10

「ただいま戻りました、旦那さま」
「ああ。道中、報告も受けた。手間だったな、なまえ」
「いいえ、わたしはなにも……。あの子たちがしっかり務めてくれました。わたしはただお願いしただけです。速やかに、誰にもお会いせず、損耗もなく……ただし恥はそそぎましょう、と」
「は、上出来だ」

眼下にロアナプラの景観を一望するソファで悠然と寛いでいる偉丈夫の姿は、夜闇がわだかまり造形したかのようだ。
黒いサングラスは地獄の釜底を映したように暗い。
口の端にうっすらと滲んだ傲岸ごうがんな微笑に、闇夜すらその場を譲るだろう。

「ふふ、勿体ないお言葉です。――あら、お電話中でしたの? お邪魔して申し訳ございません」
「いんや、丁度終わったところさ。さて、お次は言伝ことづての手配に、教会へ連絡のひとつでも寄越してやるとするか」
「あら、それはあなたの御手を煩わせるほどのことではないでしょう? 彪に委細お伝えしておきます」

なまえの眼差しは主の偉容いようを見つめるのに夢中で、男の笑みの意味するところには気が付くはずもないと言わんばかりの熱っぽさだった。
電話機を拝受しようと、繊手せんしゅを差し出した。
気忙しさとは対極にあるかのような慎み深い申し出に応じて、張はソファに座したまま電話の子機を放ってやった。

「旦那さま、わたし、お部屋に下がっておりますね」
「ああ……よろしく頼んだ・・・・・・・

名残惜しそうな笑みをひとつこぼすと、なまえは受け取った電話を手に、ひとり、ペントハウスへの階段へ足を掛けた。
華奢なヒールが、かつっとステップを叩いた。

上階の彼女の私室からも、黒煙たなびくソドムとゴモラの街はよく見渡せた。
電灯を点けずとも、地に満ちる品を損ねた可視光により室内はほの明るい。
高閣につかねられた小鳥は、まるで夜を撫でるように指先で窓ガラスをなぞった。
つと、細い指がリダイヤルボタンを押した。

「……もしもし?」
「ああ、こんばんは、――ロック。いま、お電話よろしくて? 紙まき遊びペーパーチェイスも佳境みたいね」

殊更にやわらかく口上を述べれば、電話口の向こうで男がかすかに息を飲む音が聞こえた。
電話の相手――ロックにとって望ましくない、あるいは意想外の参加コールだったらしい。

先程まで張が誰と電話をしていたのか、なまえの予測はある意味では当たり、ある意味では外れていた。
街を見下ろしたまま、かすかに唇の端を歪めた。
鳥渡ちょっと「おつかい」で街を離れた間、飼い主がなまえの望まぬこと・・・・・を犯したのを、幸か不幸か、彼女は部下のひとりから漏れ聞いていた。

白い手を目の前に電話の相手がいるかのように差し伸べた。
そのさまは夜闇を背景に反射する窓ガラスのせいか、あるいは纏う白いワンピースと相まってか、地獄へ手招くおどろおどろしい幽鬼を思わせた。

「ああ、ロック、遠くで銃声がたくさん聞こえるわ……。あなたは大丈夫?」
「ええ、無事ですよ。俺は戦力にならないんでね。あんたと“同じ”ですよ、なまえさん。……それより、何なんですか、こんなときに」
「ああ、そう邪険にしないで。わたしが席を外している間、あのひと・・・・となにかあったみたいなのはわかるけれど」

意地悪でもされたの? といとけなく笑うなまえに、ロックは心底不快げに顔をしかめた。
受話器から聞こえる女のやわらかな声が、車の外でひっきりなしに響く叫喚を容易く掻き消してしまう。
ロックは紫煙と共に、はあっと深く溜め息を吐いた。

「ただの勧告ですよ。ご丁寧にも、ここまで来たら投了リザインしろっていう。――それよりなまえさん、もう一度聞きます。なんの用ですか」

響く声は、冴え冴えと冷えていた。
転がる無数の薬莢も、彼の声ほどは冷たくなかったに違いない。

「強いて言うなら……そうね、すこしでもあなたのお役に立てないかと思って。退際ひきぎわを心得た方は好ましいけれど、旦那さまはともかく、わたしはあなたが降壇フォールドするとは思えないものだから」

でしょう? となまえが穏やかに同意を求めてくる。
ロックは、傾げた首を、細い肩を、幾筋かの黒髪がすべり落ちていく様子が容易に思い描けた。
眉をひそめたまま彼が答えを探しあぐねていると、我関せず焉、小鳥は「“パーティは最高潮のときに去る”っていうものね」と毒にも薬にもならない囀りを重ねた。

「ロック、もういくらも経たないうちに“教会”があなたのところへやってくるはずよ。ありがたいご宣託を携えてね。それをどう利用するかはあなた次第……あなたがフォールドしないって言うのなら」
「……随分と大仰な物言いだ。この街の“処女”ってヤツは預言までやるんですか」
「もう、そんな大それたものじゃないって知っているくせに。NSAはロアナプラここでは新参者ニュービーでしょう。仲介、斡旋のために、くちばしれてくれるところへ――教会へ、辿り着いてしまうのは自明でしょう? ……ロック、これはわたしの好意なんだけれど・・・・・・・・、」

涼やかな声音が途切れ、おもむろに息を継いだ。

「ひとつ、アドバイスをあなたに。いま、配役と舞台は十分どころか、飽和しているんでしょう。きっとあなたの手にさえ負えないくらいにね。でも、無駄なアクターなんていないの。“あのひと”がなにをおっしゃったのか知らないけれど、舞台から誰ひとり降ろしてはいけないわ。あなたを含め、あなたの知る誰ひとりよ・・・・・。舞台はいずれ、ここから狐たちの目的地へ変わるでしょう。けれど、フィックスド・ポーンを非力な……ちいさな役駒ピースだからとあなどってはだめ。相手方の一番奥まで到達した歩兵ポーンは、」
 昇格 プロモーションするんでしょう……ご忠告どうも、なまえさん。でも、ひとつ解せないことがある」
「ふふ、なあに? なんでも聞いて」
「どうして他でもない小鳥あんたが俺に教えてくれるんです? その言い方だと、恐らく飼い主はこの電話のことだって知らないんでしょう。あんたの目的は……取り分・・・は、どこにあるんですか」

他でもない金糸雀カナリアが、飼い主にめいじられたわけでもないことをし、挙げ句、情報をわざわざ寄越してくるとは思えなかった。
なんの意図、思惑があるのか、そう冷厳にただす男は、しかし同時に強い既視感に襲われていた。
――これと同じ問答を自分はやらなかったか。
胡乱な眼差しでロックは人通りのない路地を、あるいは陰気な薄闇に覆われた街のどこかを睨んだ。

反芻するまでもない。
つい数時間前に相棒と交わした応酬が既視感の正体だった。
「あのな、あたしが聞いてるのは――差し引きの向こうに・・・・・・・・・何があるのかってこったよ」とレヴィは言った。
「多かれ少なかれ世の中は、そういう天秤・・で動いてるんだ。――いいかロック。天秤が偏れば、たいていの場合は面白くもねェことになる」と。
そう、「天秤」だ。
そしてあの段において彼は「問われる側」だった。

レヴィもあのときこんな心境だったんだろうかとロックは心中呟いた。
硬いステアリングへ煙草を持った手を預けたまま思いを馳せたのは、彼女が弾き飛ばした一発の弾丸だった。

折しもあれ、電話の向こうで女が「ふふ」とちいさく嬌声を漏らした。
はなはだ耳障りな笑い声だった。

「どうしてって……だって、ね、年端も行かないあの子たちがこの街で破滅してしまうなんて、胸が痛んじゃうもの。――なあんて、ふふ、旦那さまのお言葉をお借りするなら、“芝居が過ぎたか?”ってところかしら。……本当のことを告白するとね、ロック。あのひとったら、わたしが嫌がること・・・・・・・・・をしたのよ。それもわざわざ“おつかい”を言いつけて、わたしを街の外へ厄介払いまでして。本当に酷いひと。……ちょっとくらい、ね、仕返ししたいじゃない?」

声色も、口調も、愛らしかった。
金糸雀カナリアが拗ねて唇をとがらせているさまが、目蓋の裏に浮かぶようだった。
突如ロックは目眩にでも襲われたように、強く強く目をつぶった。

「あんた、そんなことで……!」

気に食わないことがひとつふたつあったという愚にも付かぬ理由で、この女は血と硝煙に満ちた塔の下へ、暇潰しじみた電話をかけてきたというのか。

ロックは声を荒げようとして、咄嗟にぐっと呑み込んだ。
せり上がってくる嫌悪感は、嘔吐を堪え無理やり嚥下したせいで、口内に酸っぱい味が満ちるのに似ていた。
――それは、自分が吐いた「自己満足」とどう違うのか?
雷のように閃いた疑問は彼から言葉を奪うには十二分だった。
つい数時間前、相棒との問答で彼は今回の件への関与を「自己満足」と言い放った。
それと、いま女が吹鳴すいめいした「仕返し」とは、程度の差こそあれ、根源的なところはさして変わらないのではないか。
おのれの都合、主義思想、イデオロギー、欲望、あるいは趣味・・

ロールズの『正義論』をたずとも内観ないかんに打ちのめされたロックを、先程、なまえの飼い主は――この街の支配者たる張維新チャンウァイサンはこう評した。
曰く「お前の怒りは、ひとつ、負けの決まったゲームへの往生際の悪さ故。ふたつ、――内心深くあるものを、簡潔に言い当てられてしまったがため」。
くらむ意識に抗うようにロックはギリギリと奥歯を強く噛み締めた。

絶句している彼を置き、片やなまえの脳裏にはある女の横顔が浮かんでいた。
シャープな輪郭の、氷のように白い肌をしたスラヴ人の顔だ。
茜さす斜陽、はためく黒いロングコートと軍用外套アーミーコート、立ち上るジタンと葉巻の紫煙――薄氷の舞台が如きロアナプラ停泊場にてどのような内済がなされたのか、どれほど小鳥が思い巡らそうとも無駄なことだった。

ガルサンは『出口なし』で正鵠せいこくを射ていた――「地獄とは他人のことである」。
まばたきして酷薄な薄い唇と豪奢なくすんだブロンド、その火傷痕に覆われた横顔ウォーモンガーをさっさと頭から追い出すと、なまえは朗らかに笑いかけた。

「そんなに考えすぎるのは大変でしょう? 良いじゃない。したいことをして。させたいことをさせて。こんな街で生きているんだもの。自分の欲に忠実になって、どうして他人から咎められることがあるの? ……ふふ、どうしても愚痴っぽくなっちゃう。無益な独り言に付き合わせてしまったわね。……ああ、そういえば、ロック。レヴィは大丈夫かしら?」

しばらく言葉を失い、女がつらつらと贅言ぜいげんを並び立てるがままに委ねていたロックは、そこでようやく「は?」と反応を見せた。
突然なにを言い出すのかとひとしお顔をしかめた。
蝶が舞うようにひらひらと、サブジェクトは気もそぞろにあちらこちらへ、文目あやめもわかぬ子のように意識散漫な女に、彼は辛抱強く「……どういうことですか」と問うた。

「そろそろ、もうひとつの“軍隊”が動き出す頃よ。一度目のメイドさんの騒動のときもそうだったけれど、レヴィったら血がのぼると周りが見えなくなってしまうところがあるでしょう? このままだと無理やり、舞台から降ろされてしまうかもしれないもの……。どうか気を付けてあげてね」

明瞭な単語を避け、持って回ったような広長舌だ。
ロックは不快げに眉根を寄せた。
いまこの瞬間も、ほんの数ブロック先では生と死が紙一重のところでしのぎを削っているにもかかわらず、自分だけ堅牢な象牙の塔で安穏と微笑みながら迂遠な言葉遊びをしている女が、恐ろしく、憎らしい。
そして堪らなくいとわしかった。

「……あんたは別に、レヴィがどうなろうと知ったこっちゃないだろう」

いつの間か短くなっていたマイルドセブンを乱雑にアッシュトレイに突っ込み、ロックは軋るような唸り声でもって返答とした。
忌々しげな物言いに気付かないはずもないだろうに、しかし鳴禽めいきんは不愉快なほど甘ったれた口調で「そんな悲しいこと言わないで」とかんに障る笑い声をこぼした。

「レヴィは可愛いもの。“あっち”だの“こっち”だの、どこで生きているだの、なにを失い、得て、経験してきただの……そんなことにばっかりこだわって。ロック、あなたも言われたことがない? “アンタはあっち側の人間だ”って。ふふ。あんまり可愛らしくって、堪らなくなることがあるの。まるで、初恋を知る前に処女を失った女の子みたいだと思わなくて? 初恋を知ったいま、焦がれる相手にハジメテを捧げられなくって、悲しんでいるみたいで、……ふふ、ぞっとしないわ」
「もういい。それ以上は不要だ、なまえさん。もうたくさんだ。あんたが言いたいことは理解できる。レヴィが言いたいことも――恐らく」

腹奥でふつふつと怒りが煮えていた。
ロックは地を這うように低く、「あんた、なんのためにこの件に首を突っ込んだんですか。あの子らにやさしく・・・・してまで――」となじった。
新しく取り出したばかりの煙草が、指の間でぐしゃりと形を歪めていた。

「考えてみてごらんなさい、ロック。イムレの『人間の悲劇』しかり――わたしたちは皆、いずれ遅かれ早かれ死に絶えるのよ。この街の梟雄きょうゆうも、無辜むこの民も、等しく」

いかにも気の毒げに沈んだ声で、その実、笑い転げたくなる衝動を腹底に隠しながら、悪性極まれり「穢れなき処女」はしかつめらしく囁いた。

「この憂き世で、そんな瑣事さじに……生き方に、死に方なんてものに、こだわるの?」

文藻ぶんそうに彩られた口調はいかにも根気強く、母親が幼な子へ道理を言い聞かせる献身を思わせた――すべては無価値、すべては徒爾とじなのだと。

ロックは煙草を握り込んだ拳をステアリングに叩きつけた。
なまえのやわらかな声音は、し「年端も行かないあの子たち」が目の前で無惨に事切れたとしても、なんら変わりなく恬然てんぜんとして嬌笑を浮かべているだろうことが容易に想像できてしまうものだった。

「こだわってなにが悪いんですか! あの子たちはまだ生きてるんだ。あんたたちと違って・・・・・・・・・! その悪趣味な遊びに、どうしてあの子らを巻き込んだかって言ってるんだ!」
「ふ、うふふ……。だってね、」
「ッ――!」

ブツッと切られた電話を手にしたまま、なまえはくすくす笑った。
通話相手を怒らせる腹積もりはなかったが、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。
やおら窓へ額を預けた。
透明なガラスにそうして寄りかかっていると、なぜ落下せずにいられるのか、奇怪なことのように思われた。
山嶺さんれいの鳥籠から見下ろす、月の上らぬ穢れた街、狼煙のろしが如き黒煙、血と硝煙、謀略の泥濘、そして死体、死体。
目を閉じれば、碧落へきらくの死者たちの叫喚が聞こえてくるかのような夜だった。

「あの、性悪女ッ……!」

ひるがえって、一方的に通話を切ったロックは、腹立ちまぎれに携帯電話を放り投げた。
危うく、罵声をほとばしらせるところだった。
彼が直情的に喚かずに済んだのは、唯々、その衝動が今夜二度目・・・・・だったからだ。
嫌悪感と厭忌の情で、臓腑が煮え繰り返らんばかりの心地だった。
なまえの口舌くぜりは、あまりにも飼い主に似すぎていた・・・・・・

彼の脳裏に、あたかもこの世の善なるものを心から信じている少女のように健やかな笑みがよぎった。
耳に残る、ぞっとするほど清らかな笑い声がいつまでも拭えず、荒々しくロックは髪を掻き毟った。

――「だってね、あのひとったらこのところ、例の女中ハウスメイド如きにかかりっきりで……とってもお忙しくって。皆さま騒がしいし、寂しくて……酷くされたい気分だったの。あのひとが怒ったところ、本当に素敵なのよ……ふふ……」。




11

受話器から、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンの『ベルボトムズ』が大音量で流れている。
厚い窓ガラス越しに街を見下ろしながら、なまえが囀った。

「ご機嫌よう、ミスター・ブレン。良い夜ですね」
「これはこれは。金糸雀カナリアがむさ苦しい郎党のゴミ溜めにわざわざ連絡を寄越すたァ、よっぽどのことらしいな、今回の件は」
「ふふ、それをいうなら、あなた方がこの街でお仕事をしていらっしゃる……それがなによりの証左でしょう?」

陋巷ろうこうのどこかで混沌を嘱目しょくもくしているだろう男たちを探すように、なまえは目を細めた。
無論、実際には視認は不可能だが、その黒目は気乗りせぬブルバイティングの観戦でもしているかのような眼差しでぼんやりと夜をなぞっている。
対し嘯く男の声は、つば付き帽の下、いかついサングラスと濃い顎髭の顔は、きっと普段通り無愛想な無表情に相違あるまいと偲ばせるフラットな声音だった。

「なにか都合の悪いことでもあったかい? 邪魔立てする道理も理由もないはずだけど」
「あら、ミスター・フィラーノ? あなたもそこにいらっしゃったのね、こんばんは。ああ……BGMはそれで」

耳に残るギターリフと、ギターの低音でカバーしたベースレスの痛快な音楽に混じり、聞き覚えのある声がする。
フィラーノ愛用のCDプレイヤーは今日も絶賛稼働中らしい。
電話越しに音質の悪いロックナンバーを聞きつつ、なまえは慇懃に言葉を継いだ。

「ご存知の通り、わたしはお邪魔をするつもりなんてまったくありません。ただ、あなた方によって旗色がどう変わってしまうのか……すこし、不安に思っただけなんです」

憂いを孕んだ声音は、つい手を差し伸べたくなってしまうような如何いかんともしがたい力を持っていた。
言うまでもなく、彼らは金糸雀カナリアの囀りなどに左見右見とみこうみするようない鳥ではなかったが。
硬い顎髭に覆われた口元をほんのわずかに歪めると、ブレンはいがらっぽい低い声で呟いた。

「小鳥の心慮を悩ますほどのことじゃあねェ。俺らの依頼人は、目的までの防波堤が欲しいんだと。使い捨て・・・・のな。それ以上は守秘義務ってェやつだ。いくら金糸雀カナリアといえど、馬鹿正直に歌うわけにはいかんね」
「おっしゃる通りです、ミスター・ブレン。……それで、失ったのは何名?」
「たかだか十人かそこらだ。お宅ンところとは恩も仇もない連中さ。勘定に入れるほどのモンじゃねえ。舞台上でスポットライトを浴びてる連中にとっちゃコラテラルダメージ扱いだろうよ」
「そう……お悔やみを。お二人とも、どうぞお気を付けて。あなた方のお仕事がつつがなく成されますように」

涼やかな声色が弔辞を言祝ことほいだ。

本来必要であるはずの降伏勧告や避難命令の手間をかけさせない聡い「住人」の練度・・を讃するべきか、嘆くべきか。
とまれことここに至って静かな・・・街の「住人」は、コラテラルダメージどころか、なるほどこの芥場あくたばに溢れる「使い捨て」共に違いなかった。
実存を伴わぬ国際法もあらばこそ、戦闘を想定していない区画での市街戦は、嚮導きょうどうする道理も法理も踏みにじらん「元」大尉殿のお気に召すだろうか。
夜はいよいよ更け、濃い空色のベレー帽と縞模様テルニャシュカを身に纏った亡霊たちが、軍靴の音高く「戦争」を始めんとしていた。




12

大哥アニキ 金三角 ゴールデントライアングルへは通達を取りました」と彪が言った。
報告と共に現れた彼の目に入ったのは、層楼の天辺に設えた瀟洒なペントハウスのプールと、水から上がって電話をしているボス、そしてその飼い鳥の姿だった。
前者から、通話を終えたばかりの電話機を犬の遊びフィッチよろしく放られる。
やや濡れて滑りやすくなっていたが、彼は危なげなくキャッチした。

部下を認め、水に浸っていたなまえもプールサイドへ乗り上げた。
泥より出でて泥に染まらず、蓮の花のようにおっとりとプールから離れた。
飾り気のないシンプルな白い水着ビキニは彼女の白磁の肌によく映え、瑞々しい肌を玉のような水滴がなぞって落ちた。
うなじで結んだ首紐を引っ張りながら、なまえは飼い主にならってバスローブを羽織った。
すぐに隠された夭夭ようようたる白肌は傷ひとつなかった。
主人によってたまわった噛み痕や指の痕等、情交の名残りを「傷」と呼ぶなら別の話だったが。
飼い主が好む好まないにかかわらず、ただおのれの身へ与えられた「傷」を他者には見せたくないというそれだけの我欲で、なまえはさっさと水から上がって肌を覆い隠した。

彪も彪で、不躾にボスの女の肢体を眺め回すほど向こう見ずでも片生かたおくもなく、できる限り小鳥の方へ視線をやらぬよう留意しつつ、張の脇へ膝を着いた。

「大哥、この間の取引で、あの火傷顔戦争マニアは協調に同意した。でも奴は本当に――……
腹に収めるつもりですか・・・・・・・・・・・?」
「彪の言う通りです、旦那さま……。“大尉殿”の教義ドクトリンは知れたことでしょう?」

バスローブを着込んだなまえも、プールサイドチェアの張の足元へそっと腰掛けた。
物憂げな眼差しで主を見下ろす。
なまえの細い首筋を、つっと露が伝い落ちていった。

張は小鳥のはべる方の脚をどけて組んだ。
ニィ、と唇を吊り上げた。

「さあな? 俺にもわからん」

口元にあるのはこの上なくひょうげた笑みだった。
サングラスの下で黒い目は弧を描いている。
鷹揚に寛ぐ姿から目線の角度までをも、匂い立つような貫禄と洒脱さとを纏わせた偉丈夫は、煙草を咥えたままあっけらかんと嘯いた。

「俺が奴に言ったのは、“あんな田舎者より俺と踊れ”、その一言だけだ。もし奴が、俺の命より美国人たちとの戦争ごっこを選んだとしたら――俺は……まあ、振られたことになる・・・・・・・・・
「しかし、それじゃあ……!」

当惑に顔をしかめたまま彪は言葉を呑んだ。
この街で頸木くびきを争う「戦争狂い」との遺恨は筆舌に尽くしがたいほどに深いが、しかし張の言の通りならば、あるいはロアナプラ危急存亡のときではないのか。
それは香港の意図と相反した。

主たちの会話から目を逸らし、なまえは結い上げていた黒髪を下ろした。
濡れ髪がはらりと顔へ降りかかり、タオルで水気をぬぐうと、烏の濡れ羽もかくやとばかりにつやめく黒髪が波打った。
たわんだ髪に遮られ、誰もその表情を窺い知ることはできなかった。
その下でなまえは不吉な宣託でも受けたかのように眉をひそめていた。

いみじくも主は「天秤」にかけさせたのだ。
選び取れるのはどちらかひとつだけなのだと――空挺軍デサントニキ崩れの大尉殿バラライカに、張維新チャンウァイサン自身の命と、奴が渇望し続けてきた「宿敵米軍人」の命とを。
チキンホーク嫌いの火傷顔フライフェイスにとっての両方の価値を、か弱い小鳥も多生なりとも知り及んでいた。
知っているからこそ、これを忌み嫌わずしてなんとする?

――九三年十一月・・・・・・
あのうつくしい小夜を思い出して、なまえは表面を糊塗ことしようと努めもせず、苦虫を噛み潰したように目端をすがめた。

「なまえ」

つと落とされたのは、まろやかかつ力強い、成熟した男の声だった。
飼い主、張維新チャンウァイサンの声音はなまえにとって、今世最も尊く、それが自分の名を呼ぶものであるならば尚更、胸奥を甘く締めつけられるような陶酔をもたらした。
しかしこのときばかりはなまえはすぐには顔を上げなかった。

「ロックに要らん知恵をつけたのは、お前だな?」

飄逸な口ぶりとは裏腹に、張はサングラス越しに飼い鳥を睥睨へいげいした。
形良い太眉を片方だけ跳ね上げ、口元にはやはり軽妙な笑みが浮かんでいる。
「おつかい」から戻ってすぐ、張から受け取った電話にてなまえが誰とお喋り・・・・・していたのか、委細承知いさいしょうちと言わんばかりの表情だった。
なまえはわずかにうつむいたまま「ふふ、」と媚笑を漏らした。

悠然と紙巻きをくゆらす主人を、おもむろに女は真正面から見上げた。
その顔ばせに浮かぶのは含意がんいなどこれっぽっちも知らないとばかりの、殊更にあどけない笑みだった。

「さあ、なんのことでしょう、旦那さま」
「いまんところ、駒はどれも上手く働いてる。成算もある。が――なまえ。お前の容喙ようかいの躾は、また別の話だ・・・・・・
「ふふ、旦那さまったら。申しましたでしょう? なまえは“お叱りなら喜んでお受けいたします”と」

ぬるい風が吹き抜けた。
ルネ・マグリットの『ゴルコンダ』のように浮遊、あるいは落下・・していく人間たち。
異なるのは黒い山高帽ではなく、それぞれ硬く重い銃把を握っていることくらいか。
万人の万人に対する闘争bellum omnium contra omnes」、どいつもこいつも皆、死人ばかりだ。

そのまま夜に溶けてしまいそうな黒髪を指ですき、吹き抜けていったぬるい風の行く末を探すように、なまえは遠い夜空へ目をやった。

悪魔の化身、モビィ・ディックはこの街を脱する・・・・・・・
復讐と妄執に憑かれたエイハブ船長は、間違いなく追撃するだろう。
その舞台が金三角ジンサンジャオであれば、アヘン・アーミー共の巣窟であれば、なお僥倖だ。
もっめいすべし米兵の死体はいくらかこしらえることになるだろう。
しかしベトナム戦争以来、他国の土地に自国の兵隊の死体・・・・・・・・が転がることを許さぬ国民の風潮に従い、首尾よく対策、あるいは隠蔽されるに違いない。




13

シダやツタ、棕櫚シュロの木がよどんだメコン川に濃く影を落としていた。
天上では月も星も輝いているというのに、雨期になると赤茶色に混濁するメコン・デルタの下流域はさながら奈落へ向かう熱帯の冥府の川ステュクスが如き不気味さだった。
マーロウが語った「樹の幹と大枝と葉と蔓草が繁茂し絡み合って作りあげている巨大な植物の壁が、月光の中でじっとしている。それがまるで声なき生物が襲来したように、あるいは植物の大波が高々と盛りあがり、波頭を絶頂にまで押しあげ、いままさに入り江に崩れ落ちて、我々ちっぽけな人間をひとり残らず抹殺しようとしているように見えた」という密林はけだしこのような光景だったに違いない。

狐たちの目的地、すなわち黄金の三角地帯ゴールデン・トライアングルまであと数時間といったところだった。
魚雷艇の甲板でファビオラは憎々しげに呟いた。

「あの街は、若様の嘆きに、婦長様の苦しみに付け込んで、小狡く立ち回ろうとする――腐れた奴らの巣窟だ」
「あァ、そうかい。おめえがそう言うンならそうなんだろうよ……おめえにとっちゃアな。そら頭ン中がお花畑なら、犬っころにもそう見える・・・・・に違いあんめえよ」

語気荒いファビオラのセリフを胡乱に聞き流し、レヴィは口の端からぶわりと紫煙を吐き出した。
口入れ屋は暴力教会、依頼主クライアントはNSA、ラグーン商会の魚雷艇は、闇夜にまぎれ河川を踏破せんとメコン川をさかのぼっていた。

燎原りょうげんの火の如く係争地ロアナプラ擾乱じょうらんしたジェヴォーダンの獣が、狐を追うのは明らかだ。
餌場に飛び込む銀狐をどうぞ御覧じろと配送・・するための船舶は、ごうごうと音を立て世界的ケシ畑を目がけひた走っていた。

「あんたちの穢れたあの場所で――」

ファビオラは唇を噛み締めうつむいた。
無骨な船の振動と共に、胸の悪くなるような生ぬるい風が吹き抜けた。

「“あのひと”は……違うかもしれないッて思った、けど」

少女の抗弁は力なく、尻すぼみになっていった。
顧みようものなら、言い募る声から勢いとなめらかさを奪ってしまうのほど、あの街の一切合切は酸鼻を極めたのだ。
それでも未練がましく忘れられないのは、女の聖母めいた慈悲深げな微笑だった。
次いで、紅茶の注がれたティーカップを持つ、ちいさく白磁めいたてのひらが眼裏まなうらに浮かんだ。

つい今し方、ぞっとするほど陰惨な笑みでレヴィは一家言をってみせた。
「ああそうさ、よく気付いたねえ、お嬢ちゃん、死者の国から遥々と――うすっくれえ墳墓の底から、銃を担いでやってきたんだよ。あたしたちも、お前の婦長も、あの兵隊も、この街の連中も、みいいいいいいんな・・・・・・・・・」と。
ならばあのひとは、銃把を握らないなまえという女性は、あの魔窟で唯一の「例外」なのではないか。
そう希望を抱くのは、それほど愚かなことだろうか。

ファビオラは我知らずうつむいていた。
しかしそのとき、あたかも不発だったはずの榴弾りゅうだんが突如として炸裂したかのような笑い声が宵闇を切り裂かんばかりに響き渡り、少女は弾かれたように顔を上げた。

それは怖気おぞけふるう、忌わしい哄笑だった。
鉛玉と泥濘の味を知る、理非なき地獄の眷属のものだった。

「ッ、ハァ! そう笑わせンなよ。傷口を開かせようって魂胆なら上出来だ。二度も繰り返すんじゃねえぞ。もしもお前が開きてェ口があるンなら……そっから先は、あたしがカトラス抜くのも“正当防衛”ッてやつだ。――はッ、金糸雀カナリアが?」

皮肉げというには、笑みはあまりにも怨嗟の情に満ち満ちていた。
全身を強張らせたファビオラとは対照的に、レヴィは腹の内すべてをさらしてみせるように両手を広げた。
亡者ばかり詰め込まれた、胸糞悪い遊覧クルーズを祝福するかのようだった。

「やっぱりテメェはなんにも見えてねえ。寝言にしたってもっとマシなもんを垂れやがれ。はッ、金糸雀カナリアほどあのクソッタレな街に似合いの女はいねェよ、お嬢ちゃんチキータガキの一匹や二匹・・・・・・・・手懐けるなンざ、朝飯前な性悪女はなァ?」

見えない糸で縫いつけられたように口をつぐんでいるファビオラに、レヴィは先程と同じ「死者の日ディア・デ・ムエルトス」の骸骨エスケレトの笑い顔で嘯いた。
ニィ、と大きく裂けた口は奈落の底の割れ目のようだ。

「冥途の土産だ、今回“あの女”がなにを考えてやがッたのか、親切なあたしが教えてやるよ」

死んだ人間が痛快なステップを踏みながら、冥府の扉を意気軒昂いきけんこうと叩く。

さっさとおっ死にやがれ・・・・・・・・・・・――おめえも若様も婦長様も、狐共から南米の連中に至るまで、ことごとく、だ」


(2019.11.04)
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