着信を告げるけたたましい電子音が鳴り渡った。
眠りをつんざく無機質な音に、深く寝入っていたふたりは揃って呻いた。

なまえはゆっくりと目を開いて、ふあっと欠伸をひとつこぼした。
昨夜の倦怠が色濃く残るねやでは、電話の着信を示す騒々しい音が未だ鳴り続けていた。
静かにさせたくとも、手を伸ばしても果たして届くかどうか――なにしろ音の発信源は広いベッドの反対側だ。
なまえが腕を伸ばすより先に、電話機を渋々黙らせたのは隣で寝ていた張だった。

「俺だ。――ん? あー、いや……。はは、そう縮み上がりなさんな。そんないかにも身の置き場所もなさそうな声ひとつ聞かされりゃあ、察するに余りあるってもんさ。叩き起こされた愚痴を垂れるつもりはねえ。大方、澳門マカオ大耳窿高利貸しに関するハナシだろ? 上からいくらか聞いちゃいたからな。わざわざ尺寸の街ロアナプラくんだりまで寄越すなんざ……ふん、そろそろケツに火がついた頃合いかね」

全き主の眠りを妨げる電話だ、余程の火急の用件に違いない。
仕事中の主人を邪魔しないよう、なまえは静かに上体を起こした。
寝乱れた黒髪を指先ですいた。
ゆらゆら定まらない視線をふと落とすと、白い太腿に鬱血の痕を見付け、なまえはついうっとりと目端が潤ませてしまった。
太腿の吸い痕だけではない。
嵐のような昨夜の交歓の名残はそこかしこに見受けられた。
たとえば乱れた髪、熱を持った目蓋、腫れぼったい唇、まだなにかはまっているかのような下腹部の違和感、体の奥深くの疼痛といった具合に。

目覚めたばかりの緩慢な動作で振り返ると、ヘッドボードに背を預けた張が悠然と電話している最中だった。
口ぶりは平生通り飄逸ではあるものの、面差しはすっかり眠気から脱したようとはいえない。
しかしながら黒い炯眼けいがんは既に白紙扇のそれだった。
昨夜は自分だけに向けられた瞳、そして欲望を思い返すだけで、否応なしに女の背筋にはぞくりと甘い痺れがはしるものだった。
惚れ惚れしながら内心手に負えないほど湧く衝動になまえは抗っていた。
まばゆいばかりの威容を誇る男の裸の厚い胸へ、甘え纏わりつきたくなる衝動に抗うには、多大な努力を要するのが常だった。

と、通話中、あらぬところへ向けられていた眼光紙背がんこうしはいに徹する偉丈夫の眼差しが彼女の瞳とかち合い、わずかに細められた。
両の手指では足りないほどの烏兎うと、傍らにはべってきた小鳥である。
黙したまま視線だけで飼い主の求めているものを看取したなまえは、ゆっくりと辺りを見回した。

目当てのものはベッド脇のナイトテーブルに鎮座していた。
ただしナイトテーブルは彼女とは反対側に位置している。
電話機が鳴っていた、張の向こう側だ。
一糸も纏わぬ姿で寝台から出たくなかったなまえは、仕方なく腹這いになって主の身体をまたぐことにした。
張の腹上にうつぶせ、乗っかった。
お行儀は悪いが、余人の誰ひとりいないねやでの戯れ程度、許されるだろう。
温度の異なる素肌と素肌が重なり、なまえは昂らないようこっそり息を吐いた。
もしもこの程度でいまも胸が高鳴っていると露呈すれば、昨夜あれだけ抱かれて足りなかったのかと飼い主に笑われてしまうかもしれない。
電話している張の腕に頭をぶつけないよう気を付けつつ、なまえはその向こう側へ細腕を伸ばした。

拾い上げたのは、ナイトテーブルに無造作に放られていたジタンブルーの箱だった。
横長の特徴的な青い箱から煙草を一本手に取って咥えたものの、愛用のライターが見当たらず、箱の横にあったマッチをった。
厚紙の軸の手ざわりやかすかに漂う燐の香りに目を細め、腹這いになったままなまえは火を点けた。

肺に入れないようごく浅く息を吸い、先端がじりじりと焼けていくさまを伏し目がちに眺めた。
見知った人間のほとんどが喫煙者だったが、なまえは煙草を吸わなかった。
彼の代名詞でもある、葉巻とまがうほど香り高いジタンの薫香を心から慕ってはいたものの、しかしそれは主、張維新チャンウァイサンが纏わせているからというただ一点のみの理由からであって、自ら進んで摂取したいとは到底思えなかった。
口のなかに広がる苦味に、なにが美味しいのだろうと心密かにかこちながら、ふっと息を吐いた。
今以いまもって一歩たりともベッドから出ていない唇は、ジタン特有の短いフィルターに紅の跡を残さない。

「――ああ、そっから先は本国の領分だ。タイの奥地の“十底分”がうっかり勇み出張って、要らん波風立てる必要もねえだろうよ。ん、任せた」

電話口で話している主人を仰ぎ、なまえは腹這いの姿勢のまま煙草を捧げた。
「ん、」と咥えた張は、電話を持った手と反対の手でよみするように女の髪を撫でた。
ぬばたまの黒髪は主にふれてもらうためにあり、張のてのひらを甘受しながら、なまえはゆらりと煙が立ち上るように陶然と目を細めた。

ほの明るい閨房けいぼうに白靄が蜷局とぐろを巻いた。
なまえよりずっと慣れた仕草で、張が紙巻きをくゆらした。
肺の奥底から深く紫煙を吐き出すその仕草が、彼ほど様になる男をなまえは他に知らない。
――目が覚めるたびに恋い慕う気持ちが増すなんて、いつか恋心で窒息してしまわないかしら。
云々、毎朝寝起きの頭で考えていることを飼い主が知れば、やっぱり笑われてしまうかもしれない。
なまえはとろけた笑みを浮かべた。
愚かな女だと笑い飛ばしてほしかった――なにしろ相変わらずいまこの瞬間も、さらされている偉丈夫の裸の胸へなりふり構わずすがりついてしまいたいのだから。

そんな詮無い妄想にふけっていることなどおくびにも出さずに、なまえは灰皿を張の隣へ置き、ゆっくりと上体を起こした。
起床する予定の時間より幾分かはやいものの目は冴えてしまった。
なにより仕事をしている主人を横に二度寝を決め込むほど寝穢いぎたなくはない。
シャワーを浴びようかと、昨夜ベッドへ入ったときには身に着けていたバスローブを拾い上げて腕を通した。

「……ッ!」

しかし床へ足を着く瞬間、折しもあれ、なんの前触れも脈絡もなくぐっと裾を握り引かれた。
なまえはまたもベッドへと逆戻りすることになってしまった。
起き抜けの体ではまともに受け身も取れず、無様に張の上へ倒れ込んだ。
電話中の彼を慮り声をあげるのはなんとか堪えたものの、突然の乱行らんぎょうになまえが眉をひそめるのも無理からぬことだった。
ベッド上で重いガラスの灰皿を引っ繰り返していたら、果たしてなんと弁明する料簡りょうけんだったのだろう。

張の上に乗っかったまま、なまえは非難がましい目で見下ろした。
責めなじるような眼差しになにを考えているのやら、サングラスをかけていない男の裸眼が悪戯っぽく光った。
にいっと厚い唇が弧を描いたかと思えば、指に煙草を挟んだ手が伸ばされた。
後頭部を引き寄せられ、なまえは従順に目を閉じた。
引き寄せた手とは反対側に握られた携帯電話からは、報告している最中とおぼしき男の声が未だ漏れ聞こえていた。

「ん……っ、ぅ」

下唇をやさしく噛まれ、思わずなまえは熱っぽい溜め息を漏らした。
口腔に広がる、先程はただただ苦く感じられた煙草の味がなぜだか妙に心地好かった。
温度も味も厚みも違う男の舌に、じんわりと頭の奥が溶かされていくようだった。
口付けひとつで途端に浮き立つ自分の単純さに呆れたくもなる。

とはいえ他愛ない意趣返しくらいは許されるのではないだろうか。
ただでさえ昨夜、無体を強いられた身体をそうそう乱雑にもてあそばれては堪らない。
最後に口唇の端へ軽いキスを落として、やおらなまえは体を起こすと張の耳元へ唇を寄せた。
電話を当てているのと反対側、形良い耳朶じだへごくごくちいさなリップ音を立てて口付けた。

「……おはようございます、だんなさま」

たとい朝の雲、暮れの雨を侵す通話相手といえども、これほど目睫もくしょうの間でなければ潜めた声は他の誰にも聞こえないだろう。
よそおわずともあえかに色付いた唇をなまえは吊り上げた。
わずかに髭の生えている男の顎へ手を添わせて、耳穴へ吹き込むように声を落とした。

「バスルームでお待ちしています。どうか、あなた、はやくいらっしゃって……」

淫らな行為の只中でしか許されないほど媚びた嬌声は、滴る蜜を容易に連想させた。
雄ならばことごとく陥落せしめるだろう甘怠い囁きが、男の鼓膜をふるわせた。

張がなにか言う前になまえはさっと身を翻してベッドを離れ、すぐさま寝室の扉が閉じられた。

倦怠と共に、手でふれられそうなほど濃い紫煙が漂うねやに残されたのは男ひとりだ。
玉響たまゆら、動けずにいた張維新チャンウァイサンは、くっと低く笑った。
ほんの数瞬前まで重なっていた女の重みと熱をふいに失って、なぜだかひどく肌寒い心地がした。
張は薄靄混じりの吐息をこぼすと、さっさと飼い鳥を追うため、電話口で話しながらバスローブを拾い上げた。


(2019.09.13)
- ナノ -