作品、長らく数多の軍隊に採用されてきた傑作を愉快げに掲げた男は、撃鉄を起こしその黒い銃口をなまえへ向けた。

「使い方はわかるかね?」

彼女の膝上へ置いた。
SSリチャード・モントゴメリー号に無理やり乗船させられた哀れな生贄が些細な振動すらはばかるように、なまえがひくりと身を引き攣らせた。
たった一キロ程度のそれは、彼女の細脚にはあまりに重く、あまりに不釣り合いだった。

ささやかとはいえ、初めて「金糸雀カナリア」のうろたえたさまを目の当たりにし、ドゥシュクは浮かべた笑みをますます深めた。
彼にとって今更、女をひとり殺すのもふたり殺すのも大して変わりはない。
しかしながらたとえば悪名高い「白い手の女」の手を汚せるならば、それは女ひとり殺すよりも
ずっと愉快なことに相違ない・・・・・・・・・・・・・
無論、本来の目的は忘れるべくもないが、どうせ殺して棄てることに変わりはないのだ。
すこしばかりの余興に、お高くとまった澄まし顔をほんのわずかでも崩せるならば、ある程度の損失など屁でもない。
絶望に唇をわななかせるだろうか、瞳から涙を溢れさせるだろうか、はたまた初めて覚えた銃器の反動に魅入られるだろうか。
この女が銃を撃つところを夢想するだけで、たださっさと射殺してしまうよりも遥かに腹奥から湧き上がるような昂揚を感じた。

そのさまを「見たい」と思ってしまったのだから致し方ない。
いま外で本国と連絡を着けている腹心の部下などに聞かれようものなら、「ほんとにアニキのシュミはわかんねェ」と肩を落とすに違いなかった。
ベーラミの情けない表情を想像した彼は、それでもやはり嗜虐的な笑みをゆるませはしなかった。
「現代のソドムとゴモラ」と名高いロアナプラに蠢くサグス共が一度たりとも成し得なかったことを、新参者の自分たちが今日明日で為果しおおせたならば、これを愉快・・とせずしてなんとしよう。

「撃てよ、“汚れた小鳩ちゃんソイルド・ダヴ”。運が良ければ、俺を殺すことができるかもしれんだろう?」

ソファへ足をかけ「ああ、自決ッてのはナシだ、つまんねェからな」と笑いながら、なまえのすぐ横の座面を踏みにじった。
暗澹たる笑みをいよいよもって嗜虐的に歪め、ドゥシュクは舐めるように彼女の顔を覗き込んだ。

ふれ合わんばかりに顔が寄せられ、目睫もくしょうの間で紫煙を吹きかけられて、なまえは軽く咳き込んだ。
彼女の胸元にドゥシュクの吸う煙草の灰が落ちた。

「……まるでマンハッタン計画ね」

なまえは水分の多く絡んだ不快な咳をまたひとつこぼし、眼前の男を胡乱げに眺めた。

金糸雀カナリアがあなたたちの手中におちた時点でPONRはもうこえてしまったわ。どうしてこれ以上、無益なことをする――いえ、させるの・・・・?」

覚えの悪い生徒に根気良く付き合う教師を彷彿とさせる口調で小鳥が問うた。
声音はいっそ献身的ですらあり、取りも直さず自分が正しいと微塵も疑っていない声音でもあった。

「どこが帰還不能点なんだ? まだなんの“一線”も越えてないだろ? 俺も、アンタも」

新雪を踏み荒らすのに似た不可逆的な喜びに顔を歪め、ドゥシュクは言い募った。
ニィとすがめた片目は、濁った暗褐色ドラブだ。

なまえが薄く嘆息した。
繊手せんしゅを腿上の銃ではなく、自らのまるい頬へ当てて気遣わしげに小首を傾げた。

「それで満足するというのなら、わたしはかまわないけれど。でも、もしあなたに銃弾があたったとして……そとにいるあなたの部下たちが、わたしを殺さないという保証は?」

困ったように「わたし、まだ死にたくないもの」と肩をすくめる小鳥に、ドゥシュクはいささか意外そうに片眉を上げた。

情婦イロってェのは、ベラベラ謳って命乞いするか、気丈に“さっさと殺せ”と喚くかのどちらかだと思ってたな。ま、いずれにしろ救いようのねぇバカだッてことだけは確かだが。は、アンタはどっちでもないと?」

――「金糸雀カナリア」は張維新チャンウァイサンの「所有物」である。
なればこそ傷付ける権利・・も、生殺与奪の権すらもなまえ本人は持ち得ない。
しかしながららぬだに銃を差し出す済度しがたい拉致監禁犯を相手に、彼女が懇切丁寧に説明してやる義理はない。
ひどく億劫そうに目を伏せたなまえは呟いた――「そう驚くこと? 死にたくないとおもうのはそんなにおかしなことかしら」。

「……はァ、お姫サマってェのは手間がかかる。護衛ベビーシッターだけじゃねェ、丁重に殺してもらわんと死ねないか?」

ソファに片脚を乗せたまま、ドゥシュクはなまえの細顎をつかんだ。
乱雑に顔を握られ、なまえの喉が引き攣った。
薄汚れた爪が頬に食い込み、また傷が増えた。

「はン、じゃあ言い方を変えてやる。……選べ・・。いまここで俺に撃たれるか、その銃で俺を撃つか。――ふたつにひとつだ」

至極わかりやすいだろうと髭面が笑った。

廃墟は薄暗く、血と泥と鉄錆のすえた臭いが満ちていた。
落陽は今夜の寝床へ急ぐようにするすると落ちていき、ついに沈んで見えなくなった。
安蛍光灯がまばたきするように明滅していた。
そのとき彼の暗褐色ドラブの瞳をかすめた感情はなんだったのだろうか?

なまえが見上げて確かめるよりも先に黒い銃口が眼前へ差し出され、ア・グラン・ビザンスが「握れ、撃て」と囁いた。
怨嗟に似た声はひび割れ、この街の者たちが皆、澱のようにくすぶらせている、仄暗い昂揚が――暴力の歓楽が、男の目の奥で揺らめいていた。






「お断りするわ」

女の返答は密やかだった。
月に叢雲、花に風と、無粋な風に煽られれば掻き消えかねないほどだった。
しかしながら声色せいしょくは他人へにべもなく命じることに慣れた、決然としたものだった。

「理解していて? たっといこの身を、あなたが――東欧の片田舎からやってきたマフィアごときが、けがそうとかんがえることすらおこがましい。身のほどをしりなさい。一時いっときでもこの体にふれられたことを、光栄におもいなさい」

血に濡れた赤い口唇で、思わず目を惹かれるほど完璧に女は微笑んだ。
世俗のものになどくみせぬと言わんばかりの高踏的な笑みだった。

「あなたの言うとおり、おひめさまは手間がかかるものなのよ。一歩あゆむため、お迎えに来ていただかなければならないほど……。だからお待ちするの。なにがあっても。ガラスのひつぎのなかで……あるいはいばらのお城で、あるいは継母や継姉たちとすむ屋敷のおくで、あるいは口をつぐんで刺草イラクサを編んで、」

ゆっくりと、なまえはそれはそれは品良くソファに座り直した。
脱いでいた白いスティレットヒールへ爪先を収めた。
慎み深く膝を正し、乱れた黒髪を指先で払い、牡丹ボタンの花のように座する女は、この上なく驕傲きょうごうな仕草で顎を上げた。

いくら殴打されようとそしられようと、感情を大きく揺らがせもしなかった女はいまや一体どこへ行ったのか。
いまなまえの瞳に浮かぶのは、声に滲むのは、まぎれもなく弾けんばかりの歓喜だった。

「――あるいは、塔のてっぺんで」

さながら白昼夢。
いままで見てきた彼女の笑みはただ口角を上げただけの形だったということを、唐突にドゥシュクは理解した――欣々然きんきんぜんとした笑みは自分に向けられたものではないということも。
なんとなれば女の目線は遥か背後だった。

「それが、お姫様の矜持よ」
「――イイ女だろ・・・・・?」

襲った衝撃は、あたかも焼けた鉄杭を両脚にねじ込まれたかのようだった。
火薬の炸裂音が轟いたそのときには、男はなまえの顔から手を放し、祈りを捧げる受難者のように彼女の前で両膝を着いていた。
両の腿裏を正確に、かつ同時に撃ち抜かれ、ドゥシュクはなにが起こったのか把握するのに数瞬を要した。

銃口から硝煙が細くたなびていた。
両の手に携えるのは「天帝双龍ティンダイションロン」――驕奢きょうしゃな二挺の拳銃だ。
雨が上がって数刻経ち、日陰に残っていた汚い水溜まりと泥が腐ったような不快な臭気のなかへ、香り高い黒煙草ジタンの薫香と共に足を踏み入れたのは、古風なティアドロップ型のサングラスをかけた偉丈夫だった。

「素直に手に余るって言ってくれて構わんよ。このお姫様はなかなかどうして扱いが難しい」
「て、テメェッ……どうしてここがッ……!」

裂けんばかりにまなじりを決し、ドゥシュクは床にひざまずいたまま闖入者を見上げた。
夜が立っていた。
両手から白く立ちのぼる硝煙を纏わせ、夜の魔都バビロンを引き連れ、コルテの革靴でステップを踏むように軽やかな足取りで、男は――張維新チャンウァイサンは肩をすくめた。

「ご丁寧に教えてやる義理はねえ。だろ? ――まあ、そうだな、冥途の土産にひとつ教示してやる。人ひとり……特に、“金糸雀カナリア”みてえなわかりやすい餌・・・・・・・かどわかすときには、遠慮せずに身ぐるみ剥いだ方が良い。なんせ、なにが仕込まれてるか・・・・・・・
わかったもんじゃないからな・・・・・・・・・・・・・

主の言葉を受けてなまえがちいさく笑い、履き直したばかりの白いヒールを見せびらかすようにドゥシュクの眼前で揺らした。

「ッ……!」

ギリギリと奥歯を噛み締め、ドゥシュクは呼吸荒く呻いた。
撃たれた場所が場所だけに、射創を押さえ止血することすら現状、困難だった。

もあらばあれ、激痛と屈辱に揺れる彼の横を通り過ぎ、張はなまえの傍らに立った。

「なにか言うことは、なまえ?」
「……申しわけございません、だんなさま。ご足労を。小鳥の落ち度です」

なまえはおもむろに立ち上がり、恍惚に喘がんばかりに朱唇をふるわせた。
恥じ入るように悄然とうつむいて飼い主へ恭しく一礼した。

先端が赤々と燃えるジタンをくゆらし、なまえの前に悠然と立つ全き主の姿は、夜闇がわだかまり造形したかのようだ。
黒いサングラスは地獄の釜底を映したように暗く光っていた。
喪服じみたダークスーツ、はためく黒いロングコートと白いマフラーはうつくしく、嗤笑ししょう纏う雄姿に、闇夜すらその場を譲るだろう。
この世のものならざる影像シルエットへなまえはそっと寄り添い、ちいさな手で、きゅっと男の上着を握り締めた。
とろけたなまえの笑みはいっそ罪深いほどで、細められた目蓋からこぼれるのは狂熱にも似た輝きだった。

金網の床へ膝を着いたドゥシュクは血走った目をはしらせ、周囲を見渡した。
わずかに開いた背後のドアから胸の悪くなるような濃い血臭が漂ってきた。
むせ返りそうな臭気の原因は、警守していたはずの部下たちの死体に他ならなかった。

中二階メザニンの窓からは、いつの間にかお仕着せの黒服たちが階下に蔓延はびこっているさまがよく見えた。
足元では見慣れた地味なスーツの男たちが制圧されていた。
銃声はおろか、怒号、喚声、車のエンジンやスキール音すら聞こえなかった。
見事としか称せぬ鎮圧劇に、ドゥシュクはひざまこうべを垂れた姿勢のまま、憎々しげになまえを呼んだ。

「……なァ、アンタの手で、殺してくれ」

血を吐くような声というのはけだしこのことだ。
なぜ今際の際にこんな益体もないことを吐いたのか、懇願してしまったのか、彼にも判然としなかった。
しかしほとんど衝動的に口を衝いて出た言をめるはずもない。

すがるように見上げてくる暗褐色の目を、地獄の底から這い上がってくる亡者に対する聖母めいた穏やかさと無関心さでもって見やりながら、なまえは清澄な声音で囀った。

「いいわ――なんて、言うと思って?」

一足先に死者の河を渡ってしまったかのような面様おもようの男を見下ろし、可憐な唇で弧を描いた女は彼の破滅を宣告した。

「お生憎さま、ミスター・ドゥシュク。わたしの“ハジメテ”はね……ふふ、すべて・・・
このご主人さまに捧げると・・・・・・・・・・・・決めているの・・・・・・

囀りは、愛を告げるように秘めやかだった。
笑った女の瞳はひどく冷たく、否、温度を感じられないうろの如き侮蔑だけ孕んでいた。
なみするようにすがめられた目は、一歩たりとも近寄ることを許されない拒絶の色だ。
黒い虹彩はそれそのものが生きているかのように蠢き、深い夜に漂う霧を思わせた。

全身にぶわりと浮かぶ脂汗に塗れたまま、ドゥシュクは喉奥から引き攣れた唸り声を漏らした。
呼吸すらままならず、口内がからからに乾いて、あたかも言葉をそのまま乾燥させ、粉々に砕いて吐き捨ててしまったかのようになにも言うことは敵わなかった。

時が止まったような須臾しゅゆの沈黙ののち、突如としてなまえは「っ、は……」とちいさく息をこぼし、糸が切れたようにぐったりとうつむいた。
いつ凌辱されるか、殺されるかという極度のストレス状態に置かれていたところに、嗅ぎ慣れた飼い主の紫煙の香りを肺いっぱいに満たして安堵したのだろうか、とうとう緊張が途切れて気を失ってしまったらしい。
しかし主人の逞しい腕に抱き寄せられて、無様に崩れ落ちることはなかった。

張は左腕でなまえの腰を抱え、唇から縷々るると紫煙を吐き出した。
見下ろせば、豊かな黒髪は血糊のせいで幾筋か固まっていた。
尼僧服めいた禁欲的なワンピースは元の色を思い出せないほど汚れていた。
所々くっきりと刻まれているのは男物の靴跡だ。

早急に治療を受けさせねばならなかったが、しかし意識を失って尚、なまえの白い手は色が変わるほど強く主の上着を握り締めていた。
ぐるりと手首に刻まれた擦過傷からは未だ鮮血が滲んでいた。
その繊手せんしゅが、細肩がふるえていることは、すがられている飼い主しか知り得ぬことだった。

「……だ、そうだ。残念だったな、俺で勘弁してくれ」

口の端のジタンに酷薄な笑みを添えながら張維新チャンウァイサンが嘯いた。

「ガイドブックを読み込んどくべきだったなあ、お上りさんはこれだから困る。この街の風聞は細大漏らさず俺の耳に入ってくるが……それにしても浅略じゃないか? お宅ら東欧くんだりの田舎マフィアと手を組んだ、イタリアのご友人とやらのことは俺は知らんが、随分と分の悪い賭けにベットしたもんだ」

一見ひとの好さそうな洒脱な笑みのまま、張が肩をすくめた。
ドゥシュクは深く理解させられた。
いまこの場を圧倒し、支配し、それでいて従容しょうようたる佇まいのこの男が、地獄の忌み地ロアナプラを牛耳るに相応しい梟雄きょうゆうであることを。

掉尾ちょうびの手向けか、ぜえぜえと肩で息をし二の句も継げずにいる彼を前に、張はよどみなく続けた。

「えーと、なんだったか。……そうそう、なあ、どういうオチと勘定を着けたら良いと思うかね? 残念ながら、諸手を挙げて大賛成ってえ選択肢なんざ、往々にして望むだけ無駄ではあるんだが……今回に至っては、ロアナプラのイタリア人――コーサ・ノストラのロニーとの約定じゃあ、お宅んとこアルバニアから何人か寄越してやらなきゃならんと来た。そうでもしないと、あっちのメンツが立たねえんだと。やれやれ、面倒なもんだ。お前らが仲良くしてる、意大利人ウォップ共への見せしめに必要らしい。欧州じゃともかく、この街でデカい顔されちゃあ、“ロニー・ザ・ジョーズ”の矯正器具に傷が付いちまうもんなあ。……で、その代わりここの手入れ・・・は俺たちが預かったってわけさ。――オーライ、ここまで理解してるか? ……ただ、ウチの小鳥がこれだけ痛めつけられたんだ、お前さんには生半可な責め苦程度じゃあ勘定が合わなさそうだ。さっさと死んだ方がマシってくらいのやつでもな。――なにより、」

流れるような弁舌の合間、張は口の端の煙草を吐き捨てた。
鷹揚に首を傾げてみせた。

「リマ症候群気取りか? 他人サマのモノに手を出すなんざ、お宅らのカヌンやら 血讐 ジャクマリャとやらを引くまでもねえ、ろくなことにならないって知らんほどに、糞尿しか詰まってねえのか、その頭には? なあ、クソ袋」

傲然ごうぜんたる「雅兄闊歩ウォーキン・デュード」の声は、サングラスの奥の瞳と同じく静かだった。
しかし男の耳にはこれまで聞いたどんな人間の声より豊かに響いて聞こえた。
危うく聞き惚れるところだった――サングラス越しの黒い双眸が、凍るほど冷たく、見る者に強制的に畏怖を抱かせるものでなければ。

強い既視感にドゥシュクは喉奥を引き攣らせた。
夜降よぐたちの廃工場内でいやに目に付くその陰惨な炯眼けいがんは、先程のなまえの双眸に酷似していた。
底知れぬ侮蔑と冷笑に光る目だ。
否、小鳥が飼い主に似ただけか。

「ふ、丁重に付き合ってやりたいのは山々なんだが……お前のために割いてやる時間は一秒でも惜しくてな。時間ってやつは有限だろう? どうせなら小鳥これのために使ってやりたいんでね。――というわけで、だ」

憎悪と瞋恚しんいを孕み、ぎりっと象牙のグリップを強く握る鈍い音が聞こえた。
もし左腕に女を抱いていなければ、その手でくびり殺されていたに違いないと思わせるほどおぞましい音だった。

堂にった所作で左腕になまえを抱き、右手に愛銃を掲げた男は、地獄の悪鬼が如き笑みで死をもたらした。

「頼むから、俺となまえとは違う地獄に落ちてくれ」

至極、現世は罪人ばかり。
頭蓋に叩き込まれた銃弾は、いみじくも延髄を破砕した。
血と脳漿をぶちけた死体には目もくれず、張維新チャンウァイサンはなまえを抱き上げてその場を後にした。



(※おまけ。その後、車中にて)


「ぁ、んぅ……っ、だめです、だんなさま……御身がよごれてしまいます」
「そう言ってくれるなよ、なまえ。褒美のキスくらい、文句のひとつもあるめえよ」
「……ね、だんなさま。愚かだとお笑いになって。……あなた以外の男にふれられるのがいやで、必要以上に挑発しました。あなたのものを傷つけてしまい……申しわけございません」
「ふん。どうせ、ンなこったろうと思ったぜ。女を犯すには度が過ぎてやがる外傷だ」
「……ねえ、だんなさま……醜くけがを負ったおんなを抱くごしゅみがあります?」
「そうだなあ、相手にもよるかね」
「ふふ、よかった。もどったらなまえを抱いてください。あなた以外にふれられた肌が心地悪くて……たえられません」
「は、良いだろう、ペットの面倒はよくみる方だ。……でもな、暫くはお預けだ。まずは手当てと検査――出血は止まったようだが、手術が必要かもしれねえだろ」
「……あなたがそうおっしゃるなら」
「そう不満そうなツラするなよ、なまえ。快癒したら覚えておくんだな。犬みてえにお前が乗っかられてんのを見て、俺がなんとも思っていないと? 自分のモノにクソがふれやがって、手ごと指ごと一本ずつ落とさなかったのを後悔してねえなんざ、思っちゃいないだろ」
「ふ、うふふ……はい、だんなさま。どうか罰してください……なまえを」


(2020.01.20)
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