(※『ヨルムンガンド』クロスオーバー)
(※原作六巻「滅びの丘」後)
(※それぞれの作品の差異により、時代や設定にズレがあります。ご了承ください)






――星みたいだ。
目がくらむようなネオンの光が乱反射する夜景の只中で、ヨナは心のなかだけで呟いた。

場所は林立する超高層ビル群の一角、輪奐りんかんたる環球貿易廣場ICC前の行人徑サイドウォークである。
日が落ちて過ごしやすくなり、日中よりも人の多い往来で、武器商人とその私兵の少年兵を穏やかな声が呼び止めた。

「あら、ミス・ヘクマティアル。お久しぶりです……お変わりなく。ふふ、驚いてしまいました。世界中を飛び回るお忙しいあなたと、こんなところでお会いできるなんて」

やおら黒塗りの車からひとりの女が降りてきて、「路邊こんなところで呼び止めてしまう無礼については、どうかお気持ちを損ねないでくださいますように」と恭しく小首を傾げた。

「これはこれはなまえ嬢。本当に奇遇だ。今日はミスター・張とご一緒ではないんですね」

呼び止められたココ・ヘクマティアルは、慇懃なアルカイック・スマイルを浮かべた。
問われた「三合会の金糸雀カナリア」は、純白のワンピース、慎み深い微笑、濃い紫煙の移り香を伴っておっとりと礼を執った。

「ええ。残念ながら、いま主人はロアナプラにおりまして……本国こちらまで、わたしひとりでちょっと“おつかい”なんです」

控えめななまえの言を受け、ココはうつくしいプラチナブロンドの髪を背へ流して不遜に笑んだ。
深く澄みきった冬の湖のような碧眼が居丈高にきらりと輝いた。

「フフ、兄が嘆いてましたよ。芳しい現代の“ポイズンヴィル”――あの街はなかなかどうして厄介な肝心要のひとつだと」

どこか含んでいるような鮮烈な双眸に臆することなく、金糸雀カナリアはくすくす笑った。
あどけない少女めいた笑みで嘯いた――「おっかないひとが多いところですものね」。
ココが内心「そこに住んでる奴がなにを言う」とこぼしていると、不思議そうに小鳥が首を傾けた。

「兄君といえば……ミス・ヘクマティアル、どうしてあなたが香港へお越しに? 確か西アジアからこちらは、ミスター・キャスパー・ヘクマティアルが請け負っていらっしゃるものと記憶していましたが」

好奇心の滲む黒い瞳がそれはそれは純真そうにきらきら光った。
デフォルメされた愛らしいかんばせに「汚れた小鳩ちゃんソイルド・ダヴ」などとけったいな口こそ叩きはしなかったが、ココは居心地悪げにこっそりと頬を強張らせた。
――こちとら商売柄、そんな目を向けられることに慣れていないんだぞ、とやや引き攣った笑顔の前でちっちっちと人差し指を振ってみせた。

「残念ながら質問にはお答えしかねます。企業秘密ってヤツです、ミス・金糸雀カナリア
「あらあら、どうか誤解なさらないでくださいね。御社の意向を探るつもりなんて、毛頭ないんです。単純に不思議に思ったものですから……。ああ、ミス・ヘクマティアル、無礼ついでにもうひとつ質問してもよろしいでしょうか?」

なまえの微笑の度合いがほんのわずかに増した。
細められた黒い目からは、なにを考えているのか掻暮かいくれわからない。
相対するのは、か弱い小鳥一羽とあなどるべくもない、「金義潘の白紙扇」麾下きかの女だ。
武器商人は浮かべたアルカイック・スマイルを揺らがせることなく、その実、なまえの「質問」にまずたゆまず身構えた。

「ええ、私に答えられることでしたらなんなりと」
「ふふ、ありがとうございます。あの……バルメはご一緒ではないのです?」
「えぇ? バルメ?」

思わずココは素っ頓狂な声をあげた。
どうしてここで懐刀である部下の名前が出てくるのか。
彩度の高い碧眼がぱちぱちとまたたいた。
呆気に取られている彼女に、なまえはのんびりとした口調で釈明をした。

「ああ、ほら、あなたとお会いする際には、大抵彼女をお連れでしたから……なんだか違和感があって」

この間は、あなたと共にディナーをご一緒させていただいたでしょう? と純朴そうになまえが首を傾げてみせた。
どんな「無礼な質問」を投げつけられるのやらと気構えていたこちらが思わず脱力してしまう、欠片も邪気の見当たらぬなまえの笑みに、ココも苦笑を返した。

「あー……実は、ちょっとバルメは怪我しちゃってまして。いまは別行動なんです」
「まあ、大丈夫ですの?」

なまえは不安げに眉を寄せた。
まるで本当に・・・バルメのことを心配しているような憂容うれいがおへ、ひるがえってココは完璧な笑顔を寄越してやった。

「ええ、ご心配には及びません。なまえ嬢がご心配くださっていたと、本人にも伝えましょう」
「お見舞いに伺えず残念だとも、重ねて」
「承りました、金糸雀カナリア
「それでは、代わりにおそばにいるのがあなたなのね……。はじめまして、なまえです。お名前を尋ねても?」

やおら品良い所作でなまえは腰を折り、それまで一言も発さず佇立していた少年の顔を覗き込んだ。
豊かな黒髪がさらりと揺れ、ヨナは白百合の香りと、濃い紫煙の移り香とを嗅ぎ取った。

「……ジョナサン。ココたちにはヨナって呼ばれてる」
「そう、ヨナくん、よろしくね。香港へようこそ。きれいな瞳だわ……まるで夕焼けのような」

髪と同じ銀色の睫毛に縁取られた赤い瞳を見つめ、なまえはやわらかく微笑んだ。
むっつりとした無愛想な護衛の少年と、彼を従える真っ白な武器商人。
絵に描いたようなどこか浮世離れした雰囲気のふたりに、なまえは「そういえば、」と口元をゆるませた。

「ふふ、初めてミス・ヘクマティアルにお会いしたときも、宝石みたいな瞳だと見惚れてしまったのを思い出しました」
「……もしかして、口説かれてます? 私」

ココが肩をすくめてみせた。
白皙のかんばせは微妙に引き攣っている。
過剰な形容にどう反応したものか考えあぐねているらしい武器商人に、なまえはくすくす笑い、まるい頬を染めながらヨナへ首を傾げた。

「……もし、あなたのご主人さまさえよろしければ、晏昼ランチでもご一緒してくださいませんか。夜はお仕事絡みの会食等、お忙しいでしょうから」
「やった! 喜んで! なまえ嬢の連れて行ってくださるところなら、期待してもしすぎってことはないですからね!」
「ふふ……お店選びに気合が入ります」

誘われたヨナ当人よりも、ココの方が身を乗り出して即答する。
鼻息荒くガッツポーズをしているココに、なまえも嬉しそうに相好をほころばせた。
見る者すべてに親しみを感じさせる微笑みは、百戦錬磨の武器商人と元少年兵にも多少なりとも効果はあるらしい。
ヨナも――この場では誰よりも付き合いの長い雇い主ココくらいしか気付かなったが――心なし頬をゆるめていた。

「実を言うと、このところ、あまり誰かとお出かけすることもなくって。お仕事や難しいことは抜きにして、おしゃべりしていただけたら幸いです。ミス・ヘクマティアル」
「……フフーフ、さっすが。相変わらずのようで」

健やかな笑みを、ほんのすこしだけ申し訳なさそうに陰らせ言うなまえに、ココも、ひくりと口元を妙な形に歪ませた。
悪名高き「金糸雀カナリア」は相も変わらず籠の鳥らしい。

そのとき、影のように控えていた黒服の男が遠慮がちに女主人へ耳打ちした。

「失礼します。大姐、そろそろ」
「ええ、そうね。――それでは、ミス・ヘクマティアル。お時間を頂戴しました、謝意を……。お会いできて良かったです」
「こちらこそ、なまえ嬢。美味しい中華、期待してます。最近舌が肥えちゃって」
「あらあら、一体どちらでお召し上がりになったのかしら……。ふふ、滞在していらっしゃるホテルへ、こちらから連絡を差し上げますね」

白昼夢に似たまばゆい可視光のなか、ただその姿だけが静謐であるかのように、尼僧服めいた白いワンピースの裾がふんわりと翻る。
ヨナくんもまたね、と淑やかに微笑みながら、なまえが車中へ戻った。
残ったのは、かすかな白百合と紫煙の香りだけだった。

「……ココ、あのひとはなんの武器を使うの」
「ん?」

ぽつりと落ちた少年の呟きを、その主人たる女は置き去りにすることはなかった。
大きな感情の変化は見られぬものの、強いていうならば怪訝そうに・・・・・走り去って行ったベンツを嘱目しょくもくしていたのはヨナである。

「あの女の人……銃やナイフを使う手じゃなかった。指も、てのひらも」

だからそれ以外の武器を使うのかと思った、と平坦に呟く少年を見下ろし、ココは満足げに笑みを浮かべた。

「フフーフ、流石だ、ヨナ。あれはね、“白い手の女”だ。ある意味においては、私の商売からは一番遠い人種だよ」
「じゃあ、一般人?」
「そう見えたか?」
「……最初だけ」

素直に首を振ったヨナに、ココはますます笑みを深めた。
吊り上がった薄い唇は、どこか驕慢きょうまんさすら感じられるものだった。

「私の顧客は、彼女の“飼い主”の方さ。――さっき、“滞在先のホテルへ連絡する”って言ってただろう? 私はどこに泊まってますーなぁんて、ご丁寧に教えてやってなんかいないのに」
「……そういえば」

大人しく頷いたヨナに抱き着きながら、ココはにんまりと浮かべていた笑みを、質の違う・・・・ものへと変貌させた。
短い銀髪へ顎を置いて緩慢に呟いた。

「香港にはたくさんのマフィアがいるのだよ、ヨナ。広東系、満州系、大陸系……全体で二〇万人くらいの規模だっていわれてる。うーん、香港の人口が約七〇〇万人だから、人口比三%前後が関係者ってことになるな。これは世界的に見ても大変な数字なんだよ。香港が“ 黒社会 チャイニーズ・マフィアの首都”と呼ばれる所以ゆえんだ。とりわけ調査能力の高さについては……ある犯罪者の動向を探るため、日本の公安当局が秘密裡に協力を仰いだことがあったといわれてるぐらい。――フフーフ、私たちの居場所をつかむなんて造作もないことなんだ、彼女にとってはね」

まっ、そもそも我々も結構目立つ団体だしね、と楽しげにココが嘯いた。
果たして聞いているのか否か、ヨナは「ふーん」とだけ吐息まじりに漏らし、また逍遥しょうようを再開させた。
心底興味のなさそうな少年を、武器商人はフフと一笑に付した。

悪虐と暴力、血と硝煙の泥沼に、足元どころか全身どっぷり浸りきっているくせに、蓮の花のように清らかな相形そうぎょうで笑う女――「金糸雀カナリア」は、聞くところによれば、銃把を握ったことすらないらしい。
ことしもあれ、そんな女が我が物顔で「商品」に携わっていることに、なんの感慨もないと言えば嘘になるだろうか。
ココは透けるように白い美貌を皮肉げに歪めた。

「覚えておくといい、ヨナ。世の中にはね、直接武器を持たずとも、他人を顎でこき使える輩がいるんだよ」
「ココみたいに?」

虚をかれて目を見開いたココは、一拍置き――弾けるように高笑いした。






「――もしもし、旦那さま?」

中心部から離れた緑豊かな山野の合間には、瀟洒な邸宅や別荘が点在している。
空の星屑すべてを地へ引き摺り落としたかの如く燦然と輝く大廈高楼たいかこうろう偉観いかんは遠く、さながら一幅の絵画だ。
喧騒から離れた幽邃閑雅ゆうすいかんがな邸宅の露台バルコニーからは、きらめく高層ビル群がうつくしく観賞できた。
バルコニーというより小規模な庭と表したくなるほど広いそこでは、なまえが世話している花々が咲き乱れている。
時間により、いまは花弁の閉じているものもちらほら見受けられたが。

華奢なヒールが大理石の床を、かつっと鳴らす。
電話で業務連絡や報告をつつがなく済ませ、露台の欄干にもたれかかりながら、なまえは金烏玉兎きんうぎょくとなき夜空を見上げた。
張維新チャンウァイサンの黒いコートを見て夜闇を思い浮かべるように、なまえは夜闇を見上げれば彼を思い描いたものだった。
否、この世のすべてを恋焦がれるひとへと結びつけたがるのは、女としては詮無いことではあった。

夜風がゆるやかに吹き抜ける。
報告を終えたなまえは拗ねるように囁いた。

「ああ、はやく御許みもとへ帰りたい……。あなたのいらっしゃらない本国が、どれだけ色の褪せたものか忘れておりました」

声には滴るような媚が滲んでいる。
紫荊花の元で、心細げに「この本邸で、今晩も独り寝しなければならないなんて……」と言い募るなまえを、張は「よく言う」と一笑に付した。
闇夜を思わせるバリトンが、夜凪の如く芳醇に響いた。

「こっちはいつも通りの火薬庫だな。静電気ひとつ起こりゃあコトだが……煙草揺らした火傷顔バラライカが暇そうなんで、そのうちまた厄介なことになりかねんだろうよ。なまえ、そっちでなにか変わったことは」
「ふふ、特には。小鳥にできることといえば、ご挨拶程度ですが……皆々さま、ご健勝でいらっしゃいましたよ。山主(※組織第二位のこと)さまより、あなたと共にお顔をお見せするよう仰せを頂戴いたしました。変わったことと言えば……強いて挙げるなら、珍しい方にお会いしたことかしら。HCLIのミス・ヘクマティアル。西九龍の環球貿易廣場ICCで」
「おやおや……武器商人のお嬢さんが香港にご用とはな」

電話の向こうで張が、ふっと息を吐く気配がした。
きっと、いつものように層楼の天辺で街を見下ろしているのだろう。
吐き出された紫煙が蠢くさまを思い浮かべながら、なまえは目を細めた。

「あるいは……大星海公司ターシンハイコンスの件に関連してのことかもしれません」
「――確度は」
「そう雲をつかむ話clutch at shadowsというわけではないかと。南ア公司工場の一件の事前、ポートエリザベスで彼女たちが目撃されていたのでしょう? それに、いつも連れている私兵のひとりが、負傷で一時離脱しているそうです」
「ふん、大星海公司ターシンハイコンス――我が麗しの“特区”に巣食う、中共のカバー商社ねえ……」

三合会きっての碩学せきがくの思案深げな声には、どこか不祥な響きが滲んでいた。
返還以来――否、それ以前より・・・・・・香港三合会トライアドは大陸の「権力」へ追従ついしょうしてきた。
その方針は未だ変わらない。
しかしながら我が物顔でのさばることまで諾々と呑み込め・・・・など、まったくもってクソ食らえ、である。

口をつぐみ思索にふけっている主の妨げにならぬよう、慎み深くなまえは「ふふ、」と笑い声をこぼした。

本国こちらにいる間に、ミス・ヘクマティアルとお食事のお約束をいたしましたの。楽しみです」
「は、悪いツラしてんのが目に浮かぶようだぜ、なまえ。取引先のペットのご機嫌取りまでやるたあ、あちらさんも精が出るな」
「なんのことでしょう、旦那さま? 実際になまえをご覧になってお確かめになっていただきたいけれど……詮無いことですね」

心の底から残念そうに嘆息してみせたなまえは、露台バルコニーの欄干へ身を乗り出した。
空の星を取りたいのだとねだる、無邪気な幼な子のような仕草だった。

「至らない身ではありますが、精一杯おつかいに励んでまいります」
「いい子だ。名代を終えたらさっさと戻って来い」

他者を隷従させることに長けた無頼の男の、命じることに慣れた声が耳元で響く。
あたかも眼前に敬慕くあたわざる偉丈夫がおわすかのように、なまえは幸福そうに笑んでみせた。

「御心のままに。ふふ……」

張はサングラスの下でかすかに目を細めた。
女のとろけるような声色から察するに、大方、胸焼けするほど甘ったるいいつもの笑みを浮かべているのだろう。
そのやわらかな頬を指先で撫でることができないことをほんの少々惜しく感じながら、張はジタンを灰皿へ押しつけた。



(※おまけ)


口の端に洒脱な笑みと煙草をくゆらし、ひょうげた声音で張が笑う。

「あっちで浮気してこなかったか?」

干天かんてんに揺らぐ魔都の眺望を臨む熱河電影公司イツホウディンインゴンシビルの最上階で、焦がれに焦がれた恋い慕う主人に、なまえはとろとろと目を潤ませた。
恍惚として張の腕の中へ飛び込んだ。
たった数日、されど数日。
ほんの一時いっときとはいえ、今世、ただひとりの全き主から離れているのはとてもつらいものだ。

しかしながら喜びにゆるみきった思考回路といえど、さすがに飼い主の軽薄極まる空言そらごとを聞き流すことなどできなかった。
なまえは、むっと桃色の唇をとがらせた。

「まあ、なんて無体なことを……。なまえの怒った顔をご覧になりたいんですか、旦那さま。それとも、」

つと張から身を離す。
彼女は二、三歩後退あとずさった。
芝居がかった仕草でうつくしいピンク色の爪先が、纏うワンピースの裾をちょんと摘まむ。

膝丈の淑やかな白裾が揺れる。
なにをするつもりやらと静観している張の眼前で、淑女然とした佇まいはそのままに、なまえの細い指先はスカートを、透けないよう下に着用しているスリップごと引き上げていった。

徐々に露わになっていく、ベビーピンクのストッキングに包まれた膝、太腿。
腿の中頃までのオーバーニーのストッキングと、それを吊る白いガーターベルト。
平生、慎み深く隠されているガーターは、繊細なレースに縁取られ、粗雑に扱えば呆気なく裂けてしまうだろう。

ゆっくりとさらけ出されていく肉付きの良い下肢は、堪らない曲線美を描いている。
彼女がもうほんのすこしでも白裾を引き上げれば、男を知る特有の悩ましさを備え成熟した腰や、レースのショーツまで見えてしまうだろう――淫らな形状の、雄の劣情を掻き立てるためだけにあるようなそれが。
常々、なまえの清楚なワンピースの下に、まさかこれほどまでに肉感的な肢体、淫猥な下着ランジェリーが隠されているという事実は、張維新チャンウァイサンという飼い主の他に知る必要は、彼も彼女も認めなかった。

それはそれは煽情的な白い下肢は、紅潮するのを、蹂躙されるのを待ちわびるかのように、どうぞと言わんばかりに主人へ供されている。

「――確かめて、くださいます?」

自ら中途半端にスカートをめくり上げたまま、糖蜜を連想させる甘ったれた笑みでなまえが小首を傾げた。
淫らな行為の最中にしか許されないような、媚びた上目がなまめかしく光る。

とがらせた舌先で舐め上げられるのに似た、ぞわぞわと這い上がってくるような疼きを、男は自覚した。
次いで、口の端が情欲に歪んでいることも。
張は忌々しげに笑みを深めた。
我知らず噛んでしまっていたらしい。
煙草のフィルターは雑味を帯び、このまま吸い続ける気にはなれなかった。

易々と挑発に乗ってやるのは非常にシャクではあるものの、とまれ然許しかばかりお膳立てされたのに素気すげなくするほど血の冷えている覚えはない。

張は噛み跡の付いたジタンを灰皿へ放ると、なまえのやわらかな肢体を抱きすくめた。
幸福というものを煮詰め音にしたような女の笑い声が、澄み渡る群青、大きな窓ガラスに反響した。


(2019.12.08)
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