「あらあら。このロアナプラで“ラ・ビオレンシア”を再現するおつもりなんです?」

お気に入りのティーカップが割れてしまったかのような困り顔で、なまえが呟いた。

三合会の招来により、金詠夜総会で「連絡会」が開かれた。
定例のものではなく、かつ傘下の代表にまで臨席を求める大仰さは、それだけで女中メイドを巡る街の窮状は知れたことである。

ささやかなショッピングを終え、ファビオラをセーフハウスに送り届けたなまえは、私邸のひとつで張の帰りを大人しく待っていた。
主人を出迎えたのは更けに更けた暮夜だった。
いつものように「お帰りなさいませ」とこうべを垂れようとしたが、それは果たせなかった。
なぜなら張は帰宅するや否や、やにわになまえを抱き上げたかと思えば、慌てる彼女を余所にさっさとおのれの膝の上へ座らせたためだ。

無謬むびゅうの主にしてはいつになく粗雑な挙措きょそにも、小鳥は慣れたものだ。
主人の腕のなかという、今生、最も幸せな場所である。
文句のひとつもあらばこそ、あっという間に脚をまたいで主人の上に乗っかることになってしまったなまえは、相好を崩して、ぎゅうっと逞しい体へ抱き着いた。
抱きすくめられた状態で大きく息をつかれると、ほんのすこしくすぐったいのは否めなかったが。
男の太い首へ頬を寄せながら、胸中だけでこっそり呟いた。
――これは思ったよりお疲れでいらっしゃるわ、と。

「連絡会」で、各々の目的、権益、思惑、遺恨、猜疑、怨嗟が複雑に絡み合う四巨頭をぎょすのは、さしもの張維新チャンウァイサンといえど済度しがたいものがあったらしい。
魍魎共の蔓延はびこる、ひとつたがえばすわ開戦かという極めて緊迫した会合にて、どれだけ紙一重の競り合いが行われたことやら。
非力な金糸雀カナリア如きでは想察しえぬ、さぞや怖気おぞけをふるう円卓テーブルだったに違いない。

「ふん、肯綮こうけいあたる言ってところだな。そうなるだろうさ。コロンビアの連中が、もしくは火傷顔フライフェイスが、目先の欲に踊らされりゃあ間違いなく」

張はやれやれと言わんばかりに太眉を下げた。
すがりついてくる女のやわらかな肢体を抱きすくめれば、淑やかに香る白百合が肺を満たす。
なまえのやわらかな黒髪を手慰みにすきながら、張はジタンブルーの箱から煙草を一本取り出した。

旦夕に迫る事態とはいえ、この街に蠢く組織たちがを一にするなぞ、土台無理な話ではある。
浅く息をつき、なまえはすこしだけ上体を起こした。
至近距離で絡み合う視線のせいで、否応なしに目が潤んでしまうのを自覚していた。
腿の上に乗っかり向かい合ったまま、白い手を伸ばす。
慰撫するように指の背で男の頬をそっと撫でた。

「ミス・バラライカはともかく……コロンビアの皆さまは、笑顔で記念撮影・・・・なんて真っ平でしょうに」
「は、連中も同じことを言っていたよ。“パブロ・エスコバルの二の舞は御免だ”ってな」

そのままなまえは指先をすべらせ、主人の懐から恭しい手付きでデュポン・クラシックを取り出した。
仰々しいライターはなよやかな繊手せんしゅには不釣り合いだ。
しかし積日累久、長年使い慣れた所作で、なまえは咥えた煙草へ火をともした。
香り高いジタンの薫香に目を細め、次いできっちりと結ばれた張のネクタイをゆるめる。

香港三合会トライアドのオブジェクティブは、この悪徳蔓延はびこる「楽園」をそのまま・・・・存続させることだ。
後先考えず手っ取りばやい落着を望むならば、直接コロンビア、あるいは街に潜む米国人を叩けば済む話だ。
しかしそれはまた別の争いの火種、惨憺たる抗争の幕開けにしかならない。
巣穴に隠れたネズミを新聞紙で叩くのは容易いが、それがネズミではなく肉食の獣だったなら、握るべきは新聞紙ではなく猟銃である。

混沌そのものに見えるロアナプラだが、そこにも明確な金科玉条きんかぎょくじょうと不文律は存在する。
そうした複数の制約、立場上譲歩できることできないこと、様々な理合いと軋轢により、芳しい熱帯のポイズンヴィルでの方策アクション詰め将棋チェス・プロブレムが如き様相を呈してくる。
抽象主義的混沌を極めたポロックは、アクション・ペインティングを緻密にコントロールしていた。
「兵隊には兵隊を当ててやるのが上策さ。盤上の駒は慎重に進めよう」とは、水端みずはな、張の言葉だ。
なまえはほどき終えたネクタイをしわが寄らないように丁寧にテーブルへ落とした。

そんな場所で現役の合衆国軍人の死体が一体でも転がれば三文芝居の終わりであり、混沌は本物の泥沼に成り果て、既得権益もなにも無に帰すのは火を見るよりも明らかだった。
死体なんぞこの街では珍しくもなんともない。
それこそいまこの瞬間にも、誰かが風穴を開け汚らしい路地に倒れ伏しているかもしれない。
しかしそれが星条旗の旗持ちとなると、話は別だった。

命の価値は平等ではない・・・・・・・・・・・
小鳥にとって、その他何十、何百、何千もの人間の命よりも、主たったひとりの考えの方が尊く肝要であるように。
そう、「天秤」だ。
なまえは先程ベニーたちと交わした会話を思い返してうっすら微笑んだ。

「旦那さま。国家安全保障局NSAにとって、この地はまだ“未開の土地uncultivated land”でしょう? ……我らがラングレー殿ならともかく」

シャツの首元のボタンをひとつふたつ外しながら、女が首を傾げる。
次いで張が鷹揚に手首を差し出せば、なまえは袖口のカフリンクスを外した。
螺鈿らでんのように複雑な色味を放つ濃藍色の留め具が、ちいさなてのひらできらりと輝いた。
ただす女の衒学趣味ペダントリーをなじるように張が口の端を歪めた。

「ここに巣食う、カンパニーのエージェントとやらが後手を踏んだとあっちゃあ、“イン・ゴッド・ウィー・トラスト”とでも口遊くちずさんでやってもいい気分だがな。……やれやれ、ここが“存在しない場所ウートポス”であってくれりゃあ、俺たちも安泰、仲良く商売敵共とつまらんドンパチに明け暮れるってえのに」
「……有史以来、土地というものは争いの種でしかありませんね」

最後にそっとサングラスを外し、テーブルに置いたなまえは、主の首元へ顔をうずめた。
彼女のうつくしい黒髪へ灰が落ちぬよう、張が口元から煙草を遠ざけた。

ジタンの香りを胸いっぱいに吸い込み、なまえは恍惚と目を潤ませた。
会合を終え、今宵はもう邸を出ることもないだろう。
そういえば帰宅して以来まだ口付けをたまわっていない。

「旦那さま、」

煙草に先を越されてしまったわ、と心密かに呟きながら、なまえはおとがいを上げ、唇をねだろうとした。
しかし折悪しく、傍らに放っていた携帯電話が冷たい呼び出し音を響かせた。

「――俺だ。これはこれは、CIAの旦那か。いや、“お呼び出し”が遅いくらいだと思ってたところだよ。一等我慢ならんのはお宅だと……ああ、謹んで」

通話相手は、口の端にのぼったばかりのCIAだった。
指示された接触ランデヴー場所はいつもの暴力教会だという。
そもそも複数の情報機関を持つ合衆国において、CIA長官は「中央情報長官」を兼ね、複数の組織にまたがる統括、インテリジェンス・コミュニティを行っている。
しかしラングレーとペンタゴンの対立は悪名高く、円滑な情報の共有、連携など期待するだけ無駄である。
国家安全保障局NSA国防情報局DIAの所属する国防総省DoDは、合衆国において情報活動の大部分を担っているにもかかわらずだ。

ラングレーからの「お呼び出し」を拝受する張の語調は、平生通り洒脱なものだった。
軽妙な口ぶりから、通話相手は彼の心情を推し量るなど――そもそも必要すらないが――難しかったに違いない。
が、その表情は憤懣ふんまんに満ちたものだった。
ゼロ距離にいるなまえくらいにしか、滲み出るような怒気を感じ取ることはできなかった。

仕立ての良い男の上等なシャツをちいさな白い手がきゅっと握り締めていた。
主の身にすがりついたまま、それはそれは不快げに女は目端をすがめた。






屋根の中央は量感のある三角だ。
なだらかな後陣シスベにより、構造的な奥行きと威圧感とをかもし出していた。
入り口開口部のアーチ、半円形のティンパヌムにはキリスト磔刑の様子が描かれ、背景の薔薇窓から聖人たちが踊るように囲んでいる。
数多くのアーチが青空へ迫り、間には網格子の窓が白々と陽光を反射させていた。

救いのために握るのは十字架などという祭具アイテムよりも、銃把グリップである方が手っ取りばやく確実なこの街において、教会というものは「厄介事」の処理に仕方なく足を運ぶ場所である。
しかし香港三合会トライアドにとってはまったく異なるコンスピラシーを孕んだ。

「……あら。困ったわ」
「は?」
「随分とお怒りみたい。あなたたち、気を付けてね」
「大姐、なんのことです――」

逍遥しょうようには向かぬ時候、黒塗りの車の後部座席にいたなまえが唐突に呟いた。
物憂げな表情へ怪訝な目を向けた部下数名は、即座に女主人の台辞を理解することになった。

十分かそこらでリップオフ教会から出てきた張維新チャンウァイサンは、金糸雀カナリアの言葉を借りるなら「随分とお怒り」だった。
纏う空気は剃刀の上を歩かんばかりに張り詰め、不調法な真似でもしようものなら射抜かれかねないほどだ。
くらむほどの嗔恚しんいに、部下たちは口をつぐんだ。

ベンツの後部座席、なまえの隣へ戻ってきた張は、懐からブルーの箱を手に取った。
車内で唯一めず臆せずにいる小鳥が、一触即発の空気など気付きもしないとばかりに「お疲れさまです、旦那さま」と顔をほころばせた。

黙したまま、張は煙草を一本取り出した。
フィルターを下に向け、横長の特徴的なジタンの箱に、とんっとぶつける。
強張った面持ちの部下は、額に冷や汗を浮かべつつ静かに車を発進させた。
ステアリングを握る手に我知らず力が入っていた。

酸鼻を極める沈黙のなか、とん、とん、とんっとごくかすかな音が規則的に鳴る。
ジタン特有の横長の箱に仕舞われていた紙巻きは葉が散りやすく、火を点ける前にこうして詰める手癖めいた動作が伴うことはさして珍しくはない。
しかしふれれば破裂しそうな緊張感のためか、車上のひととなっても尚、未だ一言も口を開かないボスのせいか、乾いた音がいやに耳に障った。

儀式じみた一連の作業はややあって切り上げられた。
平生よりやや粗雑な所作で彼がジタンを咥えると、すぐさま白い手が火を点けた。
上品な淡い退紅あらぞめ色の爪先が、ライターの火を受けぬらりと光った。
車窓から外を眺めやったまま、張は紫煙をくゆらした。

「……なまえ」
「はい、旦那さま」

毒々しいまでの怒気に彩られた怨嗟は、厚い唇の間からこぼれ出た男の声だった。
サングラスの奥の瞳が、衆愚の心胆をあまねく寒からしめるようなまがまがしい光を帯びていた。

「女中が執念しゅうねく仇討ちしたがってる、米国人ヤンキー共の目的が知れた。NSAによる金三角ジンサンジャオピクニックだとさ。……CIAは“left out in the cold仲間外れ”って注釈付きでな」
「まあ、それはそれは……」

名高いフレンチ・コネクションが七〇年代前半に壊滅して以来、タイ、ミャンマー、ラオスにまたがる「黄金の三角地帯ゴールデン・トライアングル」は、世界のヘロイン生産量の七〇%を占めるようになった。
かつて世界最大の麻薬消費国であるアメリカに多く出回っていたのは、メキシコ等で生産される「イエロー・ヘロイン」だった。
しかし八〇年代後半からは、中国経由で運ばれる「チャイナ・ホワイト」という純度の高いヘロインが白頭鷲を席巻した。
それまでのヘロインが三〜四%の純度しかなかったのに対し、チャイナ・ホワイトは四〇%と抜群に高く、加うるに値段も廉価と来ればプレゼンスを増すのも当然だ。
アフガニスタンの「黄金の三日月地帯ゴールデン・クレセント」と合わせ、世界的ケシ畑がもたらす利益、利権は莫大なものである。
そして黄金の三角地帯ゴールデン・トライアングルで製造されるチャイナ・ホワイトのほとんどを、紫荊花バウヒニアが握っていた。
香港がわざわざタイの奥地にまで名にし負う「金義潘の白紙扇」を据えたのは、なにもマフィアたちが群雄割拠するこの土地の「特異性」のためばかりではない。

なまえはデュポン・クラシックをしまうと、清らかな双眸で主人を見上げた。

「では、旦那さま。ひとつだけ、なまえからよろしいでしょうか」
「なんだ、」

おもむろになまえはシートに乗り上げて、張の脚をまたいだ。
顔見知りの部下といえど余人のいるなかで、そうして小鳥が飼い主にふれることは稀だった。
しかし狭い車内で、膝立ちのまま向かい合う女の黒髪がさらりと流れて外界から彼女と彼の顔を覆い隠した。
夜闇を織り込んだようなつややかな黒糸がなまえ以外のものを遮断した。
世界から切り離される錯覚は、やわらかく、たおやかな檻だ。
白百合と白檀ビャクダンに似た淑やかな香りが、男の嗅覚を塗り潰した。

女の細い指が口の端の煙草を攫う。
煙草の代わりに、なまえは唇を重ねた。

「ん……ぁ、んぅ」
「……っ、なんだの真似だ、なまえ」
「どうかお許しください、旦那さま。わたし、どうしてもしたくなってしまって……」

隔絶された世界で婀娜あだめいた舌が男の下唇をゆっくりとなぞる。
はっとこぼれ落ちた吐息の熱は、果たしてどちらのものだったか。
白い指に遠ざけられた黒煙草ジタンが、縷々るると紫煙を立ち上らせていた。

九〇年初頭以降、KGBという名の「宿敵」を失ったCIAは、年々予算を削減され、ベテランの作戦要員ケース・オフィサーたちは次々引退した。
一時は廃止論すら唱えられた。
冷戦時「赤い脅威」と戦うため暗々裏に彼らが取っていた手段が、現今、テロや麻薬という新たな禍の温床となっているのは公然の秘密である。
「冷戦の遺物」と揶揄されることもあるCIAは、さりとてこの街へ先んじて根を張っていた。
合衆国外を「庭」として対外諜報活動に勤しんできた彼らにとって、年々存在感を増し続けている国防総省DoDの諜報機関、国家安全保障局NSAなど、嫌悪の対象であることは想像にかたくない。

近年その「庭」をブラック・チェンバーMI-8より生まれたNSAは土足で踏み荒らしている、というのがCIAの言い分だ。
ひるがえって、CIAを超える予算と人員を持ち、世界最大の情報機関であるNSA、陸軍、海軍、空軍、海兵隊の四つの軍を所轄するDoDはDoDで、本来、間諜スパイ、謀略を本分とするCIAがこのところ「準軍事活動」などと銘打って戦争ごっこに興じているのを「アマチュア」と軽んじている。

つまるところただ無闇やたらに規模が大きいだけの「ショバ争い」に他ならない。
懺悔室での密談中、昨夜のなまえの言葉が頭をよぎり、張は憎々しげに秀眉を歪めたものだった。
国家機関と黒社会マフィア、やっていることは同じだと思うと――「張維新チャンウァイサン」は誰よりもそのこと・・・・知悉ちしつしていた――総じてひどく馬鹿馬鹿しく、有為も無為も烏滸おこの沙汰だ。
公僕共の愚にも付かぬ悶着に付き合わされ、てて加えて舞台は魔窟ロアナプラ及び金三角ゴールデン・トライアングルとくれば、忌諱ききにふれるのも道理である。

糖蜜を連想させる陶酔の微笑を浮かべた女は、膝立ちのまま、精悍な主の顔を見下ろした。
黒いサングラスに、自身の顔がちいさく映っていた。
その奥の炯眼けいがんをなまえはこの上なく幸福そうにうっとりと見つめた。

――みなごろしにしてしまえばいいのに・・・・・・・・・・・・・・・・
死の影の谷を歩く、米国のCIAもNSAも、コロンビアのマニサレラ・カルテルもFARCも、女中メイドもその主人の少年も。
なまえにとって、すべては瑣末さまつだった。
張維新チャンウァイサン以外の、すべて・・・が。

「ああ、旦那さま……。お叱りなら、甘んじて――いいえ、喜んでお受けいたします。あなたが罰してくださるのなら」

そんな不埒なことを考えていることなどおくびにも出さず、なまえはジタンを持ったのと反対の手で張の唇を指先でそっとぬぐった。
よそおっていたルージュがかすかに移ってしまっていた。
白い指には紅が付着しており、あたかも指から滲み出た血のように見えた。

「ふふ、ほんのすこしでも気はまぎれまして? ご主人さま」

細い指が、男の唇へそっと煙草を戻す。
ひらりと離れていった白いてのひらを目の端で追って、張は腹奥でわだかま憤懣ふんまんを吐露するかのように深々と紫煙を吐き出した。

「――ふ、やれやれ。ウチの小鳥は、本当に……」

張維新チャンウァイサンひょうげた仕草で肩をすくめた。
なまえは従順に主人の言葉を待っている。

「ああ、そうだな……思わず笑い出しそうになるくらいにな。さーて、配役も舞台も明らかになった。くそったれな落とし前はどこでつけさせるべきだ?」

その顔貌には、先程までの暗澹たる怒りは見当たらない。
しかしくすぶる憤怒はいささかも衰えておらず、否、それどころか、圧搾され、純度を高くしているようだった。

張の上から降りたなまえは、再びその隣へ腰を下ろした。
おっとりと小首を傾げる。
この街に潜伏している米軍の目的を捕捉したいま、打つべき手を早急に打たねばなるまい。

「“兵隊には兵隊を”、でしたね。どちらにご連絡いたしましょう。ヤンゴンのモン・タイ軍MTA? それともやはりソ連空挺軍ВДВ?」
「存在しない街に、存在しない軍隊か。どちらももう過去の遺物だが。ふん、なかなかどうして死人ってのはそう簡単にくたばらねえ。……なまえ、火傷顔フライフェイスには直接俺が当たる。その間、お前にひとつふたつ面倒なことを頼むが」
「御心のままに。旦那さま」

麗しの本国より「四一五」を拝命する男は、煙草のフィルターを噛み、ニィと唇を吊り上げた。
濁り、よどみ、それでいて鋭く光る眼光は、見る者に怖気おぞけと戦慄を与え、怯懦きょうだせしめた。
その凄絶な哄笑を、特等席にてなまえは罪深いほど甘ったるく瞳を潤ませながら見つめていた。
さてまずは、獅子身中の虫を炙り出さなければなるまい。






降りみ降らずみの空模様、鈍色の空は地を圧迫せんとばかりに分厚く雲が垂れ込めている。
ひるがえって薄霧の漂う場末の路上には、すえた臭いが立ち込めていた。
住人が逃げ去り数年来、忘れられた廃墟の路地裏はさながら世界全体が彩度と明度を失ったかのようだ。
最も近い住居区域まですくなくとも五マイルは離れているとあって、たとえ銃声がどれほど響き渡ろうとも誰も意に介すまい。

「ひとが増えれば増えるだけ、組織が大きくなれば大きくなるだけ、動物モグラが生じることは避けられないのかしら……なんて。ふふ、小鳥わたしが言うことではなかったかもしれないけれど。――ねえ、彭、知っていて? この靴、あのひとからのプレゼントなの。素敵でしょう? それなのにこんなところを歩いていたらヒールが磨り減ってしまうわ。もう、雲をかすみとこんなに街から離れたところまで来るなんて……。あなた、協力してくれた方でもいたの?」

おかげでわたしまで街から離れなきゃいけなくなっちゃったじゃない、となまえが桃色の唇をとがらせた。
細い肩を精一杯そびやかすさまは、幼い子が拗ねてみせるのに似てあどけない。
純白のスティレットヒールが、鈍く地面を踏み鳴らした。
華奢なヒールは砂利の転がる舗道に向くはずもなく、見るからに歩きにくそうだった。

ロアナプラを遠く離れ、僻遠へきえんにまで部下数名を引き連れた金糸雀カナリアは、地面に組み敷かれた男をおっとりと見下ろした。
彭と呼ばれた男は後ろ手に拘束され、顔の半分を泥に沈めていた。
背を黒服に踏みつけられ、汚れた顔面はトゥーフェイスじみた様相だ。
ずらりと並び向けられる複数の銃口を、彭は忌々しげに眼球だけで見上げた。

「ッ、やめてくれ、大姐、なにかの間違いじゃあ、」
「あら、彭、それならどうしてここ・・まで逃げてきたの?」

親しみすら感じられる口調でなまえが尋ねた。
場所はミャンマー本土の南部である。
もう数十マイルも北上すれば、タイ、ラオスへ辿り着こうという廃村、すなわちアヘン・アーミー共の守る世界的ケシ畑は目前だった。

かつて「阿片戦争」を制し、「黄金の三角地帯ゴールデン・トライアングル」を作り上げた麻薬王、クン・サ。
彼はいまでこそ合衆国より懸賞金をかけられた国際指名手配犯だが、その実、かつてCIAの支援を受けていた。
八五年、クン・サが結成したモン・タイ軍MTAは、CIAの物資や軍事顧問団(※軍の編成、訓練、戦闘指揮等を行う。多くは現役、退役軍人)を抜きには創設しえなかっただろう。
冷戦時「赤の脅威」に対抗するため――旧ビルマでの活動を円滑にするため、CIAはタイへの阿片の運び出しにまで関わっていたのだ。
よもやそこで作り出された黄金の三角地帯ゴールデン・トライアングルが、輓近ばんきん、合衆国を悩ます麻薬の一大プラントとなるなど、ラングレーは予想だにしなかっただろう。
文字通り、始末に負えない。

一昨年前、突如クン・サはモン・タイ軍MTAを解散し、ミャンマー政府と停戦合意、投降した。
ミャンマー政府の庇護のもと、現在、彼は首都ヤンゴンに隠居・・している。
そして今回、ロアナプラに潜伏している「グレイ・フォックス襲撃群」の主任務は、クン・サ指揮下の最大軍閥、シュエ・ヤン将軍の捕縛、及び合衆国への連行だ。
もしもフォートミードがシュエ・ヤンを証言台へ立たせようものなら、お国におけるラングレーの面子メンツは丸潰れである。

無論、香港が握る金三角ジンサンジャオ利権のためにも、彼の捕縛は避けねばならない。
しかしながら結局のところ内輪揉めといえなくもない白頭鷲共のいざこざに振り回される徒労に、いかにも大儀そうになまえは肩をすくめた。

「ああ、もう、はやく御許みもとへ帰りたい……。わたしに“おつかい”をお言いつけになって、あのひと、今頃どうしていらっしゃるかしら。ねえ、あなた、ひとつふたつ教えてくれたらこんなことすぐに終わらせられるのよ。はやく済ませてしまいましょう、ね?」

飼い主に思いを馳せているのだろう。
恋を知ったばかりの乙女のように頬を染め、小鳥が切なげに溜め息をついた。
乱暴に握れば粉々に砕け散るやもと危惧するほどに頼りなげなてのひらが、足元に這う男へ誘うように揺れた。
泥に顔をうずめたまま、彭は血反吐まじりに呻いた。

「誤解だ、オレは美国人に情報なんぞ渡しちゃいない! 大姐ッ、こんな尋問なんぞ無意味だ、」
「そうね。確かに、直接カンパニーへ告げ口したのはあなたではなくて、MTAの亡霊たちでしょう。でもね、彭、まったく身に覚えがないなんて言わないでしょう? あなたは告げ口した愚か者を知っている。わたしたちはその“腐った林檎”が知りたいだけ。きちんと焼いて・・・しまわなきゃいけないって、ふふ、あなただって知っているくせに。あなたがどこで転んだ・・・かどうかなんて、正直どうでも良いの。――電話の通信には気を付けなさい、彭。
誰が聞いているかわからないから・・・・・・・・・・・・・・・

恐怖と憎悪に引き攣る男の顔を、女は慈しみ深き聖母めいた静謐さと無関心さでもって見下ろした。

雨を祈るなら・・・・・・ぬかるみも覚悟しなきゃ。――ねえ、あなたのそれ、装弾数は?」

ふいになまえは、影のように付き従う黒服のひとりを振り仰いだ。
遮蔽物代わりに彼女の斜め前に立っていた部下は、地に伏せる彭へ向けていたベレッタの銃口を下ろした。
「それ」と指し示されたマシンピストルを女主人へ示し、簡潔に「二〇発です」と答える。
なまえは両のてのひらをぱちんと重ねた。
やわらかそうなまるい頬は、内側からぽっと上気している。

「まあ、ぴったり! あなた、このために持っていたの?」
「……いえ、偶然です。自分が使い慣れてるのがコレってだけで」

弾倉を確認し、9mm口径のベレッタを三点射三点バーストから単射セミオートに切り替えながら、黒服は肩をすくめた。
こいつ、なにを言っているんだ、と混濁した意識のなか、彭は白百合の香りの女を見上げた。
殴打され口角から垂れる血液と泥水が混じり、耐えがたい異臭が鼻腔に満ちている。
視界の端で、華奢なヒールがおぼつかなげに揺れていた。

女の態度は冷酷ではなかった。
罪悪感や悲愴感、傲慢さや憐憫もなかった。
それどころか穏やかな黒眼には、絶対的な優位に立ち、生殺与奪権を握っている優越感も嗜虐心も、程度の差こそあれ武器を持つ人間が皆、あまねく目の奥でおりのように仄々とくすぶらせている暴力の昂揚すらも見当たらなかった。
なまえの浮かべる微笑は、し飼い主から「いまこの場で命を断て」との御諚ごじょうたまわろうものなら、きっとまったく同じ顔と声音でやるだろうことが有無を言わさず理解させられる、そういった笑みだった――もあらばあれ、「主のためにすべきこと」「主に命じられたこと」をする、いわば呼吸やまばたきといった行為の延長線なのだと。

「話したくなったらいつでもどうぞ。はじめから“モグラ”の歌には期待していないけれど、何本目の指でうたってくれるかしら。片手くらいで済めば嬉しいけれど。足の指ってなかなか難しそうだものね。わたし、はやくご主人さまのところへ帰りたいし……」

縹然ひょうぜんとした雲の切れ間から天から斜めに日射しが落ちてきていた。
「It was the nightingale, and not the lark,」――春告げ鳥ならぬ朝告げ鳥が如き清らかな月日星つきひほしは、大量の矮小な虫が背筋を這いずり回るのに似た嫌悪感と不快感とを彭に与えた。
彼は怨嗟まじりの血反吐を吐いた。

と、突如として両腕の拘束が解かれた。
自由になったとはいえ、長時間後ろ手にきつく縛られていた両腕は痺れていた。
無理にひねっていた関節がじりじりと鈍い痛みを訴え、しばらくはまともに動かすことも敵わない塩梅だった。
しかしながらその鈍痛は鋭い激痛に塗り潰されることになった。

混乱、煩悶の真っ只中、依然、泥と砂利混じりの舗道へうつぶせた彭は、無理やり右腕を取られた。
黒服の男が、やにわに頭上から彭の手首を勢いよく踏みつけた。
遠慮なく踏み落とされた男の脚は重い。
彭は激痛に呻いた。
あるいは手首か手の甲の骨が折れたのかもしれない。
反射的にギリギリと指を立てれば、爪の間に土砂が入り込んだ。

「ッ、ぐぅっ……なにをッ……!」

硬い靴底で手首を踏みにじられたまま、指を無理やり広げさせられた。
なまえの傍らにいたはずの護衛ベビーシッターが、単射セミオートに切り替えたベレッタM93Rを構えて、いつの間にか彭の眼前に立っていた。
ことここに至って彭はようやく理解した。
ありべからざることだが、女がなにを命じたのか、自分がなにをされるのか、なにが「ぴったり」なのか。
恐慌状態に陥った彼が半狂乱になって暴れるも、拘束は揺るぎもしなかった。

ふわりと白百合の香りが鼻腔をくすぐった。
あまりに場違いな芳香に、彭が呆然と涙と汗と泥に汚れたおもてを上げれば、すぐそこに女の白い顔があった。
時が止まったかのような須臾しゅゆの硬直ののち、可憐な唇が、にいっと弧を描いた。

「それじゃあ、右手の小指からはじめましょうね」


(2019.10.13)
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