14
「……ここは嫌い」
「この世の大概のもんは好きでも嫌いでもないお前がそう言いきるなんざ、よっぽど“良い思い出”があるんだろうよ、なまえ」
「……ふふ。そうお見えになるんです? さぞ忘れがたい思い出がおありなんでしょうね。旦那さま」
ロアナプラ停泊場では、傾いた夕陽がその存在を強烈に主張していた。
サングラスでもなければ目を痛めてしまうだろう。
黒いコートを脇に抱え、これまた黒いボストンバッグを担いだ張は、飼い鳥の繰り言に肩をすくめた。
そんなに毛嫌いするほどのもんかね、と。
「お前のそのツラひとつ拝めるのはそう悪い気はしねえが。――ふ、この場所を選んだだけのことはある」
男が厚い唇に刷くのは言笑自若な弧であり、嘯く声音に相応以上の円熟味を備えていた。
いまこの瞬間、聞き惚れるのがたったひとりであることが惜しいほどだった。
黒々とした様相は、燦たる白日に掻き消されるどころか、あたかもそれが峻烈であるがために、尚以てコントラストを強くするかのようだ。
と、彼の後を恭順に追躡していた女が、つと軽やかに数歩駆けて追い越した。
潮風に誘われた女の髪がふわりと揺れた。
華奢なスティレットヒールが桟橋の無骨な板床を、かつっと叩いた。
ほんの三、四メートル先じんたところで、なまえはくるっと振り返った。
きゅっと絞られたウエストからふんわり広がる慎み深い裾が、夢のようにうつくしく翻る。
「恋い焦がれるひとが、他の女と楽しくダンスに興じていた場所なんて、どうして好きになれます。ひどいわ、旦那さま。あの九三年、わたしなんて『It's a Blue World』までだめになってしまったのに……。“あなたが消えて僕の人生に齎したのは、笑みも、愛も、喜びもない夜”――だなんて」
「お前にも可愛げってなもんがあったとはなあ、なまえ。嫉妬か? 感に堪えんな」
「嫉妬? そんなものでは足りません」
鮮烈な斜陽を背景に、なまえがやわらかい微笑を浮かべた。
彼女に合わせてやおら立ち止まった張は、黒いコートの裾を湿った海風に煽られるままに任せ、暫時、照りつける強い西日に目を細めた。
女の臈たけた嗤笑は、茜さす夕日、黄金に輝く海原、吹き抜ける南国の潮風、それら天国が如き偉観をもってしても忌わしい感情を排することはあたわぬほど、禍々しいものだった。
「覚えておいででしょう、旦那さま? わたし、あのとき申しましたよ。“もしなまえひとりを置いていったら”、」
あたかも天と地の間のすべてのものが一時息を凝らして、落陽に射られた彼らをつぶさに注視しているようだった。
桃色の唇が至上の弧を描いた。
サングラスの下で男はわずかに瞠目した。
「――“絶対に許さない”って」
渺々たる落日を背に、この世の業すべてを圧搾してもまだ足りないとばかりの微笑は、ぞっとするほど清澄であり、かつ憎悪に満ち満ちていた。
そして途方もなくうつくしかった。
損得や打算を知らない幼な子のようにただつたなく「許さない」と口舌る女の脆薄さときたら、なんと愚かしく、愛らしいことか。
さながら白昼夢。
ほんの数瞬だけ、張はらしくもなくなまえの笑みに見惚れた。
おもむろに感嘆まじりの深い吐息をこぼした。
「……は、イイ女だな、お前は」
「あなたがそう躾けたんでしょう。自惚れてください、旦那さま。――あなたの女です」
賛辞の言葉とは裏腹に、男は呆れたような笑みをひとつこぼして嘉するように目を細めた。
桟橋の床をコルテの革靴が踏み鳴らし、ボストンバッグを担いだ腕へコートをかけながら、わずかな距離を詰めた。
鷹揚に、いっそ恭しいまでの仕草で、「雅兄闊歩」は小鳥の繊手を手に取った。
今生、彼だけに、そして彼女だけに許された肌は大層心地好い熱を与え、馴染み、溶け合い、そのうちどちらがどちらとも区別が付かないくらいの温度になった。
この世に絶対だの不変だの、とりわけ永久だのというものは存在しない。
歳月や事象によって主義主張、思想や倫理は、好むと好まざるとにかかわらずねじ曲がる。
絶えず世界や人間は変容し、そうしていずれ死ぬ。
張維新は通暁していた。
「年々歳々花相似、歳々年々人不同」、滑稽なほどわかりやすい例が自分である。
しかしながら愛寵措くあたわざる金糸雀は、なまえという存在は、百世不磨、主を裏切ることは決してない。
そしてそれを疑ったり危ぶんだりする段階、関係なんぞとっくの昔に過ぎていた。
なまえは張のために生きている。
ただそれだけのことが、どれほど得がたいものであるのか、この浮き世でどれだけ困難なことなのか。
張維新は深く知っていた。
「ふふ、“天と地の間には多く存在する”っていうでしょう?」
やさしく手を重ねたまま、この上なく満ち足りた面持ちでなまえが囁いた。
「“哲学では及ばぬことが”、か。……は、お前も大概、俺の想像の埒外にいるぜ、なまえ」
小鳥のセリフを受け、誰かに聞かせるでもない独り言のように張は呟いた。
口の端は笑みを形づくり、歌うようになめらかに交わされる応酬は、まるで愛の語らいに似ていた。
15
陸から長く伸びた桟橋の終点には、人影がひとつあった。
靴音でとうに察していたらしく、汀に立った人影は、マイルドセブンを咥えたまま無言で振り向いた。
「よう。探したぜ。レヴィに聞いたら、最近は……ここで黄昏れてンのがお気に入りだと聞いたが、本当らしいな」
「こんにちは、ロック」
日の落ちる寸時、端然たる喪服じみたスーツの紳士と、尼僧服が如き白衣の淑女が立ち並ぶ光景は、誂えたように映えた。
一幅の絵のような佳景は、歩み寄られたロックの目に恐ろしく現実離れして見えた。
「まだ老け入る年でもないだろう、そら、女中の件――あれの始末金だ」
「……別に、金が欲しかったわけじゃありませんよ」
「結末の証だ、ロック。無意味な代物じゃない」
張が手ずから運んだバッグを放り投げた。
中途半端に開いた開口部から、指が切れそうなほど真新しい札束がこぼれ出た。
ロアナプラに米国軍人の死体を転がさない。
気の違った猟犬が、主人の仇を討つ大団円は街の外で。
香港が大きく利権を握る世界的ケシ畑には損耗はなく、「治安維持」のためのさばるかの将軍の身柄をフォートミードへは委ねない――なるほど確かに、承った「ご注文」は綱どころか剃刀の刃を渡るものだったが、発注元が御自ら足を運んで労ってくれる程度には、満足の行く結果だったらしい。
素より海上輸送会社の水兵ひとりの手柄ではないとは言い条、複数の犯罪シンジケートが共存共栄を謳歌するローグ・ステイトを存生させた功績に対する報酬としては、あるいは安いくらいかもしれなかった。
しかしロックはコンパートメントから溢れんばかりに詰め込まれた金には目もくれなかった。
それ以外すべきこともなさそうに、悄然と紫煙を吐き出した。
「あの子になじられたよ、俺は人の命をチップに乗せる悪党だと。張さん、俺は悪党かな?」
「……動機はどうあれ、結末は一つだ。お前は真実、脳みそが痺れるようなギャンブルをやりたかったのかもしれないし――またはあの子たちを最悪の状況から救ってやりたかったのかもしれない。あるいは、その両方かも」
千波万波が桟橋の柱へぶつかり、ザアッと音を立てた。
「……俺は、本当に――……」
沈んだ面持ちでロックが言いよどむ。
なにを言いかけたのか、なにを言わないと決めたのか、その表情からつぶさに読み取ることは敵わなかった。
諦観というには鋭すぎ、空虚というには重くなにかが凝っているようだった。
桟橋の手摺りへ両肘を置きもたれかかる彼に、張は「ふん」と鼻で笑いながらジタンを咥えた。
やおらなまえが白い手を差し伸べると、あたかもあらかじめ決められた手順の一部かのように、風を遮るてのひらの内で煙草に火が点った。
「連中を助けたつもりか? ――は、めでたいぜ、ロック。お前は賭に勝ち、ラブレスの若当主もその目的を果たした。だが――連中が幸せをつかんだとでも?」
見晴かす埠頭の眺望を紫煙で霞ませて、張が低く笑い声をこぼした。
地球の裏側の、遥か遠い南米の地を憐れむようにも、間近で呆気なく砕ける徒波を蔑んでいるようにも見えた。
あるいは蔑していたのは、あまねく凡愚なひとの身だったのだろうか。
「冗談じゃない、ラブレスに待ってるのは茨の道だけさ。紛れもなくあの子は善人で勇敢だが――正しいことが、幸せな結末にいたれるとは限らない」
言葉は斜陽が描き出す、黒々とした濃い影に等しい。
一語一語、鏨で鋼を掘るが如く明確だった。
飼い主の脇、すなわちロックの向かい隣で静かに佇立していたなまえがそっと小首を傾げた。
「どうもありがとう、あなたのお陰ですと笑顔でハグしてくれなかったからって拗ねているの? でも、ロック、あなただって……あの子たちを救おうとする自分こそが、善だとか正義だとかなんて、はじめから思ってもいなかったでしょう?」
水銀の一滴がころころと転がるように、そのとき熱帯の半島にあるまじき冷ややかな記憶がロックの念頭に浮かぶのに、いくらも折る小骨を要しなかった。
「商談」のため、ホテル・モスクワの通訳として随行した冬の日本でのことだ。
血と臓物、更なる地獄を希求しようとのたまう亡霊へ、ロックは「あなたにも、信じるべき正義があるだろう!」と詰め寄った。
そのために故郷であるはずの遠々しい地に赴いたというのに、双方の間に立ち、訳し、互いの意思を通じる通訳としての分を超えた諫言だと、理解はしていた。
しかし吐かずにはいられなかった。
暗い地下駐車場はまるで墓の下のカロートのようで、妙にひんやりとして息苦しかった。
亡霊は血気盛んに詰め寄る彼をねじ伏せて、こう言った。
――「自分の力を行使するでもなく、他力本願で他の誰かの死を願う。お前の言う“正義”だって、随分と生臭いぞ。――血溜まりの匂いが鼻につく、そう思わないか?」。
押しつけられた車のボンネットの冷たい硬さまでまざまざと思い起こされた。
氷塊めいた炯眼と、眼前に突きつけられたスチェッキンの暗い穴がいまもこちらを覗いている。
構えられた四挺の銃口は、その真価を発揮するのに躊躇いもなければ初心でもなかった。
ビルの地下駐車場にマズルフラッシュが閃かなかったのは、ただ偏に――。
「そりゃそうですよ……薄ら寒いこと言わないでくれ、なまえさん」
ロックの声はなまえに向かって言うのではなく、まるで足元に打ち寄せる徒波と競い合うような暗く乾いた響きだった。
虫唾が走るとばかりに剣を帯びた彼の眼差しに、なまえは慎み深く肩をすくめた。
特段、彼の機嫌を損ねてやろうなどという底企みも更々なかったため大人しく口をつぐんだが、小鳥に囀らせれば、なにをそうくよくよと思い悩むことがあるだろうかと不思議がるのも致し方ないものだった。
「笑顔でハグしてくれなかったからって拗ねているの?」云々、軽口と差異のない質問とはいえ、それこそ平身低頭してありがたがられれば彼は満足だったのだろうか。
足の踏み場もないほどおびただしい量の血潮と薬莢を舞台上にばら撒いておいて尚、笑顔でアンサンブル・カーテンコールに応えられると期待でもしていたのだろうか。
どんな過程を辿ろうと、賭けに勝ったという結果があればそれで満足すべきではないのか。
この浮き世は、起こったことしか起こらない。
今し方、主も「結末は一つだ」と言ったばかりだ。
とはいえはいそうですかと容易く割り切れないのも、亡羊を嘆くのも、是非ないことだった。
往々にして理性と感情が一致しないアンビバレントな感情は生じるものだ。
選択の結果、彼は賭けに勝った。
幼な子が口遊む「誰々と誰々が崖から落ちそうです。救えるのはひとりだけなら、どちらを助けますか?」のような他愛もない問いかけに限ったことではなく、生きるとは畢竟、どちらが「マシ」か選択を過たず繰り返すことに他ならない。
仮にそれが名前も知らない赤の他人と大恩ある知人ならば、後者へ手を差し伸べる理由に多言を要すまい。
たとえば、貨幣を手放すことと食べることを比べた結果、生存のために食品を購入するように、遊びたい盛りの年頃に時間や遊興を引き換えに、将来的に安定した職種や立場を得るため勉学に励んだりするように、なにかのためになにかを差し出す――そうやって比較考慮した末がいまここだ。
天秤だ。
恣意的にせよそうでないにせよ、ひとは間断なく選択し続けている。
落陽が余程眩しかったのか、ロックは眉根を寄せて心持ちうつむいた。
「正義、ねえ……」
口の端からぶわりと紫煙を吐き出し、張が相変わらず皮肉げに笑った。
暗い笑みは偽善だの、正義だの、形而上のものに血迷う愚か者共の狂乱を嘲謔するようだった。
最早遥か遠い過去にも思えるあの夜、伸るか反るかの大博打――取りも直さず猟犬、米軍、元ВДВ、FARC、その他諸々、暴力を生業とする者共がぶつかった分水嶺で、ロックと張が交わした問答をなまえが知るはずもなかったが、それはそれは小賢しげな表情で、彼女は目を伏せた。
憂いとも失望ともつかない面持ちでロックは燻らす紫煙を視線で追った。
押し黙るロックを一笑に付し、欄干へよりかかったまま張が嘯いた。
「まあ……修道僧の生き方も一つの道だ。だが善悪の彼岸を見極めたいなら、とっくり時間をかけるのも悪くないぜ、ロック」
正しいか、正しくないか。
なにが善か、悪か。
しかつめらしく哲学者ぶって「なんのために生きるか」と苦悩するくらい、なんの役にも立たない問いだ。
そんなくだらない命題にとつおいつ頭を悩ますくらいなら、のんべんだらりと暇をもてあます己が身の恵まれた境遇を、ただありがたがって平伏していればよろしい。
然もあらばあれ、仮にこの世に善悪やら是々非々やらが存在するとして、その解を得られるのはそれこそ今際の際、ただその一瞬においてのみではないか。
一際強い海風がざあっと吹き抜けた。
身に沁みるような湿った夕風だった。
なまえの髪がなびき、ロックは視界の端で虫が飛んでいるのを疎ましがるように夜を連想させる黒髪を見やった。
潮風にも紫煙にも晦まされることなく、白百合がかすかに香った。
「ああ、風が強くなってきたわね……」
たおやかな手付きで白いワンピースの裾を押さえながらなまえが目を細めた。
駘蕩たる空の淵で夕陽は水平線の彼方に消えつつあり、いつの間にか桟橋の外灯が鈍いオレンジ色の光を放って船の帆檣をぼうっとぼかしていた。
張は桟橋の手摺りへ預けていた背を起こし、ロックへ顎をしゃくった。
「……潮風がきつくなる、一杯どうだ? ――南米の果てで茨の荒野に佇んでいる、彼氏と彼女に献杯だ」
返答を待たず歩き始めた彼の後に、すぐさま小鳥が追従した。
張維新直々のサシでのお誘いに、ロックは眉をひそめた。
彼が過ぎ去った悶着に固執するような料簡の狭い男ではないと知ってはいたが、「ひとでなしのクソ野郎」などと打ち上げた相手に大した厚遇だ。
答えあぐねているロックへ、偉丈夫の斜め後ろに侍った女がつと振り向いた。
歩みを止めない主人から取り残されてしまうのも委細構わず立ち止まり、内緒話を打ち明けるように頬を染めて微笑んだ。
前置き代わりの笑みはそれはそれは愛らしく、続く言葉さえなければ思わず見惚れかねないほどだった。
くだくだしい問答をまだ重ねるつもりかと戸惑うロックの目を、なまえは静かに見つめた。
なびく黒髪を押さえる手がいやに白かった。
「ねえ、ロック。これもあなたたちと同じ、“独り言”なのだけれど……。どうしてあの子たちに関わったのか、あのときのお電話での答えよ」
高踏的な微笑が風と共に去った。
ただそれだけが白璧の微瑕であるかのように、なまえは黒い虹彩に死人じみた色を――否、「死」そのものの眼で、囁いた。
「わたしの正義はね、ロック」
地獄の釜を開けるとき、その人物はきっとこんな表情をしているに違いあるまいと確信させる笑みだった。
主の黒いコートを背景に、そっと微笑んだ女の、顔。
「ひとの形をしているのよ」
(2019.11.20)