夢応

「大哥、本国が連絡を寄越して――」

室内へ入ってきたビウは、報告のためなめらかに動いていた口をぴたりと閉じなければならなかった。
なぜなら、晴れ渡った群青の眺望を臨む玉座めいたソファに恬然てんぜんとしておわすボスが、ひらひらと片手を振って達弁を遮ったためだった。

「丁度良かったぜ、彪。灰皿が遠くてなあ」

平素の軽薄さは露いささかも損なわれないものの、いつになく潜めた声でチャンがやれやれと嘆息した。
一体なんのことやらといぶかる部下を、ちょいと指先で招く。
右手に持ったジタンは灰を長くしていた。

「……大姐ですか?」
「ふん、他に誰がいると? 余所の女をここに連れ込んだところでコレがどういう顔をするか、まあ興味はあるっちゃあるが」

コレ、と顎をしゃくって示されたのはなまえだった。
主の隣に座ってうつむいている様相から、どうやら張の左肩にもたれかかったまま眠り込んでしまったものと窺えた。

慮外の部下の立ち位置からは、形の良いちいさな頭しか視認できなかった。
やわらかな黒髪が頬へ垂れかかり、その花瞼かけんを覗き見ることは敵わない。
無防備ななまえの寝顔を拝見するつもりなど毛頭ないのは言うまでもなかったが。
聡い部下はローテーブル上の灰皿をボスの方へ寄せてやると、そそくさと距離を取った。

「良かったな、彪。小鳥の信認が厚い証拠だぜ」

張がのんびりと呟いた。
新しく火を点けた黒煙草を咥えてのたまう口ぶりは平生となんら変わりなかった。
しかしひょうげた声音にどこかしみじみしとした慨嘆が含まれているように感じられたのは、下種の勘繰りというものだろうか。
ただ眉をひそめているだけでそこらの俗物の心胆を寒からしめる険相を、なんのことかと怪訝に歪めている部下へ向け、張が厚い唇を吊り上げた。

「コレはな、他人がいると眠れないんだと。自衛もろくにできねえ金糸雀カナリアの処世術ってやつかね」

無論、俺は例外だが、といけしゃあしゃあジタンをくゆらすボスに、彪は物憂げな表情で肩をすくめた。

「……大哥。俺ァいま、惚気られたんですかね」
「ふふん、さて。――報告を承ろう、彪」

声を潜めたまま用件を済ますと、彪は「失礼します」とことすくなに退散した。
わざわざボスの女の眠りを邪魔したくはなかったし、これ以上同じ空間に居続けることによって藪を突き蛇を出したくなかったのも理由のひとつである。

再び沈黙が支配するようになった室内に、砂がこぼれるようにひっそりと低い囁き声が響いた。

「……なまえ。小鳥が狸の真似なんぞするか」
「お気付きに……なっていましたの……」
「まあな。――どうした、まさかとは思うが、部下と顔を合わせたくない事情でもあったか」

厄介事は御免だぜ、と嘯く偉丈夫に対し、その肩へもたれかかっていたなまえはゆるゆるとおとがいを上げた。
かんばせには未だ眠気のベールがうっすらと靄がかっていた。
しかし主人の妨げになっていたことを悔いるように、手招かれる夢の名残りから逃れるように、なまえはほんのすこしばかり寝乱れた黒髪を指先で払った。

「いいえ、とんでもない……。途中までは、ほんとうにねむってしまっていました。申しわけございません、おしごとのお邪魔を」
「いんや、……まあ、原因の一端の自覚はあるしな。昨夜そんなに無理させたか? 確かにとんでもない淫乱っぷりだったな」
「……趣味の悪いひと。すずしいお顔でそんなことをおっしゃるなんて。顔を赤らめて恥ずかしがるなまえを、それほどご覧になりたいんです?」

まるい頬を膨らませ、なまえは飼い主をめつけた。
とはいえ恨み言めいた物言いとは裏腹に、滲む媚態を隠し切れていないのは明白だった。

左腕を占領する彼女がわずらわしかったなら、張はさっさと振り落とすなり揺り起こすなりしていただろう。
にもかかわらずなまえがそのどちらの憂き目も見なかったのは、ひとえに彼女への配意に他ならない。
ならばなじるように膨らませた女の頬が、嬌羞きょうしゅうを含んで色付くのも道理というものだ。

張は喉奥で低く笑うと、やや熱を上げたやわらかな頬へ口付けをひとつ落としてやった。


痴れ痴れ

「お邪魔したわね、バオ」
「おう、もういいのか?」
「ええ、マダムはお引き止めくださったけれど。外に車を待たせているし、生憎、飼い主のところに戻らなきゃ――」

あまりにも修繕する機会に恵まれすぎているためだろう、役目を果たせればそれで構わないとばかりの簡素な階段は、昇降する者がどんな靴を履いているか頓着しないらしい。
華奢なヒールを端から度外視している素っ気ない階段を、他人の目には淑やかと映るぎりぎりの足取りで、ゆっくり下りてきたのはなまえだった。
彼女は見知った顔が一階の酒場で飲んでいるのに気付いた途端、店主への謝辞を途中でつぐんで黒い瞳をまたたかせた。

「あら、レヴィとロックもいたのね。こんばんは」
「なまえさんもお元気そうで」
金糸雀カナリアが酒場に立ってる光景ッてな、思ったよりぞっとするな。浮きすぎて酔いも覚めるってもんだ。最近のクソ映画だってもっとマシなCG処理すらア」

カウンターに並んでかけていたのは、顔馴染みの海上輸送会社のふたりだった。
グラスを傾けながら、レヴィがニヤニヤと口角を上げた。
余程物珍しいのか、飼い主に連れられていない小鳥の姿を面白がっているようだった。

セリフにたっぷり滴る揶揄に、今更いちいち目くじらを立てるべくもない。
軽口を軽くなして、なまえは彼らの隣へ「すこしだけお邪魔しようかしら」と腰を下ろした。
ほんの些細とはいえ羽を伸ばしたい気分らしい。

「滅多なことを言わないで、レヴィ。ちょっとね、“スローピー・スウィング”のマダム・フローラにお会いしたかったの」
「はン、天下の“穢れなき処女”サマが娼館うえになんの御用だよ」
「ふふ、ないしょ。ただのおつかいよ。――バオ、心苦しいわ、お金を落とせなくて」
「気にすンな。金糸雀カナリアに酒を飲ましたとあっちゃア、俺がミスター・張から小言を頂戴するッてもんだ」

訳知り顔で大きく頷いたバオに、なまえが苦笑を返した。
小鳥の事情などこれっぽっちも興味がないとばかりにグラスを干したレヴィの隣で、ロックはいかにも意外そうにぱちぱちとまじろいだ。

「えっ、なまえさん、飲めないんですか、酒」
「ええと、飲めなくはないの。ただ、アルコールにとても弱くって……。ご迷惑をおかけしたくないでしょう?」

眉を下げてはにかんだなまえの様相は、背景の荒っぽい酒場との落差でますますあどけなく見えた。
相棒のようにさすがに酔いが覚めるとまでは言わないものの、真っ白なワンピース姿の女が行儀良くカウンターにかけている光景は、そわそわとどこか落ち着かない気分にさせられた。
しかしそんなことに頓着せず、ぼそっとロックは呻いた。

「いやどう考えてもキャラ的にウワバミポジションだろ、あんた」
「まあ、どういう意味? ロック」

なまえが小首を傾げた。
にっこりと笑っているが、あまりご機嫌はよろしくなさそうだ。
どうやら内心だけで呟いたつもりのツッコミは、ばっちり口からこぼれ出ていたらしい。
ネクタイを締めた海賊は「なんでもないです」と愛想笑いを呈示しながら、浮かんだ冷や汗がバレませんように、と今度こそ胸の内だけで呟いた。

なまえたちのやり取りを聞くともなしに聞いていたのだろう。
レヴィの前に追加のホワイトラム、スペリオールを注ぎながら、バオが酒場台コントワール越しに機嫌良さそうに店内を見回した。

「まァ、見てみろよ。金糸雀カナリアが現れてッから
客共のお行儀の良さと来たら・・・・・・・・・・・・・、七八年の開店以来最高・・を更新しやがる勢いだぜ。ッたく、ンな大人しくできるンなら日頃からやれッてんだ」

魔除け代わりに店番しててほしいくらいだぜ、と肩をそびやかす店主の言にたがわず、常住、罵声やら喚声やら物騒な喧騒に事欠かないイエロー・フラッグ店内は、今夜ばかりは静穏に分があった。
背後のテーブル席でぼそぼそと会話を続けている男たちは、見てくれの剣呑さ、凶悪さを除けば、なるほど確かに大層お行儀が良い・・・・・・
それもそのはずで、なにがしかの騒動でも勃発し、もし万が一にでもなまえへ飛び火、否、火の粉がちらとでもかすめようものなら、今生の終わりである――その人物にとっての。

この街の不文律をよくよく理解しているロックは、そりゃそうだと肩をすくめた。
ほんの一時いっときとはいえ、いまやこのイエロー・フラッグ店内、とりわけカウンター周辺は、ここらでも指折りの緩衝地帯になったわけだ。
片や、その横でレヴィは唇をひん曲げていた。

「おいおい、黙って聞いてりゃあ言いたい放題にも程ってもんがあるぜ、バオ、客に向かって吐くセリフじゃねェだろ」
「ウルセェ、テメエもそんなかに含まれてンだぞ、二挺拳銃トゥーハンド……ッてちょっと待て! お前、なになまえに飲ませてんだ! 俺の話聞いてなかったのか、この野郎!」
「あァ? 酒場は酒を飲むとこだろうが、バーテンよォ」
「これ、美味しいわねえ……ふふ、お酒、ひさしぶり……」
「テメェ……飼い主になんて言やいいんだよ……」


(※その後)
「あっ、だんなさまだぁ……! ゆめ?」
「……お前、ほんっとに酒に弱いな」
「んん、なまえがよわいのは、だんなさまにだけ、ですっ」
「わかった、わかったからここで寝るな、なまえ、起きろ。――バオ、手間かけさせたな」
「いンや、すまねえ、ミスター・張。こっちこそ止めれねェで悪かったと思ってたところだ」
「ん、ふ……やらぁ、だんなさま、なまえのことだけみてて」
「誰だこれ」
「ヘイ、ロック、心の声がダダ漏れだぜ」
「お前も同じこと考えてるだろ、レヴィ」
「あー……悪いがご両人、小鳥に関する記憶を無くしちゃくれんかね。この醜態ごと。いますぐ」
「いや張さん、そんな無茶な」
「そこをなんとか頼むよ」
「おっかねえ顔だぜ、ダンナ」
「んんー……だんなさま? そんなにこわいお顔をして。どうしましたの?」
「お前は後で仕置きだからな、なまえ」
「ふふ、楽しみです」


ぜんぶくすりのせいU

(※タイトル通り)
(※いつも通り深く考えてはいけない)


「……俺ァ、タチの悪い薬を仕込まれたって聞いたんですがね、大姐」
「そうなの。本当に困った……今度は“媚薬”ですって。趣味が悪いにも程があるわ。旦那さまに叱っていただかなくちゃ。まったくもう、“薬物不使用”っていうなまえの希少度レリティが下がると思わない?」
「そのわりにはまったく問題ねェみたいだが」
「あら、もしかして疑っているの? 彪」
「その平然とした澄まし顔をちょっとでも崩してもらえりゃあ、信憑性も増すってもんでしょうよ」
「まあ、お口が過ぎてよ、彪。それより旦那さまはどちらに?」
「もう戻られるはずで……ああ、ほら」
「小鳥が面白いことになってるらしいなあ、無事かー? なまえ」
「っ、だんなさまぁっ!」
「うわ」
「言うに事欠いてうわってなんだよ、彪」
「……いや大哥、隣で人ひとり突然崩れ落ちりゃ、驚くなって方が無理でしょうよ」
「だんなさま、たすけてください、なまえ、くるしいです……」
「あー、ほら、なまえ、立てるか」
「あ、んぅ……っ、ごめんなさい、むりです、だんなさま……ぁあ、んぅっ」
「……さっさと大姐を連れてってもらっていいですかね、大哥。目と耳に毒なんで」
「やれやれ、どいつもこいつも人使いが荒いなあ、まったく……よっと。暴れるなよ、なまえ。落ちても知らんぞ」
「わかって、います……。抱き上げてくださって、ありがとうございます……。んん、はあ……っ、だんなさまのにおい……」
「そろそろ彪が困ってるからやめてやれ、なまえ」


(※その後)
「随分とまァ、おはやいお戻りで・・・・・・・・。……大姐は大丈夫ですか」
「ああ、寝かしつけてきたさ、丁重にな・・・・。……彪、なんだその顔」
「……いや、女ってのは怖ェなと思いまして」
「は、何を今更」


戯言

紅茶の馥郁たる香りが、雑然とした事務所の空気を清々しいものにしていた。
留守を預かったにもかかわらず、まさか来客に茶を淹れさせることになるとは思いも寄らなかったが、来客が自ら「あなたがお嫌じゃなければ」と手を挙げたのだから、仮に雇い主であるボスが聞き及んでも大目に見てくれるだろう。
ロックはおよそ好ましい心地である原因の一端が、満足そうに目を細めている彼女にあることを認めるのにやぶさかではなかった。
原因の一端、すなわちなまえは手ずから注いだティーカップを丁寧にソーサーへ戻した。

「……それで、なんだったかしら、ロック。ええと、」
「ただの与太だ、気にするもんでもないです。それより、ダッチたちは戻るのにもう暫くかかるらしい――いまの連絡は、カリマタ海峡辺りでトラブルがあったとの報告でした」
「あらあら……。それじゃあまた改めてお伺いしようかな。ありがとう、ロック」
「いえ、こちらこそ。折角ご足労いただいたのに」

ロックは肩をすくめ、優秀な営業マン然とした愛想笑いを浮かべた。

ラグーン商会の事務所で、ふたりの男女が向かい合っていた。
主のおつかいで出向いていたなまえは、近時、外出の機会が増えたことが嬉しいとばかりに愛らしく微笑んでいた。
また一口紅茶を嚥下して、つと思い出したように「ああ、」と呟いた。

「そうそう、小鳥と“あのひと”の関係だったわね。ふふ、ロックったら。個人的な事情へみだりに首を突っ込んじゃうクセ、治まったように思えたのだけれど。このところは、特にね」
「……なまえさん、だから与太話だって言っただろう。世間話ですらない」

眉をひそめ、ロックは苦々しく呻いた。
商談どころか世間話にすら値しないとあってか、愛想の店仕舞いにふさわしく、それまでの如才ないサラリーマンじみた表情をさっさと引き上げてしまった。
元来人の好さそうな顔立ちがそうして胡乱な表情を形づくるのが昨今増えてきたように感じるのは、考えすぎだろうか。
彼の渋面に反比例するように、なまえは穏やかに目尻を下げた。

「ふふ、あのひとのことなんて……ただの女に理解できるはずもないでしょう。だからわたしなんかに尋ねたって無駄なのよ、ロック」
「……別に、俺はなにか聞き出そうって腹なんぞ持ち合わせちゃいないんだ。わかってるくせに意地が悪いんじゃないか、なまえさん」
「あらあら、お耳が痛いわ」

先程、取るに足らない会話の流れ・・で三合会の白紙扇バックジーシン金糸雀カナリアの話題が口の端に上っただけで、ロックには別段彼らのことを勘繰ったり詮索したりする意図は毛頭なかった。
所懐しょかいなど元よりんでいただろう。
まるで意に介した様子もなく微笑むなまえに、ロックはし口のまま首をひねった。
釈然としない面持ちには、飲み込みにくいものを無理に嚥下するのに似た引っかかり・・・・・が滲んでいた。

「まあ、“ただの女”なんて卑下・・、あんたらしくないとは思うけど。なまえさんは、その……恋人なんだし・・・・・・
「……こいびと?」

きょとんとなまえが小首を傾げた。
まるで生まれて初めて聞いた不思議な言葉の、発音や舌ざわりを確かめるような口調だった。
そっくりそのまま反復するさまは大層あどけない。
ぱちぱちとまばたきしている彼女に、ロックは頭を掻きながら「あー……」と言いよどんだ。

「スミマセン、もしかしてもう結婚してましたか?」
「――ああ、いえ、そういうわけではないの。婚姻関係もないわ。でも……そうね、ふふ、こいびと、恋人かあ……」

なまえは面映ゆそうに「良い響きね」とくすくす笑った。
いぶかしげに眉を寄せる彼の顔を、なまえはおもねるように上目に覗き込んできた。

「ロック、ひとつ問題よ。“ああいった方たち”が女を囲う一番の理由は……なにか知っていて?」
「え? いや、俺にはさっぱり……」
「もしも聞くことができたなら、マフィアの皆さんに尋ねてごらんなさい。お返事は……期待するだけ無駄かしら。ふふ、答えを教えてあげる。大抵の場合はね、ロック。――女なんて、動く“弾除け”よ。それ以上でもそれ以下でもない」
「でも、なまえさん……」

ロックは色を正して言募ろうとした。
しかし聞き分けの悪い幼な子に言い聞かせるように、なまえは篤実とくじつな口ぶりで囀った。

「わたしは誉れ高きあのひとの所有物モノだけれど、あのひとはわたしのものではない――ただ・・それだけよ・・・・・

少女と見まがうほどに無垢な微笑は、はっとするほど清らかだった。
今日と同じくだるような昼下がり、ロックが初めて彼女と会ったときと、ごうも変わらなかった。

「さ、もうわたしは帰らなきゃ。おしゃべりに付き合ってくれてありがとう、ロック。ダッチたちにもよろしくね」

またご連絡差し上げるわ、と笑いながら女が立ち上がった。
愛用の白いパラソルを手におっとりと去って行ったなまえの背を、残された男は静かに見やった。
見送る眼差しの色合いが、憐れみに似た「なにか」だったことを知る者はいなかった。
それは幸運というべきだった。
憐れまれる・・・・・など、誇り高き金糸雀カナリアは屈辱で憤死しかねなかっただろうから。


色ぞゆかしき

(※IF死ネタ)


耳をろうする轟音すら、いまの彼らには遠い。
建造物の崩落はさながら燎原りょうげん、この場所も長くは保たないことは火を見るよりも・・・・・・・明らかだった。

その只中にあってなまえは世にも清らかに微笑んでみせた。
唇が描くのは至上の弧だ。
小鳥はどんな惨めな死を迎えるだろうかと思っていたが、あかぬ別れとはいえ、まさかこれほど幸福なものだとはおよそ思ってもみなかった。
叶うならどこの馬の骨とも知れない匹夫の銃ではなく、主、張維新チャンウァイサンの「天帝双龍ティンダイションロン」による銃創こそがこいねがうところではあった。
しかしながら『ピエタ』が如く抱き上げられた彼の腕のなかという、この世で最も幸福な場所での死は、もっめいすべし――これ以上望むべくもない、至上の喜びというものだろう。

「お待ちしております、旦那さま。どうぞ、ごゆっくり……いらっしゃって」

揺れるのを堪えるように途切れ途切れに女が言う。
失血によるショック症状で白い細脚が痙攣していた。
張維新チャンウァイサンは逞しい腕に女を抱いて、厚い唇へいつもの黒煙草ジタンの代わりに苦く笑みをくすぶらせた。

「――ああ。すこし、待たせる」

応えた男のバリトンはこんなときでも悠揚迫らぬ声色であまりに豊かだった。
文字通り命懸けで・・・・温雅おんがに微笑んでいるなまえが、思わずなりふり構わずすがってしまいそうになるほどだった。

まばゆいばかりの偉容を誇る飼い主を見上げ、ゆるやかに笑みを濃くしたなまえは、愚にも付かない祈りをひとつ捧げた。
このときばかりは微塵も信じていない神に祈ろうとして、しかしすぐにやめた。
すがるもの、救いを求めるもの、祈りを捧げるもの、願いを託すもの、苦しみにあるとき心を強くしてくれるもの、生きる喜びを与えてくれるもの、そういった対象を仮に神と呼ぶなら、なまえにとってのそれはいま自分を抱く男ひとりに他ならなかった。
だから彼に祈った――どうか、この顔だけ覚えていてくれないだろうか、と。

「だんなさま、」
「なんだ、なまえ」
「――愛しています」

静かに伏せた目蓋は瞳を覆い隠して、そして二度とは開かなかった。
すっと呼吸の止まった胸は流れ出る血によって赤々と染まり、烏の濡れ羽色の髪、雪をあざむく肌と相まって、それはそれはうつくしい光景だった。

張維新チャンウァイサンはサングラスの奥の目をすがめ、ともすれば恨み言のひとつやふたつを吐いてしまいそうになるおのれを笑った。
――死ぬときくらい無様に足掻き、醜く苦しめば良いものを。
すこしくらい幻滅させてくれなければ、いよいよもってたかが女の命ひとつ程度が惜しくなってしまいかねなかった。
まったく、憎らしいことこの上ない・・・・・・・・・・・
しかしえならぬ性根の悪い小鳥は、どうやらうつくしい姿ばかりを飼い主に残したかったとみえる。
それはなまえの矜持に違いない。

そのくだらないささやかな矜持を踏みにじってやりたい欲求に目をくらませながら、張はくたりと力の抜けた女の亡骸を腕から下ろした。
傲然ごうぜんたる微笑を浮かべた男は、数名の部下を伴い、革靴の音高くきびすを返した。


(2019.12.01)
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