(※「El Baile de la muerte」、OVA「BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail」沿い、原作優先)
1
吐き出された紫煙が、日の傾き始めた魔都を白く霞ませた。
「さて、俺たちはどうするべき……か。――今さら“イエロー・フラッグ”に参じたところで、何一つ得がない。女中が火傷顔の言うとおりなら、尚のことだ」
唇の端でジタンを燻らしながら、これから迎える夜闇そのものを思わせる深い声で張維新が堂に入った仕草で指を組んだ。
ここロアナプラで一等目を引く大廈高楼、
熱河電影公司ビル上階の、床から天井までを覆う大きなガラス窓からは、斜陽に彩られたソドムとゴモラの街がよく見渡せた。
「張大哥、その女中は、本当に――」
傍らで後ろ手を組んでボスの言を傾聴していた彪は、質問を挟もうとしたものの出鼻をくじかれることになった。
思いがけず出し抜けに「失礼いたします」という涼やかな声音と共に、小鳥がペントハウスの上階から下りてきたためだった。
百合の花を彷彿とさせる歩みで室内へ入ってくると、なまえはいつものように飼い主の隣へ腰掛けた。
佇立していた彪へ向け「ありがとう、借りていたわ」と差し出す電話機から、どうやらいままでどこかと連絡を取り交わしていたものと窺えた。
なまえは主の横に侍ると「お邪魔して申し訳ございません」と静かに目を伏せた。
金糸雀の臨席は予想外だったが、しかしそれをボスが咎める気配もないため、思案顔のまま子機を受け取った彪は中断された会話を再開させた。
「――大哥。その女中は、本当に噂どおりで?」
「……火傷顔はあまり語っちゃくれんがね。奴の弁を信じる限り、かなりの手練だよ。――なまえ。前回の騒動、お前は例の女中とやらと直接顔を合わせたな?」
どこか気怠げな顔ばせで、しかしサングラス越しの眼光ばかり怜悧に張がなまえへ顎をしゃくった。
ふいに水を向けられてなまえは肩をすくめた。
小鳥が濫りに「仕事」の話に首を突っ込むことを飼い主が好まないのは、周知の事実だ。
階下へ降りてくるタイミングを特段見計らったわけではなかったが、あるいは適時だったのかもしれないと、なまえはちいさく息を吐き、黒いスーツの膝へそっと両のてのひらを乗せた。
「ええ、旦那さま。あのとき……といっても、わたしが伺ったのは最後の最後、ゲームを終えて点数計算の段に至ってからでしたが」
輓近、マフィア共の竜蟠虎踞する街が暗々裏に騒然としている。
耳聡い者ならばとっくに、そうではない者ですら水面下でなにかが蠢いていることを敏感に察知していた。
それが「女中」に関連するとあっては、致し方のないことではあった。
なにしろ前回の騒動以来、聞くに堪えない卑言やらスラングやらが挨拶代わりに飛び交う陋巷にあって、「メイド」という語はあたかも唱えたら死に直結する呪詛であるかのように扱われていたからだ。
前回のメイドの去来劇に、なまえはごく一幕だけ登壇していた。
そもそもの発端はラブレス家の次期当主、ガルシア・フェルナンド・ラブレスがコロンビアマフィアとのトラブルが原因でロアナプラに抑留されたことによる。
次期当主、否、いまでは当主となった彼と「三合会の金糸雀」など、縁の端緒があるはずもなかった。
しかしその場にいたホテル・モスクワの女頭目により、多少なりとも関わることになってしまったのだ。
そのときのことを思い返し、なんの因果かとなまえは眉をひそめた。
その日、なまえはバラライカとの「お茶会」の約束があった。
組織絡みの火急の用件でもない限り、茶飲み友達は「やっぱりナシで」などと慮外の連絡を寄越すような人物ではない。
しかしながら朝一番に小鳥が受けたのは彼女からのコールだった。
珍しいこともあるものだと首を傾げていたなまえに、魔窟きっての武闘派はのんびりとした口調でのたまった。
「もーキャットファイトを見物してるのも飽きてきちゃったのよね。いつ終わるかわかんないし、あやふやな見込で金糸雀を待ちくたびれさせるのも悪いでしょ?」と。
訝るなまえを余所に、「ねえ、あなたもこっちにいらっしゃいな」とどう考えても暇潰しとしか思えないバラライカからの招来により、なまえは海沿いの倉庫街へ足を運んだ。
その場にいたのは身知ったホテル・モスクワとラグーン商会の面々、そして渦中のガルシア、例の女中――ロベルタだった。
衆人環視のなか、全身どろどろに汚れきり、顔面は血にまみれ、それでもなお素手での殴り合いを続けているレヴィとロベルタたちになまえが閉口していると、呼びつけたバラライカ当人がことの顛末を語ってくれた。
聞けば夜が明ける前からふたりで殴り合いをしていたのだというのだから、呆れて口が塞がらないとはこのことだ。
バラライカの足元に大量のパーラメントの吸い殻が散乱していたのも頷ける。
キャットファイトというにはあまりにも泥臭く、血腥すぎやしないだろうか。
経緯を聞いて、なまえはやれやれと嘆息したものだった。
と同時に、恐るべきは主の奪還のため単身で地球の裏側からやって来た女中である。
雨傘にスパス、トランクにLMGと擲弾筒を仕込んだメイド服の女など、酔っ払いが垂れる冗談よりも扱いに困る。
端的に言って悪夢だ。
のんびりと会話しながら――「なまえ、あんたはどっちに賭ける?」「残念だけれど小鳥は賭けごとをしないの、ダッチ」云々――、バラライカたちと優雅に観戦している間、金糸雀はこの事実がどう転ぶか、端倪すべからざるものを感じていた。
ただでさえ「火傷顔が遊撃隊を動かした」、その点だけでもこの街の人間が動揺するにはこと足りた。
口の端にのぼる折、必ず畏怖と憂慮を伴う遊撃隊がたったひとりの女に対しAKを取った、取りも直さずベネズエラの女中はそれに足る人物であるという、なによりの証左になる。
ロアナプラにおいてこれ以上のレター・オブ・クレジットはあるまい。
従順に主を見上げたまま、なまえは薄く吐息を漏らした。
「小鳥の素人目ですが……単騎での戦闘能力は随一と思われます。それこそ、この街をひとりで引っ繰り返しかねないほど」
「やれやれ、H・G・ウェルズばりの殺人マシーンか……」
それともバンド・デシネか? と洒落っけたっぷりに張が嘆息してみせた。
しかし軽妙なアレゴリーとは裏腹に、古風なティアドロップ型のサングラスの下の目は射すくめるように細められている。
「主を殺したミスター・オーエンを探して、女中が 死の旅 を敢行しようって気概は買ってやりたいんだが……いかんせん、どうしてその舞台が“ここ”なのか。そして、その敵、主の仇ってのは――」
よどみなく滔々と言葉を並べていた三合会きっての碩学は、口をつぐみ、ふっと息を吐いた。
おもむろに短くなったジタンを灰皿へ押しつけた。
「……つまるところ、関わってる奴に
聞きに行くのが最上の手、か」
やおら黒い上着を手に張が立ち上がると、すぐになまえも追従した。
やや屈めば、なにも言わずとも、ゆるめられていたネクタイをなまえが結び直した。
毒蛇めいて伸びた白磁の手が、黒いネクタイを器用に結ぶ。
鮮やかな手際は日頃から主の身支度を手伝っている自負が見受けられた。
結び目のちいさなセミ・ウィンザーノットを結ぶ女の表情はどこまでも楽しげで、そして無駄な動作などない。
そのまま流れるような所作で恭しく飼い主の手を取り、外していたコンバーチブルのカフリンクスも付け直す。
仕上げに主がバサリとロングコートを羽織れば、間近でそのさまを仰いでいたなまえは惚れ惚れと相好を崩した。
うっとりと頬を染めているなまえを横に、張は部下へ笑いかけた。
「彪、ちょいと出かけよう。一杯引っ掛けるついでに――挨拶をすませておくのも、悪くない」
彪は「車を回してきます」と即座に立ち去った。
さてどうやって先方と渡りを付けようかと張が思い巡らしていると、遠慮がちに、くっと裾を握り引かれた。
「旦那さま、旦那さま」
「ん?」
「なまえもご一緒してはいけませんか?」
スペシャリテを提供する給仕のように控えめに、ただしはっきりとした口調でなまえが小首を傾げた。
「メイド服を着た娘はひとりきりではないみたいなんです。ほら、以前、ランサップ市場裏で場所代も払わず商いをしていた、無礼な露天商がおりましたでしょう? 彼が申していました。メイドさんは、身なりの良い少年とふたり連れだった、と。聞けば、わたしの知っている“若様”の特徴とも合致します」
なまえは張の上着からそっと手を離した。
「不慣れなアジアの場末で、ご当主が滞在するところといえば、この街で選択肢はそう多くはないでしょう。しらみつぶしにホテルに電話をして尋ねてみたところ――」
「“当たり”を引いたってわけか」
「ええ。幸運にも、一軒目で。手間が省けましたし、余所に要らない心配をかけずに済みました。――サンカン・パレス・ホテルのスイートです、旦那さま。きっと、あなたは足をお運びになるだろうと思い、支配人には訪れる旨、既にお伝えしておきました。ご当主はお目通りくださるとのことです」
奥床しげに微笑したまま、しかし目だけは飼い主に褒めてもらうのを待つ犬のような眼差しで、なまえが張を見上げる。
澄んだ黒い目を寛闊に見下ろした張は、太い眉を器用に片方だけ上げた。
やれやれと詠嘆してみせた精悍な顔は呆れの色を隠さない。
「アンティには充分か。まったく……そうひけらかしてくれるなよ、なまえ。先手も、ばかすか打ちゃあ良いってもんじゃない。賢しらな小鳥のにおいが鼻に付くぜ」
もっとも、心底意に沿わぬわけではないらしい証拠に、男の形の厚い唇はややほころんでいた。
「過ぎた真似を。申し訳ございません、旦那さま」と恥じ入るように殊勝に目を伏せてみせた女も、飼い主と似た笑みを浮かべていた。
2
「――それでは改めて……こちらが南米十三家族に列なるラブレス家、第十二代当主にあらせられます、ガルシア様の居室にございます。どうぞ奥へ――」
サンカン・パレスは尺寸の街において最上クラスのホテルだ。
その居室前のコリドーで、女中服の少女は客人たちのために慎ましやかに扉を開いた。
申し分ない使用人然としたファビオラの口上は、しかしながら期せずして途切れた。
彼女とラグーン商会の面々を待ち構えていた御仁を、一体誰が予想しえただろう。
シンプルなソファをあたかも万乗の玉座かの如く召した男が、あに図らんや、悠然と振り向いた。
「……おっと、ラグーンの御一行様か、遅い到着だな。俺も若様に御用があってな、――ちょいと、邪魔させてもらってるよ」
室内にいたのは三名だった。
客室の主であるガルシア・フェルナンド・ラブレスは無論のこと、香港三合会の張維新と、その飼い鳥が我が物顔で鎮座していた。
ラグーンの面々は驚きに目を瞠った。
ギッと強く歯を噛み締め、ファビオラはまなじりを吊り上げた。
袖に隠した彼女の武器はMAG-7、散弾である。
扉から彼らまでの距離はおよそ六、七メートルといったところか。
この立ち位置で考えなしに引き金を引けば、当主にも着弾してしまいかねなかった。
加えて壮年の男の手前には女がひとりいた。
弾除けのためだろうか。
戸口から銃撃するには彼女が邪魔だ。
仮にそこまで勘案して男がこの配置を取っていたのならば、悪魔じみた周到さと言わざるをえない。
「……ッ、――若様から離れろ、このチンピラッ!」
ダッと力強く床を蹴り、袖下から銃をスライドさせる。
下座側の女のことはこの際度外視した。
白いワンピースを着た大人しそうな女は見るからに脅威にはなりえない。
女の隣で一際威圧感を放つ黒服の男目がけ、ファビオラは引き金を引こうとした。
「ぐ、ぅッ……!」
「落ち着けよ、可愛いメイドさん、俺は――銃をぶっ放すためにここへ来たわけじゃない」
銃を構えた人間ひとりを軽々と制圧せしめた張は、鷹揚に唇を歪めた。
火器を握る右手と、体の中心、背骨を強い力で押さえつけられ、息の詰まったファビオラはグッと呻いた。
咄嗟のことで、酸素の出きった肺が引き攣れるように収縮する。
彼らの体重を受けて一人掛けのソファがギシリと軋んだ。
「――良い判断だ、メイドさん。俺ではなくこれに銃口を向けていたら、その細腕ごと貰い受けなきゃならんところだった」
「まあ、旦那さまったら。怖いことをおっしゃって」
押さえ込まれ、少女の細足がじたばたと足掻いている。
足蹴にされないように上体を反らしつつ「これ」と指されたなまえは、おっとりと主を窘めた。
もっとも、良識めいた口ぶりとは裏腹に、愛らしい桃色の唇は三日月の形に割れていたが。
端然たる喪服じみたスーツの紳士と、尼僧服めいたワンピースの淑女の取り合わせは夜の魔都に相応しく、さながら一幅の絵のようだった。
「ッ、油断をなさいませぬよう、若様! ここは婦長様がおっしゃるとおりの穢れた街です!」
押さえ込まれていたファビオラが、ばっと身を翻した。
少年の脇へ跳躍する。
数メートル退いたが、未だ彼女の頭の中では喧しく警報音が鳴っていた。
ファビオラは忌々しげに声を荒げた。
「この地に降りてわずか三日、もはや撃ちあいをする羽目に。――この街の人間は、誰も彼もが屑ばかりです!」
「へん。ヒデェ言い草だ」
戸口にもたれかかったまま、片方の口角をニヤリと歪めたのはレヴィだ。
眇めた目端、胡乱な眼差しで、いまこの瀟洒なスイートルームには似合いだが、しかしこの街にはあまりにも場違いな少年と少女を見やる。
曰く「誰も彼もが屑ばかり」の街に自ら足を踏み入れておいて、よくもまあご高説を垂れたもんだと言わんばかりだった。
指先でサングラスを上げながら、張が「なかなか人を見る目があるぜ、メイドさん」と嘯いた。
「そうだ、――この街は屑で埋まる屑の街だ。そういう街じゃ、何もかもを疑うべきだ。すべてを疑って見えてくる真実もある、だが――」
ゆったりと指を組む。
数多の人間を、そして街そのものをてのひらの上で躍らせることに長けた男は、恬然とした口ぶりで続けた。
「手札がそろっていない時は、相手が出し切るまで静観するのもまた――真実を見抜くコツ、だ」
自由に動かせる駒をどのように扱うか。
そもそも自らがどんな駒を所持しているのか。
自分の手札のベネフィットと特性を見誤っては、勝てる賭けも危ういものになる。
それまで表情を曇らせつつも静観していた少年が、つと女中服の袖を引っ張った。
このままでは埒が明かないと判断したのだろう。
ガルシアは静かに「――ファビオラ」と、いきり立つ少女を諌めた。
まだ幼いと形容できる顔貌は歳に似合わぬ憂いと煩悶に満ち、これ以上の騒動は望まないとありありと書かれている。
「……はい、若様」
渋々といった体で少女も袖下に銃を収めた。
この場で主人の意に沿わない乱行を引き起こす気は毛頭ない。
それでなくとも先程、下っ端連中相手に大立ち回りを演じて酒場をほとんど全壊させてきたばかりだ。
本来の目的を逸してしまっては、それこそなんのためにこんなところまでやって来たのかわからない。
一応の妥協案には至ったらしい。
いみじくも銃の一発も撃たず撃たせずに済んだのは、双方にとっても僥倖だったに違いない。
無論、そのなかで今以てどっちつかずの立場に置かれていた海上輸送会社の面々にとってもだ。
頃合いを見計り、等閑視されていたダッチが肩をすくめた。
「取り込み中すまんが、俺たちはまだ宙ぶらりんだ。座ってもいいかね?」
律儀に部屋の入り口で、というより、このままつまらぬ茶番を続けるつもりならばさっさとお暇させてもらおうと言外に含みつつ、禿頭の大男が慇懃に尋ねた。
不機嫌な面構えの彼らに、ファビオラは謝罪した。
「――失礼を。どうぞ奥へ」
「こんばんは、ラグーンの皆さま」
張の隣で慎み深く座していたなまえが、我関せず焉、邪気なくにっこりと笑いかけた。
ともすれば室内に充満している張り詰めた空気を感じ取れないのかと侮りたくもなるほどに、柔和な笑みだ。
しかし軽視などしようものなら最後、穢れなき処女の微笑によってどんな悲劇が起こりうるか、考えただけで頭痛薬が欲しくなってくるというものだった。
熟知しているラグーンの面々は、ダッチを始め、それぞれ軽く手を挙げて返答とした。
ここ最近、取るに足らないケチな情報屋によって小鳥が損傷を受けたらしいとは彼らも知っていた。
とんと音沙汰のなかった浮巣鳥が、飼い主同伴とはいえ「メイド」絡みでざわめく街中へ、山嶺の鳥籠から降りてきているのは意外だった。
懐からラッキーストライクを取り出しながらレヴィが皮肉っぽく唇を曲げた。
「ヘッ、“籠の中の小鳥”まで出てくるとはなァ。なまえ」
「お久しぶり、レヴィ。セニョール・ラブレスには前回の一件の際、すこしだけお会いしていたものだから……ご挨拶したかったの。ふふ、あのとき、あなたはわたしが来たことも気付いていなかったかもしれないけれど」
軽やかに笑うなまえに、レヴィはそれはそれは不快げに顔をしかめた。
口舌に違わず、夜半の埠頭を修羅の巷と化した血みどろの殴り合いを件のメイドと繰り広げた折、明けやしぬらむと彼女は意識が混濁していた。
然許り朦朧としていて、途中から加わった第三者にまでまともに注意を払えるべくもない。
遺憾千万、なまえのせいであの夜の乱闘のことまで思い出してしまったレヴィは、チッと盛大に舌打ちした。
ロベルタとの決着を明確に付けられなかったことが、どうやら余程禍根を残しているとみえる。
座に堪えぬと憎々しげな顔のまま、腹立ちまぎれにレヴィが煙草に火を点けようとした。
しかし「煙草を吸うなら、彼に許しをもらえ」と制止したのは、張である。
街において数すくない頭が上がらない大人物のひとりに戒められては、彼女も否やを唱えることは敵わない。
苦虫を噛み潰したような顔に、更に「滅茶苦茶イライラしています」と書き殴ったレヴィは、どっかりと床へ腰を下ろした。
荒々しい動作で備えつけのチェストへもたれかかる。
そのさまを眺めながら、白い手に隠されたその下でなまえはくすりとちいさく笑みをこぼした。
なにしろほんの数十分前、同じように喫煙を諫められたのは、張の方だったからだ。
レヴィと違い、彼は慇懃に「……失礼、セニョール・ガルシア」とジタンを箱へ戻していたが。
漏れた微苦笑は、なんとも迂遠なことをと物語っていた。
なまえの笑みに気付いた者はいなかった――当の飼い主を除いては。
澄まし顔で静かに侍る小鳥に、ほんのわずかに顔をしかめると、張は口火を切った。
「さて、君たちの身に何が起き、結果どうなったかはすでに知っている。……災禍だったな、父上にご冥福を」
「……ありがとうございます、ミスター・張」
昨年十月、ベネズエラのバリナス州。
人道主義、社会主義、民族主義を謳う、第五共和国運動結成記念式典において爆破テロが発生し、結果十名が死亡した。
そのうちの一名は、ラブレス家第十一代当主、ディエゴ・ホセ・サン・フェルナンド・ラブレスだった。
女中の目的は「恩義ある雇い主の仇討ち」に相違ない。
あまりにも簡潔明瞭な理由、しかし女中の敵の正体が、国家機関――それも合衆国の非正規戦部隊ともなると、「The sound of the cicadas is different.」というものだ。
「――礼にゃまだ早いぜ、若様」
女中を取り巻く現状は、蓋を開けば最後、之繞をかけて災厄を撒き散らすパンドラの箱そのものである。
しかも既に蓋は開かれてしまっている。
箱の底に残っているのは希望なんぞ蒙昧なものではないと誰もが知っている。
「こいつはまだ、何も終わっちゃいない、
君も、そして俺たちもだ」
南米の女中の単なる復讐だけに止まらない、このロアナプラそのもの、すなわち悪徳の都に巣食うシンジケート、そして国家機関すらをも巻き込んだ事態は、そうして静かに危殆に瀕している。
3
「こんばんは、皆さま」
女中捜索のため街中を駆け回ったロックたちは、夕刻、帰路に就くことになった。
まともな収穫もない彼らの足取りは重かった。
唯一の手掛かりである整備士、発破屋、闇医者、そのすべてで居留守を使われたとあって余儀ないことではあった。
若き当主とその使用人の新たな隠れ家は、護衛付きのヨット・ハウスだ。
ベニーの運転でその邸宅へ到着した彼らは、一様に目をしばたかせた。
なんぞ図らん、瀟洒な扉を内側から開いて出迎えたのは、純真な笑みを振りまく金糸雀だった。
「なまえさん! どうしてここに……」
驚いて目を丸くしたロックだったが、そうだ、彼女がいてもなんらおかしくはないのだと思い至り、口をつぐんだ。
「ふふ、お客様をお迎えするんだもの、お掃除していたの。旦那さまは例の件でご多忙で、お相手してくださらないし――ああ、セニョール。ホテルのお荷物はこちらの者で移動させていただきました。ご無礼を」
「いえ……こちらこそ、ありがとうございます」
ぎこちなくはあったものの、ガルシアも笑みを浮かべ頷いた。
戸惑う彼らを順繰りに見つめてなまえはやわらかく微笑んだ。
「ご苦労さま。お茶でもいかがかしら? 旦那さまはお忙しくて、残念ながらいらっしゃらないけれど」
「それは……今日の報告をしろってことですか、なまえさん」
「ふふ……お客様とお茶を楽しみたいと思うのは、そんなに大仰なこと? ロック」
付き合ってくれる? となまえが無邪気に首を傾げた。
答えあぐねているロックの隣で、ポアンティック・GTOのピラーに手をついていたベニーは、そつなく「金糸雀ご本人のお誘いなら、喜んで」と肩をすくめた。
4
騒ぎを聞きつけてキッチンから顔を出したなまえは、黒い目を丸々と見開いた。
彼女が驚くのも無理はない。
丁度、全身びしょ濡れのロックが這々の体でプールから上がってくるところだった。
「あらあら、まあ……。大丈夫? ロック」
「あー……お騒がせしてスミマセン」
聞けば、広々としたプールを目の当たりにし、はしゃぎすぎてしまったファビオラがにわかに頭から落ちてしまったらしい。
敬愛している雇い主の前だというのに、随分と大胆な行動を取ったものだとなまえは苦笑した。
余程プールが物珍しかったのか。
彼女を助けようとしたロックまで濡れネズミになってしまった。
この街では異様さの方が際立つ、しかしとうにトレードマーク扱いになってしまったホワイトカラースタイルは、ぐっしょりと色を変えている。
笑い飛ばせば良いのか、憐れめば良いのか、とにもかくにもなまえは厚手のバスタオルを抱え、ぱたぱたと走り寄った。
原因であるファビオラはしょんぼりと項垂れ赤面している。
狼狽を隠せぬまま、なまえからタオルを受け取った。
「メイドさん、あなた、着替えましょう、こちらへいらっしゃい」
「い、いえ、あの、お構いなく……」
「そのままでは風邪を引いてしまうかもしれないわ。なにより、床が水浸しになってしまうもの。お願い、着替えてちょうだいね」
そこまで言われてしまえば否やを唱えようもない。
心底いたたまれなさそうにファビオラはしおしおと首肯した。
「風邪を引いても、ここでは病院なんて、気の利いたものは探すのが難しいものだから」
「病床に就いてたら、それがそのまま死の床ってことが間々ある場所なんだから、仕方ないんじゃないですか」
「『死の床に横たわりて』か……。ベッドの数が足りないからってここじゃ毒を盛ることだってあるからねえ」
「まあ、ベニーったら。そんな怖いことがあるの?」
「知らないわけじゃあないだろう、金糸雀が」
「わたしが手配するのは、偽の死亡診断書をお願いすることくらいだもの」
困ったことになった部下のためとか、とロックやベニーと軽口を叩きつつ、なまえはファビオラをゲストルームへ促した。
「……どっちもどっちでは」
バスタオルを頭からすっぽり被った少女が、思わずといった口調で呟いた。
5
着替えの用意がないの、と申し訳なさそうに眉を下げたなまえに、ロックは「そのうち乾きますから」と苦笑を返した。
男性陣が残されていた居間にややあってファビオラが加わり、すぐに金糸雀も戻ってきた。
「お待たせしました――もしよろしければメイドさんもどうぞ。カップを五つ用意してしまったわ。……女中服の格好でないと、普通の可愛らしい女の子ね」
オーバルトレイを持って来たなまえは、ファビオラへにっこりと微笑みかけた。
少女は銃火器を仕込んだメイド服からラフな私服へと着替えていた。
たおやかな手付きで、なまえがカップとソーサーを並べる。
機嫌良さそうににこにこしている彼女に、ファビオラは「ですが……」と言いよどんだ。
元来気の強そうな形良い眉が戸惑いにたわめられている。
雇い主と同じテーブルに着くことを躊躇しているのだろう。
しかしながら当のガルシア本人にも「ファビオラ、ミス・なまえもこうおっしゃってくれているんだし」と促され、渋々ソファへ着席した。
平服で主人と共に腰かけるなどいままで一度たりともなかったらしく、なんとなく居心地悪げに、深緑色の視線をさまよわせている。
ガラスのローテーブルには馥郁たる紅茶が供されていた。
白磁にターコイズブルー色の模様が描かれたティーカップは繊細の一言に尽きる。
揃いのソーサーを手に、品良く嚥下したガルシアがほっと息をついた。
「わあ、いままでで一番美味しい紅茶です。ミス・なまえ」
「まあ、Muchas gracias、光栄だわ」
嬉しそうになまえが頬を染める。
マックウッズで一等人気でもあるオレンジペコーは「若様」のお気に召したらしい。
いくらか緊張がゆるんで各々が一息ついたのを見計らい、なまえは「ところで、」と切り出した。
「今日はなにか成果はあって?」
ロックは「あー……それが、」と曖昧に苦笑しながら頭を掻き、ベニーは無言で肩をすくめた。
ガルシアは神経質そうに両の手指を握り締め、ファビオラは、むっと唇をひん曲げている。
言葉にするまでもなく瞭然たるさまを眺め、なまえが苦笑した。
「まあ、そうよね。わたしもご一緒できたらまた違ったのかもしれないけれど……。金糸雀では色々と面倒が、ね」
張が、三合会は表立って動けぬと明言したのだ。
金糸雀が荒事には縁遠いことはこの悪徳の街において周知の事実だが、飼い主の言に背いてまでなまえが出張ることはないだろう。
押し並べて沈鬱とした様相の四人を見やり、小鳥は首を傾げた。
「“婦長様”はここにいる、それは確かなんでしょう。きっと見付けられるわ。“双子”の一件のときもそうだったけれど、手引きなしに潜むにはここは狭すぎるもの。……それに、」
また一口紅茶を飲み、唇を湿らせたなまえはゆっくりと呟いた。
確信めいた物言いは、母親が幼な子へ言い聞かせるさまに似ていた。
「あの女中さんは、目的を果たすまではここを離れないわ……決してね」
「……まるで理解してるみたいな口ぶりですね、なまえさん」
ロックは口のなかで呻くように呟いた。
眉根を寄せたその面持ちは、思いがけず靴のなかへ小石が入ってしまったかのようにどこかもどかしげである。
カップとソーサーをテーブルへ戻し、なまえは目を細めた。
「飼い主の憂いは、ペットの憂いも同然なの。なにかしなければならないと急き立てられる……衝動といっても良いわ。たとえ、それが飼い主当人の意には沿わないことだったとしても」
うつむきがちだったガルシアが、はっとしてなまえの顔を見た。
聡明そうな金褐色の虹彩が頼りなげに光っている。
戸惑い揺れる双眸は、突如光彩を得た色覚異常の患者のようにも見えた。
凝然と沈黙する少年を励ますように、慈悲深げな表情で微笑んだ女は、その琥珀に似た瞳をやさしく見返した。
「セニョール・ラブレス。彼女は本当に、あなたのことが大切なのでしょうね。あなたの言いつけに背くことができるほど……。もしも武器をとることができたら――きっと、わたしも同じことをするもの」
それまで静聴していたベニーが、ようやく口を開いたかと思えば「やれやれ、」といささか大袈裟に嘆息した。
眼鏡のブリッジを億劫そうに押し上げて、理解どころか同調までしてみせた小鳥へ皮肉っぽい笑顔を投げかける。
ニヒルと形容するには苦々しさの勝る笑顔だった。
「おっかない女性がここにもいたか。前回のメイドさんの騒動のとき、ダッチと話したもんさ。彼女らを指して“地球で一番おっかない女の上位三人だ”ってね。……どうやら表彰台を増やさなきゃならないみたいだ」
「やめてちょうだい。ご存知でしょう、非力な小鳥には、ミス・バラライカたちに居並ぶなんて荷が重すぎるわ」
屈託なくなまえが肩をすくめる。
愛らしい桃色の唇が、歌うように言葉を続けた。
「……“天秤”の話だわ、ベニー。あなただって、いま、地球の裏側で死んでいる人間のために心を痛めていて?」
「そりゃ勿論“ノー”さ。僕が現実に無関心な博愛主義者だったら、こんな街に住むより……“パパ”のお膝元で、なんの役にも立たないミサでもやってるよ。詰襟服でも着てさ」
こんな格好じゃなくてね、と着ているアロハシャツを示すように、ベニーが大仰に両腕を広げてみせた。
なまえは「いつの間にか、その格好も馴染んでしまったわね……似合っていてよ、ベニー」とくすくす笑った。
6
ロックたちが辞去した後、なまえは客人の少年たちにゲストルームや設備を案内して回った。
日も暮れた時分、役目を終えた彼女は「わたしはこれで失礼いたします。なにかあれば遠慮なくお尋ねを」と暇を告げた。
折り目正しくガルシアが首肯した。
「ありがとうございます、ミス・なまえ。ミスター・張にも謝辞をお伝えください」
「承りました。――ああ、そうだ。ここも大抵のものは揃っているけれど……メイドさん、なにかと入り用のものもあるでしょう? ご一緒に、すこしお買い物はどうかしら」
「え、ですが……」
一歩退いて恭順に控えていたファビオラへ向け、なまえが微笑した。
ふと思いついたと言わんばかりの邪気ない申し出に、戸惑ったように少女が口をもごつかせた。
いかにも踏ん切りが付かない様子で、ファビオラはちらりと若当主の顔を窺った。
表情は申し出を受けたものか否か逡巡していたものの、「できれば行きたい」と期待と遠慮が等しく見え隠れしていた。
取り立てていうほどのものは入れていなかったが、彼女は先日、旅行トランクをひとつ駄目にしてしまったばかりである。
躊躇する使用人を安心させるように、笑顔でガルシアが頷いた。
「構わないよ、ファビオラ。警護の人たちも付いているし、僕はここで留守番をしているから。――ミス・なまえ、ファビオラを……僕の家族を、どうぞよろしくお願いします」
「シ、セニョール。お任せを」
宵の口、この街が最も賑やかな時間帯、「女の子とお出かけなんて久しぶり」とにこにこしているなまえと、「あの、遊びに行くわけではないので……」と眉をひそめているファビオラを後部座席に乗せ、運転手付きの黒塗りの車は人混みを縫うように走った。
少女の仏頂面もすぐに解かれることになった。
粗方買い物を済ませ、物欲しそうな目で見ていた――彼女自身は否定するだろうが――水着に浮き輪、ビーチ・サンダルまでプレゼントされたファビオラは、ほんの数十分前までの落ち着きなどどこへやら、きらきらと目を輝かせていた。
はじめはひどく恐縮していたものの、プレゼントしたなまえ本人から「この程度で畏まられては、こちらが恥ずかしいわ」と揶揄されてしまえば、受け取らざるをえなかった。
年相応に頬を紅潮させる少女に、なまえは「プールは泳ぐためにあるものね」と笑った。
「ただし、女中服で飛び込むのはやめましょうね。あれ、乾かすのが大変そうだもの」
「で、でも、セニョーラ、私、」
「ご当主があのご様子なのも無理はないわ。けれど、あなたも気を張るでしょう。ずっと緊張していたら疲れてしまうし。……ふふ、すこしの“息抜き”くらいは許されるんじゃなくて?」
些細な秘密を共有するように「こっそりね」と軽やかに笑うなまえに、ファビオラもようやく愁眉を開いた。
「……ありがとうございます、セニョーラ・なまえ」
「どういたしまして。――はやくあなたたちの“婦長様”に辿り着けるよう……わたしも祈っています。いつまでもこんなところにいてはいけないわ。セニョール・ラブレスご自身もおっしゃっていたけれど、あなたたちのことを家族のように大切にお思いなんだもの。あなたたち家族が揃ってはやくお家へ帰れますように」
慈しみ深い微笑はあたかも教会に安置された聖母像であり、いま実際に喫煙しているのかと錯覚するほど濃い煙草の移り香がなければ、おのずから思い込むのはそう困難なことではなかっただろう。
「あなたは……」
気付けばファビオラは、横の座席へ身を乗り出すようにして小鳥の顔を一心に見つめていた。
遠慮のない視線に、曖昧になまえが小首を傾げる。
「なあに?」
「いえ、その、……セニョーラ・なまえ、あなたはあまり……この街の人間らしくない……と思いまして」
「ふふ……そう? でも、この街のなかでは割合長くここにいてよ」
小鳥の言葉は、それだけここで長生きできる、取りも直さずその力を有しているということだ。
然もあればあれ、吹けば飛ぶ程度の命ばかりのこのソドムとゴモラで「ロアナプラを最後に棺桶に入るヤツが多すぎる」とはラグーン商会の女ガンマンのセリフだ。
「ナイフや銃を手にしたことがないからかしら? いまのところ、ひとを傷付けたこともないし……」
思案顔でおっとり首を傾げる女を、ファビオラは言葉なくただ見つめていた。
対向車のヘッドライトに照らされ、少女の目が橙がかって光る。
ファビオラ自身気付いていただろうか。
臈たけた女の微笑を見上げる深緑色の目は、憧憬と呼んではばからない色を滲ませていたことに。
「……さあ、帰りましょう。あまり遅くなっては、ご当主がご心配なさるでしょうから」
あなたを送ったらわたしも帰るべき場所へ帰るわ、と小鳥が篤実そのものの声音で囀った。
もしもこの場になまえの飼い主が居合わせていたならば、鬱陶しげな溜め息のひとつでもこぼしていたかもしれない。
それほど金糸雀の微笑は、押し付けがましいまでの慈悲深さに満ちていた。
(2019.09.18)