(※この「
南柯の夢」は、有間さまがお描きくださった、張さんと夢主の三次創作イラストをきっかけに書きました。このお話は有間さまへお捧げいたします。素晴らしい作品をありがとうございました!)
纏う
旗袍は、濃い唐紅だった。
紅の
八鹽もかくやあらんとばかりに
嬋媛たる綺羅だ。
彼女のためだけに仕立てられた詰襟の絹服は、体のラインをこの上なくうつくしく見せている。
暗い
瑪瑙色に縁取られたスリットは膝辺りまでと慎み深く、淑やかかつ少々不自由な動作を強いていた。
畢竟、
自分が優位に立てる女にこそ愛らしさが宿ると信じた愚かな男共の浅慮は、古来より中国の
纏足しかり、西欧のファウンデーション、コルセットしかり、日本の
垂髪しかり――洋の東西を問わず枚挙に
遑がない。
然もあらばあれ、自由だとか不自由だとか、美やら醜やら
瑣事はさておいて、皮張りのソファに座ったまま、なまえは傍らに立つ男をおっとりと仰いだ。
従順な微笑にいくらか怪訝そうな色が混ざっているのに気付けたのは、見上げられた飼い主くらいのものだっただろう。
「……
遺して良いんですの、旦那さま?」
見上げた先では、
張維新もまた平生の喪服めいた黒いスーツではなく、揃いの華人服、唐装を纏っていた。
目もあやなロングコートはなまえと同色――否、
蘇枋に近い色合いで、彼女のものとこの上ない相乗性をかもし出している。
厚い胸板、広い肩、斜陽を織り込んだ
螺鈿の如き布の下、漢服のようにゆったりとしたデザインにもかかわらず、均整のとれた体躯は肺腑に
沁みるようだ。
その威容には、どんな女性というど惚れ惚れせと相好を崩さざるをえない。
むせ返るような雄の芳香は、座していなければ華奢なヒールが
頽れていたやもしれぬと危ぶむほどだった。
サングラスという覆いもなく、じっと見つめられているとすべてを奉じたくなってしまうすこし垂れ気味の甘い目元は愛嬌すら感じられ、一見して彼が
香港三合会の誇る、武勲と
英邁に秀でた「
金義潘の
白紙扇」を
奉戴する男と看破するのは難しかったに違いない。
彼女と同じ暗い
瑪瑙色の詰襟をいささか窮屈そうに指先でいらいながら、
張は飄逸に肩をすくめた。
「不満か? なまえ」
「いいえ、いいえ、とんでもございません。わたしなどには身に余る光栄、
幸甚の至りです……でも、」
彼らの正面では、
攝影師が
相機をセッティングしている。
破擦音に妙な癖を持った口調で話す局外者にさして注意を払うでもなく、なまえはただ気遣わしげにゆるく首を振った。
日夜暴力と抗争、相克に身を浸す洪門の者にとって、写真という姿かたちを「残す」行為など、場合によっては
搦め手を生じさせこそすれ、利益なんぞ見込めぬはずだった。
なにより、明日をも知れぬ極道の身である。
取り立てて
厭世家というわけでもないが、確たるものなど望むべくもない
流氓――アウトローの身の上、明日なき生を生きる亡者。
「明日ありと思う心の仇桜」、すべて
邯鄲の夢――後来のことなど知ったことかと嘯く男が、女を連れて写真撮影とは。
これを酔狂と言わずしてなんとする?
張維新が後来へなにかを遺したがったり、有象無象に執着したりするような
性質ではないと多少なりとも心得ていたために、なまえはかすかに憂えた面持ちで主を見上げた。
そんな彼女の憂慮を払うように、張は殊更に鷹揚な所作でなまえの白い手を取った。
被服は違えど「
雅兄闊歩」の物腰はいつも通り軽妙洒脱、およそ非の打ちどころのないほどに紳士的だった。
やおら厚い唇を笑みの形に歪めながら、洒落っ気たっぷりに男が嘯いた。
「いいじゃねえか、なまえ。ただの気まぐれさ……折角
誂えたんだしな。写真ひとつ残したところで罰は当たるめえよ」
心配しなくても、あの
攝影師がフランシス・ダラハイドじゃあねえのは保証するぜ、と
瓢げた笑みで女をエスコートした。
恭しく手を取られるままに、なまえも立ち上がりながら「あなたがそうおっしゃるなら」と
謙抑的に微笑んだ。
主の言に抗うことなどできようか。
そもそもふたりで写真を撮ることなんて、一生に一度あるか否かの僥倖というものだった。
分別あることを進言しつつも、どこか隠しきれずにいた喜びに、なまえは
婀娜めいた唇をほころばせた。
睦言を交わすのに似て甘く、秘めやかな声色で、見果てぬ夢を破らないようにそっと囁いた。
「ね、旦那さま。いつか、わたしのお墓に入れてくださいますか」
「小鳥のために墓まで建てさせる気か? それこそ手間だろうよ」
「それもそうですね。ふふ、冥婚というにも厚かましいでしょうし」
「お前の墓に写真なんぞ入れたら、そのまま連れてかれちまいそうだしなあ」
驕慢さすら感じられる張の言葉に、なまえはとろけるように目を潤ませた。
もしもわたしが死んだなら、主はきっと、この写真を燃やしてしまうだろうな、と確信めいた予感を抱いていた。
仕舞い込んだ古い写真を時折引っ張り出し眺めては感傷に浸るような男ではない。
未来、後来というものを信じていないのと同じくらい、懐古主義とは縁遠い男だ。
あるいはゆくりなくも
金糸雀ひとりが現世に残されることが万が一にでもあったなら――そのときは、主の雄姿を
菲林ごと焼いてしまおう。
隣へ立ち並びながら、なまえは心密かに誓った。
これほど尊く、
金甌無欠な偉丈夫の艶姿を、後の世に――他の人間に
遺してなどやるものか。
張維新はなまえのものではない。
しかしながら死後くらいは、写真の一葉くらいは、現世にあってねだることを許されないささやかな
独占欲ひとつ、咎め立てずにいてくれないだろうか。
眩いばかりの威容を見上げて、なまえは熱っぽく溜め息をついた。
「ああ、いつもの
西裝姿ももちろん素敵ですが……唐装の装いのあなたは……」
紅唇が陶酔に揺れる。
ひかれた紅は
旗袍に合わせて、彼女が選んだ鮮やかな
虞美人草色だ。
幸福というものを煮詰めたような顔で女が笑っている。
並の男ならばことごとく堕落せしめるだろう媚態を、しかし全き主だけは惑わされず静かに見下ろした。
当人は否定するだろうが、そのとき彼が抱いていたのは、おそらく「感傷」と呼んで差し支えのない情念だった。
重ねてこれも否定するだろう、もしも
金糸雀を失ったならば、この写真一枚、
己の手元へ残しても良いかもしれない、という感傷など。
なまえが慮った通り、
張維新という男は
生来にも後来にも、未練や心残りといった遅疑逡巡の
傾向を露いささかも持ち得なかった。
ただ、何事にも例外は存在する。
たとえば彼にとってのなまえという女だとか。
そんなことを考えているなどおくびにも出さず、張は濃い眉を片方だけ上げて、ふんと鼻を鳴らした。
隠すもののない黒い双眸は、ひたとなまえを見下ろしている。
「俺じゃなくて
鏡頭を見ろよ、なまえ」
「あら、とっても難しいことをおっしゃいますのね? 旦那さま……」
攝影師が合図する。
渋々といった
体で正面へ向き直ったなまえは、頬にかかった黒髪を左手でそっと直した。
甘やかに女が微笑んでいる。
その隣に立つ男がどんな表情をしていたのか。
知り得るのは、遺された写真だけだった。
――どこか、いつかの会話。
「あれ、この写真……君の親戚かなにかかい?」
「うーん、どうかな……。まったくもう、こんなにごちゃごちゃになっちゃって。いままで整理しようとか思わなかったのかしら? ――あら、それなんか、端のとこが燃えてるじゃない。これじゃあ男のひとの方の顔がわかんないわ。どうしてこんな写真、取っておいたんだろう」
「でも、女の方の顔はしっかり残ってるよ。……きれいなひとだ」
「古いけど良い写真ね。家族写真かしら」
「かもね。……で、どうする? 処分するか?」
「そうねえ、遠縁の誰かのかもしれないけど……。知らないひとの写真なんて、保管してても仕方ないし」
「君がそう言うなら良いけどさ。この
女性、なんとなく目元とか君に似てる気がするし、捨てちゃうのは気が引けるなあ」
「ええ、そう?」
――どこかで見付けた、
誰かの写真(※注意:夢絵です。夢主の顔があります)
(2019.12.05)