1
群青の空の下、銃声が鳴り響いた。
ひとりで車中に残っていたなまえは深々と溜め息をついた。
それ以外にいまの彼女になにができただろう?
永劫にも思われた銃声の叫喚もいつの間にか治まっていた。
再び訪れた膿むような静寂に、なまえは伏せていた睫毛をひどく大儀そうに上げた。
ガチャリと後部座席のドアが開いた。
茹だるような熱風がむわりと吹き込み、それと共に黒い銃口が差し入れられた。
なまえはもう一度だけ嘆息して、ゆっくりと自ら車から降りた。
2
これ以上ないというほど顔をしかめ、彪如苑は盛大に舌打ちをほとばしらせた。
こめかみがひくりと引き攣るのを自覚し、ますます眉根が寄った。
舌打ちと共に、懐のベレッタをぶっぱなさなかった自制心を褒めてやりたいほどだった。
サングラスでは到底隠しきれない彪の鋭い眼光にさらされる只中で、報告する部下たちは揃いも揃って顔面蒼白だった。
一般人ならば、否、この街に蔓延る二束三文の匹夫共すらも目も合わせず避けるだろう黒服の強面たちは、いまや泡を食って滑稽なほど冷や汗に塗れていた。
その醜態を嘲る余裕を持つ者は、この場には誰ひとりいなかったが。
「チッ、大哥には俺から報告する。お前らは下の奴らが爆ぜねェよう抑えとけ……特に、なにがあっても大姐信者のバカ共を動かさせるなよ。情報も余所に漏らすな。これ以上の厄介事は御免だ」
声を荒げるでもなく不気味なほど静かに吐かれた言葉はいっそ呪詛じみており、眼光で殺せるものならひとりやふたり葬っていてもおかしくはない凶相で呻いた彪に、「は、はいッ」と哀れにも少々裏返った声が即応した。
バタバタと足早に下がっていった黒服たちの背へ向けて、彼は再度舌打ちをくれてやった。
はあっと肺腑ごと吐かんばかりに深々嘆息し、乱雑にがしがし頭を掻いた。
この後のことを考えると、煮え湯どころか無理やり鉛を飲まされたかのような気分に陥った。
問題はそれが比喩などではく、現実に起こりかねない危殆であるという点だった。
飲まされるのは鉛玉であり、腹へ直接ブチ込まれかねないところが暗澹たる気持ちをますます加速させた。
こういった緊急事態時、直接の部下はハズレくじどころか、知らぬ間に祭壇にひとり取り残された供犠のようなものだ。
文字通り虎の口に入る心地で、彪は忌々しげに「社長室」の扉に手をかけた。
ボス、張維新に報告するためだった――「金糸雀が何者かに拉致された」と。
3
腐臭漂う廃工場の床に転がされたなまえが、意識を取り戻してよりまず行ったのは、おっとりと眉をひそめることだった。
後ろ手にきつく縛られた腕と肩は勿論のこと、長時間無理な体勢で固定されていた全身の節々がひどく痛んだ。
身じろぎもせずになまえは己の短慮を悔いた。
どれほど時間が経過したのか判然としないものの、数刻前、小鳥と護衛兼運転手の黒服一名を乗せたベンツは、暴力教会での「お茶会」からの帰途にあった。
碧落の下、熱河電影公司大廈への帰路にあって、やにわに子供が車の前へ飛び出してきたのだ。
運転していた黒服が思わず「クソッ!」と呻いた。
ドンッという衝撃が車を襲い、呆気なく子供は車の下で寝転がることになった。
「……大姐、すみません。少々このままお待ちを」
「ええ、ご苦労さま」
轢殺した死体を片付けるため、溜め息をつきながら部下の男が降車した。
大通りならば「赤信号では止まる」「車道には飛び出さない」程度の社会通念は保たれているものの、ここロアナプラにおいて、整備された信号機やまともな交通ルールなどあってないようなものであり、こうした不幸な事故は往々にして発生した。
しかしながらなかんずく「連絡会」の陣容、四巨頭の目立つ高級車へ飛び込む愚行を犯すのは、いくら年端も行かない子といえど滅多になかった。
街の版図を知ることは、生死に直結しているとあって、自分の名前を読み書きするより先に学ぶべき最重要課題である。
つとなまえは柳眉をひそめた。
考えられるのは、金銭的に困窮した子、あるいはその親にはした金をチラつかせ、そうなるよう仕向けられた場合だ。
――なんのために?
たとえばターゲットが乗る車を足止めするため。
たとえば対象から護衛を引き離すため。
死体によって両手を塞がれた男を殺すことは、それこそはしこい子をひとり殺めるより容易い。
はっとなまえが車窓から外を窺おうとしたところで、鳴り響いたのは乾いた銃声だった。
ひとりで車中に残っていたなまえは深々と溜め息をついた。
それ以外にあのときの彼女になにができただろう?
残念ながら、この浮き世は起こったことしか起こらない。
「……おっ、お目覚めか? お姫サマよ」
ジャリと硬い革靴の音が耳元で鳴り、なまえの横へ男が屈んだ。
「随分ぐっすりお休みだったなァ、薬が効きやすい性質か?」
「……さあ。自分から試したことはないから知らないけれど」
転がされたコンクリートに片頬を着けたまま、おもむろになまえは男を見上げた。
降車直後に無理やり打たれた注射は麻薬の一種だろうか、未だ意識は靄がかって判然としなかった。
地味なスーツを着た男は濃い顎髭に覆われた顔面をニヤニヤと歪ませ、なまえを見下ろしていた。
風体といい、物言いといい、この街に掃いて捨てるほどいる表六玉共と区別が付かないが、どこの組織に属する者だろうか。
否、香港三合会に直接手を出すような分を弁えない愚か者は、済度しがたい余所者である公算が大きかった。
「オレたちのボスが、アンタにお会いになりてェそうでなァ、お連れしたンだよ。しっかし困ったことによォ、ボスの到着がちィとばっかし遅れててな。お姫さんは寝こけてやがるし、このままヤッちまおうかと考えてたンだが……丁度起きてくれて良かったぜ。反応ねェ女を犯すのなんぞ、死体撃ちよりつまんねェだろ?」
なまえの脇に屈んだ男が嗤笑まじりに長口上を並べた。
どうやらいまこの場でのリーダー格らしい。
背後には他に銃を携帯した男が三名いた。
湿った黴臭いコンクリート床に流れる黒髪、薄汚れた白いワンピース、裾がめくれ露わになった下肢、破れところどころまだらに穴の開いたストッキング、血の滲んだ膝――拘束され床に這うなまえを眺めて、皆一様にニヤニヤと顔を歪めていた。
動きが制限されているため彼女からは窺えなかったが、出入り口にはまだ数人いると見て間違いないだろう。
荒廃した廃墟はところどころ窓ガラスが割れ、得体の知れない貨物や銃火器を積載した軽牽引車が止まっていた。
湿った土のすえた臭いが立ち込める不衛生な地面に転がったまま、なまえは胡乱な眼差しでそれらを眺めた。
泣き喚くでもなく、命乞いをするでもない、ひどく反応の鈍い彼女が気に食わなかったのだろうか。
立ち上がった男は、革靴の爪先でぞんざいになまえの顎を上げさせた。
這った体勢のまま無理やり顔を上げさせられて細首が痛んだ。
しかしなまえは苦痛の感情を一切見せず、ただ澄んだ瞳で男を見上げた。
黒い目のどこにも怯えも嫌悪も見出せなかったのが余程お気に召さなかったのか、男は「ふン」と鼻を鳴らした。
興醒めと言わんばかりに爪先でなまえの頬を蹴った。
「ッ……! ぅ……」
硬い革靴に蹴り飛ばされ、なまえの頬と首に鋭い痛みがはしった。
口腔に鉄錆の味が満ち、口の端から血が垂れた。
「――ふ、ふふ」
女は可憐な唇から血を吐きながら、いっそ不気味なほど朗らかに笑った。
あまりにもこの場には似付かわしくないやわらかな笑みだった。
だからこそ薄気味悪かった。
運搬、蔵置しやすくするため静脈に注射したのはオピオイド系のドラッグだ。
量によっては中毒死も起こりうるが、気がふれる類のものではなく、実際、投与したのはほんの少量だった。
金糸雀は銃把を握ったことも、ナイフを手にしたこともないと、彼も聞き及んでいた。
しかしまさか自分の置かれた状況すら正しく理解できないのかと、話にならない愚かしさに辟易しながら男は吐き捨てた。
「ロアナプラっていやァ、口にするのもおッそろしい、ヒルブロウやらダウンタウンより地獄に近ェクソ溜めッて聞いてたンだが……。この街はアンタみてェな頭のユルい女でもデカい顔してられるほど、ヌルいとこだったってことか? はン、拍子抜けだぜ。それとも、アンタが単に特別“お花畑”ッてだけなのか?」
手にした自動式拳銃、Cz75をなまえへ向けながら男が笑った。
黒い銃口を無感動な眼差しで見やり、なまえは浅く息をついた。
「反論したいところは多々あるけれど……そうね、前者は否定しても良いんじゃないかしら。APS拳銃にパラベラム弾を装填できないことは、この街に住む十歳にも満たない子でも知っているもの」
「その割にスチェッキンなんざゴツいモン知ってンだなァ、武器屋ってワケでもねェんだろ?」
「知人がお持ちだから、知り及んでいただけ」
なまえは伏し目がちに呟いた。
しかし目を逸らすことなど許さないとばかりに、銃口を顎に押し当てられた。
ぐっと顔を上げることを強いられ、なまえはかすかに柳眉をたわませた。
安全装置は外れており、男がその気になれば、取りも直さずほんの数キログラムでも指へ力を込めれば彼女のちいさな頭は景気良く吹っ飛んだに違いない。
顔面を寄せて至近距離で男が笑った。
「ほらァ、な? 東洋女は締まりがイイって言うだろ? 売り飛ばす商品にはつり目もゴロゴロいやがるがね、タチの悪ィ病気でも移されちゃ堪んねェからよ……アンタで確かめさせてくれるか?」
不躾な視線と卑俗な口振りでニヤニヤと男が首を傾げた。
男の背後で、豚に似た短躯肥満の男が「オレらに回す前にガバガバにしねェでくれよ、ベーラミ」と下卑た哄笑を響かせた。
なまえはベーラミと呼ばれた下劣な男を静かに見上げた。
「ふ、うふふ……どうかしら。あなたたち程度では、
ゆるく感じられるかもしれなくてよ? わたしの飼い主ったら……それはそれは逞しいから」
月日星は典雅だった。
蔑するようにくすくす笑う女の顔貌は、場所が場所ならば包蔵禍心の茶会で他愛ないおしゃべりに興じているかのようだ。
ヒュッと風を切る音がしたかと思えば、なまえは銃口の台尻でこめかみをしたたか殴りつけられた。
殴打された勢いそのままに再度床へ顔をうずめ、意識が一瞬遠のいた。
視界が明滅し、頭蓋のなかでうわんうわんと不快な音が反響した。
受け身も取れずコンクリートの床で強打した頬や頭は、擦れ、鋭い痛みと共にずきずきと不快な熱を持ち始めていた。
鮮血が伝い落ち目に入るも、後ろ手に拘束されているとあっては拭うこともできない。
激情に駆られるまま、ベーラミは腹立ちまぎれに二度、三度となまえの腹部を足蹴にした。
そのたびに石床を血反吐で更に汚しながら、なまえが呻いた。
肉を打ち据えるくぐもった音が鈍く響き、細い肢体が不規則に痙攣した。
「はーッ……ふン、上等だぜクソアマ、テメェの穴に突っ込むなんぞ、コイツで十分だ」
煙草臭い、溜め息に似た憎悪の吐息を深々と吐き出すと、男は銃をなまえの眼前に掲げてみせた。
「精々、楽しみにしとけよ。用済みになりゃあ、テメェの穴に拳ごと突ッ込んで引き金を引いてやッからよ」
男の濃い顎髭から覗く口は怨嗟の形に歪んでいた。
血と泥に汚れた「穢れなき処女」の鼻先で、これ見よがしにCz75をユラユラ揺らしながら嘲り笑った。
不快な笑みを真正面から見上げ、なまえもまた、唇を赤黒く染めながら、にいっと口角を吊り上げた。
「ぐっ、ぅえ……ッ、ふ、ふふ……光栄に、おもいなさい……。主をのぞいて、この体に傷をつけて生きているのは――いま、あなただけよ」
口腔、鼻腔に血液が溢れているのだろう、途切れ途切れに崩れた喘鳴はひび割れていた。
ベーラミは肩をすくめた。
然なきだにこの期に及び、怯えたり泣き喚いたりするどころか、鮮血と共に贅言を吐く女に、呆れを通り越して一種の馬鹿馬鹿しい感嘆すら覚えた。
銃を仕舞い、彼は懐からナイフを取り出した。
年季の入った堅牢なロックバック式のナイフはフォールディングナイフにしては大振りであり、手入れはされているものの可動部はやや錆付き、男が使用してきた不行跡とその年月を思わせた。
なまえの眼前で刀身がぬらりと光った。
「ハッ、口の減らねェ女だ。お望み通り、傷とやらを付けてやるぜ、殺す前になァ。一生残るようなデケェやつをよ。指でも落とすか? いや、テメェの気持ち悪ィ笑い顔が気に食わねェな、いっそのこと道化師にすんのはどうだ?」
くたばンじゃねェぞ、俺がボスにどやされる、と肉を裂く喜びに頬を引き攣らせながら、男がなまえの顎をつかんだ。
もしもそのとき彼のボスが現れ、血気盛んな部下を諫めなかったなら、物騒な宣言通りになまえの顔面は無残に切り裂かれていただろう。
現れた男は髭に覆われた口元に笑みを浮かべ、血の泥濘のなか這うなまえを見下ろしていた。
「やめろ、ベーラミ。俺はお連れしろとは言ったが、肉を切れとは言ってない。――アンタがかのミス・“金糸雀”? わざわざご足労いただきスミマセンねェ。俺の部下相手に随分とデカい口叩いてたみたいだが」
陰気な微笑を浮かべた男は、嘲弄の透けて見える慇懃無礼な口調でなまえを覗き込んだ。
「我々は新参者でね。電話番号も知らねェもんで、ご挨拶がてらわざわざお越しいただいたッてワケなんだが……ひとつ、質問いいかね? 大事な質問だ。返答によっちゃあアンタの価値が、9ミリ一発と同程度になる。――なァ、アンタの“飼い主”とやらは、人質のため救助に来るようなタマか?」
「あなたのところはどう? たかが女ひとりのために……組織の重鎮がみずからうごくの?」
呂律が回らないというほどではないものの、血反吐を垂れつつなまえが胡乱げに尋ね返した。
黒い瞳は依然として凪いでいた。
つまらない虚勢か意地、救いようのない愚昧さによるものか――蹴り飛ばそうが銃を突きつけようが似たような笑みばかり浮かべる女に、ベーラミはいい加減付き合いきれないと吐き捨てた。
直情的な彼にしては滅多になく辛抱強い対応だと認めるのに、その場の誰もがやぶさかではなかっただろう。
「ドゥシュクのアニキ、なんでこんな女、攫ったンです。女ひとり売っ払ったところで差し引きマイナスにしかならねェだろ」
「口を閉じてろ。それをプラスにして余りある価値があンだよ、このお姫サマにはな。……ま、勿論、本人次第だが」
なァ? と笑いかけてきた男の名はドゥシュクというらしい。
年齢は四十をいくらか過ぎたほどだろうか、暗褐色の瞳は卑俗な弧を描き、暗いイエローオーカー色の、やはり部下たちと似た地味なスーツを身に纏っていた。
ヤニにしゃがれた声音は口ぶりこそいくらか慇懃ではあるものの、口元はデッキブラシのように硬い髭に覆われ、顔全体に深く刻まれたしわの数々によってなんとはなしに危うい心持ちにさせられるものだった。
「ッ、ぅ……ねえ、この街であなたたちを手引きしたのは、どちら?」
我関せず焉、口内に溜まっていた血をまた吐くと、なまえが静かに男たちを見上げた。
背後の男のひとりが心底馬鹿にしたように吐き捨てた。
「ハァ? 答えるワケねェだろが。頭ン中どんだけ花畑なんだ」
「……東欧なまり、名前、あなたのCz75、誘拐、スチェッキンを――“俄人”をしらないとなると、……バルカン、それもアルバニアあたりが濃いかしら……」
思案顔でやおらなまえが呟くや否や、男たち全員が目を剥いた。
彼らの反応から確証を得たらしく、なまえは気遣わしげに眉をたわめた。
「ということは……ッ、手引きは、イタリア人ということになってしまうけれど……。アルバニアなら、カラブリアのヌドランゲタ(※シチリアのコーサ・ノストラ、ナポリのカモッラに次ぐ、誘拐ビジネスで有名なイタリアン・マフィア)が点灯屋でしょう? ここはシチリアが占めているから、ヌドランゲタはそう根をはってはいないけれど……つてがあるなら、別だものね。――ああ、こまったわ。“連絡会”陣容でことをあらだてるのは、あのひとの本意ではないでしょうから……」
血まみれの口蓋をゆっくりと動かしながら淡々と呟いた。
女のかすかに揺れる声が粛々と言葉を並び立てるにつれ、浮かべていた嗤笑を、男は――ドゥシュクは、徐々に強張らせていった。
「……おしゃべりはそこまでにしてもらおうか、お姫サマよ」
「アニキ、この女の喉でも裂いてやりゃあ、間違いなくすっきりするし、おしゃべりも止む。なあ、いいだろ?」
いまにもナイフを閃かせかねない部下を片手で制しながら、ドゥシュクはわずかに片頬を引き攣らせた。
拘束され床に転がされた女はなんら脅威たりえない。
銃など必要ない、数度殴打すればあっけなく絶命するだろう脆弱な女であるにもかかわらず、決して隙を見せてはならないと直感に似たなにかが耳元でうるさかった。
いまのところ小鳥の口舌に訂正を加えてやる点はない。
だからこそ問題だった。
なまえの血に濡れ光る石床を踏み、焦げ茶色の革靴を汚しながら、彼は一段と粘ついた声音でなまえの顔を見下ろした。
「そこまで読んでるンなら生かしておけねえ……ッてことにならんかね? アンタ、考えが浅いのか深いのか、どっちかにしてもらいたいもんだが。それとも、か弱いのは見かけだけで、実は凄腕のガンマンだとか、チャイニーズ・ムービーのなんたらってブジュツの使い手だったってオチだと……なァ、いっそこっちも得心が行くッてもんだが」
小鳥は汚れた白い顔を大儀そうに上げた。
素気なく「“投資”が失敗したからかしら。そちらのお国ではろくな娯楽がないのね」と嘯いた。
「殺すのなら、はじめから部下といっしょに路傍へすてればよかったのよ。わざわざこんなところまで“金糸雀”に駕を枉げさせたんだもの……なにか理由があるんでしょう。――そんなことより、あなたたち、どうするの?」
ぽっかりと空いた洞の如き黒眼に見上げられ、男たちが数瞬、戸惑うように身じろいだ。
頬や口腔が痛むのか、しかし言葉だけは止めず、女は相も変わらず独り言じみた平坦な口ぶりで言い募った。
「“密航”にわたしたち香港が寄与するところはおおきいはずよ。それを御破算にするつもり? それともそのルートをよこどりしたい、べつの組織かしら……。あなたたちの役割が蛇頭なのか、そうではないのかはしらないけれど、東欧人がここまで注文をとりつけに足をのばして……まさか、わたしのようなたかが女ひとり、交渉の人質にたりるなんて……ほんとうにおもっていて?」
――近年、密航は有力な資金源である。
一人の人間を先進国に密航させる場合、二万から三万ドルの費用がかかるとされている。
密航者が事前に全額支払うことは滅多になく、大抵は働きながら返済していく。
密航を行う黒社会にはそこから一万ドル程度の手数料が入った。
つまり一〇〇人運べば一〇〇万ドルにもなるというわけだ。
UNECEが九四年に発表した「国際移住速報」曰く、九〇年代に入ってから欧州、旧ソ連、北米への中国人密航者は推定五〇万人にも達している。
麻薬や殺人に比べ摘発された場合の刑罰は比較的軽く、密航希望者は「大陸」において尽きることはない。
これほど手軽で手堅い商売もあるまい。
密航先は様々だが、中国人の密航先として最も需要が高いのは米国、次いで欧州、カナダ、オーストラリアである。
欧州の場合、チェコ、ハンガリー、ポーランド等、東欧諸国が中継基地となっており、そのなかでもアルバニアはイタリアのテレビ放送の電波が入るほど距離的に近く、伊軍の駐留、併合といった過去もあり、伊語を解するアルバニア人が多かった。
また、歴史的にイタリアにもアルバニアからの移民が多く、古くから関係が深い。
香港の洪門がアルバニアまで送った密航者を、そこからイタリア、EU圏へ送り込む斡旋ビジネスはわけても近年、活発である。
密航ルートは確立されており、ここ数年、双方は非常に莫大、かつ安定した利益を上げていた。
正鵠を射たか、とうとうねじれた嗤笑は深くしわの刻まれた顔貌の奥へ沈み、ドゥシュクは腰を折ってなまえを見下ろしていた姿勢を元に戻した。
連邦の共和国と自治州がゴタついていた時代を生き抜いた――血気盛んな若造だった頃ならばいざ知らず、彼もいまや組織ではある程度の座に身を置く男だ。
だからこそこんな未開のタイの奥地にまで“仕事”を与えられて赴いたのだ。
未だ動乱が収まる兆しのない本国は、着々と欧州での地位を拡げ続けていた。
長年睨みあってきたセルビアが紛争により落ち目になり、それまでのヘロイン輸送ルートが使用できなくなった。
伝統的にトルコからセルビアを通り西欧へ流していたヘロインの代替ルートとして、アルバニアは理想的な立地だったのだ。
現下のアルバニアは、輸送ルートを、そして西欧での売買の支配権を徐々に乗っ取りつつあった。
歴史的に協調関係にあるイタリアと、元々存在していた西欧での流通システムの乗っ取り――拡大する支配域により、いずれセルビア南部の基礎自治体、ブヤノツィが「バルカンのメデジン」と称される日も遠くはないだろう。
そして西欧へのヘロインの一大ルートを作りつつあるアルバニアは――謀略手繰る魑魅魍魎が辿り着く地獄は皆同じなのか――、この悪徳の都、現世の三悪趣、ロアナプラへ目を付けた。
その上で彼らにとって、否、ドゥシュクたちにとって邪魔なのは、密航と武器の密造で幅を利かせている傍系組織だった。
無論、尊属卑属における紛擾などタブーだ。
「金糸雀」の誘拐は彼らの一存によるものである。
しかしながらこのロアナプラで密航ルートまで取って代わろうものなら、彼らがバルカンのみならず東欧地域を支配することも夢ではない。
ドゥシュクは顔色こそ変えはしなかったものの、濁った双眸へ獰猛な光を、硬い髭に覆われた口元へ一際憎々しげな笑みを無理やりに刻んだ。
「……アンタに答えてやる必要は?」
「ないわね。ただの贅言よ」
ニヤニヤと卑しく顔を歪めていた周囲の男たちも、いまや苦虫を噛み潰したような形相だった。
ドゥシュクは横たわるなまえから踵を返した。
人を蹴るためにあるかのような硬い革靴が鋭く石床を叩くと、赤い靴跡がかすれて伸びた。
「ふン、じゃあそこら辺にしとけ。小賢しい囀りを拝聴するために呼んだわけじゃない。これ以上おしゃべりを続けたいってンなら……そろそろ歯か骨でもへし折らにゃならんのでね」
ベーラミ、お前も銃を下ろせ、とドゥシュクが呻いた。
彼の後ろでは、男が額に青筋を立てなまえへ銃口を向けていた。
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「はは、そっちのご事情とやらまでつつくつもりはないさ。豚みたいに鼻先を突っ込みたがってるように見えるか? ロアナプラのウィル・フェレルがそうなめらかに謳ってくれるなんざ、よっぽど腹に据えかねてるらしい。そうだな、……伊語だけじゃねえ、これからは南スラブ人共のためにもガイドブックを頒布してやったらどうだ。そうさ、仕事ばっかり増えるな、お互い。――なに、徹頭徹尾自分のものを取り戻すんだ、俺が腰を上げるのに“待った”をかけるような無粋な真似はしてくれないもんだと期待してるよ。そこんとこの道理はあんたもよくよく理解しているはずだ。……折角の招待だが、パーティには欠席させてもらいたいな、その後はお宅らの話だ。遠いバルカンの厄介なご事情は、いまのところウチには関係ない。こっちはこっちの仕事をする。あんたはあんたの仕事をしてくれ、ロニー。――ああ、せいぜい朗報を待つさ。最前席で小鳥の囀りはご遠慮願いたいがね」
ぶわりと吐き出された紫煙が、落陽に燃える魔都の眺望を霞ませた。
熱河電影公司大廈の最上階、ロアナプラの眺望を鳥瞰する玉座めいたソファで、悠然と煙草を燻らしながら、張は通話を終えた電話機を彪へ放った。
顔をしかめたまま携帯電話を拝受した彼を見やり、張は「まあ落ち着けよ、彪」と肩をすくめた。
「知っての通り、あれは俺の不利になるようなことを吐くくらいなら、さっさと舌でも噛んで死ぬ女だよ」
なんでもないことのようにさらりとのたまったボスに、彪はサングラスの下の目を盛大にしばたいた。
あに図らんや、瞋恚にふれず杞憂と化したことには安堵していた。
誰が好き好んで「金義潘の白紙扇」の怒りを目の当たりにしたいだろうか。
それこそ金糸雀でもあるまいし。
しかし焦眉の急において、この恬然たるさまはなんだ。
まま揶揄すら含んで呼称される「籠の中の金糸雀」が誘拐されたにもかかわらず、その呼び名の元凶たる飼い主は泰然と構えており、彪は腑に落ちないと眉をひそめた。
無論、情報の漏洩は憂慮すべきだ。
はなはだ遺憾なことに、なまえはその 戦闘能力 の低さ、否、絶無具合に比例するかのように三合会の内情を深く知りすぎていた。
プライベートな携帯電話の番号から昨夜の夕食のメニュー、はたまた鶏の頭の落とし方から、本国における“三桁のナンバー”まで。
女に口を割らせる方法などごまんとあるが、張の言に違わず小鳥が情報を吐くとは毛頭思えない。
しかし、――しかしだ。
彪は不可解げに目を眇めた。
「大哥……だから心配は無用だと?」
「死体は一体だったんだろ? 殺すのが目的なら、端っから部下らと一緒に往来に転がってたろうさ」
厚い唇から紫煙をこぼし、麗しの本国より「四一五」を拝命する男は飄々と、なんでもないことのように嘯いた。
彪は、もしもいまこの瞬間に飼い鳥が薬漬けにされ下衆共に嬲られていたとしても同じようにこの男は言うのだろうかと考えた。
あるいは、手を差し伸べるどころか顔を向けることすら厭うほど臭いドブ泥のなかに胴体が埋まっていたとしても?
無論、口が裂けても言えやしないが。
不埒な空想などおくびにも出さず、彪はボスの脇で指示を仰ぐ姿勢のまま静かに佇んだ。
張は手にしていたジタンを灰皿へ放り、ゆるめていたネクタイを自ら締め直した。
「道理もクソもあったもんじゃねえが、海に沈めるなり野に埋めるなりするよりもな、彪。鳥籠の前へ棄てるのがすくなくとも筋ってもんだ。それでこそ見せしめになるだろうよ。いまのところ――」
窓の外をちらりと見下ろした。
目も眩む階の下、熱河電影公司ビルの正面エントランスは整然と保たれ、女どころか猫一匹の影すらない。
「――まあ、いつも通りのゴミ溜めだな」
(2019.12.20)